『真夜中のおかし』

「いけない」
その夜、デスクの前でしばらく考え込んでいたキース・エヴァンズだったが、突然そう呟くと、組んでいた腕をほどき、両掌で自分の顔を覆った。
「何も浮かばない」
いや、事態を改善する案がまるっきりないのではない。やるべきことに達する何かが足りないのだ。それは情熱か、力か、資金か――そう単純な問題でもないようだ。胸にぽっかりとあいた大きな空洞、雲のように広がる不安に、キースは呻いた。
その背後にふと、大きな影が現れた。
「煮詰まった時は、風に吹かれるといい知恵が出ますよ」
キースは顔を覆ったまま、低く呟く。
「もう戻っていたのか」
リチャード・ウォンは「大切な商談がありまして」と朝から出かけていた。帰りは遅くなるかもしれません、とだけ告げて、仕事の内容は話さなかった。キースも彼の野望に興味はないから、言わないことをわざわざ訊いたりしなかったのだが。
「いくら重要な仕事でも、それだけに時間をかける訳にもいきませんからね」
ウォンはキースの肩に手を触れた。ひどく凝っているそこをさすりながら、
「ああ、こんなに疲れているのに、仕事を続けていたのですね。眠れないのですか? いくら若いからといって、あまり無理をしては」
「いや、まいっているのは神経だけだ」
「ではやはり、休暇をとるべきです」
キースは即座に首を振った。
「人のいないところに行きたくない。二人っきりでこもるのは嫌だ」
「田舎はお嫌ですか。では、いい季節ですから、久しぶりに紅葉狩りでもいかがです。影高野もおとなしくなっていますからね、京都で豆腐でも……」
「にぎやかな観光地も嫌だ。もっと神経が参る。湯につかるのも飽きた」
ウォンは大きくため息をついた。
「そうですか、そんなに《漂泊の思いやまず》だったんですね」
「え」
ウォンは掌でキースの肩を包み、柔らかく暖めながら、
「貴方は元々、自分のための楽しみに対して腰の重い方です。疲れていれば考えることすらおっくうなはずです。だのにそんなにとっさに条件ばかりならべるのは、ずっと旅に出たいと思っていた、いい証拠ですよ」
キースはふっと頬を赤らめ、うつむいてしまった。
図星のようだ。
ウォンはふむ、とうなずいた。
気晴らしといえば本を読むぐらいしか知らない青年である、私が連れ出さなくて、どうする。
「では、なるべく遠くで、しかしあまり人里離れていない観光地に物見遊山、ということで如何です?」
「そんな都合のいい場所があるか」
ウォンはキースの肩に口づけた。
「ええ。探せば、いくらでも」

景色が変われば、良い考えが浮かぶ――本当だろうか?
キースが連れてこられたのは、日本のとある海辺の街だった。内海に「湖」の名がついている、ほどよく人が溢れる観光地だ。
背の高すぎる中国人と銀髪のイギリス人の組み合わせは、目立つようで目立たない。二人は普通の旅行者のように、ロープウェイにのって移動し、山の紅葉をみる。立ち寄った博物館で、木製のオルゴールを組み立ててみたりもする。それからドライブインで軽食をとって、土産物屋をひやかして……。
だが、キースの心は動かない。
動くはずもない、といつもの仏頂面で過ごしていると、ウォンが声をあげた。
「おや、面白い食べ物がありますね」
「なにがだ?」
ウォンが示したのは、生地だけの薄い、細長いパイだった。キースが首を傾げると、彼はニコリとして、
「夜のお菓子、と注釈がついています」
「どういう意味だ」
「夜の、家族団らんのひとときに食べて欲しいんだそうですよ。リラックスする食べ物ということのようですね」
「ふうん」
「ひとつ買いましょうか。一番高級なのを」
「君が、そんなものを試してみたいとはな」
「その地方の名産品を口にするのは、旅の醍醐味ですよ?」
ウォンはパイを一箱買って、土産物屋のベンチに腰掛けた。立ったままのキースに、一枚差し出す。
「ブランデーの香りがするな」
「そうですね。あと、ナッツも入っているようです」
ウォンは皓い歯を見せてパイをかじる。長い脚をもてあましながら、そこらへんで買った菓子を食べてみせる姿はいささか滑稽だ。キースも仕方なくつきあってかじってみるが。
「普通の菓子じゃないか」
「そうですね。まあ、それでも甘い物は脳の疲れをとるといいますから」
キースは口をとがらせた。
「日本という国は、いくら夜とはいえ、子どもに酒入りの菓子をすすめるのか」
「お酒といっても風味程度ですし、アルコールに弱い子どもでもせいぜい、寝つきが良くなるぐらいのものでしょう。アメリカ南部の貧困層は、赤ん坊をあやすために、ハチミツとウィスキーを混ぜたものを飲ませるといいますし」
「それはあやすんじゃなく、気を失わせているだけじゃないのか」
「まあ、これで気を失うことはないでしょうが」
ウォンはもう一枚、包み紙を破いた。
「心配なら、ひとつを、はんぶんこしましょうか」
「別に心配なんかしてない」
ウォンの手からそれを受け取って囓る。
食べ終えると、ぶっきら棒に呟いた。
「疲れた。そろそろホテルにひきとろう」
「ええ、頃合いですかね」

