『暁を覚えず』

「キース様?」
いつも驚くほど早起きで、毎朝カルロが書斎を訪ねる頃には、すでに服装を整えてデスクでコンピュータのキーを打っているキース・エヴァンズなのだが、今日に限ってその姿が見えない。
「キース様、お部屋にいらっしゃらないんですか」
返事はない。
何か用があって、ノア総帥は早めに部屋を出ている時もある。彼の仕事は多忙を極める。突然何か思いついて飛び出している時もあるし、誰かの助けを求める声をきいて思わず駆けつけている時もある。今日のキースには、午前中から一日資金援助者と会う約束があった。だが、それは向こうの都合で昨晩遅く、急にキャンセルになっていた。それを忘れて出かけてしまったのだろうか。
「そんな筈は……まさかまだ寝てらっしゃるんじゃ?」
馬鹿な。もう昼近い時間だ。
そう思いつつカルロがクローゼットの中をのぞくと、いつもの上着が下がっている。
もしかして、具合いが悪くて起きられないでいる……?
カルロは、おそるおそる寝室をのぞいてみる。
「おはようございます、キース様」
「……」
ベッドの中、毛布の下で丸まっている身体がある。
「どうかなさったんですか?」
カルロはキースのベッドに寄り、すっと腰を降ろした。毛布の下に掌を滑りこませ、額が汗をかいていないか確かめる。呼吸は正常だし、額は乾いていて熱もないようだ。
カルロは安堵のため息をついた。
「もう昼です。そろそろ起きていただけませんか?」
キースは曖昧な声で答える。
「うん……わかってる……でも、眠いんだ……」
青年は毛布で再び顔を覆い、カルロに背を向ける。
「お疲れですか」
本当は、キース様をゆっくり休ませてあげたい、とカルロは思う。ノアに休日は存在しない。一度始めたらきりのない仕事を彼はしている。二十四時間働き続けても追いつかない仕事を。だが、休まなければ、適度な息抜きをしなければ、どんな有能な人間だって潰れてしまう。どうしても眠い日、起きられない日だって出てくるだろう。外部との予定もないのだ、本人が今日を休みにしたいというなら、ゆっくり寝ていてもらっていいじゃないか。
だがしかし。
「消化のいいものを用意しますから、一度起きて食事をして下さい。少し食べたら、また眠ってくださって構いませんから」
一日ずっと眠り続けていては、かえって疲れてしまう。キースは食が細い方だ。栄養もとらずただ眠っていては、体力も落ちてしまう。
キースはだが、カルロのそんな思惑をよそに、さらに毛布の中にもぐり込む。
「うん……」
キースはどうしても起き出そうとしない。
やはり何処か具合いが悪いのでは、とカルロは急に不安になる。そっと毛布の端を持ち上げ、半分うつ伏せた若き総帥の顔をのぞき込む。
かすかに眉根を寄せて、だが安らかな顔でキースは瞳を閉じている。
眠れる獅子、という言葉をカルロは思い浮かべた。
その端正な顔はいつも険しい。多くをその身に従えながら、誰も親しく寄せつけない威厳を彼は持っている。孤高の王者、それが昼間のキース・エヴァンズである。
しかし、眠っているその姿は、むしろ愛らしくあどけない。二十歳はもう子供ではない、少年と呼ぶにはとうが立ちすぎている筈なのに、こういう時のキースは本当に幼子のようだ。
カルロはキースの寝顔に、つい見とれてしまった。規則正しい呼吸。瑞々しい丸い頬。閉じた薄い目蓋。柔らかな輪郭を描く口唇。銀の髪があわく顔をふちどって、清潔な面ざしを更に清らかに見せている。
「キース様」
低く名を囁いても、キースは返事をしない。
カルロは吸いつけられるように動いて、キースの口唇の端に口づけた。
起きて下さい、キース様。
起きて。
キースの口唇が動いた。
「ん……」
意味をなさない吐息しか洩れない。
「無理にでも起こしてしまいますよ、キース様」
返事はない。
カルロが毛布をはいでも、キースは逆らわない。仰向けに身体を起こしても、ぐったりとしたまま動かない。
「起きないと、襲ってしまいますよ」
「……」
目蓋が震えている。こちらの言葉は聞こえている筈だ。意識のない者を弄ぶ趣味はないが、もし――そうでないのなら。
カルロはキースのパジャマに手をかける。
ボタンを外し、前を開くと、甘いにおいが香りたった。
ベビーパウダーの匂いだ。昨晩シャワーを浴びた後、そちこちに軽くはたいたのだろう。
シャツの下からのぞく、肌理の細かい肌。
その肌のまぶしい白さと漂う香気に眩暈を感じながら、カルロはキースの袖を抜く。
キースはいまだ、されるままだ。
「下も脱がせてしまいますよ」
ズボンに手をかけると、キースは少しだけ腰を浮かす。寝返りをうって、カルロの動きを助ける。
この人は脱がされたいのか、と思った瞬間、カルロの理性の鎖はぷつりと切れた。
清潔な下着に包まれた下半身に、深々と頬を埋めてしまう。
「あ……ん」
布ごしに身体の中心に口づけられて、キースは小さく喘ぐ。
「いや……」
「なら、起きて下さい」
キースは応えない。
だが、身体を投げ出したまま、ことさら拒む仕草も見せない。
カルロはそっとキースの下着を取り去ってしまう。上も下も。胸板にそっと口づける。紅い突起を舌で濡らす。甘く香る肌のあちこちを撫で回す。
「眠いの……だから、駄目……」
そう言いながら、キースの声もだんだん甘く濡れてくる。身をくねらせるようにして、カルロの愛撫に反応しはじめる。
「眠いんだったら……駄目だよ、カルロ……もう、あ」
ふくらんではじけそうな果実に、カルロは軽く歯をあてる。
蜜をからめとるように舌が動く。口唇がむさぼる。熱い息が囁く。
「起きて下さい、キース様」
「や、あん、ああっ!」
カルロの喉へ熱いものをほとばしらせると、キースはがくりと崩れ落ちた。
そして、先よりもさらに深い眠りへ、落ちて……。

紅茶の匂いでキースは目覚める。
カルロが、銀色の脚付き盆をベッドの脇のテーブルに置いてキースを見つめていた。
「おはようございます、キース様」
「それは、もう午後のお茶の時間だという皮肉か?」
キースは身体を起こした。さっきの戯れの痕はすっかり拭われている。まるですべてが夢だった気がするほど綺麗になっている。
カルロは微笑し、盆をキースの前に置く。
「皮肉ではありません。たまにはベッドで召し上がっていただこうかと思っただけです」
トーストしたレーズン入りのパン。ガラスのコップには、大きな氷が幾つも入ったオレンジジュース。ポットにたっぷりの暖かいミルクティー。確かに朝食のメニューらしい。
「ベッドで食べるのは良くない事だ。後でパン屑が身体にささるからな」
病身だった母を思いだしてキースは呟く。看護婦が丁寧にシーツをはたいてくれても、乾いた屑は毎食後の病人を悩ませるものだ。どんなに上手に食事をしても、それは防げないことだった。
「では、パン屑がこぼれないように」
カルロは大きな白のナプキンをふわりと広げて、キースの胸元へかけた。
「これじゃ本当に病人みたいじゃないか」
「一日くらい、病人でいてもいいじゃないですか。それに、キース様は、今朝は病気にかかってらっしゃいましたよ。だって全然起きられなかったじゃないですか」
「え」
起きられなかったのは単に疲れのせいだ。確かに重い疲れではあったが。キースは思わず苦笑いして、
「なんだ、僕が甘え病だとでも言いたいのか」
「いいえ。眠り病です」
カルロは真顔で答える。キースは注がれた飲み物に口をつけた。身体が暖まる。心も少し暖まってきた。
キースは薄く微笑んだ。
「眠り病なら、王子のキスで目覚めなければ嘘だろう」
「王子のキスで眠る眠り病があってもいいでしょう」
「なるほど、僕はとんだお姫様という訳だ」
キースが肩をすくめると、カルロは盆の位置を直しながら、
「食事が終わったら、また少し眠って下さい。やはりかなりお疲れのご様子ですから」
キースは首を振った。
「いい。今寝たら、夜もう眠れなくなるからな。……まあ、それなら起きて仕事をすればいいだけの話だが」
「キース様」
カルロはたしなめるように、
「仕事なんて、今日一日はなさらないで下さい。もし眠れないなら、僕が抱きしめていますから。子守歌を歌えというなら歌いますから」
「カルロ」
キースは相手をじっと見つめた。
カルロがあまり歌を好きでないのは知っている。彼が理性のたずなを引き締め続ける事の辛さ、ただ優しく抱きしめるだけですますのがどんなに辛い事かも、キースはよく知っている。
見つめたまま、キースは言葉を継ぐ。
「東洋に、《春眠暁を覚えず》という言葉があるそうだ。暖かい日の眠りが心地よくて、朝になっても起きたくない気持ちを言うらしい」
「ちょうど今の時期のような?」
「そうだ」
キースはうなずいて、
「……それで、明日も少し朝寝をしたいから、今晩は、その……」
「起きたくなくなるくらい、ベッドを暖めればいいんですね?」
カルロの眼差しが急に熱を帯びてくる。キースはクス、と笑って、
「そんなにされたら、明日は君のせいで眠り病にかかってしまうな」
「駄目、ですか?」
「朝寝をしたい、と言ったろう?」
顔を見合わせて二人は微笑む。
それは、嵐の日々の中、貴重なほどに平穏な一コマ。
微妙なバランスを保った、夢よりも奇跡に近い幸福の日。

(1999.2脱稿/初出・恋人と時限爆弾『眠り疲れて(TIRED OF SLEEPING)』1999.3)

