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 特攻

 特 攻−「特別攻撃」の略。
 特攻隊−「特別攻撃隊」の略。第二次大戦中、爆弾を積んだ飛行機などで
     敵艦に体当たり攻撃を行うために編成した部隊につけた名。
 特別攻撃隊−特別に編成された攻撃部隊。
     特に第二次大戦中、体当たり攻撃を行なった日本の航空部隊。特攻隊。
 (三省堂大辞林より)
 
 特攻隊−「特別攻撃隊」の略。 太平洋戦争末期、飛行機や舟艇に爆弾を積み、
     敵に体当たり攻撃を行った日本軍の特別な部隊。
 (旺文社国語辞典より)
 
 特攻あるいは特攻隊に対する世間一般の概念は、 概ね上記のような解釈で大きな間違いはないものと思われる。 ただし注目すべきは「特攻隊」で、 その語源が「特別攻撃隊」の略称であることは歴然としているのであるが、 現在では「特攻隊」として完全に独立した単語になっていると言うことが出来よう。 即ち「特別攻撃隊」が多種多様な任務や編成を有しているのに対し、 「特攻隊」の場合には生還を期さない攻撃部隊、 特に航空隊に限定されて用いられているような傾向が見られるのである。
 艦船部隊における特別攻撃隊としては、 いわゆる『人間魚雷』である『回天』が最も有名であり、実際大きな成果を上げている。 回天の場合には航空特攻とは異なり、会敵しなければ母艦と共に帰投することになる。 したがって回天搭乗員としての出撃が直ちに死を意味しているわけではないが、 航空特攻の場合にも死を覚悟して出撃はするものの、 実際にはエンジンの不調により帰還した機数も決して少なくはない。 このように書くと当時の隊員からは反発が出るだろうが、 この点に関しては後述する。
 海上部隊の特攻兵器として実用まで漕ぎ着けたものとしては、 いわゆるモーターボートに爆装した「震洋」が挙げられる。 構造を簡易なものにしたために量産には成功しているが、 5m長23節の小艇では戦果は期待出来ないと言って良いだろう。 島嶼の入り組んだ複雑な海域であればそれなりの戦果も期待出来るが、 本土決戦のような大規模な作戦においては接近すら不可能となるであろう。 好天ならば航空機の格好の目標となるし、 荒天ならばその行動は極端に制限されることとなる。 奇襲攻撃に期待するのは独りよがりの考えであり、 米軍は十分な余裕を見込んで戦闘に臨むことが可能な戦局となっていたのである。
 同様なことは水中特攻兵器である「海竜」にも言うことが出来る。 後期の海竜は艇首に爆装して体当たり攻撃を前提としているが、 当初の計画では雷装しての魚雷攻撃が可能となっていた。 しかしこのような小艇から魚雷を発射した場合には船体が海面に飛び出し、 所在を暴露して敵の一方的な反撃を受けることとなる。 建前上は体当たり攻撃を前提とした特攻兵器ではないと主張しても、 実質的には生還が期待できない特攻兵器と言うことが出来よう。 震洋の場合にも体当たり直前に脱出するようになってはいるが、 海中に投げ出されてから帰還する手段はない。
 回天の場合には水中への脱出口が装備されており、 衝突直前に針路を固定して脱出するように計画されていたが、 高速で航走する回天からの水中への脱出は可能だったのだろうか。 恐らく脱出は不可能の非現実的な脱出口ではあったが、 後には潜航中の母艦からの搭乗口として利用されることとなり、 予期していない使用法とは言え回天の有効活用に大きく貢献することとなった。
 
 さて、戦局の悪化に伴って各種の特攻兵器、あるいは手段が出現しているが、 最も多くの犠牲を出したのは何れの特攻であろうか?
 ある程度の知識のある人ならば、 迷うことなく航空機による特攻であると答えることだろう。 実際、記録の上では航空特攻で間違いはないだろう。 しかし現実と記録と言うものは得てして異なっているものである。 その理由として考えられるのは、 権力者による記録とは真実を伝えるものではなく、 権力者の意思に従って都合良く記録されるものであり、 不都合なものは抹殺もしくは改変されて記録されることである。
 航空特攻を例に取り、その状況を説明してみよう。 同じように体当たり攻撃を行ったとしても、 それが上級司令部から「特攻」として命令されたものならば「特攻」であり、 現場の指揮官の命令で体当たりをしたのならば、それは「特攻」ではなくなる。 あるいは文書で命令が発せられたものであれば「特攻」であり、 現場での口頭命令であれば「特攻」ではないと言っても良いだろう。 現場指揮官がそのような命令を出すことはない、と言う人もいるだろうし、 実際そのような部隊もあったことだろう。 しかし口頭命令で特攻に駆り出される部隊も数多く存在したのである。
 陸上部隊の場合、恐らく「特攻」と言う名目で行われた戦闘はないだろう。 しかし実際には「斬り込み隊」も「バンザイ突撃」も「特攻」であり、 生還したのは負傷して人事不省に陥った極一部の者だけである。 曲学阿世の輩は上級司令部の正式な作戦名でないことを盾に取り、 それらは「特攻」では無いと主張するだろうが、 真実を追究しようとする者ならば、 それらが実際には「特攻」であることを容易に見抜くであろう。
 
