私はうつわよ、
愛をうけるための。
私はただのうつわ、
いつもうけるだけ。

神谷美恵子「うつわの歌」


『うつわの歌』

「ウォン」
「はい?」
「あ、あふれ……る」
キースの甘い呻きに、ウォンは思わず含み笑いをもらした。
「あふれたら、嫌ですか?」
「だって……もったいない」
「キース様」
せつなげに身をよじりながら、かすれ声でキースは囁く。
「君は、あふれたら、嫌じゃないのか?」
「大丈夫です、いくらでも注いであげますよ」
「あ……う」
口唇を噛み、こみあげてくるものをキースは懸命に堪える。
指一本触れられていないのにこんなに感じて、初めてでもないのに我慢がつらいなんて。
もう、どうしたらいいかわからない。
ウォン。
「つらい?」
瞳を潤ませるキースを抱きしめもせず、囁くウォン。
「そうじゃ、なくて」
言いたい言葉が喉につかえて、もどかしさに震えるキース。
だって、この切なさがどこから来るか、どうしてもわからないから……。

キースの元気がなくなりつつあるのを、その変化を、いち早くウォンは悟っていた。
表向きは平和で、なんということもない。
なにせ紆余曲折を経てようやく手に入れた、二人きりの生活だ。朝から乱れ戯れても構わない、甘く穏やかな日々である。平和でなければ困る。
だが、仕事のことを、サイキッカーを救う使命を忘れて、キースは長く生きられない。
それがよくわかっていたから、ウォンは新たな計画を複数用意していた。
ノア以外のサイキッカー居住区。各国との極秘パイプライン。対民間研究所作戦。いずれキースが活躍するであろう場所が、いくらも準備されていた。ひどい負担にはならない程度の、しかしキースのようなカリスマ的支配者が、絶対に必要な場が。
二人は新たな計画に没頭した。
ノア時代のように。いや、ノアにいたころよりも、さらに深い信頼で結ばれて、新しいアイデアを次々に出しては熱心に語り合った。
それでもかつてのキース・エヴァンズの勢いは、もう、彼の中には、なかった。
《無理もない》
いやむしろ、さすがキースというべきだろうとウォンは思う。普通、若くして大きな仕事をなしとげた者は、それが挫折した時、その仕事とともにもろく崩れてしまうもの。過去に醜くしがみつき、同じことを試みては失敗し、廃人同様の余生を送るのが、多くの支配者の辿る道だ。友人や同志に裏切られた者は、人間不信に陥って、自分から孤独の殻に籠もり、そのまま寂しく死に向かう。
しかし、キースの瞳は、弱ったとはいえ、まだまだ輝きを失ってはいなかった。彼が完全に駄目になる前に、そのエネルギーが枯れてしまう前に新生ノアから連れ出したのは、決して間違いでなかった筈だ。
何よりもそれを確信するのは、明け方少し前――キースは半ば眠ったまま、ウォンのぬくもりを求めて腕を伸ばす。掌で恋人の鼓動を確かめると、すっかり安らいだ表情でもう一度深い眠りに落ちてゆく。
そう、やっと、この人が欲していた時間を与えることができるようになったのだ。もうしばらく、静かな生活を楽しみたい。このひとときは、次の計画のための短い幕間なのだと、割り切って――。
それでも、弱っているキースをそのままにしておくことはできない。
さて、どうする?

