実を言えば、おれは皆から欝陶しさを嘲笑われる羽目に陥れば嬉しいのだ。だれもそこから癒やされたいと願わないような、不治の痛手を心に負った人間だけが、おれを分かってくれるだろう……。そして、そんなふうに傷ついた上は、これ以外の傷によって、《死ぬ》ことを肯んずる人間がいるだろうか?(ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ』)


『読書する男』

そろそろお休みの時間ですよ、とウォンが声をかけた時、キースは本棚の前でぼんやりしていた。うん、と生返事をするキースの瞳は、まだ書類のファイルを追っているが、その下は薄くたるんで、ひどい疲れを示している。
背後から近づいて、そっと腕の中にさらいこむ。
「さ、ベッドへ」
抵抗しても強制連行しようと思ったが、されるままキースはじっとしていた。むしろ、立ったまま眠っているのではと不安になるほど、くったりと力無い。
ウォンは優しく、キースの肌をさぐってみた。
そして気づいた。今にも溢れそうな、硬くそそりたったものに。
この熱さでは、寝る前に一度抜いた方がいいかもしれない。書斎で立ったままなどというのは好まない人だが、と思いつつ、ウォンは低く囁いた。
「口で、する?」
キースはフッとうつむいた。そしてうんと小さな声で、
「……その腕を、ほどかないで……」
ウォンの胸の真ん中が、キュン、と音を立てて射抜かれた。
直接的な快楽より、優しい抱擁が好きなのは知っているが、こんな風に甘えられたら、こちらが我慢できない。
「愛しい、貴方」
ウォンは相手の服の中に掌を滑り込ませた。
脇の下を撫でさすられて、キースは甘い喘ぎをもらす。
「ォン……どうして」
「なあに?」
「どうして最初から、僕がそこで感じるって、知ってた?」
キースのあまりの愛らしさに、ウォンは眩暈をおぼえた。
見抜いた訳ではない、脇の下は耳や口唇、胸や局部などと同じで、誰でも感じる場所なのだ。男でも、身体の側面の皮膚は薄い。脇腹をくすぐられると、大人でも笑い出してしまうように、たとえば二の腕の後ろから脇の下にかけてを丁寧に愛撫されると、つい声が洩れてしまったりするものなのだ。キースが特に敏感なのは事実だが、そう珍しいことではない。ただ、男の性感帯の幅広さは知識としてあまり知られていないし、なんでもない部分で感じてしまうと、自分が淫乱に思えて恥ずかしく、かえって燃えあがってしまうのかもしれない。
だいたいキースは毎晩抱いても、淫らなことは未だひとつもしらないような、清潔な雰囲気を崩さない。時にびっくりするほど大胆なこともあるが、キース・エヴァンズという青年は、性への興味は薄いのだと思う。だからこそ、経験を積んでも変わらないのだろうし、演技でなく恥じらうさまが、たまらなく可憐なのだ。
「貴方がそんなに感じてしまうなんて、最初は知りませんでした。それに」
キースの耳たぶをそっと噛みながら、
「まだまだ知らないことが、沢山あります。もっと知りたい。貴方のすべてを」
「もう、心の中まで全部見せてる」
「まだ、秘密があるでしょう?」
「そう思うなら、のぞいていいのに……何が知りたい、ウォン?」
上目づかいに尋ねるキース。ウォンはキースの胸元に指を滑らせながら、
「例えば、そんな素敵な誘い文句を、どこで覚えてくるのか、とか」
「馬鹿」
「だって本当は、疲れている貴方をずっと、このまま抱きしめていたいのに」
腰を押しつけて、ウォンは相手に自分の熱を感じさせる。
アイスブルーの瞳が閉じた。ため息とともに、その身体はウォンの腕の中で重みを増した。
「我慢しなくていい。君が欲しいだけ、むさぼって……」