『眠り飽いて』

NY図書館、その閲覧室の窓際から少し離れた席に、先刻から一人の青年が座っていた。
秋の柔らかな夕陽を浴びて、淡く輝く銀の髪。
キース・エヴァンズは手元の本から顔を上げ、軽く度の入った眼鏡を押し上げた。押し上げながらちらりと腕時計に目を走らせ、それから何気なくあたりをうかがう。
部屋の中に、サイキッカーのものらしい気配はない。また、軍人らしい殺気を持つ者もいない。外から狙撃される可能性はあり、絶対安全とはいえないが、少なくともここで派手な乱闘が起きる事だけはなさそうだ。
キースは再び、眼差しをページの上に落とす。アイスブルーの瞳は無表情だ。やや虚無的、いや攻撃的ですらある。黒のハイネックの背には、かすかな苛立ちが漂っている。本の内容は彼の頭の中に入らないらしく、ページをめくる指は、その端を持ち上げたまま動かない。
「……そろそろ時間か」
小さな吐息を洩らすと、キースは立ち上がった。椅子をひき、読んでいた本を開架へ戻すと、静かな歩調で外へ出てゆく。
図書館の裏の階段を降りきった処に、一つの人影があった。
すらりとした長身を、薄いコートの腕組みと白い手袋に納め、ゆわえた黒髪を後ろに流し、銀の眼鏡の縁を鈍く光らせているアジア系の男。
それは、あまりに見慣れた背中。
キースは歩調を緩めず、その背に声をかけることもせず、ただ階段を降りてゆく。その脇を通り過ぎ、そのまま歩いて行こうとする。
青年の背に低い声がかかる。
「そんなに警戒しなくても、誰も連れてきてはいませんよ。貴方が一人で来たように、私も一人で来ました」
キースはようやく足を止めた。
「知っている。それが、約束だったろう」
振り返ったキースの顔は、露骨な不機嫌を示していた。
リチャード・ウォンは内心ドキリとしたが、すぐにいつもの不思議な微笑をつくろって、
「これから何処へいきましょうか。軽くどこかで夕食でも?」
キースの眉はきつく寄せられたままだ。
「夕食なんてどうだっていい。君の事だ、どこかに部屋ぐらいとってあるんだろう? 早く二人きりになって、例の件を詰めようじゃないか」
二人きり、という言葉に、ウォンの胸は高鳴る。確かに部屋はとってある。だからキースさえよければ、朝までゆっくり愛し合いたいと思っていた。
だが、この様子では、今晩OKは出ないだろう。
ウォンは軽く肩をすくめ、摩天楼のシルエットを振りあおいだ。
「そうですか。それではさっそく部屋へ行って、仕事にとりかかりましょうか」

新生ノア総帥キース・エヴァンズと、軍サイキッカー部隊司令官リチャード・ウォン。
この二人が秘かに逢う、ということは、あらゆる意味で危険極まりないことだ。
互いの立場が立場である、二人がこっそり通じているとなれば疑惑をもたれてもしかたがない。キースは俺達を軍に売るつもりか、ウォンは俺達をノアに潰させる気か、とそれぞれの組織から思われても無理はない。また、二人は互いの組織から命を狙われている。二人きりで会っている場は、暗殺の絶好のチャンスである。二人がその気になって仲間を引きつれてきていれば、互いの戦力を大きく削ぐ事が可能だ。だから、下手をすると一般市民のいる街のど真ん中で、超能力大戦が勃発する事すらありうるのだ。
だからこれは、禁じられた密会なのだ。
しかし、二人は逢う。
ホテルの一室で、二人きりになる。
これから日が暮れようという、その時間に。

「それで、君が考えている第一候補地というのは、西海岸沿いの……ロサンゼルス近郊あたりか?」
「キース様もそうお考えでしたか」
難しい顔で額をつきあわせていたが、二人はそこでようやく笑みを交わした。考えの一致による微笑。ライバルだけがわかりあう、互いの気持ちという奴だ。
キースはテーブルに広げた地図の上を人差し指で軽く叩きながら、
「諸条件を考えると、自然とこのあたりにいきつくだろう。この辺なら、自給自足を望む者に対していくばくかの農地を用意できる。住民数も適切で、核廃棄物の汚染度も低い。周辺の商業的な発展もそこそこで、しかもまだ新しい産業が展開できる余地がある。移民が多く、人種が適度に混ざっていて、地域住民の差別意識が比較的薄い場所だ。アメリカ国内で新しいノア支部を置くには、この地域が一番無難だろう。チャイナタウンもあるし、中華系の移民も多い。中華系のサイキッカーは、ある程度君の支配下にあるんだろう?」
ウォンは軽くうなずく。
「ええ。サイキッカー同士のつながりというよりも、中華思想で結ばれた人種的な信頼といったものですが、影響力はあるつもりです」
「そうか。まあ、チャイナタウンの発想は、ノア基地分散計画とほぼ同じだ。その土地に根を張り、勢力を維持するために、同胞同士が団結して外敵と戦うという意味ではな。だから、参考にさせてもらう事も多いだろう。できれば彼らの力を借りたいんだが。いにしえの知恵もな」
ウォンは微苦笑を浮かべた。
「私は昔の華人達とは少し違いますが……義など重んじませんし、親を敬う事もしませんし、あまつさえ親族を手にかけてきた男ですよ?」
キースは吐き捨てるように、
「今更な。正当防衛を故殺と一緒にするな。それは感傷だ。それに、私の手だって、多くの血で濡れている」
「キース様」
「ウォン。いま問題なのは過去じゃない。未来に向けて何をなすかという事だ。この難しい計画に君が力を貸してくれるというから、私はここへ来たんだ。感傷に浸る時間も惜しい」
「わかりました」
キースにまっすぐ見据えられて、ウォンは表情を改めた。幾つもの事業を成し遂げてきた者の自信に溢れた口調で、
「中華系のサイキッカーとつきあう時必要なのは、やはり義です。基本的に華人同胞を大事に考えますが、それよりも正直であること、正義を貫くこと、祖先を敬うことをいまだ重んじています。彼らは商売上手で、金融関係を中心に強固なネットワークを持ち、世界中で活躍していますが、それはあくまで先見の明と学問や知恵に支えられたものであり、卑怯な手段は好みません。彼らはまた、慈善事業を好みます。これは活用できるでしょう。彼らは常に地位向上を目指しています。弱者救済の宣伝は、いちばんてっとりばやく自分に箔をつける方法です。もちろん目先の利益だけで救済に走るのではありませんが……彼らの受け継いできた儒教的な部分のためです。そこを上手にくすぐる事ですね。まあこれは、華人に限らず、アジア系のサイキッカーに共通して言える事ですが……」
「うん、それで?」
「いえ、その前があります。今回の計画を進める前に、まず、近隣に存在する彼らに挨拶をすませておかねばなりません。また、その時、彼らとの協力事項、互いの取り引きの条件も明示しておかなければ。それから、彼らの信頼を得るための事業を、何か一つ展開しなければなりません」
「なるほど。で、具体的にはどうすれば?」
「ええ、まず、この勢力地図を見て下さい……」
二人は再び額をつきあわせた。小声で話を続け、時々腕ぐみ考え込む。
ウォンとキースが考えていたのは、さらに《新しいノア》の事だった。二人は基地は基地として残し、別の支部を新規につくることを計画していた。軍にもノア本部にも適さないサイキッカー達を、新たな理想郷をつくって放す――それが彼らの目論見だった。
ノアは、新生ノアになった今も、サイキッカーの保護を続けている。だが、ノア基地はあくまで当座の避難場所である。傷つき疲れた者が羽根を休める隠れ家だ。精神的、肉体的に健康な者にとっては物足りない施設だ。彼らはそのうち社会に戻って働きたくなる。普通の人間として生涯をまっとうしたいと考える。彼らの中には人権に対する意識の低いものも多い。何をしてもサイキッカーの人権など今更認められるものか、とキース達の活動をはなから信じていない者もある。彼らはいつまでも基地内に閉じ込めておけない。
米軍サイキッカー部隊は、今、サイキッカーを保護する場になっている。もちろんサイキッカー狩りは続けられているが、それは軍に囲い込むためのものだ。むやみに傷つけないよう、細心の注意を払って連れてきている。そして、自分の身を守るすべを軍内部でたたき込むようにしている。だが、あくまでも戦闘を好まないものもいる。彼らは軍内に置いてはおけない。
ノアにも軍にも適さない人材――だが健康的で平和も好み、生きる意欲を持つ超能力者達――彼らを小さな街にまとめて住まわせ、ノア支部という形に出来ないか。柔軟な組織として、第三勢力をして置く事ができないか。いざという時のために協力体勢を整えておいて、ピンチの時にはかけつけられるようにして。
キースが持ちかけたこの計画に、ウォンは即座に反応した。その話は大変面白いので、是非ご一緒させて下さい、と乗り気な返事をしてきた。
キースはウォンの軍内での真意や最近の動向を再確認したいため、直接会いたいと打診し、ウォンもそれを歓迎した。
今回の会見はこうして実現したのであった。
二人はぞれぞれの腹案を手に、検討を続ける。
「今の状態ですと、やや指導者的な人材が足りないかもしれませんねえ」
「人は百人いれば、五人くらいは指導者の資質のあるものがいる筈だ。そして普通の社会では、その五人全員に指導者のポストは与えられないものだ。ノアメンバーもだいぶ増えてきている。出来そうな者からやらせてみればいい。隠れた力を発揮するかもしれない」
「適材適所、とうまくいけばいいですが」
「ああ。だが、街の方を人にあわせればいいんだ。産業が偏っている街などいくらでもある。問題は、どう街をつくっていくか、サイキッカーの隠れ里だということを隠して規模を広げていくかということだ。それは決してたやすいことではないだろう」
「ええ、もちろんです。そこが一番難しい処ですからね。強烈なカリスマ性のある者がまとめ役として市長に立てば、すぐに人が集まって街として機能しはじめるでしょうが、せめて、キース様と同じぐらいかそれ以上のパワーや力の持ち主でないと」
「難しいか。……だが、私が基地外へ頻繁に出るという訳にはいかない」
「わかっています。ですから最初が肝心なんです。大っぴらにできない段階が重要なんです。いざ街の規模が大きくなり、各人の生活が安定してしまえば、どの国家もうかつに手は出せません。ましてここは米国。正面きって戦争を仕掛けてくるには相当の覚悟がいります。世界の正義と人権を、建前として重んじている国ですからねえ。フィクションでは、軍が一つの街を一瞬でなぎはらってしまいますが、実際はそうは簡単にいきません。他の者も多い地域では特にね。まして相手はサイキッカー達です、彼らも慎重になります。あくまで平和な街の様子をアピールし、この街ではサイキッカーの安全は保証されるというような宣言を対外的にできてしまえれば、もうこちらのものです」
「問題は、そこまでどうやってもっていくかだな」
「ええ」
「君が人材教育をしている中で、そういう活動に向いているものはいないか。早急に、少し流してはもらえないか?」
「確かに多少は揃えてありますが……」
ウォンは苦笑する。
「人材教育、とそうあからさまに言わないで下さい。表向き、教育を施した挙げ句、軍に不向きと判断された者を切り捨てるために収容所へ送る最中、ノアに襲われて逃がしてしまった、という事になっているんですから」
キースはあきれて、
「何を今更。収容所へ送る日程とメンバーの情報を流しているのは誰だ。ワン・ユンファなんてとぼけた偽名を使って、堂々とこちらへ資金を送っているくせに。助かっているんだから、あきれる前に礼を言わねばならないんだろうがな」
「礼だなんて」
ウォンは肩をすくめた。
「そんなに私を信用していいんですか? 貴方の信頼を得るために、そんな小細工をしているのかもしれませんよ? 私は、貴方を裏切って軍と結託した男なんですよ。ノア基地に収容された者達だって、私の部下、軍のスパイかもしれないでしょう?」
「信用してもしなくても、たいして状況は変わりはしない」
キースは皮肉に口唇を歪め、それから苦笑した。
「だいたい米軍も凄いぞ、サイキッカー部隊だけなんだろう、中国人の司令官を堂々と据えてすましているのは? いくらアメリカが平等の建前を持つ国だと言っても、黄色人種を指揮官に選ぶのはかなりの特例の筈だ。技術者研究者や商売の取り引き相手ならアジア系も多いだろうが。よくも君は、そこまで上から信頼されているものだな」
「信頼など、私の上にはありませんよ」
ウォンも薄く笑って、
「私を司令官にしたのは、部隊そのものをすぐに組織から切り捨てるつもりだからでしょう。とりあえず、サイキッカーが一掃できれば、彼らは満足なのです。兵器としてまとめて扱うには不向きだということにようやく思い至ったようで、今はサイキッカーハンターの育成などという無茶な命令をされていますよ。超能力者を一人ずつ発見して殺していく暗殺兵士をつくれ、というんです。それが完成のあかつきには、軍サイキッカー部隊を消滅させるつもりでしょう。ハンター達のテストをかねて、まず私あたりを襲わせる予定なのではないでしょうか」
キースはうむ、とうなずいて、
「なるほど、君もかなり危ない橋を渡っているという訳か」
「私は大丈夫です。それより、キース様こそかなり大胆ですよ。こっそり敵の司令官と会うなんて。しかも、基地からこんな離れた場所で、丸腰の上、供も連れずに」
二人きりで嬉しいけれど、とウォンは熱い眼差しをキースにあてる。キースは顔を背けるようにして、
「しかたがないんだ。誰かを連れてくれば、そこから秘密が洩れるからな。……とにかくこれは私の力だけで出来ることではない。今いるサイキッカーを全部抱えていたら、遠からずノアは崩壊する。これは急務だ。僕の安全よりも大事な事だ」
「しかし、急いては事を仕損じる、とも言います。事が事だけに、慎重に進めていかねばなりません。今日明日で出来る事ではありませんよ。武力で世界を征服する方がよほど楽な仕事です」
「うん。それはよくわかっている。だから私も、ゆっくり、考えていくつもりだ」
キースの口調に気持ちの荒れを感じて、ウォンはびくりと身をすくめた。
キース様、まだ怒ってらっしゃる。
図書館で落ちあった時から、どういう訳か彼はずっとピリピリしていた。
何を怒っているのだろう。何か落度があったろうか。
ウォンは、目の前の青年に大きな怖れを抱いていた。
キース・エヴァンズというのはこんな青年だったろうか。難しい仕事の話をしているのだから、こんな風に神経を逆立てていてもおかしくはない。だが、私の好きだった彼は本当にこの人だったろうか、と不安になるぐらい、普段と雰囲気が違っているのだ。二十歳はもう子供ではない、会わないでいるうちにキースが成長し、変わったのだと考える事もできるが。
それとも元へ戻っただけか?
最初、初めて会った頃の彼は、露骨に疑いの眼差しを向けてきていた。それはそうだろう、いきなりやって来て《貴方のスポンサーになりましょう》と言う男をいきなり信頼する者はいない。どんな子供だって、話がうますぎる、と警戒するのが当たり前だ。確かに私は最初は利用するためだけにキースに近づいたのだ、見透かされ、信用などしてもらえる訳がなかった。
でも、今は。
ウォンはちらばった資料をとり片付け始めた。
「遅くなりました。建設的な思考にはそろそろ不向きな時間です、今晩はとりあえずこの辺りで終わりにしましょう」
「うん」
キースも資料を片付けた。そして上着を脱ぎ、靴も脱いだ。
ベッドに腰掛けると、上目づかいに、妙に恨めしそうな顔でウォンを見上げる。
「どうなさいました?」
ウォンは内心ドキドキしながら尋ねる。
なんだろう。何を言われるんだろう。ついに、夕方からの癇癪が爆発するのだろうか。
「僕に、触れないのか」
「えっ」
ウォンは、驚いてキースを見つめた。
キースの両のアイスブルーの瞳に、ウォンが映りこんでいる。ウォンをまっすぐに見つめ返しているからだ。
確かに、夕方会ってから、互いに指一本すら触れていない。なにかのはずみで身体が触れ合うような事もなかった。
でも、キース様が、そんな風に私を誘うなんて。
初めてだ。
キースの視線がふいにそれた。頬を少し赤くして、
「もし君が触れなくていいというなら、私はもう寝る。遠出で疲れているんだ。戻るにはもう遅い時間だし、今晩は帰らないと言って出てきたしな」
ウォンの瞳が大きく見開かれる。うっすら潤みだす。
「触れて……いいんですか?」
次の瞬間、ウォンはキースをぎゅっと抱きすくめていた。
「触れてもいいんですね? ずっと、ずっと貴方の肌が忘れられなくて、どうしようもなく苦しかったんです……本当に、触れてもいいんですね? 隅々まで、あの、秘密の場所まで?」
熱い吐息。熱い肌。
不器用な、だが熱い愛の言葉。
ウォンの首筋に顔を埋めたキースの口唇から、うんと小さな声が洩れた。
「……抱いて。もう、待ちきれない」
次の瞬間、ウォンはキースの口唇を奪い、狂ったようにむさぼっていた。
二人はそのままベッドへ崩れ落ち、服を脱ぐ間も惜しんでもつれあい絡みあった。水の一滴もなく砂漠をさまよっていた旅人が、この上ない美酒を与えられた時、酔いの強烈さを知りながらすべて飲み干さずにはいられないように、二人は知りうる限りの快楽を求め、奪いあった。乱れ、すすり泣き、打ち崩れては再び挑んで甘い悲鳴を上げた。むつごとは意味をなさない言葉であっても、確実に互いの想いを伝えあっていた。
「ウォン……まだ……」
「私もまだです……」
「でも……堪らえきれない……」
「大丈夫……大丈夫ですよ……私だって、もう……」
「あ……」
世が明ける頃、相手の体温に溶けこむようにして、二人は眠りに落ちた。一晩では癒しきれない切なさを、そのぬくもりで少しでも埋めようとするかのように、意識がなくなってからも互いの身体をずっと探り続けていた。

