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 関ヶ原の合戦

 関ヶ原の合戦−恐らく誰もが名前は知っていることであろう。
 この合戦については多くの書物で語られており、研究も進んでいるようである。 しかしその研究の殆どは、2つの項目に絞られているような気がする。 その1つは合戦当日の両軍の布陣であり、もう1つは小早川秀秋の寝返りである。
 
 古の合戦を調査する上で、古文書や屏風絵・絵巻物等の解析は最も基本的なことであろう。 しかし注意しなければならないのは、 そこに書かれていること全てが真実ではない、と言うことである。 ともするとその道の権威ある人物が提唱した解釈が神格化され、 あたかもそれが真実であるかのように扱われ、 他の意見は全て排除されてしまうような事態にならないとも限らない。 近頃は長篠の合戦における『鉄砲三段撃ち』に対する異論が多く見られるようになってきたが、 これは好ましいことであると思っている。
 合戦について検討する上でもう一つ注意しなければならないのは、 当時と現在とでは地形が大幅に変っている場合があることである。 私がこのことをを強く意識したのは、舞鶴に住んでいる時であった。 現在西舞鶴にある田辺城は関ヶ原の前哨戦として西軍の攻撃を受けているが、 現存する田辺城の遺構を見た限りでは、大軍の攻撃を持ち堪えられるとはとても思えない。 しかし合戦当時は城の周囲は沼沢地であり、攻城側の進撃はままならなかったようである。 似たような事例は他にもあると思われるが、 常に念頭においておかなければならないことであろう。
 関ヶ原の合戦について言えば、合戦当日の両軍の陣形及び配置、 そして結果については従来から言われている通りで間違いないだろう。 結果については己の功を印象付けるために誇張することも考えられるが、 配置に関しては敢て異なった記録を残す必要もないし、 他との関連もあるから単独で変えてしまうことも出来ない。
 私が関ヶ原の合戦において持っている疑問は、 三成の軍勢が深夜大垣城から関ヶ原に移動したのは本当か、と言うことである。 ここではその他の要素は従来の説の通りであるとし、 対象を三成の移動に限定して検討を進めることとする。
 
 三成の移動に関して一般的に言われていることは、 家康の誘き出し作戦に引っ掛かって大垣城を出て関ヶ原に向かった、と言うことであろう。 即ち家康が、西に向かって軍を進めて佐和山城を落とし、 更に進んで大坂城まで攻め落としてしまうと言う情報を流した、と言うものである。 しかしこのことに関しては、極めて疑わしいものであると言わざるを得ない。
 仮に家康が全軍を率いて大坂城を攻略したとしても、 十分な兵力のある大坂城が落ちるものではないことは、 東西両軍の誰しもが分かっていたはずである。 佐和山城の場合には城の規模も小さく、 守備兵力も少ないのでまともに攻撃を受ければ持ち堪えることは出来ないであろう。 ただしそれは攻撃側がそれなりの攻城用具を準備し、 城外に敵兵がいなくて城攻めに専念できる場合の話である。 三成軍の主力が健在である状況下では、 そのような好条件下での佐和山城攻めはあり得ない。
 