昨晩は本当にいい思いをした――ウォンはうっとりと恋人の裸身を思い浮かべていた。
相手も自分も満足して、ぐっすり眠れた。
幸せな気分だ。
でもまだキースは疲れが抜けていないはず、今夜はゆっくり寝かせてあげなければ。
あの人の望みどおり、腕枕で寄り添ったまま、というのも捨てがたいが。
氷の総帥とあだ名される人が、おずおずと甘えてくるのだ、なんでも言うことをきいてしまいそうになる。あの人には、挑発の台詞などいらない。頬を染めて、ちょっとうつむくだけで、あらがいがたい誘惑になるのだから。
ああ、優しくしたい。もっともっと優しくして、いつだってトロトロにとろかしたい。貴方がすっかり無防備になって、何もかもさらけだしてしまうぐらい。心まですべて欲しいと、いったい何度ささやいたろう。
そんなことを夢想しつつ、寝室に戻る。
キースはいなかった。ウォンは眉を寄せた。
「お次は、書庫でですか?」
ベッドサイドに、黒いカバーのかかった分厚い本が、何冊も積んであった。
ところどころに付箋がはってある。
なんだろう、と開いてみると、一番上に置かれていたのはジョルジュ・バタイユの小説集だった。フランス語のままの『マダム・エドワルダ』に、ウォンは視線を落とし、付箋に書かれたメモに従って数行を読んでみる。
「……【実を言えば、おれは皆から欝陶しさを嘲笑われる羽目に陥れば嬉しいのだ。だれもそこから癒やされたいと願わないような、不治の痛手を心に負った人間だけが、おれを分かってくれるだろう】……?」
なんとも貴方らしからぬものを読んでいますね、と呟こうとして、ウォンはハッとした。
何でもないようなフリをしているが、心の底では常に同胞の死を悼んでいる人だ。癒えない苦しみを抱き続けている。というより、罪悪感があまりに深くて、癒やされてはならないと思っているのだ。自分のせいではないというのに、彼らの願いに応えられなかった、と己を責める。実験材料として軍にとらわれた時点で、貴方も被害者だったのに。それだけではない、やっとの思いで脱出し、同胞のためになんとかつくりあげた理想郷を、親友にテロ組織と決めつけられ、いっさい否定されて袂をわかつ羽目になり。
こんな言葉が未だキース・エヴァンズの胸に響くのか、とウォンは愕然とした。未だに血を流し続けている傷を、水でひやひやと洗い続けながら、更にその傷をかきむしっている。その苦しみは、私ひとりの愛情では、和らぐことすらないのか……?
付箋のついた他のページもめくってみて、今度はウォンは首をかしげた。キースが印をつけた幾つもの場面に、脈絡がなかったからだ。下着をつけていないヒロインが、スカートをまくってミルクを入れた皿の上にしゃがんでみせたり、教会の告解聴聞僧を誘惑して、半ば強姦のように関係をもったり……『眼球譚』はバタイユのデビュー作だが、最初はポルノとして読まれていたぐらいで、こういう場面は多々ある。だから何を思ってキースが印をつけているのか、わからない。洗練されているとはいえ、濡れ場の描写には違いない。例えばここも……。
「【散歩の途中であらゆる機会を利用するのだった。恰好な場所を後にするときは常に代りの場所を見つける以外に目的はなかった。人気のない博物館の陳列室、階段、丈の高い茂みで縁どられた公園の小径、あけっ放しの教会、――夜分は、さびれた裏通り――そうしたものが見つかるまで私たちは歩き廻るのだった、そしてその場所が見つかると早速、私は彼女の片方の脚を持ち上げて、若い娘の肉体をおし広げ、一気に私の竿を】……」
滑らかなフランス語が聞こえて、ウォンは本を取り落としそうになった。ちょうどその箇所を開いていた時、キースが別の本を抱えて戻ってきたからだ。思考をそのまま読まれた気分になって、思わず恋人の顔を見つめた。
キースは微笑んでいた。
「貴族のたしなみという奴で、フランス語ぐらいは読めるんだ」