ん。
今日の夢はやけにリアルだな。
ウォンの体温を感じる。
嬉しいな。もう朝なのに、ウォンがまだ僕を抱きしめてくれてる。あんまり気持ちよくて、身体が溶けそうだ。ああ、懐かしい匂いがする。ウォンの体臭は全体的に淡いけれど、髪に独特の匂いがある。不思議な匂いで、東洋の香というのはこういうものなのか、それとも中国茶の香りが染みついているだけなのかな、と思いながら嗅いでいた。
「ウォン……」
もっと近く寄り添おうと身体を動かすと、キースはひどい疲れを感じて苦笑した。
なんだ、ずいぶんたちの悪い夢だな。こんな処までリアルでなくてもいいのに。
こんな事が現実にある訳がない。どう考えてもありえない話だ。
二人で会って、あんな話し合いをするなんて。
その後あんなに激しく愛しあうなんて。
そんなの、夢以外の何物でもない。
「暖かい……」
「ああ、お目覚めですか、キース様」
優しく髪を撫でられて、キースはウォンの胸にもたれかかり、甘える。
「ううん。まだこの夢を見てたい……離れたくない……目が覚めた時にひとりぼっちなのは、もう厭だ」
そう呟いた瞬間、キースの胸はぎゅっと詰まった。
知らず涙が溢れていた。相手の胸に顔をきつく押し付けながら、
「寂しくて……寂しくてたまらなかった! 寂しくて気が狂いそうだった! 君に逢いたくて、抱かれたくて、毎晩それだけしか考えられなかった!」
「キース様」
「僕をこんなにしたくせに、なんて残酷なんだ君は。夢の中でまで優しくしようとするなんて。僕にもう興味なんかないくせに、触れてもいいんですか、なんて言いながら抱くなんて。僕は、君の姿を見た瞬間から身体が熱くて、ぎゅって強く抱きしめられたくて、めちゃめちゃにされたくて……本当は、ただ会いたかったんだ。君に逢いたかったんだ。寂しくて、もう我慢できなくて。仕事なんてただの口実だったんだ。それなのに、君は澄まして仕事の話をずっと続けて……僕に触れるのが厭なら、淫乱だって蔑めばいい。浅ましいって笑えばいい。だって、僕は、本当に淫乱で浅ましいんだ。待ちきれない、なんて口走って。夢中になってすがりついて。自分でも信じられない。でも僕は、ノアの皆の信頼よりも、サイキッカーの平和よりも、君の身体が欲しいんだ。こんな夢にみるぐらい、欲しくて欲しくてたまらないんだ。さあ笑え、僕を好きなだけあざ笑うがいい!」
「キース様!」
ウォンの口唇が、相手の口唇を夢中で吸い上げた。
口唇を塞がれてキースはもがく。
涙が頬を濡らす。自分の涙だけでなく、相手の滴がふりかかってくる。
からんでくる舌の動きに応えるうち、キースの身体から急に力が抜けた。
顔が離れると、茫然と相手を見上げる。
「……夢じゃない。幻でもない……君は、本物のウォンなのか」
ウォンは目を赤くしたままうなずく。
「ええ。本物です。貴方のウォンです」
だがキースは、その言葉をきいた瞬間、すうっと涙を抑え、相手の胸を押し返した。
「すまない。取り乱した」
目元を、そして口唇を手の甲でグイ、とぬぐうと、キースは身を起こした。脱ぎ散らかした服を拾い、袖を通し始める。
「キース……様?」
「今の言葉、全部忘れてくれ。君を縛る気はない。離れたくないなんて我が儘を言うつもりはなかった。どうかしていた。少し疲れているらしい」
ウォンに背を向けたまま、キースは着替えを続ける。
「キース様」
それに触れようとして、ウォンの手が止まった。
「……そうですね、私達は、もう直接逢わない方がいいのかもしれません。逢わなくても仕事は進められますし。お互い危険でもありますし」
その声は少し震えている。キースは冷たい声で返す。
「ああ、そうだな。毎回額をつきあわせる必要は、確かにないだろう」
「ええ」
それからウォンも、服をつけ始めた。
チェックアウトの時間でもないのに、二人は部屋を出る仕度をする。
それが終わると、二人は顔を見合わせる。
キースの眼差しに、微妙な色が浮かんでいる。
名残りを惜しんでくれないの、もう抱きしめたりキスしたりしてくれないの、とでもいいたげな、濡れた瞳。
ウォンは目を伏せた。
「昨日、すぐに触れなかったのは、貴方に興味がなくなったからではありません。私は、貴方に触れるのが怖かったんです」
「怖かった?」
キースの声が尖る。ウォンの声は低くなる。
「貴方は清潔な人です。貴方の前で自分の汚れを恥じない者はいないでしょう。久しぶりに貴方に会って痛感しました。よくも今まで貴方に平気で触れてきたものだ、私にそんな資格はないと」
「またそんな戯れ言を!」
吐き捨てるように叫んで、キースは自分の荷物を取り上げた。
「もういい。君の嘘をこれ以上聞きたくない。帰る。不愉快だ」
キースはそのまま、振り向きもせずに部屋を出ていってしまった。
ウォンはガクンと膝を折り、絨毯の上へ崩れ落ちた。
「嘘では、ありません……」
貴方が怖いのは本当だ。
怖くてたまらないのだ。
だって、あまりに美しく、そしてあまりに気高いキース・エヴァンズ。
抱いて、もう待ちきれない、と口走るなんて、清潔な昼間の彼からは決して想像がつかないことだ。
それなのに私は、貴方に言わせたのだ。
〈仕事なんて口実、ただ君に会いたかっただけなんだ〉
〈君の姿を見た瞬間から身体が熱くて〉
〈ぎゅって強く抱きしめられたくて、めちゃめちゃにされたくて〉
〈ノアの皆の信頼よりも、サイキッカーの平和よりも、君の身体が欲しい〉
〈夢にみるぐらい、欲しくてたまらないんだ〉
すべて、思惑通りの台詞だった筈だ。
私は貴方から、その言葉を聞きたかった。
だから、貴方を抱きたい晩を我慢した。少しずつ離れた。敵にまでなろうとした。
愚かな。
私はなんて愚かな。
「寂しくてたまらなかった!」
あの、叫ぶような眼差し。
苦しい。
ウォンの心は乱れ、そして幾つにも引き裂かれていた。
あの台詞がキース様の本心だというなら、今この場で死んでもいいぐらい嬉しい。思わずとり乱すくらい、私への愛情を深く育んでいてくれたのだと思うと、その感動だけで心臓が止まりそうだ。
だが、それだけ自分がキース様を苦しめたかと思うと、苦しくてたまらない。
それでも、私達は二度と逢ってはならない。
キース様に、二度とあんな台詞を言わせてはいけない。
本当に離れられなくなって、お互い自滅してしまう。
ああやって怒らせて良かったんだ。どうしても突き放すことはできない、だから、あんな形でもいいから、少しでも遠ざかってもらいたい。
ウォンは顔を覆った。
「怖いなんて……私はどうして怖い……愛しているのに……キース様……」
こみあげてくるものが止められない。
床に倒れ伏した男のすすり泣きの声だけが、その部屋の午前中をずっと埋めつくした。
その、声も涙も枯れ果てるまで。