ある夜、ウォンはなにげなく、雑務の最中にこう耳打ちした。
「キース様は、身体に陰の気がたまりやすいようですね」
「そうか?」
キースは眉を上げた。東洋の陰陽の概念は彼も多少は知っていた。すべてのものにバランスがあって、どちらかに偏りすぎると良くない、というようなことだと。
「ちょっと、陰を払ってみましょうか」
「どうやって」
「手をかざすだけです、適切な場所にね。そこから陽の気の流れを吹き込むんですよ。ああ、ちょっと横になっていただけますか?」
「座ったままでは駄目なのか」
「できますよ。それでは、今のままでしましょうか」
ウォンは向かい合った椅子に座るとキースの左胸に掌をかざし、薄く目を閉じるとその掌に何か力を込めた。
「……ん」
キースは小さくうめいた。
何か、暖かいものが胸に流れ込んでくる。
同時にだが、背筋がゾクッと震えるのを感じていた。
それは、冷え切った身体が熱い湯にひたされたような感覚――寒さが身体の芯から徐々に抜けて、かわりに熱で満たされていく時に似ていた。性的な心地よさではないのだが、つい喘ぎが洩れてしまう。
「あっ……ウォン」
「ふふ。なかなかいいものでしょう?」
「いい……けど」
心地よいといえば、この上なく心地よい。このまま眠ってしまいたいほどだ。なぜウォンが横になれとすすめたのか、今ならわかる。
でも。
「う、あ」
思わず洩れる吐息が、まるで誘っているようで、キースは恥ずかしかった。
それともウォンは、僕が欲しがるのを待っているのだろうか。
どうしよう。
抱きしめられたくなってきた。
「欲しいですか、もっと?」
微かにうなずくと、ウォンの掌から流れてくるものが増えた。
全身が、心地よい熱に満たされる。
ああ。
キスが欲しい。
全身に口づけられたい。
「ウォ……」
抱いて、と言おうとした瞬間、キースは自分の指先から、熱量が溢れ出すのを感じた。注がれているものがそこから抜けて、すうっと冷えていくような感覚。
「気が、全身に行き渡ったようですね」
そこで、ウォンの掌はすっと降ろされてしまった。
キースは眉をしかめて、
「とどめておけないのか、これは」
「そうですね、一つの力の流れですから。訓練すれば長い間身体の中にとどめておくことができるかもしれませんが、そこまでしなくても私が時々注ぎます。どうやら気に入っていただけたようですし」
「うん」
溢れ、こぼれていく熱の感覚が、キースは惜しくてたまらなかった。
もっと欲しい、とねだってしまいたいほど。
「お疲れでしょう。今晩はこの辺にして、そろそろ……」
「そうだな」
言われてみれば、ベッドへ行く時間になっていた。
だが、キースは立ち上がれない自分に気付いた。
足に力が入らない。
まるでしたたか酔ってでもいるようだ。
「キース様?」
「ウォン」
少しずつ冷えてゆく身体を感じながら、キースは小さく呟いた。
「ベッドまで、抱いていって……」
「喜んで」
ウォンの腕にそっと抱き上げられ、そのぬくもりを感じながら、キースは小さなため息をついた。
何の、何の不足もない生活。
昼は昼で、二人で様々な計画を思い描いては進めてゆく。夜は夜で、ウォンの肩口に頭を押しつけたまま、朝遅くまでゆっくり眠っていられる、贅沢な毎日。
それなのに、僕の身体のいったいどこに、翳りがひそんでいるんだろう。
暖かく溶かされてしまうと、立てなくなってしまうほどの冷たい塊が、まだ?
ウォンはキースをベッドへ横たえると、いつもの微笑みで自分も寄り添った。
「キース様」
「うん?」
次の瞬間、軽く口唇を吸い上げられて、キースの中をたゆたっていた熱が一気に燃え上がった。
思わず相手の首にしがみついて、口吻に応える。
「ウォン」
「はい」
「さっきのは、やっぱり愛撫だったのか」
キースが小さく呟くと、ウォンはクスリと笑って、
「それをいうなら、前戯でしょう? 愛撫というのは、まなざしだけでもできるものですよ」
「でも」
「そうですね、別に、そういうつもりではなかったんですが……注ぐ、という意味では同じなのかもしれませんね」
「あ」
「敏感になっていますね、これからはあれを前戯にしましょうか」
「や……そんな」
それでもそのまま、互いの服を脱がせあって。
「なんて、綺麗な」
ウォンが感に堪えないといったように呟く。
うぶ毛まで銀いろのキースの肌は、淡い光のなかでもぼんやりと霞んで輝く。それは本当に、人でないような美しさだ。何度みても驚きは変わらない。華奢なくせに、その身体の要所要所は適度な甘い丸みを帯びて、この世の青年がもつどんな肉体よりも、魅力的な曲線を描いている。指で、舌で、肌のありとあらゆる場所で、この身体に触れたい。たっぷり愛したい。
「今さら、世辞なんか」
キースが恥じらいに顔を背けると、ウォンの身体がそれを逃さぬよう、すっぽりと包み込む。
「お世辞なんかじゃありませんよ。……なにより貴方が欲しくてたまらない、キース・エヴァンズ」
口唇を口唇で塞いで余計な言葉を封じ、時間と手間をじっくりかけて、二人は濃密に愛し合う……。

