『虜 囚 (とりこ)

ドロリと重い覚醒。
野営生活の中、柔らかな寝床で久しく休まないでいたとはいえ、冷たい石畳の上、縛めつきで目を覚ますのは明らかに異常で、芳苑(ほうえん)はすぐに思い出した。朝まだき、副将花木蘭(か・もくらん)のために新鮮な水を汲もうと森の泉に腰をかがめた瞬間、何者かに当て身をくらわされ、麻薬をかがされ眠らされたことを。
そして今、太い格子の部屋に一人ころがされている、自分。
「不覚……」
まだ賊軍の本拠地までには間がある、森は深く、陣地の周囲には厳重に見張りが巡らされ、ゆえに一人歩きも安全と思っていた。その油断が招いたのが、このていたらく。
しかし。
連中も、私など捕らえてどうする気か。
芳苑はとっさに自分の価値に思いをはせた。兵士でもない、数ならぬこの女の身に何の用だ? 身体に激しい痛みもない、服もそのままで、麻薬で寝こけている間に陵辱された風でもない。いや、敵陣ど真ん中へ忍び込んでわざわざ拐かしたのだ、そんなつまらぬことが目的のはずもない。おそらくは、この退廃した隋朝において突出した戦果をあげる河南討捕軍、その中においてひときわ名高い、若き女副将花木蘭の、その側仕えと知りつくしてのこと――戦況が不利なこの時期に何らかの情報を引き出し、もし使えれば人質に、とのもくろみに違いない。
とっさに彼女の頭に浮かんだのは自死だった。一刻も早く死なねばと、気ぜわしく頭を働かせる。
それは捕虜は潔く死すべし、という戦時の規律をたたき込まれていたからではない、ただ木蘭さまに申し訳がたたぬというその一点に、彼女の思考は凝らされている。かの副将には恩しかない。孤児の自分を戦火から救いだし、名をつけ側仕えとして召し上げてくれた。戦にもついていきたいと我が儘をせがむと、女扱いはできぬぞと男装させながら、常に身近に置いて優しく扱ってくれた。
どのみち賊軍どもは略奪者だ。むごたらしくむさぼられ殺される惨劇を、芳苑自身も一度ならず目の当たりにしている。それを考えれば自ら死ぬ方がどんなによいか。
どんな拷問を受けようと何も漏らす気はないが、秘薬など一服盛られてかなわない。いやすでに何か訊きだされている可能性もある。大したことを知っている訳ではない、だが軍の誰に会わせる顔があろう。身より後ろ盾のない芳苑の、人質としての重みは疑わしいが、血の熱い木蘭将軍のこと、物の数でないような者こそ交渉で懸命に救おうとするやもしれず、戦況が有利な今だからこそ、枷になるのは少しでも避けたかった。
芳苑は方法を考えた。死ぬのは難しくない。水も食べ物もとらねば死ぬ。ひどく殴られても刀で斬られても槍で突き通されても死ぬ。しかし今は急ぎである、一人でできて一番てっとり早い方法はなにか。
下着を裂いて縄をつくり、格子にかけて首を吊ることはできる。見張りに気づかれなければそれが一番確実だ。腕のたたぬ女一人となめられているらしく、手かせは身体の前にかけられていて、仕事は難しくなさそうだ。
と、その瞬間、彼女の脳裏に別の考えが閃いた。死んだ後、私の身体を賊軍どもに利用されはしまいかと。
村の長にきいたことがある、死んだ者を生きているように見せかけるため、人形を前面に押し立て進軍した昔の軍師の逸話を。くびれ死んだ私に化粧しいかにも生きているようにみせかけて、賊軍が道具に使ったらどうするか。しかも交渉の場でそれに木蘭が気づけば、怒りのあまり我を忘れ、一人でも敵を斬り散らすだろう。烈火の気性、それは武将として時に致命的かもしれぬが、それこそが彼女の美点であり、命消える日まで変わらぬことだ。そんな人だからこそ、見いだされ側にいられるのが、たとえようもない喜びだった。
「……そうか」
芳苑は落ち着きを取り戻した。死ぬにしても木蘭さまに迷惑をかけてはならぬ。もう少し考えてからにしなければ。
彼女は伸び上がり、壁の上方の小さな窓から外を見た。
ここは高い塔のようなところで、元物見であったか、もしくは貴人を幽閉するところであったようだ。あたりはすでに薄暗く、詳しく判別はできないが、回廊のある石城であるのはみてとれる。賊の進み具合から判断して、主なく使われなくなっていたものを中継地として使っているようす、副将の脇で作戦会議をきいてきた芳苑には、いくつかの心当たりが浮かんだ。そのどれであったとしても、味方の陣まで距離がある。脱走しても必ずまた捕らえられるに違いない。
とはいえ、警備の厳重さはさして感じられない。夕餉の支度らしい煙が上がっているところが見え、あそこが炊屋と丸わかりだ。あそこに忍び込んで食事に毒でも混ぜてしまうか。だが、果たしてあそこまで行きつけるだろうか。そして毒はどこで手に入れる?
ふと、芳苑は思いついた。炊屋には油と火がある。それで我が身を焼いてしまおう。それがいい、死んでも身体を利用されまい、黒こげで判別もつかない死骸は誰のものだかわからない、人質としての価値まで焼き付くされるではないか。
そう、敵が寝静まったところを見計らって、こっそりと死ねばいい。この城すべてに火をかけられればそれもいい、敵の勢力を少しでも減らせば、それこそ交渉どころでなくなるだろう。が、そこまで望むは望みすぎというもの、とりあえず自ら命を絶つことを一番の目的として動こう。
そう腹を決めると、彼女は敵兵の動きを入念に観察しはじめた。食事を差し入れにきた兵にはタヌキ寝入りで応え、そして気配が去った後は、鍵穴にそっと忍びよって、髪の奥に仕込んだ簪で中をかき回す。こういった古い鍵は単純な仕組みと芳苑は知っていた。食うに困って盗みを働いたのも、悪い仲間がいたのも昔のことだが、その時覚えた生きる知恵は忘れていない。ちょうつがいに汁物の残りをかけて鳴らないようにし、こっそり格子を押し開けるのに、たいして時間はかからなかった。
足音を殺して彼女は急ぐ。翌朝の支度をする下女や当番兵に見つかるのはやっかいだ。素手で逃げきれる腕前はない。もう一度捕まれば厳重に閉じこめられ、交渉を急がれて大変な目に遭うだろう。全神経を人の気配を読むことにあてつつ、彼女は炊屋へたどり着いた。
油の場所は匂いでわかった。火打ち石を探し、火をつけるものを探す。
「木蘭さま」
支度ができた時、芳苑に初めてためらいが走った。もう二度とあの方に会えないのだ、あの長い黒髪を梳くこともできないのだ、そう思った瞬間、死にたくない、と思わず喘ぎが洩れた。
その時、にわかに人の気配がたった。争う音が近づいてくる。芳苑は慌てた。急いで頭から油をかぶり、火種に火をつけた。
「お別れです、木蘭さま」
かたく目を閉じ、死の恐怖よりさらに苦しい気持ちの中、火を胸元にあてようとする。
「待て、芳!」
叩き落とされ踏み消される火種。
「許さないぞ、こんなところで死ぬのは」
芳苑は悟った、誰が来てくれたかはっきりと。油が流れ込んでよく見えない瞳で、戦う兵士達の騒がしさでよく聞こえない耳で。
「私の力を見くびるな。おまえ一人助けられなくて、何が将軍だ」
いいえ、貴女がそういう方だからこそ、私はここで死のうと。
でも、もう一度お会いできて、嬉しい。
身の内にわき起こる喜びを抑え、自衛の短剣を与えられて、彼女は木蘭と脱出した。ふいの夜襲に敵は動揺し、精鋭部隊に切り込まれたその傷は大きいようだった。
花木蘭の名はふたたび上がり、後の討伐も少しく有利になった。末永く愛され伝説となり、後世に【ムーラン】の名で世界中に知られるようになる男装の麗人の、これは知られざるささやかな逸話の一つに過ぎないが……。

