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 コンピュータ将棋

 パソコン上でも作動する将棋ソフト、ボナンザの強さは誰もが認めていることであろう。 そのボナンザと日本将棋連盟所属棋士(以下プロ棋士と言う)の対戦となれば、 将棋ファンならずとも関心を寄せる人は多々いることであろう。 対戦会場では大盤解説も行われていたようであり、 インターネット中継による観戦も可能なようであったが、 私はどちらも直接は見ていない。 しかし幸いなことにNHKBSで舞台裏の紹介等も含めて制作された番組があったので、 結果は分かっていたものの興味深く放送を見ることが出来た。
 これはコンピュータ・ソフトに限っことではないが、 将棋等のゲームに対する質問としてしばしば聞かれるのは、 「何手先まで読みますか」と言う質問である。 この番組でもボナンザの強さの一環として読みの経路を紹介していたが、 将棋ソフトで最も重要なのは読みの深さであろうか。 私自身はソフトの制作に携わったことはないのだが、 読みの深さ以上に重要なのは「形勢判断」ではないだろうか。 どんなに先まで読んだとしても、 形勢判断が適切でなければ有利に進めることは出来ないはずである。
 NHKの放送でも読みの経路をどのように選択するかは紹介されていたが、 形勢判断に関してはその局面での判断結果は紹介されていたものの、 判断を導き出すための思考過程は全く紹介されていなかった。 あるいはこの思考過程こそがコンピュータ・ソフトの心臓部であり、 各開発者にとっての極秘事項であるのかもしれない。 少し乱暴な言い方かもしれないが、 形勢判断の思考過程さえ確立していれば、 将棋であれ囲碁であれソフトの制作は容易であると言えるのではないだろうか。
 
 将棋ソフトはこれからもどんどん強くなるであろうが、 そんなソフトで可能かどうか気になることがある。 その一つはこの種のゲームにおいて将棋独特のものかもしれないが、 29日放送のNHK杯でも出現した「相手に手を渡す」と言うことである。 将棋ソフトの苦手は中盤戦であると言われるが、 この「手を渡す」と言う行為はその中盤戦において現れる。 とは言っても初級者の場合には無縁のものであり、 中級者(アマ低段者程度)の勝負においても殆ど発生することはないだろう。 この種のゲームでは常に前進していた方が有利な場合が多く、 停滞もしくは後退するような手段が効果的となるのは将棋の他にあるだろうか。 将棋は駒の再使用によってより複雑なゲームとなったが、 持駒の登場によって「手を渡す」と言う手段が可能になったと言えるかもしれない。 なおこれはオセロの終盤戦のように極端に手の狭い場合を除き、 手の広い局面を対象としての話である。
 コンピュータ・ソフトの場合、 全ての手を読み進めて行くのであれば「手を渡す」ことも有り得るだろう。 しかし放送の中でも紹介されていたが、 全ての手を検討していれば浅い読みとならざるを得ない。 もし将来的に超高速度の処理能力を持ったコンピュータが出現し、 全ての手の検討が可能となれば先手必勝、もしくは千日手となるだろう。 落語や漫画のネタではないが、 コンピュータ同士の対局では1手指したら後手投了となることも有り得るのである。
 現在のレベルで言えば、 手を渡すような指し手では形勢判断の評価点数が大幅に上がることはないだろう。 場合によっては評価が下がってしまうこともあるかもしれないが、 その場合でも検討を打ち切らずに先に手を進めていき、 10数手先で大きく評価が上がるような手を選択出来れば大したものである。 現在の主流である検討すべき指し手を選択して読みを進めていくソフトの場合には、 この「手を渡す」ような手を指すことは極めて困難なのではないだろうか。
 番組の中で、序盤は両者とも最善手を指していると解説していた。 序盤の場合は定跡からの選択になるので間違えなければそれで良いのだが、 中盤戦での最善手のなるとその判断が難しくなるだろう。 検討の仕方によって最善手が変わってしまうからだ。 数年前のチェス対局におけるカスパロフとディープブルーの場合、 ディープブルーはその手では最高の評価は得られないが、 数手先に高い評価を得られる指し手を選択し、 勝利に導いたと紹介されていた。 果たしてその手が最善であったのかどうかは分からないが、 コンピュータがこのような手を指すと言うことは大きな進歩であること言うことが出来る。
 人間同士の対局でも、 最善手が「最善」であるとは限らない場合がある。 一見矛盾しているようにも思えるが、 要するに対局において重要なのは相手との比較であると言うことである。 仮に自分が100点の最善手を指したとしても、 相手もまた100点の最善手を指せば互角と言うことになってしまう。 しかし自分が80点の手であったとしても、 相手が60点の手を指すようなことになればこちらが有利になってくる。 トランプで「51」と言うゲームがあるが、 このゲームで重要なのは自分の得点が最善の「51」になることではなく、 相手との得点差をどうつけるかと言うことなのである。
 大山15世名人の場合にはそのような手が多かったと言われているし、 妖刀使いと言われた花村9段も特にアマ相手の駒落ち将棋の場合、 最善手よりも相手を迷わす手が多かったと言われている。 コンピュータ・ソフトの場合でも相手の選択肢を増やすと言うことは、 その局面での最善手以上に有効となる場合が十分に有り得ると言えるだろう。 このような妖しげな手を指すような将棋ソフトが出現したならば、 プロ棋士もうかうかしてはいられなくなるであろう。
 
 もう一つ将棋ソフトで興味を惹かれるのは、 コンピュータは「新手」を編み出すことが出来るかどうかと言うことである。 一般的にはコンピュータに創造を求めるのは無理であると思われがちであるが、 それは人間の真似をせざるを得ない処理能力の低いコンピュータの場合であり、 全ての手を検討出来るようなコンピュータが出現すれば話は別である。
 たとえ全部の指し手の検討は無理だとしても、 選択可能な手が増えれば「新手」の可能性は十分に有り得るのではないだろうか。 即ち人間が絶対に駄目だと思っているような指し手でも、 コンピュータが律儀に手を進めて行った場合、 思わぬ結果が出現しないとは言い切れないだろう。 元々「新手」とはそのようなものであり、 誰もが見向きもしなかった手を懲りずに検討したからこそ、 意表を突いた結果を生じて「新手」として威力を振るうことになるのだから。
 もしもコンピュータの働きによって「新手」が出尽くしてしまい、 あらゆる手が定跡化されてしまったとしたら、 その時が将棋の終焉となるのかもしれない。 しかし心配することは無い。 素人が定跡を完全に覚えられることはないし、 ちょっと手を加えるだけでまた新味のあるゲームとすることも出来る。 即ち駒の能力の一部を変えても良いし、 新しい駒を1枚でも追加すればまた別のゲームとなるだろう。 現行将棋の枠に拘らず、新しい魅力を持ったゲームになればそれで良いのである。

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