 理由が何であれ、三成軍の主力は夕刻に大垣城を出発し、 雨の中を行軍して関ヶ原西部に移動、陣地を構築したことになっている。 しかし私はこのことこそこの合戦における最大の謎であり、 信憑性に欠ける記録であると思っている。
 敵の進撃に対して先回りをして待ち伏せ、 側面から奇襲攻撃を行うと言うのなら話も分かる。 しかし先回りをして正面から迎え撃つと言うのでは、苦労して移動するだけの価値はない。 凡そ野戦においては正面攻撃よりは側面攻撃、側面攻撃よりは背面攻撃の方が有効である。 もし家康軍が大垣城を無視して西に向かうのであれば、 三成軍の背後からの攻撃を避けるために、 十分な備えを残しつつ進撃することが必要となる。
 三成が防御に専念する考えであったのならば、 関ヶ原西部への布陣も全く不可思議なものとは言えないかもしれない。 即ち何としてでも秀頼または毛利輝元の出陣を依頼し、 軍勢が整ってから攻撃を開始すると言う考え方である。 しかしそれならば大垣城に入る前に一部の兵を残し、 より強固な野戦築城を行っていたはずである。 なお時間の経過は秀忠軍の到着も間に合うことになるので、 三成軍にとって有利なことばかりではない。
 三成軍の夜間移動の真偽は別として、 決戦当日に三成軍の主力が関ヶ原西方に布陣していたことは事実であろう。 では三成軍の夜間移動が無かったと仮定した場合、 それにも関わらず実際には布陣していたのは何故であろうか。 この場合に考えられるのは、 既に三成軍が存在していて陣を構築していたと言うことである。
 三成自身が大垣城に現れたことは間違いないであろうし、 三成軍が大垣城に入城したことも事実であろう。 問題は毛利勢を除く三成の全軍が大垣城に入ったのかどうかである。 小学館発行の探訪ブックス「東海の城」によれば、 大垣城が総構えとなったのは関ヶ原以降のことであり、 当時はせいぜい三の丸までのようである。 城主の石高も三万四千石程度であり、 4万を越す三成軍を収容するには大垣城は手狭であったものと思われる。
 城の守備兵と言うものはただ多ければ良いと言うものではない。 城の規模に応じた兵力があれば十分であり、 過剰な兵を収容しても防御力が増すことにはならない。 もし過剰な兵力があるのならば城外に布陣させ、 城兵と協力して柔軟な作戦が取れるようにしておいた方が得策である。
 三成の全軍が大垣城に入ったのではなく、 一部は大谷吉継と共に関ヶ原西部に残っていたと考えたらどうだろうか。 戦闘が始まらななければ陣地の構築に専念し、 大垣城での攻城戦が始まれば陣を出て家康軍の側面を攻撃する。 勿論毛利勢の動向はこの場合でも問題となるが、 安国寺及び長束・長曽我部の動きが吉川に阻まれる可能性は低いものとなる。 小早川も戦力とはならないにしても、 大垣城での攻防なら寝返りを決断するには至らないであろう。
 三成軍の一部が関ヶ原西部に残っていたのであれば、 大垣城からの夜間移動もそれなりに意味を持ってくる。 既に陣地が構築されているのだから、 移動して布陣すれば直ちに迎撃態勢が整うことになる。 夜間雨の中を強行移動し、休む間もなく陣地を構築して戦いに備えると言う、 超人的な行動を実行できる人間はどれくらいいるだろうか。 陣が構築されていればそのような現実離れした行動は不可能な一般の兵士でも、 休養と食事を取って戦いに臨むことが出来るのである。
 予め築城工事を行っていたのであれば、 移動したから急造したものよりも強固な築城が可能である。 家康を迎え撃つのに十分な陣が構築されているのならば、 三成はそれを期待して大垣城から移動したとも考えても不思議ではない。 軍勢も全軍移動に比べれば少ないのだから、 雨の中の夜間行軍でもよりスムーズに行えたことであろう。 全軍が移動したと考えるよりも、遥に現実的であるということが出来よう。
 
 もし三成軍が夜間移動を行わずに大垣城に留まり、 家康軍だけが関ヶ原に移動したとしたらどうなっていたであろうか。 当然夜が明ければ三成軍は追撃の態勢に移ったはずである。 この場合に家康は軍を翻して迎え撃つ体制を整えていたのであろうか。 丁度自らが敗北を喫した三方ヶ原の合戦を、逆の立場で再現させるかのように。
 しかしその可能性は殆ど無いと言って良いだろう。 三方ヶ原の時とは兵力も地形も異なるし、三成にとって急追する必要は全く無い。 殿軍を叩いてしまえば家康軍は孤立することになり、 一気に雌雄を決するような攻撃を行う必要は全く無いのである。 背後からの散発的な攻撃でも家康軍を弱体化させるには十分であり、 反撃してくるならば防御に専念すればよい。 行軍隊形の家康軍が反撃を行おうとしても、 迅速に攻撃に移れるのは一部の部隊だけに過ぎない。
 家康軍が西へ進み、逆に三成軍の補給路を遮断すると言う見方も出来なくは無い。 しかし互いに補給路を遮断した場合には、 大垣城と言う拠点を持っている三成軍が有利なことは明らかであろう。 問題は小早川を説得して合流することであるが、 家康軍が有利な状況でなければそう簡単に応じることは無いだろう。 業を煮やした家康が威嚇のために攻撃しようとしても、 背後に三成軍の脅威が存在する状況ではやぶ蛇となるであろう。
 要点をまとめれば、もしも家康が関ヶ原方面に移動するのであれば、 一般的に言われているように夜間関ヶ原まで移動し、 休養もせずに陣を構築して家康軍を迎え撃つ作戦よりも、 家康軍をやり過ごして後方から攻撃を行い、 徐々に弱体化させる作戦の方が優っていると言うことである。
 三成軍が一部を関ヶ原に残しておいたと仮定した場合でも、 大垣城に入城した兵で西に向かう家康軍を背後から攻撃することは出来る。 理想を言えば関ヶ原に残った兵も陣を出て挟撃することだが、 連絡をどうするかの問題もあるので、そう簡単には挟撃出来ないかも知れない。 しかし家康が関ヶ原に向かった場合には、 挟撃も可能なこの態勢の方が明らかに優っている。
 
 このような合戦を研究する場合、 自分がそこにいたらどうするかを考えてみることは重要であろう。 もし私が三成の立場であったなら、雨の中の夜間行軍などは行わず、 迷うことなく後方からの攻撃を選択しただろう。
 三成が兵の一部を関ヶ原に残したと言うのは私の仮説であり、 そのような記録は残されていないだろう。 しかし記録に残されていることが全て事実では無いように、 全ての事実が記録されているとは限らないのである。
 関ヶ原の合戦には人それぞれの思い入れと言うものがあるだろう。 ならばそれぞれに想像してみれば、それはそれで良いのだろう。 過去の真実が人の前に姿を見せるのは極めて希なことであろうから。

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