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 ベーリング海

「あれ、おかしいな」
 朝食を食べ終えた洋は、腕時計を見て首を傾げた。
「どうしたんだい」
「時計が遅れてるんです。まだ電池が終わるはずはないんですけど」
「どれ、見せてご覧」
 片山は洋の腕時計を受け取り、時刻をチェックすると軽く笑いながら言った。
「ふふっ、壊れちゃいないよ。正常に動いている」
 時計を返してもらった洋は、もう一度船内の時計と比べて言った。
「1時間も遅れてるんですよ」
「かっきり1時間の遅れだろ。だから正常なのさ」
 片山は正常と言っているが、洋には故障しているとしか思えなかった。
「洋くんは、日本標準時がどの地点を基準にしているか知っているよね」
「あっ、そうか」
 洋は片山のこの言葉で、目分の時計が正常であることを理解した。
「昨日の朝、ウルップ島沖で時計を1時間進めたんだよ。 放送が聞こえなかったのかい」
「そう言われれば・・・」
 確かに洋もその放送を聞いていたのだが、面倒なので時刻の修正をしなかったのだ。
「これからも時計の修正はあるんですか」
 洋は時刻を直しながら尋ねた。
「コマンドルスキー諸島は東経167度くらいだから、明石との時差は2時間になるね」
「じゃあもう一回時計を直す必要がありますね」
 修正を終えた洋がウイングに出て行くと、珍しく伯父が海を眺めていた。
「どうだ、船に乗っているのも飽きたんじゃないか」
 洋が側に行くと伯父が話しかけてきた。
「いえ、航海は楽しいです。あの、船の名前の由来をまだ聞いていないんですが」
「そう言えばそうだったな」
 伯父は彼方に見えるカムチャッカ半島の山並みに目を移すと、 昔を懐かしむかのように静かに語り始めた。
「もう20年以上前になるんだなあ。自転車で四万十川に沿って走ったことがあるんだ」
「輪行車ですね」
 輪行車と言うのは簡単に分解組立ができるようになっている自転車のことで、 自然派の片山も自転車を愛用しているのだ。
「下流にある中村市までは鉄道を利用し、 駅前で組立てて川沿いに予土線の江川崎駅まで走って行ったんだ」
「まだ国鉄の時代ですね」
「そう、まだ車が少ない時代だったが、 たまにすれちがう車があっても、目転車に道を譲ってくれたんだよ」
「今じゃあ信じられない行為ですな」
 いつの間にか、赤石もウイングに来ていた。
「快適に走れたことも、川の水がきれいだったことも、勿論印象に残っている。 でもわしにとっては、それ以上に重要な出来事があったんだ」
 伯父は静かに目をつむって、当時のことを思い出していた。 一同は伯父の次の言葉を待ったが、伯父が話し出す前に片山が口を開いた。
「まさか、カワウソに・・・」
「そう、カワウソだよ。絶対にあれはカワウソだ。 他人は信じないかもしれないが、私は絶対にカワウソだったと確信している」
 伯父は毅然とした口調で語った。
「いえ、塩見さんが見たと言うのなら・・・」
 片山は、いくら20年前とはいえ、客観的に判断してその可能性は少ないと思っていた。 しかし存在していて欲しい、という希望も持っていたのだ。
「わしは信じるぞ」
 赤石は大きな声で、伯父を励ますように言った。
「その後訪れたことはない。 もう一度会いたいとは思っているが、もう二度と会うことは出来ないだろう」
「恐らく無理でしょうね」
 片山は希望を持ちつつも、冷静に判断を下していた。
「もうカワウソには会えないだろうし、ステラー海牛にも会えないかもしれない。 だが希望だけは、いつまでも持ち続けていたいんだ」
 伯父は言い終えると、静かに船内へ降りて行った。
「ステラー海牛は本当にいるのでしょうか」
 洋はちょっと心細くなってきた。
「前にも言ったように、その可能性は極めて低い」
 片山はあくまでも冷静だった。
「それじゃあ探しても無駄なんでしょうか」
「いや、宝探しじゃないから、見つからなくても無駄ということはない。それに・・・」
 片山は一瞬言葉を止めたが、再び話を続けた。
「仮にステラー海牛が生きていたとしても、こちらから探し出すのは不可能だと思う。 でも運が良ければ、ステラー海牛の方から近付いてくれるかもしれないよ」
「人間は動物に信用されてませんからなあ」
 いつもは陽気な赤石も、この時はちょっと元気がないようだった。 しかしその場の重苦しい雰囲気を察してか、気分を変えて大声で片山に言った。
「ステラー海牛のことは明日になってから。 それより片山さん、今日は将棋将棋、一局ぐらいリーグ戦の対局をお願いしますよ」
「でも私は弱いから」
「平気平気、船長なんてもっと弱いんだから」
 赤石の強引な誘いで、片山も断り切れず船内に入っていった。
「今はどの辺りですか」
 洋は船長に現在位置を尋ねた。
「ほら、この辺りだよ」
 荒川は海図を見せて教えてくれた。
「えーっ、こんな端っこなんですか。もう山も見えないので、 ずっと遠い所を走っていると思っていました」
「はっはっは、海の広さを実感したかい」
「この線は深さを示しているのですか」
 洋は海図を見ながら質問Lた。
「そう、等深線と言うんだが、地図の等高線みたいなものさ。 ほら、今走っている所は千島・カムチャッカ海溝と言って、 一番深い所は1万m以上あるんだよ」
「でもこうして船に乗っていると、海の深さは実感できないんですね」
 四万十はその深い海溝を斜めに横切り、翌朝にはコマンドルスキー諸島の一つ、 べーリング島が見える所まで進んでいた。 ようやく目的地に着いたのだ。


