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 駆逐艦「しらゆき」(4)

 日本の場合、海上公試は艦船関係の試験から始められる。 艦船関係の試験では排水量及びトリムが定められている試験が多いので、 公試の始まる前の入渠時に重心査定試験を行い、 艦を必要な状態に調整してから試験に臨むことになる。 進水からは既に一年近く経過しており、 主船体の気密試験は全区画終了しているので航行に問題は無い。
 試験の殆どは若狭湾で行われるが、舞鶴湾を出れば直ぐに若狭湾であり、 直ちに試験を開始することが出来る。 更に航行している船舶の数も極めて少ないので、 東京近辺や瀬戸内の造船所に比べると試験海面には恵まれていると言えよう。 レジャーボート等では海上法規を守らないものも多いようであるが、 舞鶴ではそのために試験を中止するような事態は発生しなかった。
 艦船関係の試験は船舶としての性能を確かめるためのものなので、 試験方法に多少の違いはあっても一般船舶と大きな相違は無い。 そんな中でちょっと変っていると思われるのは人力操舵試験で、 これは舵取機の動力が使用不能となった場合の試験である。 人力ポンプに定員数の要員を配置し、 定められた速力の時に定められた角度まで転舵するのに要する時間を計測するのであるが、 これはポンプを操作する人間の力量によって左右される可能性がある。 しかし操舵要員の腕力まで規定することは出来ないので、 就役後は実際に運用に携わる艤装員にも協力を依頼し、 その操作性について納得してもらった。 試験結果を記録するためには数値が必要であるが、 本当に必要とされるのは運用する人間の意見であると言う、 人間臭さの残る試験でもあった。
 減揺装置の試験も独特の方法で、荒天下で作動時と非作動時の動揺を計測し、 横揺れの減少率を求めることは可能である。 しかし実際に行うとなると天候に依存する試験となってしまうので、 実行可能な方法として平水状態でフィンを作動させ、 強制的に艦を動揺させてから試験を行う方法がとられていた。 荒天時の動揺を忠実に再現している訳ではないが、 実施可能な試験と言うことで定められたものと思われる。
 
 艦艇特有の試験としては、甲板散水管の試験がある。 これは船体に付着した放射性物質等を洗い流すためのもので、 マスト等の高所を除く暴露部一体に噴射ノズルが装備され、 消火海水管から導かれた海水を噴射するようになっている。
 試験は実際に海水を噴射し、目視によって死角を生じていないかを確認する。 試験は波静かな舞鶴湾に停泊して行われるので、 実際に予想される使用状態である全速の場合とは若干異なるが、 水霧が艦首から流れることを考慮しておけば問題は無い。
 10月の試験だったので海パン1枚と言う訳にもいかず、 雨合羽を2組着こんでの確認作業となった。 普通の雨とは異なって下から吹き上げるので、 1組だけでは袖口等から大量に浸水するのである。 しかし袖や腰周りからの浸水は防げても、首からの浸水は防ぎにくいものである。 タオルを巻きつけて浸水を防ぐのが精一杯であるが、 時間が長引くに連れてタオルの効果も薄れて浸水を許すこととなってしまった。
 甲板散水時の水量は極めて大きく、消火海水ポンプを全数稼動する必要がある。 艦船でも上部構造物の頂板周囲はコーミングとなっており、 雨水は数箇所に設けられた雨樋を伝って下に落ちるようになっている。 雨樋の寸法は相当な豪雨でも溢れないように設計されているのであるが、 甲板散水時には雨樋だけでは排水不可能であり、 至る所で溢れた海水が流れ落ちていた。 ポンプの能力が分かれば甲板面積から概略の降雨量に換算できるのだが、 残念ながら手許に資料は持ち合わせていない。 しかし最近大被害を出している集中豪雨よりも、 遥に激しい水量であることは間違いないだろう。
 大きな欠陥があればノズルの位置を変えなければならないのだが、 現場で若干ノズルの向きを変えるだけで対処できたので、 雨合羽を重ね着しての再検査が不必要となったのは幸いであった。
 甲板散水と似たものに赤外線対策装置があるが、 使用目的が異なるので当然試験も異なったものとなる。 この装置も甲板散水同様ノズルから海水を噴射するものであるが、 こちらは煙突周囲を冷却して放射される赤外線を減少させるのが目的である。
 試験は若狭湾まで出て艦を走らせ、 同行する計測船から赤外線カメラで撮影するものである。 現在では温度別に色分け表示出来るカメラも珍しいものではなくなったが、 この当時はまだ貴重な計測機材であった。 冷却装置の影響だと記憶しているが計測可能な時間もそれ程長いものではなく、 タイミングを合わせて迅速に行う必要があった。
 この試験でも具体的な低減目標を数値化することは出来ず、 映像を見て効果のあることを確認して合格とするに止まった。 なお甲板散水管は何系統かに分かれているので、 煙突周囲の系統だけを併用して更に赤外線を低減させることも可能である。
 漏光試験もまた艦艇特有の試験であろう。 試験自体は単純なものであり、 艦内の照明が通行口から暴露部へ漏れていないかを確認するだけのことである。 本艦からある程度の距離をとって小船で1週して確認するのであるが、 月の無い夜で周囲も真っ暗な方が良い。 舞鶴ではこの点でも恵まれており、 造船所を出て少し市街地から離れればもう陸地からの影響は無視しうるものとなった。
 
