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 ナオくんの宝物〜本当の宝物  

 夏沢峠からの下り道は深い樹林帯で、展望は全く利きません。次の休憩地は本沢温泉で
すが、なかなか着きません。お父さんとお母さんは雑談をしながら歩いていますが、ナオ
くんは『空を飛べば簡単なのに』と思いながら歩いていました。
 やがてかすかに硫黄の臭いを感じるようになり、道端に立てられた『露天風呂』の看板
を見つけました。
「ああ、ここが日本一高いという露天風呂だな。どんな風呂なのか、ちょっとのぞいてい
こうか」
 お父さんはそう言って横道に入り、ナオくんとお母さんも後に続きました。少し行くと
露天風呂が急斜面の下の方に見えましたが、そこには囲いどころか、屋根もありませんで
した。
「いやあ、これぞまさしく露天風呂だなあ」
 お父さんは感心したように言いました。
「母さんは入ったことあるの?」
「ううん、私はこの道は初めてなのよ。いつも赤岳まで縦走していたものだから」
「おや、それは意外だったね。どうだい、入っていくかい?」
「でも、こんなに明るいうちから・・・」
 お母さんはためらっています。ナオくんも、お日様が真上にあるのにお風呂に入るなん
て、変な気分だなあと思いました。
「それもそうだなあ」
 お父さんも露天風呂に入ることをあきらめ、看板の所まで戻りました。さらに五分ほど
下っていくと、本沢温泉に着きました。
 少し早いとは思ったけれど、三人とも昼食としてカレーライスを注文しました。風もな
いので外の休憩所で食べましたが、静かな自然の中で食べると、一層おいしく感じられま
す。お父さんは食べ終えた皿を持って返しにいき、宿のお姉さんにたずねました。
「露天風呂はいつでも入れるのですか?」
「もちろんです。評判いいんですよ」
 お姉さんはにっこり笑って答えました。
「でも、こんなに明るいうちから入る人なんていないでしょうねえ」
「いぃえぇ、あの露天風呂に入る目的だけで、わざわざ遠くからやってくる人も沢山いる
んですよ」
 お姉さんは力を込めて言いました。
 お父さんは考えました。だれもいない露天風呂に入る機会なんて滅多にないだろうし、
風呂からの眺めもすばらしいものに違いありません。それに天気も良く、まだ雷雨の心配
はありません。
「やっぱり、露天風呂に入っていこうか」
「でもお風呂に入っていると、最終便に乗り遅れるわよ」
 まだバス停までの道のりは長いので、ナオくんが一緒ではお母さんが言うように、最後
のバスに間に合いそうもありません。
「もう一泊したっていいさ。どうせ明日は予備日なのだから」
「それはそうだけど・・・」
「母さんはいつも忙しい思いをしているのだから、たまにはのんびりと温泉に入り、骨休
みをするのも悪くないと思うよ」
 お父さんに説得されて、お母さんも露天風呂に同意しました。ナオくんも山が好きにな
ったので、もちろん賛成です。重い荷物は宿のお姉さんに預け、入浴券を買って露天風呂
に向かいました。
「私はここで待っているから、先に入ってきて」
 露天風呂の看板から少し行った所で、お母さんが言いました。
「そうだね。上から降りてくる人もいるだろうからね。それじゃあ直人と二人で入ってく
るよ」
 お母さんをその場に残し、二人は急斜面を降りて行きました。露天風呂はあまり大きな
ものではありませんでしたが、それでも家の風呂に比べればゆったりとしています。
「服を脱いだら風で飛ばされないようにしておけよ」
 露天風呂のさらに下には谷川が流れており、急斜面が続いています。もし急に風が吹い
てきて服を飛ばされてしまったら大変です。何しろ裸のままで、急斜面を降りて取りに行
かなければならないのですから。
「あっちっち」
 風呂に入ろうとして、ナオくんは足を引っ込めてしまいました。温泉はとても熱くて、
ナオくんには入ることができません。
「う一ん、これでは直人には熱いなあ」
 お父さんもやっと入っているようです。自然のままの露天風呂なので水道なんてありま
せんから、うめることもできません。それに太陽熱で地面が暖められているので、今が一
番温度の高い季節なのかも知れません。
 温泉には入れなくても、周りの景色はすばらしく、特に硫黄岳の絶壁は見ごたえのある
ものでした。ナオくんは裸のままで景色を眺めていましたが、それは体のためには、あま
り良いことではありませんでした。
 山では気温が低いので、直射日光に当たっても海辺のような暑さは感じられません。し
かし高い山は空気が薄いので、紫外線の量が海辺よりもずっと多く、気がっかないうちに
