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 錨の話(2)

 船を留置く力として自重だけを利用する「碇」の場合には、 碇と船とを繋ぐのに水より軽い繊維索を利用しても何ら問題は無かった。 むしろ取扱いの容易さを考えれば、 十分な強度さえ確保できれば金属性の索よりも使い勝手は良かったものと思われる。
 爪による把駐力を期待する「錨」の場合には、 水に浮かぶ索では錨にかかる力が錨を起こす力をも伴っているので、 十分に錨の効果を発揮することが出来ない。 鋼索ならば水に沈むことは沈むが、鋼索自体に把駐力は期待出来ないし、 太い鋼索になると曲率半径が大きくなり、取扱いも艦内への収納も困難を伴うことになる。 かくして錨と鎖の組合せは最善のコンビと言うことが出来よう。
錨鎖  艦艇で使われる錨鎖は陸上で一般的に見られる鎖とは異なり、 右の図に示すように各鎖環(リンク)の中央にはスタッドと呼ばれるものが入っている。 スタッドは錨鎖の強度を増すと共に、 鎖環同士が絡まって団子状態となることを防ぐ効果も持っている。 なお海上自衛隊の場合、揚錨時には錨鎖庫の中に乗員が入って錨鎖を整頓しながら収めているので、 投錨に際して錨鎖が絡まるようなことは無い。
 錨鎖を錨鎖庫に固定したり、錨と短鎖、更に短鎖と錨鎖を繋ぐ場合には、 図の右端に示すようなシャックルを用いる。 しかし一般的なシャックルは図のように鎖環とは形状が異なるので、 錨鎖車(キャプスタン)を通過させることは出来ない。 錨鎖はその太さに関係なく通常1節25mの長さを持っており、 艦の大きさに応じて適切な長さの錨鎖を積み込んでいる。 したがって錨鎖同士を連結しなければならないのだが、 前述のように一般的なシャックルは使えないので、 ケンターシャックルと呼ばれる特殊なシャックルを用いなければならない。 ケンターシャックルは鎖環と同じ形状・大きさなので、 他の鎖環と同じように錨鎖車で巻上げることが出来る。
 スタッド付の鎖環はスタッドの無い一般の鎖とは製造方法も若干異なるようであるが、 この点に関しては新日本機械製鎖株式会社の ホームページに詳しく載っているので、興味のある方は参照されたい。 全く継ぎ目の無い鋳鋼錨鎖に関しては私も同社の記事によって初めて知ったのであるが、 その鋳鋼錨鎖の製造方法も載っている。
 
 商船の場合には安価な横置型の揚錨機を暴露甲板に装備するのが一般的であるが、 艦艇の場合には幅の狭い前甲板を有効に使うため、 揚錨機は艦内において錨鎖車だけを暴露甲板に設置している。 錨は2組あるので錨鎖車も2基設けるのが普通であるが、 小型の艦艇では更に前甲板を有効に使いたいため、 錨鎖車は1基のみしか装備していない。 しかし錨は通常1組しか使用しないので、投揚錨作業に大きな支障は無い。 ただし海自では一月毎に左右舷の錨を交代で使うようにしているので、 錨鎖車が1基のみの場合には錨鎖を掛け換える作業が発生することになる。
 荒天が予想される場合には更に錨鎖を繰り出して走錨を防ぐようにしているが、 それでも対処し得ない場合には両舷の錨を使って2錨泊とするか、 一方の錨を振止め用として用いなければならない。 両舷の錨を使用すると風向きの変化によって錨鎖が絡んでしまう可能性があるが、 それを防ぐためにムアリングスイベルと言う部品がある。 ムアリングスイベルにはX型に4個の鎖環が付いており、 ホースパイプから出る錨鎖と錨に繋がっている錨鎖を接続して使用する。 艦側の2本の錨鎖と、錨側の2本の錨鎖が回転することによって絡みを防止するものと思われるが、 私自身は実際に使用した場面に遭遇したことが無いのでその効果の程は分からない。 なおこれらの投揚錨装置に関しては、 岡田幸和著海人社発行「艦艇工学入門」に図入りで載っているので参照されたい。
 錨を投入した状態で緊急事態が発生し、 錨を揚げている時間が無い場合には錨を捨てて出港しなければならないこともある。 錨を捨てるとは言っても錨鎖を切断してしまうのではなく、 ケンターシャックルを分解すれば錨鎖が解放されるので、 後に回収する時のことを考えてブイを付けてから錨鎖を落とす。 この場合、律儀に計算から求めた長さだけの錨鎖を繰り出すのではなく、 ケンターシャックルが甲板上に来るよう長めに錨鎖を出しておけば、 非常時に容易に錨を切り離すことが出来る。
 