海の見える湖畔のホテル。
予約した最上階の部屋のドアをウォンは開け、キースを先に通した。
「なんだ?」
窓辺のテーブルの上に、小さな菊の花を置いた、にぶくひかる盃が二つ。
ウォンはスッとそなえつけの冷蔵庫に近づき、大吟醸のラベルのついた壜を取り出して、盃に注いだ。
「今日は菊の節句ですから、ささやかですが、お祝いしましょう」
「もう十月じゃないか。重陽の節句というのは、九の数字が重なる九月九日のことだろう?」
眉を寄せるキースに、ウォンは微笑みかけた。
「九月九日といっても旧暦の話ですから、私の国では今日が祝日なんです。しかし、よくそんなことをご存じで」
キースはむっと顔を背けて、
「アキナリ・ウエダぐらい、読んでいる」
「ああ、『雨月物語』までお読みになってらっしゃるんですか」
「菊の節句に帰ると約束した弟にあうために、敵の手にとらわれた兄が、己の命を絶って、魂の姿でかけつけてくる、怪談話だろう」
「そうですね。《菊花の約》というのはそういう話ですが、たぶんそれは、王維の詩を下敷きにしているのだと思いますよ」
「漢詩か」
「ええ。“独り異郷に在って異客と為り/毎も佳節に逢えば倍して親を思う/遥かに知る兄弟の高きに登る処/遍く茱萸を挿せど一人少なきを”……《九月九日、山東の兄弟を憶う》という詩があります。ひとりで肉親をしのぶ詩ですね」
「茱萸……グミというのは、秋の食べ物ではないだろう?」
「そうですね。まあ夏にもありますが、干した実のことですね。香袋に入れて身につけるのが本式のようですし。もともと重陽は、風に吹かれて菊花酒を飲みつつ、家族の息災と長命を願う節句なんです。さ、貴方もどうぞ」
ウォンは盃を手にとり、キースにすすめる。
それをクッとあおると、ウォンの前に腰をおろす。
「菊花のちぎりの二人は、肉親ではないだろう」
「そうですね、義兄弟……というよりはっきり恋人同士ですね。主君を失って放浪していた武士と田舎学者の恋物語ですから。互いの愛を永遠に誓うのに、重陽の節句がふさわしかったのでしょう。でも『雨月物語』ならば、私は《青頭巾》の方が好きです。愛する少年の死を認められず、相手の死肉をむさぼって鬼になってしまった僧侶の気持ちの方が、わかるような気が」
「ふん。君にわかるものか」
キースは立ち上がり、盃を置くと突然バスルームへ駆け込んでしまった。
扉はぴたりと閉ざされたが、ウォンにとってそれは意味のないことだ。
テレポートで飛び込んでみると、キースは涙を浮かべている。脚の間から立ち上がったものを握りしめて、
「放っておけ。自分でする」
「どうなさいました」
「さっき君が食べさせた菓子、何か入っていたろう」
ウォンは目を丸くした。
「確かに“真夜中のお菓子”とキャッチフレーズがついているものを買いましたが……ウナギは精がつくといいますが、でもそんな」
キースの頬を涙が滑り落ちる。
「君にはそういう類は効かないから、だから澄ましていられるんだ。だけど僕はそうじゃない。ずっと我慢してたんだ……君も、気づかなかった訳じゃあるまい。無意味な会話で、僕を焦らしてたんだ」
「そんなこと」
ウォンはぐっと声を低めた。
「貴方のグミの実が食べたい。今すぐ」
その言葉どおり、文字通りウォンは、若い恋人にむしゃぶりついていった……。

「おはようございます」
「あ、うん」
明け方の日差しが、カーテン越しに淡くさしてきていた。
ずいぶんよく眠れた。
性的な快楽は睡眠薬のかわりになることは古くから知られている、といったのはフロイトだったか、とキースはすっきりした頭で考える。傍らで微笑んでいる男の体温が心地いいが、なんとなく休んでいられないような気分でもある。
「朝の散歩にでも出ますか?」
「そうだな」
二人は暖かな服に着替えて、やはりこのあたりの名所と呼ばれる砂丘へ向かった。
砂に足をとられて疲れるはずなのに、海からの涼しい風に吹かれて、キースは何かがみなぎってくるのを感じていた。
「いいアイデアが浮かびました?」
ウォンの問いにうなずく。
「ああ。実行可能なものが、いくつかな」
「それは良かった」
「どうして今まで浮かばなかったのか不思議なくらい、単純なことばかりだが」
「機が熟していなかったのでしょう。時は金なり、とはいいますが、常に最短のルートをたどることが正解ではありませんよ。美しい景色や音色に癒やされない時もあれば、つまらないと思っていた経験が、急に輝きだすこともあるものです」
「そのようだ」
キースはフッと笑って、ウォンの掌を握った。
「ウォン。帰る前に、例の菓子を買っていこう」
「そんなにお気にめしましたか?」
「一家だんらんの場で囲むなんて、ウソだろう、あれは?」
「どうなんでしょうね、わかりませんが」
手袋ごしに相手の体温を探りながら、ウォンは低く呟いた。
「どのみち私にとっては、貴方が真夜中のデザートですから……」

*注:浜松名物「夜のお菓子/うなぎパイ」の本当の正体については、各自でお調べ下さい。ウォンが買ったのは「真夜中のお菓子/うなぎパイ V.S.O.P」、二人が泊まったのは浜名湖湖畔のつもりです。また、重陽の節句は、実際に香港では祝日で、2014年なら10月2日にあたります。

(2005.9脱稿)

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Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/