「どうしてこんなものを?」
「サイキッカーの期待に応えるのが、僕の仕事だからだ」
「何の話です」
キースはトスン、とベッドに腰を下ろすと、
「昨日の夜、君はこう言ったろう――そんな素敵な誘い文句を、どこで覚えてくるのか?と」
「そんな大真面目に」
馬鹿なことを、と言いかけるウォンに、キースは真顔で続けた。
「若者らしい好奇心というのは僕にだってあるから、昔からこういうものも、読んではいたんだ」
枕辺に積まれていた分厚い本が、『悪徳の栄え』や『O嬢の物語』であることにウォンも気づいた。どちらも古典といっていいフランス文学だが、年頃の少年が背伸びして読み、自分の性欲のためにつかってもおかしくない本だ。別の国の言葉を読み替えていく興奮というのもあるだろう。
キースはウォンの手からバタイユを取り返し、
「僕がこういうもので性的な台詞を覚えたら、おかしいか? ジャン・ジュネなんか読んでた方が、君のイメージにあっているのか?」
ウォンはまだ信じられないといった顔で、
「だって貴方はもっとひどい目にあったのに、そんなSM小説を」
「ファンタジーはファンタジーだ。自分が面白いと思ったところだけなぞりかえせば、読めないものじゃない。僕がどこを楽しんだか、読みあげてやろうか?」
あからさまな挑発。
ウォンは赤くなったが、それはキースの大胆さにではなく、むしろ青年の柔らかな声が、フランス語の艶文を読むのを聴くのもそそられるかもしれない、と考えた自分が恥ずかしくなったからだ。たとえばキースが、こんな風に読み替えたら……【そして二人はした、散歩の途中のあらゆる場所で。人気のない博物館の陳列室、階段、丈の高い茂みで縁どられた公園の小径、あけっ放しの教会、――夜分は、さびれた裏通り――そうしたものが見つかるまで二人は歩き廻るのだった、そしてその場所が見つかると早速、ウォンはキースの片脚を持ち上げ、おし広げ、一気にその竿を奧まで打ち込み】……。
喉に何か詰まったような声で、ウォンは呟いた。
「貴方は、そういう文章で、感じるんですね?」
ふと、キースは口をつぐんだ。
片端から付箋をはがしている。
ウォンは怪訝な顔になった。
「どうなさったんです?」
「昔はな」
「え」
「読み返してみたら、楽しくないんだ。ぜんぜん燃えない。何が楽しくて読んでいたのか、思い出せない。それだったら、君の顔を思い浮かべた方が、ずっと」
「キース」
「君を喜ばせてばかりいても退屈するだろうから、あまり言いたくはないんだが」
僕にすべての喜びを教えたのは君だよ、誘いの台詞もすべて……そう語る眼差し。
どんな嬉しがらせより嬉しくなって、ウォンはそっとキースを抱きしめた。
「では次は、私が貴方の知らない寝物語をする番ですね」
キースはうつむいたまま呟く。
「『聊斎志異』ぐらいなら、僕の書棚にもある」
「いえ、それよりはもう少し艶っぽいものを……それこそ貴方がなぞりかえせるような物語を、みつくろっておきましょう。でも今晩は、私が貴方の身体をなぞりたい」
コクン、とうなずくキースを横たえて、ウォンはため息をついた。
「どうしてそんなに、可愛いの?」
キースは薄く目を閉じた。
「これは演技だ、と言ったら?」
「貴方がわざわざ演技をするのは、とっても欲しいから、でしょう?」
キースの腕が伸びて、ウォンの首を引き寄せた。
「……わかってるなら、余計なことをいって、焦らすな」

(文中の引用は、生田耕作訳「マダム・エドワルダ」「眼球譚」『マダム・エドワルダ』収録・角川文庫)

(2005.11脱稿)

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Written by Narihara Akira
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