その2へ  艨艟トップへ
 乃木東郷〜その1

 伊藤・路上歩行・ハーモニカ・・・ この言葉の列が何を意味しているか知っている人は、 極めて少ないことと思われる。 しかしこれが(・−、・−・−、−・・・)と表現されれば、 殆どの人がモールス符号であることに気が付くであろう。 言ってみれば語呂合わせで符号を覚えようと言う魂胆であるが、 では(・・−−)は何と表現したであろうか。

 日本語モールスの(・・−−)は「の」であり、語呂合わせは「乃木東郷」である。 乃木とはは言うまでも無く陸軍の乃木希典のことであり、 同様に東郷は海軍の東郷平八郎のことである。 この例に見るまでも無く、両名は明治を代表する陸海軍の軍人であるが、 その評価に関しては適切であるとは言い難いものが多い。
 乃木は旅順要塞の攻略に成功はしたものの、犠牲者の数も多く、 攻略に要した日数も長過ぎたとして非難されることが多い。 日本海海戦における東郷の場合はこれとは全く対象的で、 味方の損害を最小限に押さえつつ、敵艦隊を潰滅させたとして高い評価を受けている。 確かに結果の数字だけを見ればその通りなのであるが、 その評価には日本人の視野の狭さが如実に現れていると言って良いだろう。
 古来より、戦略の失敗を戦術で補うことは困難であるとされているが、 旅順攻防戦と日本海海戦とは、正にその好例であると言えよう。 両者とも戦略的な見地から検討されなければならない課題なのであるが、 実際には狭い戦場だけしか見ないで結論を出しているものが殆どである。 故にここではもっと大局的に見て検討を行ってみたい。

 先ずは旅順要塞の攻防であるが、 攻略に多大の犠牲と時間を強いられたのは乃木の作戦指揮の失策ではなく、 大本営の戦略的な失敗に起因していると言うことが出来る。
 陸軍の作戦計画では、当初は旅順攻略は予定されていなかった。 純粋に陸軍だけの立場から見れば、この方針は妥当なものである。 要塞の攻略に多大の戦力を投入するよりも、 少数の兵力で要塞兵の野戦への増援を押さえておいた方が効率が良いのである。
 要塞と言うものは、当然のことながらその地点での防御力は非常に強力なものである。 その反面動けないと言う大きな欠点をも合わせ持っている。 敵が迂回してしまった場合には、無用の長物と化してしまう恐れもあるのだ。
 勿論敵兵が迂回するならば、要塞兵が討って出ることは十分にありうることである。 しかし旅順のように狭隘な半島の先端に設けられた要塞の場合には、 討って出るにしてもその方向は限られている。 既に日本軍の手に落ちている南山要塞の場合、 その目的からして旅順方面に対しては大きな防御効果は期待出来ないものと思われる。 それでも狭隘な南山で要塞兵の進出を食い止めることは、 それほど困難なことであるとは考えにくい。
 要塞兵が野戦に参戦しようと思っても、要塞固有の重砲の多くは、 野戦への転用は不可能であると考えられる。 更に要塞兵及び旅順艦隊からの増援が予想される水兵にしても、 野戦訓練は一般的な陸兵に比べて劣っているはずである。 もし要塞から守備兵が討って出るならば、それは攻撃側にとって逆襲する好機でもある。 要塞兵の不慣れな野戦で兵力を減少させることが出来たなら、 その後の要塞攻略はより容易なものとなるからだ。
 ではロシア側がもっと柔軟な戦略を取った場合にはどうなるか。 すなわち日本軍が大兵力を残しておくならば旅順に立て篭もり、 兵力が少なければ出兵し、南山への攻撃は控えても大連港の占拠を図る戦略である。
 このような状況は、恐らく大本営が最初に想定していたものでは無いだろうか。 大連が使えれば補給は最も好ましいものとなるが、 仮に大連が使えないとしても手段に窮する訳ではない。 海軍がロシア艦隊の動きを封じられるならば、 他の港を利用して補給の継続は可能であり、 陸軍の作戦遂行に支障を来たすことは無い。 それ故に旅順攻略に関しては事前に海軍の意向を確認し、 海軍としては不要であるとの返答を得た上で戦略目標から外しているのである。
 海軍が旅順攻略を不要だと言ったのは、 決戦になればロシア艦隊を叩きつぶせる自信があったからであろう。 これは決して自信過剰から来る発言ではなく、 実際に艦隊決戦となればその通りになったことであろう。 だがロシア艦隊は海軍の思惑を外して旅順港に立て篭もり、 隙あらば日本軍の補給路を脅かす余地を残しながら、 増援艦隊の到着を待つ戦略をとった。 これは日本海軍の闘争本能からは全く考えられない戦略であるが、 やはり戦略眼に関しては劣っていたと言わざるを得ない。
 海軍の戦略は完全に失敗した訳であり、 陸軍も方針を変換して旅順攻略に向かわざるを得なくなった。 このように旅順攻防戦に関しては海軍の失策は大きなものであったが、 陸軍にしてもほめられたものではない。 たとえ海軍が旅順攻略は不要だと言ったとしても、 不測の事態に備えての情報収集は絶対に必要なことである。 だが日清戦争の経験をそのまま温存し、 万一旅順攻略が必要となっても簡単に攻略できると考えていたのは、 全くもって甘過ぎる考えであったと言わざるを得ない。

