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 日本海海戦

 今年(西暦2005年)は日露戦争終結から100年となるが、 同時に日本海海戦から100年が経過したことにもなる。 同海戦における日本艦隊の旗艦であった戦艦「三笠」は、 島国日本では数少ない記念艦として現在も横須賀市に保存されている。 今年は同海戦の発生した5月27日にその記念艦「三笠」を中心にして、 各地で日本海海戦百周年を記念する行事が行われるようである。
 日本海海戦における大勝利は、 戦争そのものの終結よりも深い意味を持っていると言えないことも無い。 戦争の終結は当事者である日露両国の関係だけでなく、 ロシアに敵対する各国の支援にも大きく依頼していると言うことが出来る。 結果としては日本の勝利と言う形で終わったとしても、 それが日本単独での勝利であると見なされる可能性は皆無であると思われる。 しかし日本海海戦の結果はその殆どが純粋に軍事的なものであり、 欧米列強の日本に対する見解が大きく変化し、 『東洋の小国侮り難し』と言う印象を植え付けたものと考えられる。
 戦後の日本においては日本海海戦のことも忘れ去られ、 5月27日が海軍記念日であったことを知るものも少ない。 しかし今年は百周年と言うことで関心を持つ者も幾分か増えているようで、 ネット上でも同海戦に関する記事を見ることも出来る。 しかし出版物も含めてその多くは海戦前後の記述に限定され、 艦艇の数や砲の数と言った表面上の比較を主体としているように見うけられる。 このような狭視野での分析では同海戦の本質を見誤ることとなるが、 旧海軍においても同様な見方しかしていなかったようで、 後の海軍戦略への教訓として十分に生かされたとは思えない。 本稿ではもっと広い視野から同海戦を分析していくこととする。 なお別記事「乃木東郷〜その2」と重複している個所もあることを、 予めお断りしておく。
 
 先ず最初に同海戦における最大の勝利要因は何かと言えば、 丁字戦法・東郷ターン・伊集院信管・下瀬火薬等を挙げる者が多いかと思われる。 しかし私の見解は大きく異なっており、 その最大要因は『佚を以って労を待つ』ことにあったと思っている。 この言葉は孫子の兵法書軍争篇に載っているものであり、 前後を含む原文では『以近待遠、以佚待労、以飽待饑、此治力者也』となっている。
 では『以佚待労』とはどのようなことかと言えば、 味方は休養十分な状態で疲労困憊した敵を討て、と言うことであり、 『以近待遠』の状態もそのまま日本艦隊とロシア艦隊に当てはまるものである。
 そんなことは当たり前だ、と言う者もいることだろう。 実際孫子の兵法書に書かれていることは、 良く読んでみれば当たり前のことが多くを占めていると言っても良いだろう。 にもかかわらず同書が重要視されているのは、 その当たり前のことが出来ない人間が多いと言うことでもあるのだ。
 勿論戦争は相手のあることだから、こちらの思う通りに動いてくれる訳ではない。 『以佚待労』が理想の状態であることは分かっていても、 そう易々と実現させることは出来ないのが実戦と言うものであろう。 疲れ切った状態で士気旺盛な相手に攻撃を仕掛けるようなことは、 ある程度の軍事的知識を持った指揮官ならば実行しないからだ。 そんな中にあって日本海海戦は、 ロシア側が自らお膳立てを整えてくれた幸運な戦闘であったと言うことが出来よう。 ロシア艦隊がその目的を達成するためには、 否応無く戦闘を行わなければならない状況であったからだ。 日本海軍としては労せずして理想の環境が出現したことになるが、 それ故にこうした理想の状態となった原因に追求することはなく、 戦後の教訓として生かしきれなかったのかもしれない。
 日本側としてはもっと早い来航を予測し、戦闘準備を整えて待ち受けていた。 実際には予想よりも遥かに遅れて到着した訳であるが、 待ちくだびれて戦力が低下すると言う事態は考える必要はないだろう。 確かに精神的にはじらされて苛立つこともあったかもしれないが、 艦艇の十分な整備を行い、十分な訓練を行うことの出来たメリットは、 遥に大きな影響を持っていたと言って良いだろう。
 ロシア艦隊の状況は全く対照的なものであり、 現在に至るまで例を見ないほどの艦隊の大遠征である。 しかも航路上に友好的な国は無く、 寄港出来ても十分に休養出来るような状況ではなかった。 バルト海に面する錨地を発ったのは初冬の寒い季節であり、 艦隊は赤道を越えて夏季に向かっている南半球を大回りすることになる。 多くのロシア兵は経験したことの無い暑さに見舞われたものと思われ、 マダガスカルでの長期滞在も休養と呼べるものではなく、 むしろ暑さによって多数の病人が発生しているようである。
 ロシア艦隊の疲弊は人員に止まらず、 艦艇そのものにも発生していたと考えられる。 当時の船底塗料がどの程度の効力を持っていたのかは不明だが、 船底の汚損による速力の低下は避けられないものと考えられる。 また機関の故障も複数の艦で発生しており、 海戦当日でも全力を発揮出来ない艦が存在した可能性もあり得る。 武器関係の故障の有無に関しては後述するプリボイの著書には記されていないが、 やはり万全であったとは言い難いのではないだろうか。
 
