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 駒の形状

 日本の将棋の駒は独特な五角形をしているが、 この起源については幾つかの推論があるものの、 決定的な説は無いようである。 日本将棋の駒は敵味方とも同色の文字で書かれているので、 先端を尖らせた五角形にすることによって駒に方向性を与え、 敵味方の区別が付くようにしたと言う意見もあるが、 これは後で付け加えた理由のように思える。 今回はこの駒の形状についての私見を紹介することとする。
 
 先ず最初は駒に書かれた文字の色について考えてみたい。 日本将棋と同じように文字によって駒の種類が区別されている中国と朝鮮の将棋では、 何れも文字の色を変えることによって敵味方の区別ができるようになっている。 駒の名称や書体の違いも見られるが、 やはり色の違いによる区別が主たるものであろう。 また駒の形状は中国将棋が円、朝鮮将棋が正八角形なので、 駒の向きで敵味方の区別をすることは困難である。 日本将棋のように文字の向きで判断しようとしても、 円や正八角形では容易に駒の向きが変ってしまうことになる。 駒の形状に関しては何れも名称が一文字なので、 その文字が映えるような形状になったものと推察できる。 日本将棋も駒の名称が一文字であったなら、 あるいは五角形の形状は生まれなかった可能性もあり得たと言えるだろう。
 日本将棋が中国や朝鮮を経て伝わったのだとしたら、 何故駒の『文字色』まで伝わらなかったのだろうか。 最も単純に考えるならば、 赤文字を書く適当な材料が無かったから、と言うことであろうか。 勿論有彩色の塗料が無かったわけではないが、 もしそれが高価なものであったとするならば、 駒の文字にまでは使われなかった可能性はあり得る。 墨ならば下層階級の人間でも容易に入手出来たであろうから、 多少の不便を忍んででも黒一色で作成したとも考えられる。
 駒の名称が何故二文字になったのかも不明だが、 二文字故に駒は細長いものとなり、 方向性を持たせるには有利な形状となった。 長方形の駒ならば回転して向きが変わる可能性は少なく、 二文字ならば文字の向きによる敵味方の区別もより容易なものとなり、 駒の文字が墨一色であっても大きな障害とはならなかったものと思われる。
 駒の文字が墨の黒一色となったのは意識して作成されたものではなく、 国情から結果的に一色となってしまったものと思われるが、 このことが駒の再使用に繋がったとすれば正に怪我の巧妙と言うべきである。 具体的な記録は無いものと思われるが、 一部の上流階級の間では二色の駒で対局されていた可能性も否定は出来ないであろう。 しかし同一色の駒しか使えない人々の間での対局が多かったからこそ、 何らかのきっかけで駒の再使用を許した対局が発生したものと思われる。 その結果次第に他の大規模な将棋を駆逐するようになり、 あるいは存在したかもしれない二色の駒は、 再使用が不可能なために完全に姿を消してしまったと考えられる。 もし日本でも二色の駒が主流となっていたならば、 持駒の誕生が大きく遅れたことは確実であろう。
 