 沖縄戦を例に取れば、装備も兵力もそれなりにあった初期の戦闘においては、 組織だった夜襲が成功した戦闘もあったようである。 勿論それなりの装備とは言っても米軍には大きく劣るものであり、 敵を撃退した戦闘でも人的な損害は日本軍の方が多かったかもしれない。 別記事『沖縄527』の中でも述べているように、 沖縄戦における米軍の戦闘方針は、 短期間での勝利よりも人的被害を局限することにあったと思われるからだ。
 沖縄戦は大本営の愚劣な戦略により、 十分な戦闘態勢を整えることなく米軍の上陸を迎えることになってしまった。 更に現地部隊の失策により大量の弾薬を失い、 計画通りの戦力を発揮することができなくなってしまった。 堅固な陣地に拠って十分な弾薬を有する部隊は善戦をしているが、 少ない弾薬を一部の部隊に回せば当然丸腰同然の部隊も発生することになる。 銃はあっても弾薬が皆無に近い部隊にとっては、 あるいは小銃と手榴弾しか配布されていない部隊にとっては、 有効な攻撃は「特攻」以外にはあり得ない。
 沖縄戦も戦線が首里に迫る頃には兵糧の欠乏が著しくなっているようである。 ただし有る所には有ると言うのが軍隊の常識で、 全ての部隊で不足していたわけではないようである。 各部隊の方針は、兎に角自分の部隊が有利に戦闘を行うことが最重要課題であり、 全体の戦闘を考慮して他の部隊に兵糧を融通するようなことはない。 特に沖縄戦のために急遽編成された部隊にあっては、 指揮官が陸士出身でないこともあってか、 何ら補給を受けないまま前線に配置させられている。
 一線部隊の兵力が半減し、兵糧も欠乏するようになると、 夜襲による反撃もゲリラ的なものになってきた。 いわゆる『斬り込み隊』の発生であるが、 恐らくこの呼称は兵士の間で囁かれる俗称であって、 文書による正式な部隊名であるとは思われない。 口頭命令であっても『死ね』と言う言葉は含まれなかったであろうが、 斬り込み隊に指名された者も残された者も、 それが生還を期さない攻撃であることは知っていたことであろう。
 斬り込み隊は一線部隊の残存兵が主力となっていたようだが、 兵員の数を補うために後方部隊にも『割り当て』が来たそうである。 一線部隊の装備がどの程度だったかは不明だが、 後方部隊の兵士に渡されたのは2発の手榴弾だけだったそうである。 小銃は持っていても弾は無く、銃剣を着けたところで役に立つ武器とはなりえない。 軍刀にしても同様であり、精神の拠り所として持っていた、と言う人はいるが、 近代戦においては実用的な戦力とはなりえない。 『斬り込み隊』と言う俗称から本当に軍刀で斬り込んだと思っている人もいるようだが、 その機会が皆無ではないにしても、実情とは大きく異なっているのである。
 手榴弾2発だけの装備であれば、 その2発を投げてしまえば武器は皆無となってしまうのだから、 余りにも非現実的な装備だと疑う人もいることだろう。 確かに2発を投げ終えれば丸腰となってしまうわけだが、 果たして2発投げることの出来た者はどれ位いただろうか。 恐らく大多数の者は2発投げるどころか、 1発も投げられないうちに倒されてしまったのではないだろうか。
 沖縄戦の写真を見れば分かるが、樹木も建物も砲爆撃で破壊され、 前線には遮蔽物として有効に使えるものは皆無であると言ってもよい。 当然斬り込みは夜間に限られるが、 米軍の照明弾の使用量は他の戦闘に比べて著しく多くなっている。 砲弾の炸裂した跡等を利用することは当然考えられるが、 それは米軍も承知していることであり、その対策は立てて陣地を構築しているはずである。 最悪の場合には陣地を放棄して退却しても良いのであり、 小銃すら捨てて身軽になって逃走に専念した米兵もいたそうである。 重火器の無い日本軍は夜が明ける前に後退しなければならないのだから、 その後に進出すれば何ら問題なく戦線を確保できるのである。 そして武器を捨てて逃げた兵隊も、 次の日には新しい銃を手にして攻撃を仕掛けてきたそうである。
 
