海上自衛隊の艦艇の速力指示には、
商船には見られない独特の表現がある。
一例を示せば「両舷前進原速黒15」と言った感じであるが、
これは12kt強の速力で前進することを意味しており、
号令自体は推進軸の回転数を指示するものである。
原速と言うのは旧海軍から使われている速力区分の一つであり、
潜水艦や掃海艇等一部の速力の低い艦を除いて原速は12ktであり、
以下低い方は半速9kt、微速6ktとなる。
逆に速力が高い方は強速が15ktであり、
一戦速18ktから3kt刻みで二戦速・三戦速・・・と逐次増加し、
その艦艇の有する最大戦速へ、更に過負荷の『一杯』へと繋がっていく。
なお商船の場合には通常航海では速力を変える必要はないし、
他国の海軍でも日本ほど細かい速力区分は制定されていないようである。
両舷と言うのは2軸艦における左右両方の推進軸のことであるが、
出入港時などを除けば左右の回転数を変えることは無い。
かつては潜水艦の聴音による速力の推測を欺くために、
左右の回転数を変える「ちんば運転」と言う方法があったが、
現在でも存在しているかどうかは知らない。
「ちんば」と言う言葉は差別用語として今では使えないようであるが、
現在では潜水艦の探知技術も発達しているので、
「ちんば運転」自体の効果も期待出来ないと言うことも出来よう。
なお左右の回転数が違うと当て舵をしないと直進しないので、
推進効率としては損をすることになる。
3軸艦に関しては経験が無いので、
どのような号令になっているのかは知らない。
最後の「黒15」と言うのは、
原速として定められた回転数から15回転だけ増すものであり、
回転数を減らす場合には「赤10」と言うような表現を用いる。
場合によっては「原速黒○○」が「強速赤××」を上回り、
原速表示なのに強速よりも早くなってしまう場合もあり得る。
当然そのような場合には速力区分を変えて回転数を指示することになるが、
どの時点で速力区分を変えるかは乗員の判断しだいであると思われる。
艦艇においては、何故直接「速力○○kt」と指示しないのだろうか、
と疑問に思われる人も多いかと思われる。
実際これは海軍独特のものであり、
他の交通機関ではこのような例は見られないはずである。
これはあくまでも私の推定ではあるが、
このような速力指示を用いている原因を探ってみたい。
なお艦船において単に速力と言った場合には、
全て対水速力であると思って差し支えない。
本題に入る前に頭に入れておいて貰いたいのは、
陸地の全く見えない海洋においては、
自艦の速力を正確に知る手段は無きに等しいと言うことである。
木片等を舷側から視認できる海面に投げ込み、
艦上に設定された標柱間を通過する時間を計ることにより、
自艦の速力を求める方法は現在でも用いられている。
しかしそのためにはある程度正確な時計が必要であるし、
海面状況によっては計測不可能となることもある。
また、船の速力を現す「ノット」の語源ともなっている、
船尾から繰り出した綱の長さで速力を知る方法も存在したが、
勿論現在では用いられていない。
艦船の速力計(測程儀=ログ)は前記の方法同様対水速力を求めるものであり、
初期のログには流体の圧力差を利用したピトー管が用いられていた。
更に現在では電磁誘導を利用した電磁ログも用いられているが、
どんなに衛星航法が発達したとしても、
戦争を前提とした軍艦の場合には衛星のような他の機器に依存することなく、
自艦単独で測定できるログは絶対に欠かすことの出来ない装備品である。
現在では衛星航法の進歩によって対地速力をも知り得るようになったが、
それではこれらのログが開発される以前には、
自艦の速力を容易に知りうる手段は無かったのであろうか。
動力船の推進器としては後部に設けられたプロペラが一般的であるが、
プロペラの回転数と船の速力との間には密接な関係がある。
船の状態が同じであれば、その時の回転数を知ることにより、
船の速力をも知ることが出来るのである。
そのためには予め何種類かの回転数に応じた速力を計測しておき、