 駒の形状は先の細い五角形が一般的であるが、 これは絶対的なものであろうか?
 私が将棋を覚えた小学生の頃の駒は10円であり、 この製品は一応五角形の形状をしていたが、 更に安価な5円の製品では殆どの駒が長方形であった。 覚えたてだから棋力と言えるほどの実力はなかったはずだが、 それでも長方形の駒で対局に不便を感じることは無かった。 小学生とは言え駒の文字を判読することにより、 十分に敵味方の区別をしていたものと考えられる。
 そもそも対局者は、頭の中で駒をどのように捉えているのであろうか。 盤面から情報を得る時には、 駒の文字の判読による情報が殆どであり、 五角形による敵味方識別は補助的なものに過ぎないと思われる。 これが目隠し将棋となると実物の盤駒は存在しないのだから、 最初から実体の無い盤駒で局面を判断することになる。 この頭の中だけに存在する駒と言うものは、 果たして五角形をしているのだろうか。 それとも駒の名称の二文字だけ、 あるいはもっと簡素化して一文字だけの駒なのだろうか。
 実体の無い駒は五角形と思えば五角形で登場するし、 一文字と思えば金や銀の文字が現れてくる。 恐らく対局者の脳波の測定等を行い、 専門的に分析しなければ結論は出ないと思うのだが、 頭の盤に存在するのは駒の『概念』だけではないかと思われる。 このことは成駒について考えれば分かり易いかと思うのだが、 例えば成銀や成香等の駒はどのような状態で脳内の盤面に存在するのだろうか。 駒の裏に書かれた文字がその形状のままで存在するのだろうか。 それとも『成銀』や『成香』と言った説明的文字に変換されて存在するのだろうか。 脳内の盤に存在するのはそのどちらでもなく、 駒の『概念』だけが存在すると言うのが私の推測である。
 駒の書体が並彫りになるとこの傾向はもっと強まると言えるだろう。 並彫りの書体は到底文字とは呼べないものであり、 その書体の駒をそのまま頭の中に入れたとしても、 恐らく盤面を再現するのは困難であると思われる。 実際の駒を視認してから脳内で再現する過程のどこかで、 無意識のうちにでも駒の『概念』に変換されているのではないだろうか。 以前NHKの将棋特番で、羽生善治氏による盤面の再現が行われたことがある。 普通の将棋の駒を使った場合には数十秒盤面を見ただけで完璧に再現出来たが、 様々なネタの寿司を駒に見立てて作成した局面では、 同じ記憶時間で半分程度しか再現出来なかった。 初めて対面する駒なので変換が不十分だったものと思われるが、 慣れれば寿司ネタでも局面の再現は容易に行うことが出来るだろう。
 駒の文字を『概念』に変換して記憶しているのだとすれば、 文字の見易さによって変換に要する時間が異なることは十分にあり得る。 同じ局面を上彫りの駒と並彫りの駒とで作成し、 記憶から再現に要する時間に差異があるか調べてみるのも面白いだろう。 あるいはコンピュータ将棋かついたて将棋の手法を用い、 一方の対局者は通常の五角形の駒、 もう一方は一文字だけの正方形の駒を用いて対局し、 勝敗に何らかの影響が出るものか調査してみるのも面白いだろう。 同じ力量の者同士の対局で一方だけを目隠し将棋とした場合には、 本来の勝率とは大きく異なるであろうことが予想される。 果たして五角形で方向性を持たせた駒の場合には、 文字だけで方向性を持たせている場合よりも、 有利に対局出来るかどうかを調査しようと言うものである。
 
 ここで少し方向を変え、チェスの駒を眺めてみることにしたい。 チェスの駒には色々と変った製品があるが、 右図はその代表的なものとも言える『不思議の国のアリス』駒である。 うさぎはポーン、後方のハンプティダンプティはルークに相当するが、 本来の駒の面影は存在しないと言って良いだろう。 この駒によって実際の対局がどの程度指されているかは知る由も無いが、 やはり慣れるまでは本来の駒の『概念』に変換することになり、 思考回路の中ではうさぎの姿は消え去っているものと思われる。
 勿論慣れてくれば直接駒の『概念』として記憶されるだろうし、 逆にこの駒によってチェスと言うものを覚えた人がいたとしたら、 その人は本来のポーンをうさぎの駒の『概念』に変換することになるだろう。 更に駒の色は白と黒による区別ではなく、 一方は右図に示すような青、もう一方はこの部分が茶系の色で作成されている。 この駒が『概念』として脳内に記憶される場合には、 白と黒、あるいは青と茶と言うような色による区別ではなく、 単に敵の駒と味方の駒と言う『概念』でしか記憶されていないのではないだろうか。
 ハンプティダンプティの胴に描かれた網目模様は、 少しでもルークの雰囲気を出すために城の石壁を模したものと思われるが、 その体形から私は手榴弾を想像してしまう。 やはりルークとして見なすにはいささか無理があるように思えるが、 これよりも一段と分かり難い変り駒も存在する。
 私が目にした駒では、クリスタル製で抽象的な形状の駒が分かり難かった。 ポーンだけは小さいので容易に認識できるのだが、 一列目外側3種の駒からは本来の姿を思い浮かべることが出来なかった。 具体的な形状の駒ではアメリカンフットボールの選手の姿の駒があるが、 これもポーン以外は駒のイメージが全然湧いてこない形状をしている。 日本将棋の並彫り駒の場合にはかすかに元の駒の臭いが残っているが、 フットボール駒は無味無臭なので丸暗記するしかないだろう。 カタログによれば手作業で彩色しているようだから、 こうした駒は実用品と言うよりも収集品の範囲に入るのかもしれないが・・・
 