 無謀としか思えない『斬り込み隊』は、何故多数編成されたのだろうか。 一つには他に攻撃手段が無かったことが挙げられよう。 あるいは何らかの攻撃的な行動を実行しないことには、 司令部に不安が広がることになるためであったかもしれない。 これは沖縄戦に限ったことではないのだが、 とかく司令部の人間と言うものは「攻撃」と言う言葉に惹かれるようである。 結果の如何にかかわらず、 攻撃を実行したと言う事実を作り上げることにより、 何らかの安堵感を得られたのかもしれない。
 大陸から転戦してきた部隊の多くは、実戦の経験があったことと思われる。 しかし中国大陸での相手は装備の貧弱な中国軍であり、 その戦力は米軍とは比較にならないほど微弱なものであったと言ってよいだろう。 実戦の経験が皆無の召集兵よりは有力な戦力になるとしても、 劣勢な敵に対する経験が、遥に優勢な敵に対してどの程度有効となりうるであろうか。 中国軍に対しては夜間の斬り込みが成功したとしても、 照明弾と自動火器で防御を固めている米軍に対しては成功は望み薄である。 だがそれを実感しているのは現実に直面している人間だけであり、 ただ命令を発するだけの人間も把握していたとは考えられない。
 このような無謀な斬り込み隊が続々と出撃して行った頃には、 更に不利な要素が加わっている。 元々不十分な兵糧で沖縄に向かった部隊であるから、 現地での調達が期待出来なければ当然食糧不足に陥ることになる。 沖縄では平時でも10万の兵力を賄えるだけの食糧生産能力は無いのだから、 戦闘で耕作が不可能になれば一般住民まで食糧不足となってしまうのである。 その僅かな食料も上級司令部に優先的に回され、 下級部隊では栄養バランスどころか、 基本的な摂取熱量さえ満足に取れなくなってしまったのである。 穿った見方をするならば、斬り込み隊には戦果を期待すると言うよりも、 言い方は悪いが「口減らし」の要素も含まれていたのではないかと推察される。
 斬り込み隊の指揮官は下士官が主体で、 高級将校が指揮することは無かったようである。 たとえ負傷はしていなくても栄養不足に睡眠不足も加わるであろうから、 その体力は言うに及ばず、精神力もまた大きく衰えていたものと思われる。 大和魂云々などと御託を並べているのは安全な場所にいる人間だけであり、 戦場の人間にとっては単なる空念仏に過ぎない。 空の特攻も海の特攻も十分な体力・精神力を持った状態での出撃であっただろうが、 陸の特攻は遥に劣悪な状態で死地に向かったのである。
 陸の特攻では空や海の特攻とは異なり、 敵を撃滅するか追い払ってしまえば生還することが出来る。 さらに文書による攻撃命令が無いことを理由にして、 それは『特攻』では無いと主張する者もいるだろう。 しかし攻撃に成功して生還したと言う話は知らないし、 生残ったのは負傷して意識不明となり、そのまま米軍の捕虜となった者だけである。 エンジンが不調になった特攻機は引き返すことが出来るが、 斬り込み隊は体調がどんなに悪くても(良い状態があったとも思えないが)、 敵を撃退しない限り引き返すことは出来ないのである。 陸の特攻に駆り出された兵士が何人いたのか、 そして生き残ったものは何人いたのか、恐らく記録は何も残っていないだろう。 しかしその数が空の特攻を大きく上回っていることは間違いないだろう。
 戦後の映画などを見ると、 空や海の特攻はある程度美化されているような印象も受ける。 それらは機材にも訓練にも多大の予算を使っており、 内地から出撃しているので国民の印象にも何らかの形で残っているためであろう。 それに比べたら陸の特攻は遥に地味なものであり、 1銭5厘の予算で集められた兵の命なんてゴミ同然であり、 戦争指導者にとっては取るに足らない使い捨ての物品に過ぎなかったのであろう。 勿論内地にいる国民がその実情を知る手段は皆無であり、 大本営が真実を伝えるはずも無い。 作戦名も部隊名も記されることが無く、 当然特攻隊員の名前が記録されることも無い。 紙切れ1枚で戦場に駆り出され、紙切れ1枚で戦死が伝えられる。 これが陸の特攻の実情なのである。
 
 沖縄戦では組織立った抵抗が終わったあとも抵抗は続いていたが、 生き残った兵士は五月雨式に投降を行っている。 その中には佐官級の将校も見られたそうであるが、 彼らは階級章を外して一般兵士に混じって投降したそうである。 一般兵士は米軍に捕まったら殺されると教えられていたが、 佐官級ならば実際にはそのようなことが無いことを承知した上で、 堂々と投降したものであろう。 1銭5厘で招集された兵士が捕虜になることをためらって死んでいるのに対し、 職業軍人が多くの部下を残したまま捕虜となっているのである。 それが軍隊だと言ってしまえばそれまでの話なのだが・・・
 一般の兵士が殺されることを承知で投降したのは、 どうせ死ぬのなら腹一杯食べてから死にたい、 と言う理由が一番多かったようである。 食料はおろか水の確保さえ命懸けの状況となり、 更に手榴弾すらなくなってしまった状況では、 もはや『特攻』すら行うことが出来ないのが実情だったようである。

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