それらの点を結べば滑らかな曲線となるはずである。
曲線が求められれば速力区分に応じた回転数が分かるので、
その速力に見合った回転数を指示することにより、
必要とする速力で艦船を運航することが出来るようになる。
艦艇の場合には商船のような極端な喫水の変化が無いので、
船底の汚れや海面状況等を考慮しても、
回転数と速力の関係が大幅にずれることは無い。
上甲板に出て特別な作業をすることも無く、
回転数が分かれば何時でもその時の速力を知ることが出来るので、
軸の回転数を速力の代用として用いてきたものと思われる。
話が前後するが、大型の艦艇では艦橋で直接機関を制御することは無い。
艦橋からはエンジンテレグラフを使って速力区分と赤黒の数値を伝え、
機関室では伝えられた情報に基いて主機の運転を行うことになる。
このような話を聞くのは初めてだと言う人も多いかと思われるが、
あるいは『艦艇は随分と面倒なことをするものだ』と思われるかもしれない。
しかし動力船の歴史を考えれば想像も出来ると思うが、
初期の石炭焚きボイラでレシプロ機関の時代には、
艦橋で機関制御を行うなんて到底不可能なことである。
艦橋から要求された回転数に応じられるよう、
機側でボイラや蒸気機関を操作するしか方法が無かったのである。
これは石油焚きボイラ・タービン機関になっても同様であり、
ディーゼル機関でも完全な遠隔操作には不安要素が残されていた。
現在主流となっているガスタービンの場合には遠隔操作も可能であるが、
この件に関しては後述する。
艦艇の場合には商船とは異なり、艦隊を組んで行動することが多い。
艦隊が全て同型艦で構成されていたとしても、
全艦が同じ回転数ならば速力まで全艦同じになるとは限らない。
と言うよりは、一品生産である艦艇は違っていて当然と言うべきかもしれない。
しかも船底の汚損や喫水は各艦毎に違っているのだから、
後続艦が先頭艦の速力に合わせるためには微妙な調整が必要であり、
こんな時に赤黒の使用は大変便利なものである。
装備実験隊に勤務していた時、
初のガスタービン駆逐艦である「はつゆき」型の機関操縦盤の研究をしたことがある。
主たる研究対象は誤操作の防止策であったが、
その研究発表時に非公式ではあるが、
主機の艦橋における遠隔操作について提案したことがある。
現有のガスタービン機関は航空機用の物を舶用化したものであるが、
言うまでも無く航空機のエンジンは全て遠隔操作である。
艦艇に搭載した場合には航空機に比べて増減速する機会は多くなるが、
それも遠隔操作を妨げる障害とはなりえない。
勿論全ての機器を艦橋に上げる必要はなく、
艦橋では回転数とプロペラピッチの変換だけを行えるようにしておけば良く、
ガスタービン機関の運転状態の監視、
発電機を初めとして補機類の運転監視、
艦内応急に関する指揮は従来通り機関室に隣接した操縦室で行えば良い。
電磁ログの精度も向上し、艦橋での速力制御が可能となれば、
冒頭で紹介したような速力区分と赤黒による運転指示は不必要となる。
速力を含む艦の運航に関わることは全て艦橋で直接行い、
機関操縦室では監視に徹すると言う考え方を前記の研究発表時に提案したのであるが、
関係者からの賛同は得られなかった。
海軍に限らず、大きな組織と言うものはどうしても保守的な考え方に支配され、
新しい提案と言うものは歓迎されない傾向にある。
艦橋で全ての操作を行うと言う考え方は機関関係者のみならず、
甲板関係の人間の意見の方が重大であるとも言えるので、
そう簡単に結論が出せる問題ではないのだが。
冒頭で紹介したような号令は、
単に「速力○○ノット」と言う号令よりも、
映画にすれば格好良いものと映るかもしれない。
しかし艦橋での直接制御が不可能だった時代ならともかく、
それが容易となった現在でも継続しなければならない理由は見当たらない。
緊急時には艦橋での直接操作の方が優っていることは明らかなのだから、
早急に改善すべき問題であると考えている。
最近は艦内に立ち入ったことは無いのだが、
既に実行されているのであれば心強い限りである。