 艦船関係の公試が終了すると武器関係の公試が始まるが、 艦船関係の試験とはかなり色合いが異なるように感じられた。 艦船関係の試験が性能を確認するための試験であるのに対し、 武器関係の試験は作動確認のような印象を受けたのである。 武器そのものは単体で性能確認を行っているはずであり、 その試験に合格してから納入するわけであるから、 本艦に搭載したからと言ってその性能自体が低下するはずは無い。
 作動に関しては艤装の適否も影響することが考えられるので、 正常に作動するかどうかの確認は必要なことである。 例えば砲と方位盤は別の位置に搭載されているが、 それぞれの水平面及び中心線が一致していなければ、 弾着は大きく狂ってしまうことになる。 水平面の確認はドック内で半注水の状態で行っているが、 艦が海上に浮かべば多少のずれは発生することが予想される。 そのずれが許容範囲内であるかどうかの確認は重要なことであろう。 なお半注水(又は半排水)と言うのは、 浮力が艦の重さよりも若干少ない位の状態で、 キールが盤木にかろうじて着いている程度の状態を言う。
 
 本艦を防衛庁が引き取るかどうかの判断は、 発注元である海幕から派遣される審議委員が決定する。 検査官は審議委員に任命されていないので審議に加わることは出来ないが、 オブザーバーとして審議委員の質問等に答えることになっている。 また、艤装員の場合も恐らく同じ様な立場ではないかと思われる。 しかしこの審議も、形式的な色合いが強いように感じられた。 あるいは本艦が2番艦であることも影響しているのかもしれないが、 艦内の案内を請われたり、試験結果に対する質問を受けたことも無かった。 この程度の審議なら本艦に乗り込むことも無く、 書類審査で十分であると思ったものである。
 審議を前に委員を乗せて最後の海上運転を行うのだが、 本艦ではその最後の運転が昭和58年1月に行われた。 その日は朝から濃霧で視界は極端に悪く、 本来ならば出港は見合わせた方が良いような状態であった。 しかし審議委員の日程上の都合もあり、 レーダーがあるので大丈夫ということで実行されることとなった。 しかし濃霧の中での高速運転で、 危うく大惨事になるニアミスが発生したのである。
 舞鶴港への出入港船の数はそれ程多いものではなく、 定期船としては日本海航路で北海道を結ぶカーフェリーだけであった。 しかしこの船は時間的に本艦の運転とは重なることが無く、 運航の遅れが無いことも事前に確認したので問題は無かった。 その他の一般商船でも舞鶴湾に出入港する船は無く、 漁船がこのような濃霧の状態で漁に出ることはあり得ない。 問題は自衛隊の艦船であるが、これも舞鶴地方総監部に問い合せた結果、 この日に出入港する艦船は無いとの返答であった。
 舞鶴湾を出るまではゆっくりと航行し、 博奕岬をかわせば若狭湾、針路10度で北上すれば直ぐに日本海である。 若狭湾に入ってから10/10全力2時間の続行試験が始まったが、 視界は相変わらず悪く、艦橋から艦首旗竿が見えないくらいだったから、 恐らく視程は50m以下だったものと思われる。 この運転時には引渡しが間近に迫っているので艤装員の数も多く、 CICのレーダー画面にも本職の船務科員が配置されていた。 そのCICでは常に現在位置や船の動向をプロットしているので、 濃霧の中での全力航行でも何ら問題は無いものと思われていた。
 この海上運転では私の担当する試験は無いので、 艦橋に上がって霧の海を眺めていた。 ウイング前面には遮風板が付いており、 直接強い風が当たらないようにはなっていたが、 冬の日本海を30ktで航行すれば暴露部では体が冷えてくる。 時折はウイングに出ることもあったが、 殆どの時間は艦橋の右隅に立っていた。
 全速航行を始めてからどれくらい経過したのかは覚えていないが、 突然右前方に船影が現れたかと思うと、あっという間に後方に流れ去って行った。 ぼんやりとした船影ではあったが、 その船影から掃海艇であることは十分に認識出来た。 瞬時の出来事だったので転舵する暇も無かったが、 幸い接触することも無く艦は進んで行った。 霧の中から突然現れて消え去った船影は、不謹慎な言い方かもしれないが、 映画等では絶対に経験することの出来ない迫力を持っていた。
 レーダー画面を見ていた人間に異常の有無を尋ねたが、 レーダーは正常であり、かつ船影は映っていなかったと言う。 念のためにCICにも確認したのだが、同様の答えしか返ってこなかった。 陸地の映像はそれまで通り映っているのだから、 単純なレーダーの故障であるとは考えられないのである。 このような例は以前練習艦「かとり」でも経験したことがあり、 その時は航路標識が上に乗った岩礁のようなものが突然現れて驚いた。 対象物としては小さくても、航路標識ならレーダー反射板が付いているはずである。 しかしこの時もレーダーの担当者は、レーダー画面に異常は無かったと話していた。
 