 戦略的な失敗を放置したまま旅順攻略のために編成された第三軍は、 当然のことながら苦戦を強いられることとなる。 孫子の兵法に言う「敵を知らず」の状態で戦場に赴いたのであるが、 驚くべきことに同様な状況が38年も後に太平洋の弧島で再現されることになるが、 これは戦訓に学ばない日本人の欠点と言うべきであろうか。 あるいは己の失策を隠蔽し、都合の悪いことは記録しないと言う、 閉鎖的で権力志向の強い軍首脳部の悪しき伝統と言うべきであろうか。
 さて、何ら有益な情報を持たないまま旅順攻略を開始した乃木軍であるが、 戦術的に最善を尽くしたかと言えば、積極的に肯定することは出来ない。 如何に情報不足とは言え、もっと工夫してしかるべきであったと思われる。 ただし旅順要塞は日本が初めて遭遇した近代的要塞であり、 具体的で有効な要塞攻撃法は乃木軍のみならず、 日本陸軍として持ち合わせていなかったものと思われる。
 要塞攻略としては、余りにも兵力が少なかったことも苦戦の一因であったと言えよう。 火砲に至っては更に貧弱なものであり、弾薬も十分ではなかったと言われている。 常識的に考えれば到底成功の見込みの無い作戦であるとも言えるのだが、 戦場から遠く離れた大本営は攻略日時だけを急がせた。 このことは攻撃に必要な準備期間を著しく減少し、 旅順要塞の規模や構造を十分に偵察する時間をも与えないこととなり、 損害を大きくさせた一因であると言えよう。
 しかし最終的には旅順要塞は陥落している。 ではその勝因は何であったのだろうか。 28p榴弾砲の効果を挙げる人もいるだろう。 あるいは児玉源太郎の参戦を挙げる人もいるだろう。 だが私は乃木の人格こそが、最大の勝因ではなかったかと思っている。
 乃木が清廉潔白な人物であることに異論を唱える者はいないであろう。 海軍兵学校、そして現在の海上自衛隊幹部候補生学校には、 「至誠に悖ることなかれ」と言う教えがある。 だが実際にこの教えに従った人間は、恐らく数えるほどしかいないであろう。 あるいは若いうちは、忠実に従った人間も少なくなかったかもしれない。 しかし軍人に限らず、政治家や実業家等も己の権力が増大するに連れ、 「至誠に悖る」行動ばかり行うようになって来る。 そんな中にあって、乃木は異例の人物であったと言うことが出来る。
 刀や槍で戦っている時代ならともかく、 火器の発達した近代戦において人間性と言うものが影響するのか、 と疑問視する人もいるだろう。 だがまだまだ生身の人間が直接戦っている時代であり、 SF小説に出てくる未来戦のように、機械が主役の戦場ではないのだ。 乃木の居所は前線に近かったと言われており、 司令官の考えは敵弾に身を曝している兵士にも伝わっていたのではあるまいか。 もしも乃木が己の栄達だけを望むような人間であったなら、 前線の兵士には厭戦気分が蔓延し、 戦線は崩壊して攻撃の継続は望めなかったことであろう。
 戦争の分析と言うものは、細かな調査を積み重ねて行くことも重要である。 だがそれとは反対に、全体を大きく捉えて大局的に判断することも重要なのである。 記録と言うものは重要な参考資料ではあるが、得てして真実を外したものも多く、 絶対的に信用に足るものではない。 時として公文書と称するものよりも、一兵士の手記の方が真実である場合もある。 権力者は己に不利なことは記述せず、都合の良い事だけを残す傾向にあるからだ。 戦史を研究する上で、是非とも心得ておくべきことであろう。