2.

まだ秋だというのに、だいぶ寒い。
服をぜんぶ脱ぎ捨ててからシャワー室に入って、キースは身震いした。
先にバスタブに湯をためよう。部屋を暖めてからシャワーを浴びよう。これでは風邪をひいてしまう。
キースはバスローブを羽織り、湯の栓をひねると、シャワー室のタイルの壁にそっと寄りかかった。
立ちのぼる湯気が、ローブを少しずつ重くしていく。
「……ウォン」
ふと十日前の逢瀬を思い出して涙がこぼれそうになり、キースは口唇を噛みしめた。
ウォンの馬鹿。
どうして僕が怖いなんて言うんだ。
君の気持ちがわからない。
久しぶりに君に会えて、僕がどんなに嬉しかったと思う。
君の身体を側に感じているだけで、心が暖まるようだった。だから、わざとつっけんどんにしていたんだ、抱いて欲しい、なんてうっかり口走らないように。あの時間の楽しさやぬくもりを壊したくなかったから。
いや、実際少し苛立っていたんだ。罪悪感があって――ノアのトップの僕が軍のウォンと通じるのがどんなに罪深いことか、よくわかっているから――ウォンは同志達を殺した。使える者を大勢軍へ引ったてていった。今でも、私利私欲のために大勢の仲間を利用している。だから、ノアにいる者はみな彼を憎んでいる。
それなのに、僕だけが彼を忘れる事ができない。
僕にとって軍は敵、人間も敵だ。
だのにノアの内部の人間も、ウォンと逢う事によって、敵に回すことになってしまう。
全世界を敵に回してまで、僕はウォンを欲しいのか。
なぜ。
ずっと側にいてくれる訳でもない、信用することさえままならないあの男を、どうして僕はそんなに欲しい。
この身体が浅ましいから?
それとも僕が、ウォンをどうしようもなく愛しているから?
愛しているから何もかも許してしまうのか。
どうして僕はウォンを愛する。
どうして愛には理由がないんだ。
どうして。
「ウォンの、馬鹿……」
キースはいきなりシャワーの栓をひねった。
ぬるい湯が、ローブの胸にさあっと降り掛かる。
バスタブの縁に寄りかかり、キースは床へペタンと腰を降ろした。
「僕のどこが清潔なんだ……こんなに淫乱なのに……」
情感をおぼえて、キースは濡れたローブの胸に指を滑らせた。硬くなった突起を、布の上からいじる。少しずつ、甘い吐息が胸の奥から洩れるようになる。キースは濡れた自分の手首に口づける。舌を、口唇を腕から肩に向けて這わせてゆく。ウォンがしたように。むさぼり食うように。
快楽は再現できる。一人でも。
でも、一つだけどうしても再現できないものがある――甘い抱擁の感触。
大事そうに、いつもそうっと抱きしめてくるウォン。うんと優しく、壊れ物に触れるみたいに、でも、暖かく包みこむようにしてくれたウォン。
あの抱擁が、肌身が欲しい。
毎晩毎朝、ウォンに抱きしめてもらいたい。
今更無理だとわかっているけど。
「馬鹿……なんで、僕におびえたりするんだ……」
バスタブからはもう湯が溢れていた。それなのに、栓を閉めようともせず、キースはぼんやり湯気と水流の中に沈んでいた。びしょ濡れのローブは重くキースの肌にはりつき、彼の体温を少しずつ奪っていった。
その時、シャワー室の戸口に立つ影が。
「どうなさったんです、キース様!」
飛び込んできたのはカルロ・ベルフロンドだった。
部屋を訪ねたところ、妙な水音が続いているので、もしかしてキースが中で意識を失っているのでは、と慌てて入って来たらしい。バスタブに寄りかかり、溢れる湯に浸っている総帥の姿を見て、目を丸くしている。
キースの口唇がふと歪んだ。
「いいところへ来た。ちょうどそういう気分だったんだ……」
彼は立て膝をつき、濡れたローブの裾から、ちらりと腿をのぞかせる。
意図的に身体をよじり、あわせの胸元を広げる。艶めかしい視線を投げる。
「キース様?」
いぶかしむカルロを見て、キースは立ち上がった。
濡れたローブのままカルロの首にしがみつき、脚をからませ腰を引き寄せた。
「抱いて、カルロ……めちゃめちゃにして……」
甘く囁き、瞳を閉じて口吻をねだる。
二人は同じ水で濡れた。重く、ぬるく、そして、少しずつひえて冷たく。
カルロは曇った眼鏡を外し、低く囁き返した。
「わかりました……でも、ここでなく、ベッドで……」
「うん。それでいい」