 再び日本将棋に話を戻すが、 目隠し将棋や文字だけの図面でも指し手を進めることが出来るように、 方向性を持たせた駒の形状が絶対的に必要と言うわけではない。 特に二色の駒が存在したとするならば、 その駒で指している人にとっては長方形の駒で十分であり、 対局する上で何ら問題は無かったものと思われる。
 墨一色の駒で指していた人達の間で方向性が必要だと思われたとしても、 それまで使用していた駒が長方形であったとするならば、 右図上のように上端をちょっと削っただけの六角形としたのではないだろうか。 あるいは中段のように台形に成形したとしてもその手間は僅かなものであり、 それなりの方向性は持っている。 長方形の駒では長さ方向に繊維が走るような木取りが一般的だが、 何れの場合も繊維に沿って削ればよいので、 小刀等による成形も容易なものとなる。
 増川宏一著法政大学出版局発行「将棋」によれば、 経帙牌と呼ばれる先の尖った札が駒に転用された可能性が記されている。 経帙牌と言うのは経典の包みに付けられた荷札のようなものらしいが、 これらを扱っていたのがどの程度の階層の人間かは分らない。 大きさも様々だったようなので駒への転用は容易だったかもしれないが、 やはり下層の人間にとっては無縁の物だったのではあるまいか。
 囲碁は主に貴族の間で広まり、 将棋の場合は武士の間で広まったとも言われるが、 身分の低かった武士が駒を持とうとしたらどのようにしたであろうか。 当然外注するようなことは出来ずに自作したであろうから、 その材料は身近な不用品を利用したものと考えられる。 この場合、薄い木片に墨書きで作成するのが最も一般的であると思われるが、 木材と言うものは繊維を横切って切断するよりも、 繊維に沿って削る方がずっと楽である。 鉛筆を削るような作業なら身に付けている小刀でも容易に可能であり、 そのようにして成形した駒の形は、 図の下のような砲弾型にするのが最も簡単であると思われる。 駒に方向性を持たせるために先を尖らせたのではなく、 このように制作上の都合から先が尖った形状となった可能性も、 あながち捨て切れないのではないかと思うのである。
 
 現在の将棋の駒は平面が先細の五角形となっているのみならず、 厚さにも違いを持たせて非常に洗練された形となっている。 文字の表現方法や母材となる樹木の選定も頂点に達していると思われ、 恐らく駒としてはこれ以上の製品は望めないものと思われる。 価格的には更に高価な材料を使用することも可能だが、 文化としてみた場合には終着駅に到達したのではないだろうか。
 とは言っても、将棋はあくまでも庶民文化であって欲しい気持ちもあり、 現在でも百円で買えるような駒が存在するのにも賛同できる。 駒の形状も先細の五角形に限定する必要はないし、 磁石盤のように薄べったい駒でも実用上大きな問題はない。 その一方では一文字表現がやっとだったパソコンの盤面は、 駒の形に止まらず書体まで選択できるように進歩している。 将棋というゲームは異なる性能の駒が存在することで成り立っているのであり、 盤や駒も極限に達した高級品のみならず、 様々な製品が混在することこそが好ましいと思っている。

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