 濃霧の中を航行するのだから、霧笛を鳴らすのは船乗りの常識である。 しかしその時は霧笛のことを口に出す者は無く、 私自身も霧笛を鳴らすことは全く念頭に無かった。 引渡し前なので運航の責任者は造船所のドック長であるが、 航海経験は遥に豊富なはずの艤装員から霧笛の要請がなされることは無く、 艦内に閉じこもったままの審議委員もまた同様であった。 更に艦橋にいても霧笛を聞くことは無かったから、 掃海艇の方でも霧笛を鳴らすことなく航行していたことになる。
 今にして思えば、誰もがレーダーを過信していた結果かと思われる。 濃霧の中での全速航行も「レーダーがあるから」こそ決行されたのであり、 霧笛を鳴らさなかったのも「レーダーがあるから」大丈夫と思ったためであろう。 このことは掃海艇の場合も同様であったと思われるのだが、 それにしても誰一人として『霧笛』にまで頭が巡らなかったのは、 やはり「魔が差した」と言うことなのであろうか。
 既に述べたように、レーダー自体は正常に作動していたものと考えられる。 掃海艇は小型で木製であるからレーダーに映り難いとしても、 いきなり島影から掃海艇が現れるような海面状況ではないのだから、 かなりの長時間にわたって映るべき物が映っていなかったと言うことになる。
 掃海艇も針路を変えることなく本艦との衝突コースを直進していることから、 掃海艇のレーダーにも本艦の姿は映っていなかっものと思われる。 小艇とは言え本艦が映っていればその針路を予測することが出来るので、 衝突コースを進んでいることが分かれば当然針路を変えたはずである。 海衝法上は本艦側に避航義務があることになるが、 濃霧の中で動静の分からない相手船の避航を期待することは無いだろうし、 その場合でも霧笛を鳴らして警告を発するはずである。
 掃海艇の影を発見してから艦尾が通過するまでの時間は9秒程度であり、 掃海艇の速力を10ktと仮定すればその間に進む距離は45m、 視程を考えれば発見時の掃海艇までの距離は5〜60m程度かと思われる。 本艦の通過が数秒でも遅ければ接触していたであろうし、 10数秒遅ければ確実に掃海艇に衝突していたことであろう。
 三千数百屯の本艦が30ktでぶつかれば掃海艇は完全に破壊され、 殆どの乗員は衝撃で絶命していたことであろう。 海面に投げ出されて運良く助かったとしても、 濃霧の中での救助活動は殆ど不可能であり、 冬の日本海では長時間泳ぎ続けることも不可能である。 正に危機一髪のところで、幸運にも大惨事を免れたのであった。
 本艦のレーダーにも掃海艇のレーダーにも相手艦が映らなかった訳であるが、 その原因については分からない。 しかし確実に言えることは、 レーダーに限らず機械を過信するのは危険であると言うことである。 そしてまた安全のためには船乗りの原点に戻り、 濃霧の中での高速航行は避けるようにし、 霧笛は有効に活用すべきであることを再認識させられた。 法規上の責任は造船所のドック長にかかってくるのであるから、 ドック長は安全上の理由があれば出港を拒否することが出来るものと思われる。 しかしそれはあくまでも建前上の話であり、 現実問題としては審議委員の日程を考慮して、 無理にでも出港したと言うのが実情ではなかったかと思われる。
 
