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 試験艦「くりはま」

 53年度計画で建造が認められた本艦は、自衛艦、 すなわち旭日旗を掲げた船としては、いささか毛色の変った船であると言うことができる。

 先ずは建造費であるが、海上自衛隊の予算ではなく、技術研究本部の予算となっている。 これは本艦の目的が技本の下部組織である第5研究所の試験に供するためであり、 確か当初は5研に所属し、その運用も5研によって行うことになっていたと記憶している。 しかし5研には本艦を運行するだけの人間はおらず、 新たに定員を増やすことも不可能だったようである。 結局は所属も運用も海上自衛隊となり、5研の試験に協力するという形に落ち着いた。
 現在はASEと言う記号が付いているようだが、 当時は技本の所属と言うためだったのか、その様な記号は付されていなかったと思う。 従って本艦を呼ぶ時には最初から試験「船」と呼んでいたと記憶しているが、 所属が海自に変更されてからは試験「艦」と呼ばれるようになった。 まあ試験のための船だから試験艦で間違いではないが、 何だか試験管みたいで、どう贔屓目に見ても語呂の良いものとは思われない。 既に「訓練支援」艦と言う艦種も存在していたのだから、 例えば「開発支援」艦でも良かったと思うのだが、如何なものであろうか。

 話は横道に逸れるが、海自における艦船の分類に付いて簡単に紹介しておこう。 全ての艦船は大きく分けて自衛艦と支援船とに分類されるが、 旭日旗を掲げているのが自衛艦、日の丸を掲げているのが支援船と思えば分かり易いだろう。
 本艦には水中試験のための特殊な設備はあるが、軍艦としての特別な艤装品はない。 従って所属が海自への移管が決定してからは、 自衛艦となるのか支援船となるのか興味が持たれた。 外観上は旗の違いだけであるが、実は両者の間には大きな違いがあるのである。
 海上自衛隊の場合、艦船の乗員になると「乗組手当て」と言うものが付く。 本俸の何%かが給料に上乗せされる訳だが、これが旭日旗と日の丸とでは大きく異なるのである。 当時の支援船で最大の物は500t程度だったが、本艦は凡そその2倍の排水量となる。 そのためかどうかは知らないが、結局は自衛艦に籍を置くこととなった。 しかし支援船なら海自所属でも試験「船」となる訳だから、 かなり早い時点で自衛艦籍となることが予定されていたのであろう。
 なお艦艇と言う言葉もあるように、自衛艦には「艦」と「艇」とがあり、 両者の違いは大きさの違いだけである。 海自でも旧海軍からの伝統として、排水量1000tを境として両者が分けられていた。 従って本艦は本来なら試験「艦」ではなく、試験「艇」と呼ばれるべきであったのだが、 この辺りの経緯については、私には知る由もないことである。
 またまた話が逸れるが、潜水艦の場合は1000トン未満でも「艦」と呼んでいる。 潜水艦も黎明期には全て潜水艇と呼ばれていたのであるが、 大正8年に排水量に関係なく潜水艦と改められている。 理由は明らかではないが、それだけ海軍の期待が大きかったのかもしれない。

 さて、本艦の任務は5研で開発する機器の試験協力であるから、 戦闘艦艇のように荒天下での運用はないものと思って良い。 船体構造は前年の「むろと」同様NK規則準拠で進められたが、 海自での運用を考慮し、縦強度に関しては防衛庁基準を適用することとなった。 しかし船体長さは「むろと」より遥に短いので、 縦強度に関しても何ら問題となることはなかった。
 他艦に見られない本艦特有の装備としては、 左舷後部に設けられた魚雷の水中発射装置が挙げられる。 発射装置そのものは武器担当、昇降装置は艤装担当だと思ったが、 外板に固着されたガイドに関しては船殻担当となる。 ガイドそのものは別段複雑なものではないが、 装備位置は外板が傾斜している箇所なので、好んで装備したいものではない。 しかしガイドまで取外し式とすることは困難であり、 溶接固着とするのは止むを得ない措置であろう。
 ガイドは水線下までは延びていないはずであるが、 低速艦とは言え波に叩かれることは目に見えている。 勿論強度的には問題がないように補強されているが、 錆の発生は他の部分に比べて多いのではないだろうか。

 船体構造としては特筆すべきことはないが、 このクラスの船としては異例の2年線表で建造されていることは特筆に価する。 2年線表と言うのは予算が認められた年度を含んで、 2年後の年度末までに契約が終了(艦船の竣工)することである。 揚陸艇等の一部の小型艇を除き、自衛艦では3〜4年線表となるのが普通である。 2年線表とは言っても、予算が通るのは早くても年末か年明けであり、 契約行為は更に遅くなる。 造船所で実際に作業を行える期間は、計画線表より1年短いことになるのだ。
 本艦の竣工は昭和55年4月8日となっているが、 契約の履行期限は同年3月末であり、僅かばかりであるが遅れてしまったことになる。 艦船の建造では異例のことであるが、これには次のような背景がある。
 本艦の建造所である佐世保重工業は、その当時経営危機に陥っていた。 同社は佐世保湾内にあり、佐世保在籍の艦船を修理する上で重要な位置を占めている。 旧海軍と異なり、自衛隊の保有する修理能力は人員・設備共に貧弱なものである。 同社は緊急の修理を必要とする場合には欠かせない存在なのである。 そのために本艦は計画当初から、佐世保重工での建造が予定されていたようである。 いわゆる「政治的判断」によってそのように計画されたのであろう。 一般的には納期が遅れれば何らかの罰則が発生するものだが、 本艦の場合には特例措置として免除されたのではないかと思われる。
 純粋に競争入札を行った場合、業者は落札するまで材料の発注は出来ない。 違約金を覚悟で先行注文しておくことは不可能ではないが、 営利目的の企業がそのようなことをするのは極めて異例のことであり、 その実例は殆どないものと思われる。 従って本艦のように建造期間の短い船の場合、 まともに競争入札を行っていたのでは工期が足りなくなってしまう可能性が高い。 実際にどのような形式で契約されたのかは知らないが、随意契約、 もしくはそれに近い状態で行われたのではないだろうか。
 こうした裏事情と言うものは、年月が経つと忘れられてしまう。 まあそのこと自体は特別重要な問題ではないのだが、 一番困るのは残された数字が一人歩きしてしまうことである。 その後同じ様な船の建造が計画された場合、 あの船はこれ位の大きさで○年×月で建造できたのだから、 今度の船も○年△月で建造できるはずだ、 と言う誤った認識である。
 公表される数字には、そのような裏事情と言うものは一切含まれない。 このようなことは防衛庁に限ったことではなく、 あらゆる組織においてなされていると思って良いだろう。 カタログデータはあくまでもカタログデータに過ぎず、 その実態を表しているものではないのが現実なのである。 資料を調べたりする際には、心しておくと良いだろう。

 「くりはま」の設計に関することよりも雑談の方が多くなってしまったが、 こうして改めて思い返してみると、本艦に関する思い出は極めて少ないことに気が付いた。 印象が薄いとは言っても本艦の設計に手を抜いていた訳ではなく、 本艦の設計が順調に行われていたことの証であると言うことが出来るのかもしれない。

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