 乃木は戦争終結後も権力欲に囚われることも無く、 あるいは政治に関与することも無く、生涯その精神を貫いている。 多くの場合、軍人ではあっても戦功により名を挙げると、 政治を初めとして権力の把握に色気を出すものである。 質素倹約を旨とすべき軍人にあっても、 それを実行した者がどれだけいただろうか。
 テレビドラマの「水戸黄門」の放送が千回を越えたそうである。 勿論その内容は架空のものであり、実際の水戸光国とは大きく異なっている。 しかし西山荘で野良仕事をしている水戸黄門の姿には、 那須野における乃木の生活を髣髴させるものがある。 乃木も将官の地位にまで上りながらも、その生活は質素なものであったと言われている。 権力を誇示することなく、庶民と同じ立場で接していたことこそが、 乃木の人気の秘密ではあるまいか。

《追記》04.6.5
 昭和十年に朝日新聞社から発行された「日露大戦秘話」の中から、 乃木将軍に関するエピソードを幾つか紹介する。 なお同書は、日露戦争終結30年を記念し、 同戦争に参加した将校の座談会を記録したものである。

 乃木将軍が陣中において兵卒と同じ麦飯を食べていたと言う話は、 新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」にも登場するが、 それを裏付ける当時の第三軍参謀の話が載っている。
 兵と同じ食事を摂るのも意識的に行っていたのではなく、極自然に食べていたと言う。 また、戦場では殆どの場合水が不足するものだが、 乃木将軍はそのことを良く心得ており、顔も洗わず、口も漱がなかったと言う。 メレンティン著朝日ソノラマ発行の『ドイツ戦車軍団全史』によれば、 ロンメル元帥も兵と同じ配給食を食べていたと言う。 部下に厳しいと同時に自分にも厳しい人間であったことも乃木将軍と共通しており、 部下と一体となることが、苦しい戦闘を戦い抜いた原動力であったのかもしれない。
 翻って太平洋戦争においてはどうだっただろうか。 沖縄戦から生還した兵士の話では、 前線で戦っている兵士が乾パンを食い繋ぎながら戦っていたのに対し、 軍司令部には缶詰や酒までもが余っていたと言う。 インパール戦の手記を読んでも前線の兵士が続々と餓死していた時にも、 軍司令部で飢えた人間はいなかったと言う。 乃木と比較する資格も無いような人間が将官の肩書きを付け、 赤紙で召集した国民には捕虜になるなと言っておきながら将官が捕虜となって帰還し、 敗走する部下を見捨てて自分だけは逃げ帰る将官が戦争をしていたのだから、 国力とは無関係に勝てる戦争ではなかったのだ。
 乃木将軍は寝る時以外は外套や長靴を脱ぐことは無く、 ズボンに至っては寝る時にも履いたままであったと言う。 旅順でも奉天でも夜になれば冷え込んだことと思うが、 暖を取るために火を焚くことを極度に嫌ったと言う。 第一線で戦っている将兵が焚き火など出来ないことを知っていたからであり、 戦場の兵士と気持ちを同じにするための行為かと思われる。

 その2へ  艨艟トップへ