 清水を出港してから7日目、 四万十はかつてステラー海牛の群れが棲息していたべーリング島の沖合にいた。 いよいよステラー海牛の探索が始まるのだ。
「期間は10日、延長しても最大で2日、それでも見つからなければ帰港する」
 伯父は簡単に予定を説明した。形式的な訓示等は大嫌いなのだ。
「手初めに正面に見えるべーリング島の周囲、更に周辺の島々に沿って探索する。 使用速力は6ノット、不必要な騒音は出さないようにしてくれ」
 荒川が細かい説明を始めた。
「探索は目に頼ることになるが、鳴き声が聞こえる可能性もあるから注意してくれ。 なお剣くんは、水中聴音機で動向を探ってくれ」
 通信長の剣は、色々な計測機器の取り扱いに慣れているのだ。
「分かりました。でも一人ではきついので、だれか助手をお願いします」
「そうだな、だれがいいかなあ」
 荒川は乗組員を見回したが、適当と思われる人物は見当たらなかった。
「私がやりましょう」
 名乗り出たのは片山だった。
「皆さん聴音機には馴染みがないでしょうから」
「いやあ、片山さんに手伝って頂けれぱ助かります。宜しくお願いしますよ」
 荒川は大喜びで、伯父も満足していた。
「ところで、本海域の次ぎはどちらへ向かいますか」
 片山はステラー海牛が見つからなかった場合の、次の探索海域を尋ねた。
「カムチャッカ半鳥沿いに北上しようと思いますが、塩見さん、如何でしょう」
「片山さんはどう思う」
 荒川は全体の責任者である伯父に決断を依頼したのだが、 伯父は幅広い知識を持っている片山にも意見を求めてきた。
「私も船長の提案に賛成です。夏場ですから、 アッツ島からアリューシャン方面にかけて移動する可能性は少ないと思います。 北へ向かうべきでしょう」
 伯父は黙ってうなずいた。
「べーリング海東部の島々はどうでしょうか」
 一番若い甲板員の鹿島が、恐る恐る発言した。
「その可能性も少ないと思います。ステラー海牛は海草を主食としていますから、 海草のない海洋を長距離にわたって移動するとは思えません。 それにこれも推定ですが、ステラー海牛は泳ぐ速度は極めて遅かったと思われますので、 べーリング海を横切るのは困難かと思われます」
 片山は、若い鹿島に対しても丁寧に説明した。
「では船長の提案通り、本日はこの海域を探索し、以後は海岸線に沿って北上する」
 伯父の発言で、探索方針は決定した。 各人双眼鏡を手に持って、あるいはウイングに装備されている大型の双眼鏡に取り付き、 ステラー海牛の出現に備えた。
「これが聴音機だよ」
 洋と片山を連れて観測室に入った剣は、ヘッドホンを被って正面の機器の電源を入れた。 いよいよステラー海牛の探索が始まったのだ。