大量の紫外線を浴びてしまう可能性があります。そうすればナオくんは明日になって、体
中激しい日焼けで悩まされることになってしまいます。
「どうだい、少しは入ってみたら」
 お父さんに促されてナオくんも入ろうとしましたが、やっぱり熱くて入れません。お父
さんだって温泉が熱いのか、出たり入ったりしているくらいなのですから。ナオくんはと
うとう一度も入れないまま、お母さんと交替する時間になりました。
「いやあ、熱い温泉だったよ」
 お父さんはお母さんの所まで戻り、タオルを渡して言いました。ナオくんはまだ露天風
呂の所にいます。
「そんなに熱い温泉なの」
「ああ、直人なんて全然入れなかったんだから。でも眺めはいいし、気分は最高だぞ」
 お母さんはちょっと不安にもなりましたが、ナオくんが待っている露天風呂まで降りて
いきました。
「一緒に入る?」
 ナオくんはもう三年生ですから、家にいる時にはお母さんと一緒に風呂に入ることはあ
りません。でも、ちょっと甘えてみようかな、という気持ちもあったので、温泉に足だけ
入れてみました。
「やっぱり熱いや」
 気温はまだ上がっていますから、温泉の温度も高くなっているのかもしれません。お母
さんも脱いだ服が飛ばされないようにしてから、静かに温泉に入っていきました。
「あらら、本当に熱いわねえ」
 熱いと聞いていたお母さんも、実際に入ってみて驚いたようです。しばらくは静かに浸
かっていましたが、やはり温泉が熱いようで、ナオくんの隣に上がってきました。
「お母さん、とってもきれいだよ」
「まあっ、ナオくんはおませなんだから」
 お母さんはそう言ってナオくんを小突きましたが、その顔はうれしそうに微笑んでいま
した。ナオくんは、決してお世辞で言ったのではありません。雄大な自然の中で見たお母
さんの姿は、本当にきれいだったのです。
「お一い、お客さんが来たから上がってこいよ」
上の方から、お父さんの声が聞こえてきました。
「は一い、分かったわ」
 お母さんは手を振って答えました。温泉から上がると素早く服を着て、ナオくんと一緒
にお父さんの所に戻りました。
「どうもお待たせしました。さあどうぞ」
 お父さんは看板の所で、一人の老人に向かって言いました。
「いやあ、せかせちゃってすみませんねえ」
 老人はお母さんに向かって言いました。
「いいえ、もう上がる頃でしたから。ごゆっくりどうぞ」
「温泉はとっても熱いんだよ」
 ナオくんは大きな声で言いました。
「はっはっは、坊やも入ったのかい」
「いいえ、この子は全然入れなかったんですよ」
「だって熱いんだもの」
「おじいさんはね、その熱い温泉が大好きなのさ」
 ナオくんは、あんなに熱い温泉が好きだなんて、不思議な人だなあと思いました。おじ
いさんに別れを告げて本沢温泉に戻ると、宿のお姉さんが話しかけてきました。
「露天風呂はどうでしたか?」
「いやあ、あんなに熱いとは思いませんでしたよ。でも眺めは最高でしたよ。紅葉もすば
らしいでしょうね」
「ええ、紅葉もすてきですよ。でもあまり遅くなると、今度は寒くて露天風呂には入れな
くなりますよ」
「そうですか、また来たいなあ。宿にも温泉はあるんでしょ」
「もちろんです。いつでも入れますよ」
 ナオくんたちは預けておいた荷物を受け取ると、今夜の宿泊地であるミドリ池に向かっ
て歩きだしました。ナオくんが一緒では稲子湯から出る最終バスに間に合わないので、ミ
ドリ池でもう一泊することに決めたのです。
 自動車も通れる林道を少し下ると、ミドリ池方面への登山道の入口がありました。展望
の利かない樹林帯の歩行は、実際より時間が経つのが遅く感じられます。それでもほとん
ど水平の道なので、あまり疲れは感じません。ナオくんに疲れが見えた時には、目の前に
ミドリ池がありました。ミドリ池は白駒池よりずっと小さな池でしたが、何かしら神秘的
な雰囲気を持っていました。
 池の横では、小屋のおじさんがまきを割っていました。
「こんにちは。二食付きで三人お願いします」
「いらっしゃい、どうぞ中へ入って休んで下さい」
 お父さんは言われるままに小屋の中へ入っていきましたが、ナオくんは外の方がいいと
思いました。静かなミドリ池が、とても気に入ったのです。
「じゃあ、ナオくんはここにいてね」
 お母さんはそう言うとナオくんの荷物を持ち、小屋の中へ入っていきました。ナオくん
は池の方に行き、大木を輪切りにしたいすに腰を下ろしました。ミドリ池には観光客は来
ていないので、白駒池に比べればずっと静かです。時々小鳥のさえずりが聞こえるくらい
で、人間のざわめきは全く感じられないのです。
 コツッ、コツッ!