「木蘭さま」
居城へ戻り、身体を清め服を整えて、そしてようやく木蘭の寝所へ芳苑は戻った。
「この度の失態、誠に申し訳ございませんでした」
膝を折り深く頭を垂れ謝罪の言葉を述べる。木蘭も低音で囁きかえす。
「手落ちをいうなら責められるは私だ。敵に懐に入られて、気づかぬ者が愚かなのだ」
「木蘭さま」
「申し訳ないと思うなら別のことだろう。永遠に私の寝台を冷たくしておく気だったか」
芳苑は頬にうっすらと血をのぼらせた。美しい彼女の夜伽を断る者などいないはず、いくらでも代わりは、という言葉をようやく飲み込んでいる。
そして別の台詞を吐いた。
「どうして私が、炊屋にいると気づかれたのですか」
木蘭は真っ先に飛び込んできた。夜襲においてはさして重要でない場所へ。一瞬遅ければ芳苑は死んでいた。なぜ間に合ったか。
木蘭は立ち上がり、彼女の脇に膝をついた。
「おまえの考えることぐらい、私にはわかっている。私のために死のうとしたのだろう」
「でも、なぜ、火だと?」
「わかっているといったろう」
芳苑を寝台へ投げ出すと、木蘭はその身体に素早く覆い被さった。
「何時だっておまえは、火のような女だからな」
「それは……」
貴女も、と言いかけて口唇をふさがれる。

そして二人はそのまま火となった。

(2001.10脱稿/初出・書評誌『text jockey 2001〜Theme;火〜』text jockey 2001.12発行)

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Narihara Akira
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