ぐったりとして、カルロの肩口へ小さな頭を押し付けるキース。
ひとしきり乱れた後で、彼は重い睡魔に襲われはじめていた。
「カルロ……今晩は、この部屋で眠っていってくれるか?」
「ええ。そうします」
低く囁かれ、背を優しく撫でられて、キースはカルロの厚い胸にもたれこむ。頬を埋めるようにしながら、呟くような声で、
「ところで、君、今晩は何をしにきたんだ? 緊急の仕事があったか? それとも秘密の計画でも持ちかけにきたのか? 思い当たるところがないんだが……ただ僕を抱きにきた訳じゃないよな?」
「キース様」
眠りに落ちる寸前まで理詰めの思考か、と驚きつつ、これはいい機会だとカルロは思った。今なら、あの話もすらすらと話してくれるかもしれない。
意を決して口唇を開く。
「今晩は、キース様がリチャード・ウォンと共同で進めている、新しいノアの計画について、少しでもいいからうかがえれば、と思って来ました。人目のある処では尋ねられないことなので、それでこんな遅い時間にお邪魔したんです」
「なるほど、君にはつつぬけだったか……まあ、そうだろうな」
キースはふっと身体を起こした。
さっきまで重かった目蓋はぱっちりと見開かれている。口元には微苦笑。枕元からシャツを取って羽織ると、軽く腕組みをしてカルロを見おろす。
「黙っていて悪かった。側で私の仕事を見ているから、君はいずれ気付くだろうと思っていたんだ。それに、君だってウォンが、新生ノアに資金を流していることに薄々気付いていながら、私には秘密にしていた。だから、お互い様ということで許してくれないか」
「許すだなんて、そんな」
カルロが思わず身を起こすと、キースはヘッドボードに寄りかかって天井を仰ぐ。
「もっと早く話しておいても良かったんだが、君がどう思うかわからなかったしな……裏切り者と手を組もうとするなんて、潔癖な君には想像がつかないだろう?」
「潔癖?」
「ああ。君は潔癖だ。そして純粋だ。君の一番の興味は、ノア基地をたてなおす事と、同胞の救出にある。それをサイキッカーの手で、ノアメンバーだけでやりとげる事が君の夢だ。確かにそれは大事な事だ。だが、真の理想郷をつくるには、それだけでは足りないんだ。たとえば、サイキックパワーをあわせて世界を征服し、ノアが力で人類を屈服させることは出来るかもしれない。だが、その後はどうする?」
「その後……」
「人類は、やはり武力で私達に対抗しようとするだろう。むこうは圧倒的多数だ。近代的兵器を大量に備蓄している。再び多くの血が流れるだろう。いたちごっこが続くだけだ」
「ですがキース様」
「君の言いたい事はわかっている。昔の私は、君と同じ考えだった。だが、な」
キースは遠くへ視線を投げた。何もない薄闇の中へ。
「時は移る。人の心はうつろう。組織というものは、いずれ腐るか別のものに変わってしまう。永遠の理想郷などというものは存在しない。かつてこの地球上に完全な平和が一度も存在しなかったように、永久に続く幸福などない。私達のすべき事は、サイキッカーだけの理想郷をつくることと、人間と共存する場を両方つくっていくことだ。次善の組織や共同体をつくって協力しあい、私達の築きあげた流れが少しでも絶えないようにすることだ。そのために、清濁あわせのむ覚悟をすることだ」
「……」
それは二十歳の若者の台詞ではなかった。多くの中でもまれてきて、人の何倍もの苦労を味わい、多くの人生を見つめてきた大人の台詞だ。
カルロは言葉を失って相手を見つめていたが、キースはそれを咎めの視線と受け取ったらしい。さらに言葉を継いだ。
「確かにウォンは憎むべき男だ。私利私欲のために同胞を殺し、今も利用している。しかし、私の手だって血で汚れている。多くの同胞の犠牲の上に、今の私の命がある。考えているのもきれいごとばかりではない。だから、ウォンと手を結んでも構わないと思ったんだ。私は騙されているのかもしれない。再び裏切られるのかもしれない。だが、彼は有能だ。目的のためには努力を惜しまない。サイキッカーの中で、彼に並ぶ才のあるものは少ない。だからこちらから新しい理想郷の計画を持ちかけたんだ。彼の非ばかりを責めても仕方がないし、貴重な人材を使わない手はないだろう」
カルロは目を伏せた。
「僕は、キース様がウォンと手を組む事を非難しようとしていた訳ではありません。非難できる立場にもありません。気付いていながら、僕だって、ウォンから流れて来る資金を使っていたんですから」
キースは薄く笑って、
「あの男はうまくやるからな。気付いた時にはもう遅かったんだろう? わかっている、君が気付いた後も、ウォンは他の支援者が出し渋る時期に、目立たぬよう必要なぶんだけ流してきていたんだろう? それを拒める者は、そう多くはいるまい」
「キース様」
「私が君に今まで話さなかったもう一つの理由は、今度の計画がまだ準備段階にあるからだ。第二のノアのテーマは、人類との共存だ。これがどんな難事業か、君にも想像がつくだろう。言葉にすればたった一言なのに、そこでは大小とりまぜてありとあらゆる問題が発生するだろう。想像を越えてあまる難しさがあるだろう。また、軍にいるウォンの手をどこまで借りていいか、という問題もある。借りても大丈夫かという事もあるし、もし大丈夫だとしても頼りにしすぎてはまずいからな。それに、借りたくても、もしかしたらもう借りられないかもしれないし……」
その瞬間、キースははっと顔を覆った。
急にその瞳から、止めようのない熱い涙が溢れ出した。
理知的な総帥の仮面はあっという間に剥がれ落ち、キース・エヴァンズは肩を震わす寄るべない小さな子供に変わってしまった。
「どうなさったんです、キース様」
驚いたカルロがその肩を抱き寄せると、キースは発作を起こした人のように細かく全身を震わせたまま、
「こないだ、ウォンと喧嘩したんだ……だってウォン、僕らは二度と会わない方がいいって言ったんだ……ウォンは、僕が怖いって……どうして……どうしてそんなことを?」
濡れた瞳でカルロを見上げ、
「どうしてウォンは僕なんかが怖いんだ。僕に飽きた、触れたくないって言うならわかる。会いたくないって言うならそれでいい。でも、怖いなんて……僕が、こんなちっぽけな僕が怖いなんて……僕はただの馬鹿な子供だ……僕は清潔でもなんでもない、それどころかうんと汚いんだ。肉欲がどうしても抑えられなくて、君を誘惑して何度も寝ていながら、僕は我慢できなくなって、ウォンとも……」
「ああ、そういうことだったんですか」
カルロは回した手で、更にキースを引き寄せた。
なだめるように相手の髪を撫でながら、
「思うんですが、誰だって、寂しい時にはいたわりの手が欲しいものではないでしょうか。優しく抱きしめられたいと願うんじゃないでしょうか。大勢の仲間を失い、親友も遠く離れていってしまったら、寂しくなるのは当たり前です。肉欲も、若者にあって当たり前のものです。でも、潔癖なキース様はたぶん、たいして好きでもない男と寝るのを、汚らわしい事だと思ってしまわれるんでしょうが……」
その青の瞳は悲しみに満ちていて、キースははっと口元を覆った。僕はなんて馬鹿だ。いくら相手が気付いている事とは言え、僕はなんて残酷な台詞を口走ったのだ。いくら取り乱しているとはいえ、僕は慰めようと抱いてくれている相手に向かって、刃物で切りつけるような真似をしたのだ。
「カルロ……僕は……」
だが、カルロは優しく微笑んだ。
「愚かなのはウォンの方です」
あなたが、もっと、と腕の中で甘える仕草を見るたび、もう二度とあなたを手放せないと思う。ウォンだってきっと、あんな風に甘えられた事が幾度となくあった筈だ。それでよくも、キース様から離れることができたものだ。しかも愚かだ。この人を一時でも手放すなんて。
ただ、その気持ちはわからなくもない。
「愚かなのはウォンです。ただ、キース様を怖い、と思う気持ちは、僕にも多少わからないでもないですが」
「えっ」
キースはとびつくようにして、
「何故だ? 何故恐れる?」
キースが気付かないぐらい少しだが、カルロの微笑がほんのり翳る。
「ウォンは子供なんです。親の愛情を試したくて悪戯をする小さな子供と同じなんです。何をしてもあなたに許されると信じたいんです。恋心としては幼くて、そして愚かな行為です。そのくせ、少しでもあなたに愛されていることを知っているから、その愛を失うのがとても怖いんです。何をする時も、内心ではひどくおびえているんです」
「僕にか? 総帥としての僕はともかく、本当の僕は、魂のない人形とたいして変わりはしない。僕の愛情など微々たるものだ、そんなものを失うのを恐れる必要なんかないじゃないか」
カルロはため息をついた。
「キース様は、よくよく御自分の価値を知らないのですね」
魂のない人形の元へ、誰が集まってきたりするものか。他者へ注ぐ愛情を持たない指導者などに、誰がノコノコついていくものか。
この人は何もわかっていない。そういう意味では愚かであるのかもしれない。
だが、立派な人間は、往々にして自分の価値を知らないものだ。彼もその例に洩れないのだろう。
カルロが続ける言葉に困っていると、キースは眉を寄せて、
「ならきくが、君もおびえているのか? 僕が怖いのか?」
カルロは首を振った。
「いいえ。そういう意味ではおびえていません。それに、キース様は僕に優しいですから」
「優しい?」
キースは顔をしかめた。
「何故だ? 僕はひどい男だろう? ずるいだろう? 淫乱だろう? 僕は君を利用しているんだぞ。弄んでいるんだぞ。君の気持ちを知っていて、ウォンと寝てきた、なんて無神経な台詞まで投げつけるんだぞ」
カルロは軽く肩をすくめた。
「僕は、知っていますよ。……ウォンと逢ってから十日の間、キース様は僕をずっと遠ざけていたでしょう。特に夜は早めに部屋に引き取ってしまわれたでしょう。それはおそらく、ウォンにつけられた痕が消せなかったからでしょう? 僕に見せまいと、気を使ってくださったのではないですか。本当に無神経で淫乱でひどい男ならば、そんなことには頓着しない筈です」
図星をさされてキースは詰まった。ウォンがつけた愛咬の痕はなかなか消えなかった。それを誰にも見せたくないと思っていた。見せたくないのは二人の間の秘め事だからという理由が一番大きかったが、心の中に、カルロへの思いやりの気持ちも確かにあった。
カルロは笑った。
「キース様のお気持ちはよくわかっています。ですから、そんなに辛い思いをしている訳ではありません。《カルロ、これで終わりだ、もう二度と君とは寝ない》といつ言い渡されるかと思うと、悲しくなる時もあります。でも、見くびらないでください。ちゃんと覚悟はできていますから。それに、キース様の言い方を借りれば、どんな愛だって永遠ではない筈です。たとえキース様が僕を愛してくれたとしても、いつか終わる日がくるでしょう。そう考えればたいして辛くはない。あなたに翻弄されているなんて思いませんし、恨む気持ちもありません」
「カルロ」
キースは相手の掌を取った。指を絡ませ絞めつけながら、
「僕を抱きながら、君はそんな事を考えていたのか。君は、僕なんかがそんなにいいのか、そんな苦しい覚悟までして」
「ええ。それでもあなたに触れたいんです、キース様」
指を握り返しながら、カルロは囁く。
「今はいっそ、前より楽です。こうして側にいられるんですから。あなたの側で仕事ができて、あなたの心の中にポジションを得ることができて、少しでも信頼してもらえて、こんな風に甘えてもらえて、僕は幸せです」
「幸せ?」
「ええ」
カルロはキースの額にそっと口づける。それから頬に。耳に。
「あ……」
キースがびくりと身をすくめる。首筋にかかる息に感じてしまったらしい。
カルロはすかさず、キースを静かに抱き寄せる。
優しい抱擁――キースは相手の腕に、ついうっとりと身をゆだねた。そう、僕が今晩欲しかったのはこれだ。抱擁。熱い眼差し。誠実な態度。甘い愛撫。
「もう一度、あなたが欲しい……」
「うん。して。僕も欲しい。甘えさせて……」

キースは、すやすやと寝息をたて、安らかな顔で眠っている。
それを見つめながら、カルロはしばらく眠れないでいた。
「どうしてなんだ……」
こうして並んで横になっていると、発作的にこの人を締め殺したくなる時がある。
ふいに湧きあがる殺意は強烈で、思わずベッドを転がりでてしまう。急いでシャワーを浴びて、この理不尽な感情を必死で冷ます。おかしい。僕はキース様を憎んでいる訳ではない。だのにこの殺意はなんだ。ウォンに嫉妬しているからか。キース様がウォンを忘れていないからか。だが、彼は所詮過去の男だ。遠くにいて、キース様に触れることもできないでいる。今、キース様を抱いているのはこの僕だ。キース様は僕の腕の中で、喜びに震えてくれる。濡れた瞳で何度も求めてくれる。愛撫に応じて鋭く反応してくれる。僕を見てくれる。優しい声をかけてくれる。少しずつ信頼を寄せてくれている。
だのに、何故。
「わかる……」
ウォンが旧ノア基地を爆破していったこと、それが許せないにも関わらず、カルロにはあの時のウォンの気持ちがわかってしまう。
好きになりすぎて、いっそ壊してしまいたかったんだろう。
憎まれた方が楽だと思ってしまうほど、恋情が大きくなりすぎてしまったんだろう。
それは本当に愚かな恋だ。
だが、それを嘲笑する事は、僕にはできない。
だってたぶんその心は、今の僕が持て余しているこの心と同じ……。
「キース様……」
あなたは本当に自分の価値を知らない。あなたとウォンの考えていること、していることはうんと隔たっている。それなのに、少しでもウォンをかばったり誉めたりして。あんな男、もっと恨んで責めてやればいい。喧嘩した、もう手を貸してくれないかも、なんて可愛らしく泣く必要なんかないんだ。
嫉妬に胸が焼ける。
馬鹿馬鹿しいと思っても、暗い衝動がおさまらない。
カルロは自分の身をきつく抱いた。
彼は、恋仇に同情を感じる本当の理由を自覚していなかった。それが自分への同情につながっていることを。彼は知らない。自分の気持ちを偽っているからこそ、こうまで苦しいということを。本音を言えない状況だからこそ辛いという事に気付いていない。
それは当たり前の言葉、たった一言なのだ。あなたを愛しているから、やはりあなたに愛されたい。ほんの少しでいいから、振り向いて下さい――哀しい願い。
カルロは、ベッドの中でじっと耐え続ける。
彼はキースにくるりと背を向けると、かたく目を閉じた。
翌朝、キースが目覚めて、おはようのキスと抱擁を求めるまで、決して触れまいと決意して。いま触れてしまったら、自分が何をしでかすかわからないから。
激務に疲れた身体が、やがて眠りに落ちるまで、彼は念じ続けていた。
せめてウォンの二の舞にはなるまい、と。

3.