 池を眺めていたナオくんの後ろで、何か小さな物音がしました。ナオくんがそっと振り
向くと、小屋の横にあるエサ台で一羽の小鳥が何か食べていました。
「お父さん、小鳥がいるよ」
 ナオくんは急いで小屋の中に入り、お父さんに知らせました。
「鳥だけじゃないよ。リスやヤマネもやって来るんだよ」
 お父さんの後ろから、小屋のおじさんが言いました。
「じゃあモモンガは、モモンガは来ないの?」
 ナオくんは大きな声でたずねました。
「モモンガは、あまり見たことはないなあ」
「なあんだ、モモンガは来ないのかあ」
 ナオくんは残念そうな顔をして言いました。
「坊やはモモンガが好きなのかい」
「うん、友達もいるんだよ」
「ほう、友達がねえ、そいつは驚いた。でもリスだってかわいいと思うよ、こちらへ来て
ごらん」
 おじさんの後についていくと、小屋の中からでもさきほどのエサ台を見ることができま
した。そしてエサ台では、二匹のリスがヒマワリの種を食べていました。
「本当だ。お母さん、リスがいるよ」
 ナオくんはガラス越しにリスを観察しました。リスはナオくんのことなど全く気にしな
いで、夢中で食べ続けています。もしかしたら、夜になったらモモンガがやってくるかも
しれません。
 夕ご飯を食べながら、ナオくんは小屋のおじさんに、モモンガと一緒に空を飛んだこと
を話しました。
「ほう、そいつはすごいな。そのモモンガと友達なんだね」
「そうだよ、おじさんにもモモンガの友達はいる?」
「モモンガだけじゃないさ。おじさんにとってはリスもヤマネも小鳥たちも、この森にい
る動物はみんな友達なんだよ」
 ナオくんは動物好きのこのおじさんから、いろいろと珍しい話を聞きました。でも残念
ながら、夜になってもモモンガはやって来ませんでした。

 翌朝、ナオくんは早起きをして池を見にいきました。小鳥のさえずりは聞こえますが、
池は静まり返っています。
「ナオくん、体は何ともない?」
 後ろからお母さんが声をかけてきました。お母さんはナオくんの日焼けを心配していた
のです。本当はちょっとひりひりして痛いのですが、ナオくんは元気よく答えました。
「ううん、何ともないよ」
「そう、良かったわね」
 お母さんはどうやら安心したようです。
「早朝の池は、何かしら神秘的で、すてきでしょう」
 小屋のおじさんもやってきました。
「モモンガが来なかったのは、残念だったね」
「うん。でもぼくもこの池が好きだよ」
「それは良かった。ところで友達のモモンガからもらったヒマワリの種は、無くさずに持
っているのかい」
 おじさんに言われて、ナオくんはあわててポケットに手を入れました。そう言われてみ
れば、どこにしまったのか全然記憶にありません。でもポケットに入れた手の先に、何か
が当たりました。取り出してみると、それはかじりかけのヒマワリの種でした。
「あった、あったよお一。これをもらったんだ」
 ナオくんはヒマワリの種を取り出すと、興奮して大きな声で言いました。お母さんは不
思議そうな顔をしていますが、おじさんは真剣な顔で聞いています。そしてお父さんは、
小屋の中でにこにこしながらナオくんを見ていました。
「絶対に無くしたらだめだよ。大切な宝物なんだからね」
 小屋のおじさんは、今までにない厳しい口調で言いました。ナオくんは、とうとう本当
の宝物を手に入れたのです。

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