 審議が無事に終了すれば後は引渡しを待つだけとなるが、 舞鶴工場には日本海側ならではの悩みがあった。 舞鶴市は豪雪地帯と言う訳ではないが、 それでも1月になると雪のちらつく日が多くなる。 雪が降らなくても曇天の日が多く、 湿度も高いので塗装作業をする上では最悪の季節なのである。
 勿論海上公試が始まる頃には全艦塗装済みなのであるが、 その後の運転や工事でどうしても汚れてしまうので、 引渡し前には手直し塗装が必要となってくる。 塗膜が未乾燥のうちに水滴が付くと色が変ってしまうのだが、 風に乗って飛んでくる雪片の付着を防ぐのは困難であった。
 暴露甲板の通路部には滑り止め塗装を行うことになっているが、 滑り止めと言うくらいだから汚れも溜まり易い。 それ故に引渡し直前まで塗らないのであるが、 海上運転時にはシアーのある艦首部の通行には注意が必要であり、 雪が積もっている場合には停泊時でも要注意である。 艦内は外気よりも暖かいので、 甲板に接している雪は表面からは分からなくても融け始め、 より一層滑り易くなっているのである。
 なお船台には傾斜が付けられているので、 船台で建造中の艦首部では傾斜が更に著しいものになっていた。 船台上でも艦内における火気工事の影響で内部の温度が上がり、 甲板上に積もった雪は滑り易くなっているので、 造船所では通路部分に人工芝を載せて事故防止に努めていた。
 
 「しらゆき」に関する件は思いのほか長いものになってしまったが、 締めくくりとして今までの記事で書き逃してしまったことを幾つか紹介する。
 日本の艦艇では進水式と同時に命名されることになるが、 慣習としての進水記念絵葉書の作成にも艦名は必要であるし、 現場では船体への艦名の記入も必要なので、その名前は事前に決まっている。 本艦の「しらゆき」は常識的に「白雪」を意味しているものと判断されるが、 進水後のパーティーでは小西酒造から清酒「白雪」の樽酒が寄贈され、 同社の社長も招待されたと聞いている。 ただし私自身はパーティーへの出席は遅れたので、 詳しいことは知らない。
 船体部の監督官は進水後の安全確認が必要であり、 浸水の有無や船体部の損傷の有無を確認するまでは現場を離れるわけにはいかない。 更に今回は進水用抱台に新しい方式を採用したので、 船台に残された固定台の状況、特にヘットの状況を確認しておきたかった。 結果としては何れも全く問題無かったのであるが、 浸水の確認作業は実はなかなか厄介なものである。
 進水直後の艦には電源が無いので、当然艦内は真っ暗であり、 懐中電灯だけを頼りに船底へ降りていく。 一人で全艦を確認することは到底不可能なので、 造船所の担当者も乗り込んで手分けして確認することになる。 水圧試験やホーステストで確認しているので浸水は無いはずなのであるが、 実は船底部にはあちこちに水が溜まっている。 船台傾斜の関係で抜け切らなかった諸管内の水圧試験用の水が、 海上に浮かんで傾斜が変ったので流れ落ちたのである。 その水が浸水によるものか否かの確認は舐めてみて判断しているが、 河川における進水では無いのでそれで十分であろう。 なお戦後の日本の艦艇では発生していないが、 時には船底弁関係の工事が未完のままで盲蓋もせず、 大量に浸水したという例も存在したそうである。
 