「駄目……変な声が、出ちゃう……」
キースが大きく喘ぐと、ウォンの身体は少し離れる。
だが、指の動きはねっとりとして、むしろ焦らすような愛撫に変わった。掌と舌と長い滑らかな脚が、敏感な場所をそれぞれ巧みに責めてくる。制止の声にかえって煽られたかのように、ウォンは妖しく動く。
「出して下さい……貴方の甘い声を、もっと聞きたい」
「ふっ、あ!」
キースはしきりに身悶える。声がはね上がるのをこらえきれず、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうだった。快楽の頂上まであと一歩というところまでのぼりつめながら、決して達することのできない苦しさ。ウォンが達すれば解放してくれるのでは、と思うと、つい哀願の声が洩れる。
「早く、してぇ……」
「淫乱ですねぇ、キース・エヴァンズ。もう我慢ができないんでしょう?」
「できない……だから、早く……欲し……」
次の瞬間、熱いものがグッと中に押し入ってきた。キースの視界は白く灼け、身体はたやすく痙攣した。
「あ、クッ、ウォン……っ!」

「うわっ」
びっくりして飛び起きたキースは、自分の下着が青い匂いで濡れていることに気付いた。
ここはノア基地から遠く離れた西海岸の、清潔なホテルのベッドの上だ。
昨晩寂しい独り寝をして、目覚めた今もたった一人だ。
「なんて夢を見てるんだ、僕は」
最近ほとんど夢を見ない生活をしていた。疲れすぎているのだ。だから普段見ない淫夢など見てしまったに違いない。普段と環境も違うし、ここ数日一人でいるというのもあるだろう。
キースはベッドを降り、バスルームへ行って下着を洗った。
「欲求不満なのかな……」
なんとなく艶っぽい余韻が全身に残っていて、キースは小さなため息をつく。
やっぱり、夢は夢だ。
だってウォン、ベッドの中じゃ、あんなじゃなかった。
僕が声を堪えている時、我慢できなくて困っていると気付くと、ウォンはいつもすうっと掌を引いてしまっていた。それは焦らすためというよりも、僕が乱れるのを見てびっくりして、という感じだった。愛撫は急にぎこちなく、たどたどしくなった。まるで、他人の肌に初めて触れた少年がするような戸惑いの顔。だから、さっきの夢みたいにウォンの下で乱れくるったり、哀願したりしたことなんてめったになかった。恥ずかしい目に遭わされたり、いやらしい言葉を口にしろ、と強要されたこともなかった。ウォンはいつもただひたすら優しくて、普段はいっそ物足りないぐらいだった。だから、こちらからねだるのもはばかられたのだ。
「もしかして……」
ウォン、もしかして、本当は色事が苦手なんだろうか。
それとも、僕とするのはあんまり好きじゃなかったんだろうか。
身体の事なんかどうでもよくて、心だけが想いあっていれば、それでよかったんだろうか。
愛情だけは、確かにあった筈だ。
あの瞳に見つめられるだけで、全身を、いや、魂までまるごと抱きしめられているような安堵感を覚えた。あの眼差しに嘘偽りはなかった筈だ。本人はどこまで気付いていたか知らないが、毎日愛の告白をされている気がしたほどだ。
ウォンが、珍しく明け方近くまで部屋にいてくれた時、尋ねてみたことがある。
「君は情の深い性質なんだな。今までの恋人達にも、こんな風に優しくしてきたのか?」
「私が? 情が深いんですか?」
意外なことを言われた、という顔をするのでキースはおかしくなった。確かに、昼間、有能なビジネスマンである時の彼は、情などかけらも持っていないように見える。無駄なものはすかさず切り捨てるし、憐れみや温情をむやみにまき散らす真似はしない。
だが、夜、キースを抱きしめるウォンは、誠実な愛情を一心に注ごうとする純朴な恋人だ。抱き合っているだけでしみじみと幸せで、広い暖かな胸に頬を埋めていると、母鳥の羽に守られる雛の心地がする。
キースはウォンのぬくもりの中で身体を伸ばす。
「君の情の深さは、母親ゆずりなのかもしれないな。君は、母親の話をする時だけ表情が違うから……中国の人間は親を愛する、大事にするというが、それだけでなくて、やはり情愛の深いお母様だったからなんだろうな。心配りの行き届いた、聖母のようなお母様だったんだろうな」
「さあ、それはどうなんでしょう」
ウォンは少し考え込む顔つきになった。
「聖母というのは、少し違う気がするんです。私の母親という人はなんというか、男親の優しさと女親の厳しさを両方持ちあわせていた人というか……ベタベタと甘やかされた記憶はほとんどないのです。血縁だからこそ無条件に慈母のように愛する、という愛され方をされた訳ではなくて、私の母はむしろそれを嫌う人でした。華人としては珍しい事かもしれませんが、正妻でなかったという立場のせいかもしれません。ただ、私という人間の中に、暖かさや良い部分が少しでもあるとすれば、それは母から来たものなのかもしれません。母は、人が仲間に出会った時に湧く自然な愛情というものを教えてくれました。私がノアに共鳴したのは、母に与えられたもののおかげかもしれません」
キースはウォンの言葉の意味がよく解らなかったが(母親が優しさと厳しさを兼ね備えているのは普通の事だし、男親の優しさを持つ母というのがどんな人物なのかは想像しにくい)、ウォンが本音を言っていること、母を愛していること、そして自分の中に良い部分があるのを素直に認めているのが嬉しかった。
キースも素直な気持ちを口にしていた。
「素敵なお母様で、少しうらやましいな……そんなお母様がいてくれたら、少しでも自分の味方をしてくれたら、つらい時期の事も、いつか美しい思い出にできるんだろうな」
「キース様」
彼は微苦笑を浮かべて、
「ああ、僕の父も母も、別に厭な人間だった訳じゃない。ただ、君みたいに《自分のいい処は親ゆずりだ》と胸をはって言えるほど、僕は彼らを愛してこなかったんだ。僕だって、愛されてなかった訳ではないけれど、でも、君のようにはとても言えない」
それを聞いたウォンは、キースをそっと胸に抱きとるようにして、
「キース様……どうか、泣かないで……」
「別に、泣いてなどいない」
「わかっています……でも、涙を流さず泣くのは、流すよりもずっと辛いんですよ……」
「ウォン」
その胸に甘えるうち、いつしか本当に泣きだしていた。なんだか切なくて、朝までずっと泣き続けたのだった。

服を着替え、顔を整えながら、キースはまだ考え続けていた。
ウォンのあの愛情は、結局どういう性質のものだったんだろう。
昼間のウォンは、僕を決して子供扱いしなかった。心の底では「この生意気な若造め」としょっちゅう思っていたに違いないが、それを顔に出す事は絶対になかった。どうしてもできないような難しい仕事は引き受けてくれたが、必要以上に手伝ってくれたり、矢面に立つ僕をかばってくれたりもしなかった。ただ、たいていの大人の支援者達は若い僕を見下したり、僕の能力の強さを必要以上に恐れたりしたが、ウォンだけは最初から、僕を対等の存在と認めて、いつも真剣に話をきいてくれた。
でも夜、ベッドの中のウォンは、まるで保護者のようだった。彼の腕の中で、僕はすっかり小さな子供に戻ってしまった。眼差しで甘えると、肌身で優しく包んでくれて。愛しげに髪を撫でられ、あやされると、何もかもゆだねてしまいたい気持ちになった。
ウォンにとって、僕は一体なんだったんだろう。
僕はウォンをかけがえのない恋人だと思っていたけれど、ウォンは僕をなんだと思っていたんだろう。
「今では怖がられているらしいが」
苦笑して、キースは荷物の整理を始める。
どうして皆、僕におびえるんだろう。
カルロは僕におびえていない、と言いはっていたけれど、あれはたぶん嘘だ。だって、眼差しがおびえていた。彼は僕の愛情が欲しくて、そしてひどく不安がっているのだ。この僕が、彼をあそこまでおびえさせているのだ。
僕は恐ろしい存在なのだろうか。
あのリチャード・ウォンを狂わせ、遠ざけるほど、怖い魂を持っているのだろうか。
「違うよな、そうじゃないよな?」
キースは独り呟き続ける。
「君が軍へ行った本当の理由は、そこにメリットがあるからだよな?」
キースは収容所時代、軍という組織の仕組みを目の当たりにし、また出会った人間達の心の中をサーチして、いくつかの発見をしていた。そこには学ぶべきものがあった。武器の扱い方。最新の優れた機械。下の者を統率する上官の方法論と技。政治的な配慮とそれに応じた戦闘技術。暗号。医療とメンタルケア。組織の作り方。
キースがノアという秘密結社を創る時一番役にたったのは、皮肉なことに収容所で独学したこれらの知識だった。
だから、ウォンが軍に行ってしまった時も、驚きはしたが、時間がたつにつれてその行動の正当性を納得してしまっていた。サイキッカー部隊などというものをつくって司令官におさまれば、ノアにいるより面白い事ができると考えたのだろう、と。それに、サイキッカー達は、米軍に入る事によってあるメリットがえられる――国家に養ってもらえるということ、身を守る技術を身につけられること、そして、二度とサイキック狩りにひっかからずにすむこと。これらはすべて、ノア内でやるのは難しいことだ。
その上ウォンは、軍の情報を漏らしてくれたり、資金を新生ノアへ流してくれたりもしている。
ウォンの意図は、一種明快といえる。
軍サイキッカー部隊は、彼なりの第二のノアなのだ。
ノアで出来ることにあきあたらず、新しい一歩を踏み出したのだ。
そして、今また第三のノアが、私達二人の手でつくられようとしている。
それで、それだけでいいじゃないか。
それ以上ウォンに何を望む。
キースは最後の資料をもう一度見直し、鞄に詰めた。
それを持ち、ホテルの部屋を出て、地下の駐車場へ行った。
駐車場には、屋根をグレイに塗られた若草色のミニ・クーパーが止まっていた。先日、キースがレンタカー屋に赴いた時、並ぶ大きなアメリカ車の間にぽつんとあった英国車を見つけて、思わず借りてしまったのだった。いかにも英国製らしい、シンプルだが丸みのあるフォルム。内装に本物の木が使われているのもいかにもだ。中に入り、ウッドパネルやウッドステアリングを撫で、軽く叩いて見て、それがプリントの木目でないことを思わず確かめてしまった。
これにします、と言った時、従業員が「物好きな」という顔をしたので、しまった、とキースは後悔した。何のためにわざわざ車を借りにきたんだ、ごく普通の旅行者を装うためだったのに、うっかり印象に残るようなものを選んでしまうなんて、と思ったが、今さら後の祭りだ。キースはそのままそれを借りる事にし、数日それを乗り回していた。一人旅は危険なのだが、資料にあるいくつかの土地を、自分の目で見てまわりたかったのだ。ウォンが選んできた、第三のノアの候補地を。