 一般の人が乗客として船に乗る場合には、 殆ど例外なく岸壁に係留された船であると言って良いだろう。 それ故に収納された錨を目にする機会はあっても、 投揚錨作業に遭遇することが無いのは止むを得ないことである。 何故ならば錨は船が流されないように繋ぎ止めておくのが目的であり、 岸壁に着けられている船は舫い綱でしっかりと固定されているので、 錨を打つ必要は全く無いのであるから。
 と言う説明で間違いは無いのだが、何事にも例外はあるもので、 岸壁に係留される船でも錨を入れる場合は存在するのである。 一口に商船と言っても、客船やカーフェリー等では2軸推進の船が一般的であり、 更にサイドスラスターを装備している船も珍しい存在ではない。 これらの船の場合は曳船の助けを借りなくても離着岸作業は容易であるが、 貨物船やタンカー、漁船等の1軸推進船ではそう簡単にはいかない。
 2軸船では左右軸の回転を逆にすることによって船を岸壁から離れさせることが出来るが、 1軸船の場合には逆に岸壁に押し付けられるような力が発生することもある。 曳船を頼めば簡単に離岸出来るのだが、 それなりに費用がかかるのでおいそれと曳船を頼む訳にはいかない。 こんな時に役立つのが錨で、着岸前に岸壁とは反対舷の錨を適当な位置に打っておき、 離岸時には錨鎖を巻いていけば錨に引き寄せられて船は岸壁を離れると言う寸法である。 港の事情もあるのでどの港でも使える訳ではないが、 安価で効果的な方法であると言って良いだろう。
投錨着岸  右の図は更にその特殊な例で、A点で投錨してそのまま前進を続けると、 やがて錨が効いて(B点)船の行き足が鈍ってくる。 更に錨鎖をゆっくりと繰り出しながら極微速で前進して行けば、 船は船首を錨鎖に引かれて回転(C点〜D点)し、 錨鎖を伸ばした状態で接岸する(E点)ことが出来る。
 この話は学生時代に大学の実習船の船長から聞いた話で、私は実際に目撃したことは無い。 実習船の林船長は第一術科学校を最後に海上自衛隊を退職して再就職したものだが、 自衛隊時代には操艦には自信があったと話していた。 中でも「あさかぜ」か「はたかぜ」の艦長をしていた時には、 思い切りスピードが出せて気分が良かったと話しておられた。 ちなみにこの両艦は米海軍リヴァモア級駆逐艦の貸与艦であるが、 自衛隊の保有した駆逐艦の中では最も高速の艦である。
 自衛隊時代には操艦に自信を持っていた林船長だが、 大学の中古ボロ船に乗るようになって考えが変わったと言う。 海自では2軸推進の艦で係留作業に携わる人間も多いのに対し、 大学の船は1軸で舵の効きも悪く、舫い取りの人間は数人に過ぎない。 中古ではあるが駆逐艦に比べればずっと小さい船なので、 最初は操船なんて簡単だと思っていたそうであるが、 実際に運行するようになって難しさに気が付いたと言う話であった。
 林船長は上記の入港作業を目撃した時には「あれは神業だ」と思ったそうである。 確かに小型船とは言え自分の船の性能を熟知し、 かつ港の状態を知り尽くした人間で無ければ行える芸当ではない。 勿論小さな船だからこそ可能な方法であり、 惰力の大きな大型船では不可能であることは言うまでも無い。
 
