甲標的
甲標的−ご存知の通り、いわゆる「特殊潜航艇」の正式名称である。
甲標的の構造や戦歴については、既に多くのサイトで紹介されているので省略する。
私がここで紹介したいのは、造船設計者であった片山有樹氏の思い出である。
私は1968年に東海大学船舶工学科に入学し、2学年になると船舶製図
(正式な名称は忘れてしまったが)が始まった。当時は2年までは平塚市の校舎で授業を行い、
3学年になると清水市の校舎に移って授業を受けていた。
船舶製図と言っても特殊なものではなく、最初は貨物船の図面を忠実に写し取ることだった。
機械製図等に比べて異なることと言えば、図面の大きさが非常に大きいということだろうか。
道具は一般的な製図用具の他に「バッテン」と「金魚」と言う物を使っていたが、
この2つは他の工学部門では殆ど使われることは無いだろうと思われる。
「バッテン」というのは5o位の幅をした薄い木の板で、
これを曲げることによって自然な曲線を描くための定規として用いた。
この時バッテンが動かないように押さえておくのが「金魚」で、
金魚とは文鎮の一種であると思って良い。
ただし薄いバッテンを押さえるために特殊な形状をしており、
その形状から金魚の名前が付いたようなのだが、どう見ても私の目には金魚とは見えなかった。
バッテンには厚さの異なるものが何種類か用意されており、必要に応じて使い分けていた。
CAD技術が著しく進歩した現在においても、
果たしてバッテンや金魚は使っているのだろうか。
製図の担当教授は1名で、他に非常勤講師として大園大輔氏が補佐していた。
しかし2人とも他に講義を持っていたので、
製図のみを担当する非常勤講師として片山氏が来ていたのではないかと思われる。
清水へは来られなかったが、かなりの高齢であったと思われるので、
通勤の容易な平塚校舎だけを担当したのかもしれない。
初めての図面もかなり出来上がった頃の話であるが、片山氏が私の製図台の前にやって来て、
少しの間図面を見ていた後、ぽつんとつぶやかれた。
「君は船が好きなんだね」
私は驚いた。最初の授業が始まる前、片山氏の紹介はあったと思うが、
詳しい経歴は紹介されていないと思う。したがって片山氏がどんな人物なのかは知らなかったし、
こちらから尋ねるようなこともしなかった。片山氏は小柄な体格で、
多くの技術者に見られるように、温厚で口数の少ない人だったと記憶している。
製図を見てもらうとは言っても、手取り足取りして教えてもらう訳ではない。
他の仲間もそうだったと思うが、片山氏に質問したり、積極的に会話するようなこともなかった。
そんな状況の下で、いきなり「船が好きなんだね」と言われたのである。
私は船が好きである。したがって片山氏の言葉は当たっている。
でも、図面を見ただけでそんな事が分かるのだろうか?私が驚いた理由はそこにある。
それまでに会話したことは無い。製図は好きだったので、
他の仲間よりは幾分か綺麗に描けていたかもしれない。あるいは図面を描いている私の姿勢が、
他の仲間とは違っていたのかもしれない。しかしそれだけのことで、
「船が好きだ」と断定することが出来るのだろうか。
余りにも突然の言葉だったので、私は何と返事をしたのか覚えていない。
あるいはあっけに取られて、何も答えなかったのかもしれない。
答えたとしても、「はあっ」と言うくらいのものであったろう。
その後も親しく会話するようなことは無かった。私としては何を話したらよいのか分からないのだ。
片山氏はしばらく図面を見ていたが、まるで独り言でも言うかのように、
別なことを話し始められた。
片山氏は昔を懐かしむかのように、静かに話を始められた。
話の主体は甲標的のことであったが、当時から艦艇には興味を持っていたので、
私も甲標的の名前くらいは知っていた。これも多くの技術者に共通する性格かもしれないが、
片山氏は自分のした仕事を自慢するようなことは一切なかった。
話の内容は今では殆ど覚えていないが、1件だけ鮮明に記憶していることがあり、
それが今回紹介したいことなのである。
潜水艦に限ったことでは無いが、造船設計者は常に船体の軽量化に気を配っている。
浮いた重量によって少しでも大馬力の機関、1門でも多くの砲を積むためにである。