 四万十はべーリング島の周囲から探索を始めたが、 そう簡単にステラー海牛が見つかるはずもなかった。
「アザラシは随分いるんですね」
 片山と共に船橋に上がってきた洋は、浅瀬を泳いでいるアザラシの群れを見ながら言った。
「そうだね。アシカやトドもたくさん見られるよ」
「ステラー海牛は、アザラシの群れと一緒に棲むことは出来るんですか」
「それは大丈夫だと思うよ。食べ物が違うからね」
「でもステラー海牛はアザラシよりも大きいんでしょ。 小さなアザラシが生き延びているのに、 もっと強いはずのステラー海牛はどうして滅びたんですか」
 洋は前から思っていた疑問をぶつけた。
「個体としては強くても、種としては弱い動物はたくさんいるんだ。 どんなに強い動物でも、子孫を残す能力が弱ければ減んでしまうんだよ」
 洋は半分くらい分かったような顔をしていた。
「例えばオオタカの場合、成鳥が他の動物に襲われることはないが、 環境の悪化によって卵を産んでも子育てが難しくなっている。 雛が育たなければ、何れは減んでしまうことになるよね」
 オオタカに関しては、洋もニュースで知っていた。
「場所を変えましょうか」
 ステラー海牛のいる気配は全然感じられないので、荒川は隣の島へ移動することを提案した。
「見つけようとして見つかるものではないさ。そう焦ることはないよ」
 伯父は悠然と答えた。
「では、もう少し浅い海面へ移動しましょうか」
「そうしようか。しかし本船の喫水は意外に深いから、十分に注意してくれよ」
「その点はご心配なく」
 荒川は慎重に水深を確認しながら、べーリング島の海岸に近付いて行った。 しかし日没まで周辺の島々を探しても、ステラー海牛に出会うことは出来なかった。
「まもなく日没です。明朝カムチャッカの海岸に着くよう増速したいと思いますが」
「そうしてくれ。途中の海域は深いから、ステラー海牛がいるとは思えないからね」
 四万十は12ノットに増速し、翌朝にはカムチャッカ沿岸に到着した。 前日と同様6ノットで探索しながら、カムチャッカ半島に沿って北上する計画だ。

 四万十はステラー海牛を求めて航海を続け、7日目の朝にはナバリン岬に到達したが、 依然としてステラー海牛の手掛かりは得られなかった。 伯父は今後の探索海域の選択を迫られたが、 これより先に進んでも発見できるとは思えなかったので、反転を決意した。
「反転して海岸線を南下しよう」
 四万十が再びオリウトルスキー岬に達した時には、予定の10日が過ぎていた。 一人で岬を眺めている伯父に洋が近付いて行くと、伯父は静かに話しかけてきた。
「どうだ。退屈したか」
「ええ、少し。伯父さんは冒険家だから、もっと危険な目に会うのかと思っていました」
「ふふっ、冒険家か。それはどうでもいいが、冒険とは危険を冒すことではない。 冒険とは忍耐なんだ。どうも『冒険』と言う字が良くないな」
 伯父は軽く笑いながらも、強い口調で言い放った。
「予備の2日間は、このまま海岸線に沿って南下しますか」
 荒川が次の行動計画を尋ねた。
「いや、このまま真っ直ぐ南へ行ってくれ」
「周辺より浅い海域はありますが、とてもステラー海牛がいるとは思えませんが」
 伯父の話を聞いていた片山は、念のために海図を確認して言った。
「私も片山さんの意見に賛成です。 今まで通り海岸沿いに南下した方が、僅かではあっても可能性が高いと思いますね」
 荒川も片山の意見に賛成だった。
「確かにその通りだろう。でも・・・いいんだ、このまま南下してくれ」
 伯父は目をつむり、独り言のように小さな声で言った。
「了解しました。とーーりかじ」
 荒川は伯父の言葉に従い、四万十を真南に向けた。
「船長、少しでも浅い海域を探しながら行きましょう。 私は剣さんと一緒に側方の水深も計測します」
 片山はそう言うと、剣のいる観測室に向かった。 洋はどうしようか迷ったが、伯父の側にいることにした。

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