 このような歴史上の問題を調べる場合、 資料として何を用いるかは重要な問題である。 中には公文書の類を金科玉条とし、 無条件に信頼しているように見うけられる人もいるようである。 しかし公文書と言うものは時の権力者(集団を含む)が作成したものであり、 自分に都合の悪いことは書かれていない場合が多い。 そしてこの傾向は独裁的な政権に限ったことではなく、 民主主義と呼ばれている現在においても何ら改善はなされていない。 かつての中国における史官のように、 命を懸けてまで真実を伝えようとする者は例外的な存在であり、 現在社会においては到底考えられない。
 戦後の日本において防衛研修所の作成した戦史叢書等も、 編成や作戦概要等を除けは信頼に足り得るとは言い難い。 その原因として考えられるのは、 情報源が一部の下士官を除いて将校に限られており、 実際に戦闘に携わった兵士の証言が収録されていないことにあると思われる。 また、メディアの発達した現在では戦場からの同時中継のようなことも行われているが、 メディアの発達は情報操作も容易であると言う副作用を持っている。 米軍のイラク侵攻における報道のように、 数年経ってから誤りであったことが暴露された例もある。 しかしそれはほんの一部の例外的なものに過ぎず、 政府にとって都合の悪い真相の殆どは公表されていないと見るべきであろう。
 私が日本海海戦に関するロシア側の情報源として用いているのは、 ノビコフ・プリボイ著原書房発行の「バルチック艦隊の潰滅」である。 著者のプリボイは戦艦「オリョール」に乗組んで実際にこの海戦に参加しており、 同書が私書であるとは言え信頼性は高いものと思っている。
 プリボイは一介の兵士に過ぎないので、作戦や回航計画を知る立場には無い。 それ故にそれらについては詳しく述べることはせず、 上官を通して得られたことを記述しているに止めている。 しかし一兵士であるが故に戦闘員の大多数を占めている兵士の苦悩を共有しており、 海戦に臨むまでの兵士の状態を良く知ることが出来る。 公文書は貴族階級である高級士官の供述に基いて作成されるであろうから、 疲弊した兵士の状態が記録されるとは考えられない。
 