 船体部の監督官はマストの頂部まで登ったり、 舷側に張付くようにして検査しなければならないこともあるので、 高所恐怖症の人間では務まらない。 逆に船首尾部の空所のような狭隘な区画の検査も行わなければならないので、 閉所恐怖症であっても務まらないのである。 幸い私はそう言った所が大好きな人間なので、 その点では船体検査官としての適性があったかもしれない。
 しかし閉所での検査で一瞬ひやりとしたことがある。 既に殆どのブロックが載って主船体の形も出来上がり、 舵取機室下部の防水区画の内部検査を行っていた時のことである。 何か異様な臭いがすると共に、尻の方が温かくなってきた。 初めは何が起こったのか理解できなかったのだが、 直ぐにそれが船底外板の外側で火気工事を行っているためだと気が付いた。 急いでテストハンマーで外板を叩いて内部に人間がいることを知らせたので、 火気工事は直ちに中止されて大事には至らなかった。
 火気工事は軸関係の搭載工事のために、 アイプレートを船底に溶接していたものであった。 溶接による熱で恐ろしいのは鋼板そのものの温度よりも、 それによって塗料から発生する有毒ガスの影響である。 まだプライマーだけなのでガスの発生量は少ないとしても、 防水区画のような狭隘な場所ではたちまち充満してしまうのである。
 この防水区画の高さは、低い所では50cm程度のものであった。 1m間隔の実体肋板に開けられたマンホールを通って移動するのだが、 ある程度の高さまでは匍匐前進のような姿勢で進むことが出来る。 しかし極端に低くなってくるとそれでは困難となり、 逆に仰向けになって進んだ方が楽になる。 ただしこれは私の場合に限ったことであり、 狭隘個所の進み方は人によって異なっているものと思われる。 何れにしてもこのような狭隘個所での行動は慎重に行い、 無理な力を入れて痙攣等を起こさないように注意していなければならない。 万一の時に救助しようとしても、手段に窮する場所なのだから。
 
トラフズク  最後は検査とは関係ないが、一風変ったエピソードを一つ。 右の写真は本艦の後部で休止しているミミズクの一種、トラフズクであるが、 陸地が全く見えない洋上での出現にびっくりしたことを覚えている。
 武器関係の公試だったので晩秋の季節になると思うのだが、 何気なく空を見上げるとそこには異様な物体が浮かんでいた。 丁度どんぐりのような物体が、平たい方を前にして進んでいたのである。 その外観からはどう見ても鳥とは思えなかったし、 風船の類がこんな所を飛んでいるはずも無い。 勿論それがUFOの類では無いことも明らかであった。
 やがてその物体は翼を傾けて羽ばたいたので鳥だと分かったが、 頭の前が平に切り落とされたような鳥なんて見たことが無い。 鳥だとは思っても不審感は消えなかったのであるが、 やがて艦上に降り立った姿を見て納得した。 ちょこんと止まっているその姿は、ミミズクそのものであったからだ。
 ミミズクと言うとどうしても夜の鳥と言うイメージがあるので、 陸地の見えない海の上を真昼間に飛んでいるとは想像もしなかったのだ。 後にフクロウの仲間に詳しい人に訊いた話では、 トラフズクは越冬のために北日本から南の方へ移動するとのことだった。 この鳥も恐らく夜のうちに飛んできて艦上のどこかに潜んで休息し、 気が付いた時には本艦が洋上に出てしまっていたのであろう。
 フクロウの仲間は首が反対側まで回ると言われているが、 この点に関してはじっくりと観察することが出来た。 まるでばね仕掛けの人形のように、一瞬のうちに首が後ろを向くのである。 前面に目が2つあることによる距離感も抜群で、 どんなにゆっくりと近付いても、一定の距離にまで近付くと飛び去ってしまった。 余り追い回して寝不足になっても気の毒なので付き合うのを止めたが、 その後は艦上のどこかに止まって休息し、 無事に暖かい地方へ飛び去ったものと思っている。
 
 本艦も就役から20年以上が経過し、 第一線から退いて地方隊配属となっている。 何れは退役し、解体されることになるだろうが、 やはり苦労を共にした艦が姿を消してしまうのは寂しいことである。

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