「ここは、いいなあ……」
その日キースが訪れたのは、海岸から少し離れて奥まったところにある平地だった。周囲を山にかこまれていて、空気も水もそこそこ綺麗な土地だ。もう冬も近いというのにたいして寒くもなく、どうして人があまり住んでいないのか不思議なぐらいの場所だった。観光地としては殺風景だし、周囲の起伏が激しくて農地としての面積があまり取れないからだろうか。
車から降り立ち、キースは歩きはじめた。
アメリカというのは不思議な国だ、と彼は思う。こんな土地が空いているとは、と。広い国なのに、大した数の人間が住んでいる訳でもないのはどうしてだろう。アメリカン・ドリームという言葉も不思議だ。いろんな国から海を越えてきた移民達は、何を夢みてこの大陸にやってきたのだろう。
人気のない道を、キースは歩き続ける。
ノアは、この国で生まれるべくして生まれたのかもしれない。私達サイキッカーは、やはり夢を見るためにノアへ集まってきたのだ。
収容所を脱出する時、「キース、おまえに俺達の未来を託す」と願ってくれた仲間達。彼らは私に夢を託してくれた。
私は彼らに応えなければならない。
この新しい計画、第三のノアをつくるプランが、うまくいくとは限らない。
だが、どんなに困難でも、これを進めなければならない。私だって、いつかは倒れる。軍に殺されなくとも、いつかは命が尽きる。永遠に続くものなどない。だが、未来へつながる場所を、いくつかつくっておくことは可能だ。全部が残らなくてもいい、そのどれかさえ残ってくれれば、サイキッカーは生き延びていかれる。
旧約聖書の神は、乱れた世の中からノアという男を選び、それに人類の未来を託させた。
私の命は、多くの同胞の犠牲の上に成り立っている。私がもし天の意思といったもので生き延びてきたのなら、次の世代へこの意思を伝えなければいけない。これからも沢山生まれてくるだろうサイキッカーのために。彼らが無駄に苦しんだり、生活の場を失ったりしないよう、僕は何かをしておかなければ。
キースは泥の質を見、少し考え込む。
「砂地だな。農地として開拓できなくはないだろうが、人を多く住まわせて不自然でないのは、やはり企業誘致が一番だな……コンピュータ会社でも一つつくるか」
キースは幻の会社を脳裏に思い浮かべながら、あたりを見回す。
小さなコンピュータ会社をつくって、そこをサイキッカーのスタッフで充実させることをキースは考えていた。年齢の足りないものは、その家族という触れ込みで、寮などに住まわせる。才能があれば、十代から働いて不自然でないのがこの種の会社のいいところで、また一気に成長してもあまり怪しまれない。一般的に、サイキッカーは電子ネットワークを馬鹿にしていると考えられている。テレパシーやテレポートが使えるから、そんなものには頼らないだろうと思われているのだ。その盲点もつける。
そういう仕事に不向きな者や年齢のいった者は、時期を見て少しずつ入植させる。季節の変わり目に人は動く。進学の時期等に何家族かがここへ移り住んできても、そんなに妙な事ではあるまい。人が増えれば職種は自然に増え、街はさらにサイキッカーを受け入れやすくなる。
「いったい、どれぐらいの時間でそこまで行くものか……街づくりの規模となると、基地とは勝手が違うからな……さて、どうする……」
呟きながらキースは、最初のノアを設立した頃の事を思いだしはじめていた。
あの頃、キースの胸には、常に新たなものをつくる喜びや興奮があった。もちろん、何もないところから一つの組織を生み出すのには多くの困難がつきまとった。だが、苦労を苦労と思っていては何もはじまらない。彼は奔走した。何もかもがスムーズに運ぶようになるまで、働いて働いて働き抜いた。
「ふ」
キースはふと笑い出してしまった。
「あはははは……どうして僕は、愛に理由がないだなんて……」
どうして僕はウォンを愛したか。
一つ、それは彼が優れていたからだ。
打てば響く明晰さ。バイタリティと行動力と資産。
何もかもがスムーズに運び出すようになったのは、ウォンがノアに来てからの事だった。彼がノアのためにどれだけの事をしてくれたか。その努力だけとっても、彼を愛する理由に十分だ。
そして、あの献身的な愛情。
彼を愛さない方がおかしかったんだ。僕の子供の部分も寂しい部分も抱きとって慰めてくれた彼を、かげひなたなく支えてくれた彼を、好きにならない方がおかしい。信頼しない方がおかしい。たとえ裏切られたとしても、それだけで憎めるようになる訳がなかった。これから先、二度も三度も裏切られる可能性だってなくもない、だがこの瞬間にも、遠くから見守り助けてくれている男を憎めるだろうか。
どうしてウォンでなければ駄目なんだろう、なんて思う方がおかしかった。
それで当たり前なんじゃないか。
ウォンよりも僕をわかってくれた者はいないんだから。あらゆる面で受け止めてくれた男は、他にいなかったんだから。
好きになる理由は、ありあまるほどあったんだ。
それにしても、僕はなんて功利的な男なんだろう。
相手が優れているから愛していたなんて。
ウォンが離れていくのは当たり前だ。僕のような人間を好きになって、きっと空しかったんだ。彼一人に、保護者の役も仕事仲間の役も恋人役もすべて演じてくれ、と無茶な要求をつきつけて、自分はただ甘えるだけ甘えて。
おまえはどういう化け物か、とそしられても文句は言えない。
「それなのに、僕は……おかしいな……ははははは」
遠くからバイクの爆音が聞こえてきた。
誰かがこの道を通り過ぎようというのだろう。キースは笑い声を止めようとした。だが、涙が溢れてきて、笑い声も止める事はできなかった。
バイクの音が止まった。
大きなチョッパーバイクに乗った男が、こちらを見ていた。黒いライダースーツで全身をぴったり包み、やはり黒のフルフェイスのヘルメットを被った長身の男が。
キースは我が目を疑った。
普段とあまりに違うスタイルだが、あれは。
キースは目元をぬぐい、にっこりと男に笑いかけた。
男はゆっくり、無言で近づいてきた。
彼がヘルメットをとると、豊かな黒髪がパサ、と肩に流れ落ちた。胸のポケットから眼鏡を取り出してかける。
男もキースに笑いかけた。
その眼鏡の下の瞳は、すでにうっすら潤んでいたが。

4.