予告通り、それから時折、ウォンはキースに陽の気を流し込むようになった。
昼も夜も構わず、キースが疲れているとみるとほどこす。
そのままベッドへもつれこむ時もあるし、一息いれてから仕事に戻る時もある。
キースはその度、甘い声を洩らして堪える。
それを繰り返されるうち、身のうちに起きた変化に気付いて。
ウォンの愛撫なしで眠れない自分、ウォンの口吻がないと起きられない自分に。
体中の細胞が快楽で塗りつぶされて、ウォンが隣にいるだけでも胸がときめいてしまう。下半身のそばでちょっと空気が動いただけで、達ってしまいそうになる時もあって。
淫乱極まりない、と恥ずかしくなる。こんなにウォンに溺れてしまうなんて。ウォンが好きで、ウォンの何もかもが欲しくて、だからこそ今の隠遁生活を選んだのだから、それが愛欲の日々であっても構わないようなものだが、それでもやはり、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。相手の胸に甘えて、「欲しい」と囁くことが、未だ頬を染めずにはできない彼だからこそ。極まって「愛してる」と叫んだ後も、なんて安っぽい台詞を、と身がすくむ。触れるか触れないかの、吐息のようなキスで焦らされるだけで、薄く涙がにじんでくる自分が、時にうとましい。
文字どおり、ウォンなしでは生きられなくなってしまったのか。
しかし、そこまで乱れる自分の中に、まだ冷たいものが残り続けているのも感じている。
その正体がわからなくて、つい、キースはため息をつく。
「寒いですか?」
「いや、別に」
ウォンは小さく身震いしたキースに、心持ち身を寄せながら、
「いくら空調がきいていても、今日は雪ですからね、外は」
「そうか。そうだな、冬なんだものな」
ふと、雪の山小屋で愛し合った日々を思い出し、キースは慌ててその記憶を胸の底へ押し込めた。何かのたびに赤面していたら、それこそ本当に色ぐるいだ。
「それより、海底居住区の話の続きを」
「わかりました」
ウォンは新しい書類を繰って、
「ここ一帯は岩盤が強固なので、そういう意味での不安材料はありません。建築資材の強度も充分ですし、とりあえず目立ちにくいという事と金銭的な面で、スペースコロニーよりはやや着手しやすいと思われます。ただ、海中ならではの問題があります。たとえば海中施設に長期滞在する者は、耳や臓器に変調をきたします。また、テレポートなどで瞬間的に脱出するのは、非常に危険です。その二つが解決されれば、理想的な避難場所といえるでしょう。物資輸送ルートさえ、うまく確保できれば……」
そこでキースの指が動き、小さな表を指し示す。
「ウォン、この、呼吸用混合気体の不活性ガス比率というのはなんなんだ?」
「それはつまり、ふつうの空気では、海底での長期生活はできないということなんです。百五十フィートを超える水深の場合、高圧酸素の毒性や窒素酔いを避けるために、別の不活性ガスなどを、呼吸用の気体に混ぜなければなりません」
「つまり、麻酔をひきおこさない気体の混合によって、正常な酸素分圧を保とうとする訳か」
相変わらず、打てば響くの明晰さ。ウォンは優しく微笑んで、
「ええ。このデータは四十年以上前の実験記録ですが、組成表とマニュアルは参考にしてよいと思います」
「充分なるだろう。ドルトンの分圧の法則を使えば、深度二百フィートなら7.0ATAとなる訳で、その時の酸素のパーセントは……」
サラ、と紙の端に公式を書いてみせ、
「計算上ではあっている、少なくとも」
「……そうですね」
ウォンの答えに間があったので、キースは眉をしかめた。
「なんだ? 何かおかしなことを言ったか?」
「いえ。ただ、ちょっと感心していただけです」
キースは口唇を歪めて、
「なんだ、これぐらいのこと。馬鹿にしているのか?」
「そんなこと」
「いくら君の思うとおりに動くからといって、子供でも人形でもないんだぞ、私は」
そう口走って、キースはあっと身をすくめた。
そんなことを言うつもりはなかった。
言うつもりはなかったが、しかし自分は、本当はそう思っていたのか、と気付いた。
