護衛艦「はつひ」
護衛艦「あさひ」と「はつひ」は、
何れも第二次大戦中に米国で建造されたBostwick級の護衛駆逐艦である。
誕生年代から行けば「戦前の艦船」に分類すべきだが、戦後海上自衛隊に所属し、
私自身も関わりを持った艦なので「戦後の艦船」に分類した。
なお本艦はディーゼル電気推進と言う駆逐艦には珍しい推進方式を採用しているが、
この件に関しては「艦船技術」の「機関室配置」を参照されたい。
私が江田島の幹部候補生学校に入校した当時、
両艦は第1練習隊を編成して定係港は呉であった。
当時でも既に艦齢は29年に達しており、
戦時急造艦としては長命であったと言うことが出来よう。
当然装備品は旧式化していたが、第1練習隊の目的は実用的な訓練と言うよりも、
先ずは軍艦と言うものに慣れさせる、ことが最大の目的であったかもしれない。
その点ではまだまだ十分に有用な艦であり、
財政に余裕の無い状況では使える内は使おう、と言う考えであったものと思われる。
両艦の最大の特徴はと言えば、「極めて良く揺れる」ことが挙げられよう。
推進方式がどうのとか、米軍からの貸与艦だとか、そんなことはどうだって良いのだ。
ともかく良く揺れる、これが最大の特徴であり、忘れられない思い出なのである。
乗艦実習で「はつひ」に乗り組み、
「あさひ」と「きくづき」(だったと思う)他1艦で航行したことがある。
それほどの荒天でもないのだが、
乗っている「はつひ」と僚艦の「あさひ」はコロコロと揺れている。
しかし「きくづき」を見ると何とも無いのである。
下艦してから「きくづき」乗艦の仲間から話を聞いたが、
やはり全然揺れなかったという話であった。
その時は『ひどい目にあった』と思ったものだが、
今にして思えばこのような船に乗れたことも、貴重な経験であったのかもしれない。
船が良く揺れる、と聞くと、多くの人が重心が高いためと思うかもしれない。
重心の高い船はGMが小さくなる傾向にあるので揺れる角度は大きくなるが、
周期は長くてゆっくりとした揺れとなる。
「はつひ」のようにコロコロと揺れる船の場合はその逆で、
GMが大きいので動揺角は小さくても周期が短くなり、極めて乗り心地の悪い船となる。
動揺性能に関する資料は見ていないのだが、
恐らく「はつひ」の場合にも浅喫水・幅広の船型でGMが過大となり、
動揺周期が過小になったものと思われる。
旧式化している「はつひ」ではあったが、外国で造られ、なおかつ古い艦においては、
新鋭艦では見られない設備を体験することが出来る。
そんな中でも最もユニークだったのは、大便器であったと言うことが出来よう。
日本艦の場合、大便器には和式と洋式が併用されている。
海洋汚染防止法の適用によって汚物処理装置が搭載されるようになってからは、
便器の構造上洋式が主流になっているが、最近の状況については良く知らない。
「はつひ」は米海軍が使用していた艦だから当然洋式便器であるが、
一般の便器とはかなり異なっている。
と言うよりは、果たして便器と言えるのかどうかが先ず問題である。
便所に入るとそこにあるのは、平行に置かれた細長い2枚の板だけである。
この板に腰掛け、板の間から便は下に落ちるという単純なものである。
板の途中に仕切りは無いので、混む時には詰めれば多人数で用を足すことが出来る。
日本艦の場合には便所は個室が当然と思われているし、
現在でも「はつひ」が就役していたとしたら、
あるいは乗艦希望者は皆無となってしまうかもしれない。
しかしこの方式では、個室方式よりも効率よく艦内容積を使用出来ると言う利点がある。
しかも知らない人とも気軽に「お尻合い」になれると言う、
優れ物の便器でもあるのだ。
板の間から落ちた便は、下の溝に沿って流れていく。
どこから落ちてくるか分からないので、パイプを使用することは出来ないのだ。
しかし溝の場合には上が開いている訳だから、
動揺が激しければ汚物が溝から飛び出してしまう可能性がある。
この対策をどのように施していたのかまでは、
その当時は詳しく調べるだけの余裕は無かった。
ちょっと惜しいことをしたなァ、とも思っている。
もう30年以上前の体験なので記憶に曖昧な点もあるが、
この2枚板方式の共同便器は「はつひ」で間違いないと思う。
「はつひ」は貸与艦であるから、日本人向けとして勝手に改造することは出来ないのだ。
ただし便器の前には幅広のカーテンが設けられ、
板の上にもカーテンを付けて仕切り壁の代用としていた。
この程度なら改造と言うほどのものでも無いし、
返還時には容易に旧状に復旧することが出来る。
幹部候補生学校を卒業し、遠洋航海及び各種実習を終えて最初に着任したのは、
呉地方隊呉造修所であった。
第1練習隊は同じ編成のまま呉を定係港として残っており、
老朽艦とまた付き合うこととなった。
「あさひ」や「はつひ」のような老朽艦の場合、
船体部でしばしば発生する修理は船底外板の点触であった。
点触は艦の内外で発生したが、最も多かったのは機関室の船底である。
機関室の船底には各種油類やドレン(総称してビルジと言う)が溜まり、
ビルジポンプで引いても若干は残ってしまう。
ビルジが溜まるような場所は狭隘となっているので、
普段の整備も十分とであるとは言いがたい。
