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 序 章

「バブル噴射用意!」
 船内にドック長の鋭い声が響き、乗船者一同の顔には緊張の色がみなぎった。 いよいよ新しい推進システムの試験が始まるのだ。
「テェーッ」
 ドック長の号令と共に船は急激に加速され、漫然と海を眺めていた洋は後方へよろめいた。 洋は素早く手摺りにつかまって難を逃れたが、驚いたのは洋だけではなかった。 他の乗船者も予想外の加速力に面食らっているようで、船橋の中はざわめき立っていた。
 ざわめきは船内だけではなかった。 船尾から数メートル離れた海面には、2条の真っ白な航跡が泡立っていた。 バブルジェットから噴射された気泡が、海面に浮き上がってきたのだ。
「各部異状は無いか」
 驚きを隠せない乗船者の中にあっても、ドック長だけは冷静さを失うことなく、 的確に次の指示を下していた。 実績のないシステムの試運転では、いかなる事態が発生するか予測できない。 全ての責任を任されているドック長には、常に冷静であることが要求されるのだ。
 冷静な人間は、ドック長の外にもう一人いた。設計主任の片山である。 尤も片山の場合には、新システムであるバブルジェットの設計に自信を持っており、 今回の試験では設計通りの性能を確認できるかどうかが重要な問題であった。 従って冷静というよりは、緊張と喜びとが同居していると言うべきなのかもしれない。
「機関室異状無し」
「右舷推進室異状無し」
「左舷推進室異状無し」
 スピーカーからは、船内各部からの報告が矢継ぎ早に上がってきた。
「このまま標柱間に向かう」
 標桂間というのは、船の速力を測るための設備のことだ。 1海里の距離を置いて2本の柱、すなわち標柱を立てておき、 標柱の間を通過した時間を計測して船の速力を逆算するのである。 1海里は緯度1分に相当する子午線の長さであり、現在では1852mと定められている。
 洋はウイングに立って三保半島の松原を眺めていた。 工事の完了した船は清水市の造船所を出港し、駿河湾に出て各種の試験を行っているのだ。 速力試験のための標柱は三保半島にあり、今はその沖合を走っている。 北上する船の正面には、堂々とした富士山の姿があった。
「昔は見えないこともあったんだよ」
 洋が後ろを振り向くと、そこにはドック長が立っていた。
「工場からの排煙がひどくてね」
 高度成長期と言われた時代には、企業の利益や生産性のみが優先され、 環境への配慮は全く考慮されなかった。 環境汚染は大気だけでなく、河川や海も褐色に変色する程に汚染され、 水面からは悪臭が漂っていたこともあるのだ。
「間もなく入ります!」
 双眼鏡で松原を見張っていた工員が叫んだ。
「計測用意」
 ドック長も双眼鏡を取り上げ、松原に設置されている標柱を確認した。 後ろではストップウオッチを持った工員が、ドック長の指示を待っている。
「よおーーい」
 標柱間に入る緊張の一瞬である。
「テェーッ」
 いよいよ速力試験の開始だ。
 陸上は殆ど無風状態であったが、船上では前進に伴って強い風が発生する。 洋はそんな風を顔に受けながら、3ヶ月前のことを思い出していた。

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