当然甲標的の場合も例外ではなく、むしろ船体が小さい分だけ、
余計に軽量化に努力されたのかもしれない。その一環として片山氏が考えついたのが、
図に示すような特殊な断面を持った圧延鋼板の採用であった。
結論を先に言えば、この鋼板は採用とはならなかった。
理論的に言えば、この鋼板を使えば同じ強度で軽く作ることが出来る。
しかし実際にこの鋼板を作ろうとした場合、鋼板の製造方法は2通りの方法が考えられる。
一つは図に示すように、紡錘形のローラーを使って最初から特殊形状の圧延鋼板を作る方法である。
この場合、複数の紡錘形ローラーを使って幅広の板を作ることも可能である。
もう一つは普通の鋼板を加工して、特殊形状に仕上げる方法である。
前者の場合には、その設備投資に大変な費用が必要となる。
しかもこの設備で作った鋼板は、甲標的以外には使い道がない。
板幅を甲標的のフレームスペースに合わせることになるので、他の潜水艦への流用は難しいのである。
それでも航空機のように個体数が一千を越えるようなら設備投資に見合う効果も期待できるが、
せいぜい2桁の生産数では到底無理であると言わざるを得ない。
後者の場合には特別大掛かりな設備は必要ないが、
鋼板を特殊形状に加工するのに膨大な時間がかかることとなる。
甲標的以外にも整備しなければならない艦艇は幾らでもあるので、
甲標的だけに予定外の工数をつぎ込むわけには行かないだろう。
理論的に優れた構造であっても、現場でも適切な構造とは限らないのが工学部門の実情である。
しかし最近の戦闘機で、似たような構造を持った機体があるという記事を読んだことがある。
その時にも頭に浮かんだのは、片山氏の言葉であった。
「こんなことも考えていたんだよ」
片山氏の話の主要部分は、この言葉から始まった。
片山氏が前記の話を、回想録等で公表したかどうかは知らない。
しかし何冊かの潜水艦関係の書籍、あるい雑誌の記事を見ても、
この外板の話が載っている本には巡り合っていない。
口数の少ない人であったようだから、余り他人に話すことは無かったのではあるまいか。
それまで話をしたことも無く、単なる一学生に過ぎない私に何故話をされたのかは、
今となっては知る由も無い。しかし片山氏の穏やかな話し振りから、
次のようなものではないかと思っている。表には出ない苦労と言うものは誰でも持っているし、
それを誰かに聞いて欲しいと言う気持ちもまた、誰でも持っていることと思う。
そして片山氏も、もしこの構造で作ることが出来たなら、
甲標的はより高性能(恐らく速度か航続力の向上)となり、
もっと少ない犠牲で大きな成果を挙げることが出来たはずだ、と思っていたのではないだろうか。
あるいは更に強く、造船担当者としてこの構造の採用を具申していたのかもしれない。
しかし残念ながら最終的な決定権は片山氏には無い。
自分の理想とする構造が実現しなかったことを無念に思い、
実現こそしなかったがそのような努力が存在していたことを、
誰かに知っておいて欲しいと思われたのではないだろうか。
片山氏との一度だけの会話らしい会話、いや、
会話と言うよりは講義を受けていたと言うべきかも知れない。
この件から30有余年が過ぎたが、その間この話を忘れたことは無い。
そして誰にも話したことは無い。しかし年を重ねて50の齢も数年前に過ぎ、漠然とではあるが、
この話は残しておくべきだと思うようになってきた。
本にするほどのものではないし、公表する機会もなかったのだが、
幸いなことにホームページと言う便利なものを使うことが出来るようになったので、
ここに認めた次第である。甲標的の逸話の一つとして、後の世にも伝えて頂ければ幸いである。
《追記》04.6.6
光人社発行『戦艦「大和」開発物語』によれば、
大和の傾斜甲鈑の製造は鋼塊の段階である程度の傾斜を持たせ、
その後上下のローラーの角度を少しずつ変えながら圧延していったと言う。
それ以前の艦の場合には先ず均一の厚さの甲鈑を作り、
不要部分を削って製造したそうである。
どちらの方法も、技術的には甲標的に対しても可能であるが、
補助兵器である甲標的には大きな予算は付けられなかったと言うことであろうか。
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