 第二の要因として考えられるのは、ロシア側の練度の低さである。 日本海軍が猛訓練を重ね、艦隊運動と射撃精度の何れも高レベルの域に達し、 それによってロシア艦隊に大打撃を与えたことは疑う余地は無い。 しかし日本側の損害が微々たるものであったことは、 ロシア側にその原因があったと言うべきであろう。 どんなに訓練を重ねても敵弾を避けることは不可能であり、 相手がある程度のレベルに達していれば被弾は避けられない。 実際同海戦においてはロシア側も相当数の発砲を行っているようであるが、 日本側の被弾は驚くほど少ないものであった。 繰り返すがその原因として考えられるのは、 ロシア側の低レベルの射撃技術以外にはあり得ないだろう。
 プリボイの著書によれば、 ロシア艦隊の主力である第二艦隊の場合、 マダガスカルとカムラン湾で数回の射撃訓練を行っている。 具体的な発射弾数については触れられていないが、 満足出来る状態とはならないまま打ち切られているようである。 後続の第三艦隊は航海途上で射撃訓練を行っているようであるが、 回数としては第二艦隊の場合よりも少ないものと思われる。
 ロシア艦隊が練度不十分と認めながらも射撃訓練を続行できなかったのは、 弾薬の補給に原因があったものと思われる。 ロシア艦隊には数隻の補給船が同行しているが、 補給の主体は燃料である石炭であり、生活必需品である食料であった。 これらに関しては現地での調達も可能であるが、 友好国の存在しない状況下においては、 弾薬を現地調達することは到底不可能であると言って良いだろう。
 補給船の艤装状況については不明だが、 石炭や糧食の場合には特別な艤装は不要と思われる。 しかし弾薬の場合には、それらと同じ扱いをする訳には行かないだろう。 単に赤道を2回通過するだけでなく、 長期間に亘って熱帯地方を航行するのであるから、 やはりそれなりの艤装を施しておく必要があるものと思われる。
 補給船内での保管の問題に加えて、 大口径弾では実際の補給作業の問題も発生する。 戦艦の主砲である12吋砲の場合、 徹甲弾の重量は400kg程度になるものと思われるが、 これは人間が扱える重量ではない。 石炭等の場合には搭載艇を使っての運搬が多かったようであるが、 主砲弾となると搭載艇での運搬は不可能である。 考えられるのは補給船を横付けしてのデリックによる搭載であるが、 この場合でも戦艦側に受け入れるための艤装品が準備されていなければならない。 プリボイの著書では弾薬補給に関する記述は見られないが、 実際にも行われなかったものと思われる。
 弾薬の補給が不可能となれば、 射撃訓練の回数が限定されてしまうのも止むを得ないことであろう。 あるいは訓練の目的が射撃精度の向上と言うよりも、 実弾射撃の技術を維持することにあったと見なすことも出来るかもしれない。 あるいはまた、実弾射撃を行うことによって士気の向上を図ったとも考えられる。
 プリボイの著書によれば、 艦上に搭載された石炭は正規の石炭庫以外にも至る所に積み込まれ、 舷側の砲郭内にまで搭載されていたようである。 砲塔形式の主砲の場合にはそのようなことはないと思われるが、 副砲や小口径砲の射撃訓練には大きな障害になったものと思われる。 あるいは使用に支障をきたした砲も存在したかもしれないし、 炭塵が残っていれば被弾時の被害も拡大したことであろう。
 冷蔵庫が未発達な当時の艦船においては、 長期航海時の生鮮食料の確保を目的として、 家畜が生きたまま搭載されるのは珍しいことではない。 ロシア艦隊の場合にも牛を初めとして多数の家畜が搭載されており、 専用の飼育小屋と飼育係が存在していたようである。 家畜は当然暴露甲板上で飼育されることになるが、 これらの存在が訓練の支障となったことも考えられる。 発砲時の爆風や轟音の家畜への影響を考慮すれば、 射撃方法に何らかの制限が加えられたことも十分に考えられる。
 なお高級士官の多くは帆船時代からの海軍軍人であり、 動力船になってからの経験には乏しい者が多かったようである。 特に機関関係に関しては専門的な下級士官や下士官に頼らざるを得ない状況であり、 艦隊行動が日本軍に大きく遅れをとった一因となっていると思って良いだろう。
 