つまりそれが、どうしても身体に残る寒気の理由――自分の一人の力で生きられない悔しさ、自分の意志で選んだのではないお仕着せの場が用意されている不安。ウォンに大事にされ、気遣われているのが嬉しくても、それでも何か違うのではないか、そんなことですべて解決する訳ではないだろうという、疑いの気持ちがぬぐえなくて。
「キース様」
眼鏡の奥の瞳は、すうっと細くなった。
「思うとおりに動かそうなんて、思っていません。ただ、貴方の器にふさわしいだろうと思うことを、毎日考えているだけです。私は、自分の我が儘な恋心で、貴方を何度も傷つけ、苦しめてきたのです。……それを今、少しでも償おうと思うのは、そんなに許されないことですか」
「なんだ、つぐないで、僕を抱くのか」
「キース・エヴァンズ!」
語気の激しさにキースはハッとした。頬を叩かれると思って目を閉じた瞬間、きゅっと抱きすくめられて、キースはさらに身をすくめた。
「私が好きで、私を欲しいと言ったのは、貴方です!」
次の瞬間、二人はベッドへ飛んでいた。
ウォンはキースの上にいた、だが例によって身体を離し、キースの胸に掌をかざした。
「私の気持ちを、じっくり流し込んであげます。よく、わかるようにね」
「あ」
いつもの熱いものが、薄い胸をとろりと満たしはじめた。
キースは懸命にその流れにあらがいながら、
「これが、君の、気持ちなのか」
「そうです」
「じゃあなぜ、いつも溢れても平気なんだ、君は」
いつも君は、何度でも注いであげますよ、という。
君の気持ちだと思うからこそ大切で、だから溢れて欲しくないのに。いくらでも注げるものではないはずなのに。僕がただ、君の愛を受けるだけの器だとしても、君の注ぎ方が乱暴だったり、適切な量でなければ、ひびも入るしこぼしもする。
そんな単純なことが、なぜわからない。
単純な暮らしのせいで目が曇ったか、リチャード・ウォン。
「……平気なんかじゃ」
ウォンは、かすかに震えていた。
「全身全霊で貴方が好きだと……貴方を満たしきってもまだ尽きない泉が私の中にあると、貴方に思って欲しかっただけです。少しでも安心してもらいたかっただけ」
こぼれてきた髪に触れて、キースが囁き返す。
「そんなに不安そうなのか……僕は」
「いえ、ただ」
「先回りか」
ウォンは小さく首を振った。
「ただ、離れていた分を、少しでもとり戻したいだけです」
「急がなくて、いいのに」
柔らかくなった口調に、ウォンははっと目を見張った。
アイスブルーの瞳が、じっとこちらを見守っている。真摯に。
「君に愛を注がれるのは好きだけど、あんまり急だと……壊れる……」
「すみません、私は……」
相手のかすれ声を押しとどめて、キースはやっと微笑んだ。
「いいんだ。セーヴできないほど、僕が好きだって、ただそれだけのことだろう?」
ウォンの胸にそっと掌をあてて、
「あと、やっぱり教えて欲しいんだ。とどめておくやり方と、その……君に注ぐやり方を」
ようやく微笑みがウォンにも戻った。
「そうしたら、許してくださいますか?」
「許さない」
含み笑いでキースは答える。
「許すものか。君はずっと僕と一緒にいるんだ。離さない。どんなに退屈しても、僕に飽きても、毎日ずっと注ぐんだ。命令だぞ」
「承知しました」
くちづけを交わし、抱きしめてから、ウォンは囁いた。
「貴方が望むとおり、注ぎます……こぼさないように、でもたっぷりと、器が乾かないよう、毎日」
暖かい、お互いのかいなの中で、相手を濡らし潤しながら、二人は一つになる。
飲み干した愛に酔い、文字通り溶けあってゆく。互いの形すらわからなくなるほどに。

それでもあくまで二人は別々の器。
時に波風が立ち、苦しむ日も、あるのだ。

(2001.1脱稿/2001.2改稿/参考文献『海中居住学』ジェームス・W・ミラー/丸善株式会社)

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Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/