 錨の特殊な使用法としては、ブレーキ代わりに用いる方法がある。 錨を打ち込んで爪が効くようになっても、 船の行き足が速ければ惰力が大きいので一気に止めることは出来ない。 しかし走錨する状態であっても爪による抵抗は働いているので、 徐々にでも船の行き足を落とす効果はある。
 動力船であれば推進器の逆転等によっても行き足を止めることが出来るが、 進水直後の船の場合にはそのような手段をとることは出来ない。 対岸までの距離が短い船台で進水重量の大きな船を進水させる場合には、 滑り降りた惰力で対岸まで船が進んでしまう可能性もある。 そこでその場合には錨を落として行き足を止めたり、 錨によって船を旋回させて進行方向を変える方法がとられるそうである。 私が監督官として赴任していた舞鶴工場では十分な広さの海面があったので、 そのような心配は全く無かった。
 装備実験隊に勤務していた頃の話であるが、 当時同隊には掃海艇から支援船に転籍した「みくら」と言う船が所属していた。 その「みくら」に乗って横須賀港船越岸壁に入港している時に、 いきなり船内の電源が落ちて操舵不能に陥ったことがあった。 同船も他の多くの船と同様電気信号によって舵取機を操作しているので、 電源が落ちれば船橋での遠隔操作は不可能になるのである。
 船長は直ちに「錨用意、人力操舵用意」を下令して緊急事態に備えたが、 配電盤のブレーカーが落ちただけだったので直ちに復旧して事なきを得た。 「みくら」は2軸なので主機を機側で操作することによって多少の操船は可能であるが、 やはり通常の入港作業のようには行かない。 人力操舵でも舵の効きは通常よりも鈍くなるから、 最悪の場合には錨を打って行き足を止めるのが岸壁への衝突を避ける唯一の手段となる。 船長のとった行動は最善のものであったと言うことが出来よう。
 なおブレーカーの落ちた原因は、複数の冷蔵庫が全く同時に起動したためだったようである。 食糧事情の変化に伴って艦船でも冷蔵庫の容量は増える傾向にあり、 古い船では市販の冷蔵庫を搭載して対処しているのが実情であった。 当然所要電力の計算はしているのだが、 冷蔵庫では圧縮機が起動する時に定格電力を大きく上回る電力を消費する。 それでも1台だけなら問題ないのだが、 その時は3台の冷蔵庫が同時に起動してしまったようなのである。 このような偶然は滅多に起こるものではないので、 そのために配電盤を換えるような予算的な余裕は無い。
 
 最後に余談ではあるが、 前出の林船長操る大学の船によって小笠原に言った時のことを紹介する。 当時は小笠原諸島が米国から返還されて間もない頃だったので定期船も無く、 一般の観光客は皆無の状態であった。 父島の二見港に錨を下ろしたのだが、 海が澄んでいるので海中に伸びていく錨鎖をはっきりと視認することが出来た。
 現在でも父島を訪れた人は海が綺麗なので感激するそうだが、 当時はそんなものではなかったのである。 私はその後父島に行ったことは無いのだが、再び父島を訪れた友人の話では、 もう海が汚れてしまってどうしようもない、と言うことであった。 内地の汚れた海しか知らない人にとっては綺麗に見えるかもしれないが、 本当に綺麗な海を見たことのある者にとっては汚れた海としか見えないのである。
 夜になると一部の酒好きな連中が上甲板で宴会を始めたようなのだが、 やがて酔払った一人が海に飛び込んでしまった。 翌朝には何も覚えていないほど泥酔していたのだが、 南の海なので水温は高く、心臓麻痺に至らなかったのは幸いであった。 海水に浸かってどの程度正気に戻ったのかは不明だが、 海中に伸びている錨鎖に捕まって難を逃れることが出来たようである。 ある程度の大きさの船になると、周囲を泳いでいても捕まる所はどこにも無い。 錨鎖は彼が捕まることの出来た唯一の命綱であり、 もし岸壁に係留されていたらどうなっていたか分からない。
 I君、錨泊で良かったね。元気にやっているかあ〜〜〜

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