 三番目の要因としては、艦隊内での人間的な対立が挙げられる。 士官の多くが貴族階級で皇帝への忠誠を誓う者が多かったのに対し、 下士官兵の場合には労働者階級や農民出身者が多く、 皇帝や貴族階級とは相容れない者が多かったようである。 その最たる者は政治的な理由で拘束された懲罰兵であり、 彼らは死刑の代用として戦場に駆り出されたと言うことも出来よう。
 プリボイの著書では遠征途上における人間関係が赤裸々に綴られており、 一般兵士の心の葛藤を知ることが出来る。 特別に反政府活動を行っていない者にあっても、 皇帝一族や貴族階級に好意を持っていた者は皆無に近かったようである。 彼らの悩みは深刻なものであり、 戦闘に敗れると言うことは死ぬ可能性が高いことでもあり、 当然戦闘に際して負けを望む者は無い。 しかし戦闘に勝つということは皇帝や貴族の勢力を増すことにもなり、 自分たちの生活が更に圧迫されたものになる可能性が強い。 勝っても負けても自分たちの利益となることは無いので、 戦闘は避けたいと望んでいる者が多かったようである。 勿論このようなことは、公文書に掲載されることは無いであろう。
 多くの艦が兵士の士官への不信感を残したまま戦闘に突入しているようだが、 一部には将兵が一丸となって日本艦隊に立ち向かった艦もあったようである。 それらの艦では艦長を初めとして高級士官が兵士の行動を理解しており、 徒に兵士に対する制裁行為等を行うことはなかったようである。 貴族階級である士官が下士官兵を人間的に扱うことにより、 航海途上では両者の間に何らかの軋轢があったとしても、 戦闘に際してはわだかまりを捨てて臨んだようである。 勿論平時から皇帝に忠誠を誓っていた兵士も存在している。
 
 空前絶後の大遠征で最大の問題となったのは燃料補給であると思われるが、 燃料不足も戦闘の行方を左右する要素の一つとなり得るもので、 直接的な影響を及ぼす可能性も存在する。 艦隊行動を行うためには艦隊速力を最も遅い艦に合わせなければならないが、 もしその艦が燃料節減のために最大速力を出していなかったとすれば、 日本艦隊に比べて元々遅かった艦隊速力が更に低いものとなってしまう。
 戦闘に際しての燃料節減は不謹慎に思えるかもしれないが、 燃料が切れれば確実に撃沈される。 若干の速力低下を忍んででも戦闘を遂行することが出来れば、 ウラジオまで辿り着ける可能性が生まれてくる。 主戦闘を逃れてウラジオに向かいながらも、 燃料節減のために日本艦隊に追いつかれて撃沈された艦もある。 しかし全速を出して一時的に逃れえたとしても、 何れは撃沈される運命にあったと言うことが出来るだろう。 なお中国方面に敗走した駆逐艦にあっては、 石炭が尽きた後は木製品等燃える物を全て放り込んでボイラを焚いているが、 それでも最終的には漂泊する状態となっている。
 別記事で述べているようにマリアナ沖海戦においては、 日本海軍が燃料不足を遠因として大型空母2隻を失っている。 航空機の場合には燃料切れが直ちに墜落に繋がるので、 燃料不足に対する認識は強いように思われる。 しかし艦艇における燃料不足も、 戦闘には大きな影響を持っているのである。
 
 最後に日本艦隊の最大の勝因を挙げるならば、 それは東郷長官が戦略目的をしっかりと認識し、 その目的を達成するために全力を注いだことに尽きるだろう。 この件に関しては別記事 乃木東郷〜その2 に記載しているので、そちらを参照してもらいたい。
 この海戦の勝利を記念して5月27日は海軍記念日として制定されているが、 冒頭でも述べたように現在ではどの程度の人間が知っているであろうか。 海運は現在でも日本の生命線であるが、 海洋国家足り得ない『島国』日本においては、 海洋に対する認識は余りにも貧弱であると言わざるを得ない。 政府の音頭で『海の記念日』なるものが制定されているが、 単に公務員等の休日を増やすだけの目的であるとしか思われず、 海洋に対する認識が向上している傾向は見られない。

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