更に海水ポンプ等からの漏水があれば塩分が含まれているので、
点触は加速されることとなる。
大量の点触が集中している場合には強度にも影響してくるので、
外板の切換え工事が必要となる。
しかし第1練習隊の両艦は米軍への返還が間近に迫っていたので、
修理にかけることの出来る予算は限られており、
溶接肉盛りかパッチ当てで済ませてしまうのが常であった。
どちらも応急修理的な一面はあったが、強度上の問題点は無い。
程なく両艦共米軍への返還となったが、
返還に当たっては出来る限り貸与時の状態に戻すことが要求されたらしい。
勿論年数を経ているので完全復帰とは行かないが、
貸与された状態で返還すると言うのは道理が通っている。
まあ各部とも大きな問題点は無かったと思うが、
船体部で一番大変だったのはタンクの清掃であったかもしれない。
返還とは言ってもアメリカ本国まで回航する訳ではなく、
日本の業者にスクラップとして売却されることになる。
この場合にタンクの清掃が行われているかどうかは、
売却価格に大きく影響することになる。
大きなタンクはそれなりに工数は増すが、作業としては難しいものではない。
一番厄介なのは機関室船底にある潤滑油タンクである。
大きさはたかが知れているが、狭い船底にあるので辿り着くまでが一仕事なのである。
両艦共直接の担当者ではなかったのだが、担当者は他に仕事が入ったので、
まだ駆出しの私が代理として清掃後のタンク検査に行くことになった。
目的のタンクに入るのは初めてであったが、
アメリカ人が乗っていた船だからタンクには楽に入れると思っていた。
ところが、である。
タンクに入るためのマンホールに辿り着くまでが大変な作業であった。
各種のパイプが密集しており、まるでジャングルジム、
と言うよりは知恵の輪と例えた方が適切かもしれない。
私もこういうことは好きな方なのだが、最善の経路ではどうしても入れなかった。
パイプに胸が支えてどうにも通過できないのである。
業者の人間は背は高かったが痩せていたので、
その個所も通り抜けることが出来たのであろう。
やむを得ず別の経路から入ることにしたのだが、
そちらは船底部にビルジが溜まっており、
通ろうとすればビルジ漬けとなることは確実である。
仕様書の細かい所までは見ていなかったのだが、
恐らくタンクの清掃だけで、船底部の清掃は仕様に入っていなかったものと思われる。
乗員で整備可能なことに関しては、普通は外注することはないのだから。
しかしこの時は返還前なので定員も減らされていたかもしれず、
外から見えない所の整備は後回しになってしまったのだろう。
今更業者に清掃を依頼することも出来ないので、
意を決して潜って行ったのだが、背中に当たるビルジの感触は不気味なものである。
半分やけくそになりながら検査は終了したが、体中油だらけである。
ビルジは廃油みたいなものであるから、ただの重油よりも始末が悪い。
タンクの中はきれいに清掃されていて問題なかったが、
あるいは汚れた服で入って行った私が汚してしまったかもしれない。
まあしかし、服に付いた油で汚れたくらいは良しとしてもらおう。
なおこのように狭い場所を通り抜ける際には腹ばいになって進むのではなく、
仰向けになって進むのがコツである。
造修所から岸壁までは結構距離がある。
行く時は乗り合いバスを利用したのだが、帰りは油まみれの体なのでそうも行かない。
自衛隊も後方の装備は貧弱で、自転車も台数が少なくて利用できないことが多かった。
結局はトボトボと歩いて帰るよりなかった。
造修所には風呂はなく、敷地内にある通信隊の風呂を使わせてもらうことにした。
勿論汚れたまま他の部隊の風呂に入る訳にはいかないので、
ある程度油を落としてから風呂に行き、
更に念入りに油を落としてから湯船に浸かったのだが、
うっすらと油が浮いて来て皆の視線を集めることとなる。
通信隊は油作業とは無縁の部隊だから、こんなことは初めてなのだろう。
あわてて湯船から出て洗い直し、再び湯船に浸かるとやっぱり油が浮いてくる。
何度か同じことを繰り返したが、どうしても油が浮いてくるのを止めることは出来なかった。
恐らく皮膚の中まで油が染み込んでいたのだろう。
一段落してから、その日の出来事を振りかえってみた。
体の大きなアメリカ人が乗る船なのに、どうしてあんなに狭いのだろうか。
と思ったところで、アメリカ人には様々な人種がいることに気が付いた。
当然白人があのような狭い所に入っていき、汚れ作業をやるとは思えない。
戦争中の建造なので日系人は強制収容所に入っているから、
恐らく中国系の人間が作業を行ったものと考えられる。
そう考えればアメリカの船なのに機関室船底が狭い理由も、
何ら不思議なことではないのである。
その後技本で勤務している時に、ボーイング社の水中翼船に試乗する機会があった。
佐渡航路に就役しているジェットホイル艇である。
機関室も覗かせてもらったが、中を見たら「はつひ」での件が頭に浮かんできた。
船の機関室というよりも飛行機のイメージが強いものであったが、
やはりジェットホイル艇の機関室の場合でも、
特に小柄な東洋系の人間が作業を行ったのであろう。
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