そこは海辺の街にある、ビジネスホテルのとある一室。
「よし。これでいい」
モバイルのキーを叩き、暗号処理を終えたファイルを送信し終えて、ウォンはほっとため息をついた。
軍の監視下にないサーバを通して、ノアへ送る極秘通信だ。新しい理想郷のための計画の一つだ。送信をする時、ウォンは少し緊張する。誰かに発見され、ノアに通じている証拠として押さえられてしまうのは、今の段階ではまだまずい。軍サイキッカー部隊も潤沢な資金のおかげでだいぶ体裁が整ったし、ノア向きの人材はだいぶ放出し終えた。そろそろ潮時かもしれないと思う時もあるのだが――上層部も、そろそろ目障りになってきた司令官を排除する画策を練っているようだし――だが、この時期だからこそ、足元をすくわれる事は避けたい。
それでもウォンは、何かとファイルを送りたがる。
キース・エヴァンズから返信が来るからだ。
暗号処理などいらないのではないかと思うぐらい、簡潔で事務的な文書だが、必ず返事がくるからだ。
「貴方という人は、どうしてそうなんですか……」
ウォンは胸を押さえて呟く。
あの時あんなに怒っていたから、すっかり嫌われてしまったと思っていた。どんな提案を持ちかけても、もう相手にされないかもしれないと思っていた。
いっそ答がないか、冷たくされるなら、諦められると思った。
だが、こうしていらえがくる。
それが嬉しくて、そして少し辛い。
単に、仕事と私情は別だ、ということなのかもしれないが。
貴方は「会いたかった、寂しくて我慢できなかった!」と泣き叫んだ次の瞬間、「君を縛る気はない、我が儘を言うつもりはない」と突き放せる人だ。それは強がりで言うのでなく、貴方は本当にそう思って言っているのだ。貴方は感情を切り分ける事が出来る人だ。恐ろしいほど冷静になれる人だ。
ノア創立の際、様々なノウハウを駆使して組織をつくりあげていく貴方に、私は驚嘆した。後生おそるべしと言う、若い者は、それ以前の世代の者より早く成長し賢くなるのは確かにそうだが、十代半ばで政治的結社をつくりあげる手腕というのは、普通の教育ではなかなか培われるものではない。
仕事中に一度、その資質について尋ねてみた事がある。
「キース様は、いったい何処でそんな知識を得てきたのですか?」
「それが皮肉な話でな」
キースは苦笑して、
「私が一番大人から学んだ時期は、収容所に捕らえられていた頃なんだ」
「収容所?」
「ああ。収容所は軍の内部にあって、そこには様々な大人がいた――生粋の軍人も、技術者も、看守も、医者も――彼らの頭の中を片っ端からサーチして、私はかなりの知識を取り込んだ。一見どんなに愚かに見える者でも、学ぶ事はあるものでな。実は集団脱走の方法も、ある一兵士の知識を盗んで計画したんだ。あれは成功とはいえなかったが……とにかく、あの時蓄えた学問は、今の私にかなり役にたっている」
「サーチ、と簡単におっしゃいますが」
私は目を丸くした。
一言で言えるほどそれはたやすいことではない。テレパシーの能力というのは一種不便なものだ。狙った情報を得るのは難しい。それに、他者の思考をさぐる時というのは、その他者の感情も自分の中に取り込んでしまう。特に、サイキッカーは神経が敏感な者が多い。他者の感情を長時間受け止めて堪えきれる者は少ない。感度のいいアンテナが小さな雑音まで拾ってしまうように、能力が高いものほど他者に受ける影響は大きくなる。それを続けていたら、人格が崩壊してしまう。
「それで混乱なさらなかったんですか、キース様は」
「ああ」
キースはなんということもない、という風に笑って、
「最初のうちは、多少はな。だが、私は気をつけて、知識だけをすくいとる訓練をしたんだ。人は、知識よりもむしろ感情を隠したがるものだ。知識ははっきり言語化されて、意識の表層に、無防備にさらけ出されている事が多い。私は彼らの個々の感情や生活に立ち入りたくなどなかったし、浅い部分をサーチするだけで解る事があるのなら、そういう努力をするのは普通だろう?」
私は言葉を失った。
真のカリスマというもののなんたるかを、少し解した気がした。
この人は、どんな場にあっても、自分の信条と理性を失わぬ者なのだ――収容所の生活はひどいものだったはずだ。過酷な人体実験を受け、苦しめられながらも、自分の人格を前向きに保ち、あくなき知識欲を満足させるために新たな思考を編み出すとは――なんという人だろう。
この人はこの若さで、自分の感情をコントロールし、また分離する事ができるのだ。
キース・エヴァンズは笑顔のまま続けた。
「私の知識など微々たるものだ。総帥として、私はこれからも多くを学ばねばならない。君からも教えられなければならない」
「私から、ですか?」
「ああ。君は貿易をやっているんだろう? 私には経済学の素養がない。君から学ぶことは沢山ある筈だ」
そう言って瞳をキラキラと輝かせる貴方は、無邪気そのものだった。その質問は、本人の言うように、時に初歩的だった。
「中国人は世界各国で商売をやっているが、あれはどうやって資金をやりくりしているんだ? もちろんいろんな方法があるんだろうが、まず最初はどうするんだ?」
なんて可愛らしいんだろう、と見とれ、それから頬を引き締めて真面目に返答する。
「まあ、同族間での商売をして、それから規模を広げていくのが一般の華人のやり方です。例えば昔は、《標会》という融資方法があったらしいです」
「標会?」
「ええ。十人から三十人ぐらいの華人が集まって、毎月一定の額で共同出資をして基金をこしらえます。次に、出資者達は毎月一回の入札をします。各々がそれぞれ金利を提示して、一番高い金利を提示した者が落札します。落札した者は、出資金の中から自分の事業に必要な資金をすべて借りる事ができます。彼のつけた金利は、利息として彼以外の出資者に与えられます。それが《標会》です。……この説明でおわかりになりますか?」
「つまり、自分達で金を出しあって貯めておいて、必要な者がその時その時、必要なだけ借りだして仕事をし、その利益を仲間へ戻す、ということか?」
「そうです」
キースは眉根を寄せて考え込んだ。難しい話だからかと思えば、次の質問のためだった。
「だいたい解ったが、その方法の良いところはいったい何なんだ? 結局は金は返さなければならないんだろう? 同族間で足の食いあいをしているのと違うのか? それで儲るものなのか?」
もっともな疑問だ。私は説明を続ける。
「確かに《標会》は原始的な方法です。地縁血縁に頼ったやり方で、信頼のない者同士が使える方法ではありません。しかし、もちろん良い点はあります。たとえば、借金を返す際、自分がつけた以上の金利をとられることはありません。つまり、暴利をむさぼられる心配がないんです。また、担保なしで誰でも資金を借り出す事ができるというのも魅力です。普通、担保を持たぬ者に資金を提供してくれる融資業者はいません。ですから、手持ちの札が少ないにも関わらず、自分の商売が勝負時であるという時、標会は有難いシステムなんです。おわかりでしょうか」
「なるほど」
考え込む貴方に、私は柔らかく笑いかける。
「キース様、イギリス人も、世界をまたにかけて商売をしてきた者ではありませんか。多くの植民地から利益を吸い上げてきたのがイギリスという国です。私はむしろ、キース様から学ぶべきなのではないかと思っていますよ」
すると貴方は鼻で笑った。
「確かに。貴族というのは搾取と贅沢しか知らない生き物だからな。私もそうだが」
皮肉な口調に、思わず私は貴方の掌をとっていた。
「いいえ、キース様は違いますよ。貴方は違う」
貴方の落ち着いた面ざし。他人の心へ染み込む滋味のある声。たくまざるカリスマ性。そして茫大な努力。貴方が総帥にならなくて他に誰が立てるかと思うほど、あなたは立派で、どんな成人にも負けなかった。
だが、その心の奥に隠されているのものは。
掌をとられた貴方は、ほうっと頬を赤らめた。
次に来る口吻を、抱擁を待っているのだ。
こういう時、そっと抱きしめると、貴方はいっぺんで幼子に戻ってしまう。抱擁を優しくすればするほど、その表情は甘く潤んでくる。
「……ウォン」
瞳を閉じ、そっと身体を寄せてこられるその瞬間、私はいつもどうしていいかわからなくなる。
本当の欲望は激しい。情欲のままに、貴方をめちゃめちゃにしてしまいたい、と思う時もある。それなのに、貴方が愛撫に反応し、少しでも乱れはじめると、とたんに私は怖くなる。こんなに清潔な人に、私は何をしているのだろうと思ってしまう。貴方の眼差しが、身体が欲しがっている時なんて、怖くて怖くてたまらない。どうやって自制心を保てばいいのかわからない。それなのに、貴方の肌にどうしても魅かれてしまう。一つになりたいと思ってしまう。貴方を抱いて、貴方の中で、私はいつも溶けるような想いを味わった。そして、それはあまりに幸せで――。
「……愚かな」
自分から貴方を遠ざけておきながら、つらいと思うこの愚かしさよ。
寂しかったと叫びたいのは自分なのに、と思うこの馬鹿さかげんよ。
ウォンはノートパソコンをしまい、服を着替え始めた。
出かける準備である。
今日は三カ所ほど見て回りたい場所があった。ただし軍の仕事でなく、また実業の方とも関係のない事なので、用心して普段と違う服を彼は選んでいた。地味な黒のライダースーツ。フルフェイスのヘルメット。揃いのブーツと黒の手袋。
それをつけると、彼の印象はがらりと変わった。長身の彼に、つなぎの服はよく似合う。立派な体格がさらに立派に見え、ヘルメットをつけた彼を東洋人だと見抜く者はいないだろうと思われた。これはすでに一種の変装といって良かった。
彼は街のバイク屋へ寄り、チョッパーバイクを買った。不良中年がいかにも好みそうな、そして普段のウォンが絶対選ばないような、渋い改造二輪である。
彼はそれに乗り、風をきって走りだした。
海辺を離れ、山中の土地を目指して。

心地よい筈の走行。屈託など飛んでしまいそうなスピードと爆音。
だが、ウォンの視界には景色が映っていなかった。
彼はまだ、物思いに沈んでいた。
「私はもう、幸せになってはいけないのかもしれない……」
だって、至福の瞬間をもう十二分に味わったのだから。
私は貴方の一番美しく純粋な時期を、側でずっと見ていることができたのだから。
男の十代後半は激変の時である。男は少年から青年に、文字どおり生まれ変わる。容貌も身体つきの変化も、成長などという生やさしい言葉ではくくれない。別人のようになってしまう者も少なくないのだ。
キース・エヴァンズももちろん成長した。その端正な面ざしは、少年から青年に育っても変わらず美しかった。その理想は磨かれ、さらに美しい夢に変わった。私は貴方のその美しさを守りたくて、一生懸命貴方に仕えた。
その幸せ――今、その記憶だけで胸が暖かくなるほどの幸福。
「駄目だ、もう考えては」
ウォンは思考の方向を無理矢理変えようとした。
今日は、新しい理想郷の候補地の選定のために来ているのだ。そちらに意識を集中しなければ。
彼は山あいの道を走りながら考える。
ここは、前回キース様に送った資料の中で、一番有望な場所として提示した場所だった。具体的な案に関しては、再度お知らせしますと連絡した処だ。
ここにコンピュータ会社をつくり、ビル・ゲイツも青くなるほどの発展をさせたら面白いだろう、とウォンは思う。奥まった静かな土地だが、農地にはあまり向かない土壌なので、ここは一つ起業するのが良かろう。社員の生活を家族ごと囲いこんでしまう企業が、アメリカには多くある。その会社の従業員の子供専用の学校をつくる企業すらある。つまり、サイキッカー達が秘密の共同体をつくるには、会社組織に折り込んでいくのが、一番怪しまれず効率のいい方法なのだ。サイキッカーの会社、サイキッカーの住む家、サイキッカーの通う学校――だが、傍目からみれば、それらは企業にとりこまれている普通の小さな村にすぎない。これ以上無難な隠れ蓑はない筈だ。
「拠点としては、ある程度の力をもつ金融企業も誘致したいが……」
近隣に住む中華系のサイキッカーで、適切な実業家がいただろうか、とウォンは思いめぐらす。
下見をしてみて、もし想像とだいぶ違う土地であったなら、別の候補地も再検討してみなければならない。もし行ってみて想像通りの土地でも、何度か通わなければ、本当の姿は見えてこないだろう。気候の問題もある。冬、物凄く冷え込む土地だとしたら、幼い子供達には辛いだろう。そして老人にとっても……。
ウォンはふと、道端に駐車してある車に目を止めた。
グレイと若草色に塗りわけられたミニ・クーパー。一目で有名な英国車とわかる、独特の丸いフォルム。
珍しいな、と彼はバイクのスピードを落とした。アメリカではこういう車をあまり見ない。アメリカ人は、こういう車をあまり好まないからだ。土地が広く道が広いのでチマチマした車に乗る必要がないのだろう。ミニ・クーパーは優れた車ではあるが、あの大きさの車を買うなら、みな値段で日本車を選ぶだろう。つまりあの車の乗り手は、酔狂な趣味人の類だ。もしくはイギリスびいきか、国粋主義のイギリス人か。
待て。
ウォンは胸が高鳴るのを感じた。
誰があの車を乗り捨てたのか――今の車のナンバーはレンタカーのものだった。ここらへんはまだまだ不便で、観光地でもなく、人もあまり住んでいない場所だ。
その乗り手が、昔イギリスにいて、懐かしくてつい英国車を選んでしまった若者でないと、どうして言い切れるだろう。
でもまさか。
あの人が、基地からそんなに気軽く外出できる訳がない。
でも、この私も、こうして軍の外に出て来ているのだし。
彼はさらにバイクのスピードを落とした。コート姿で冷たい地面に触れ、土壌を吟味している、銀の髪の青年を見つけたからだ。
青年はバイクの音に気付いていたらしく、すぐにこちらへ振り向いた。
一瞬びっくりしたような顔をしたが、こっちがモーターを止め、バイクを降りて近づくと、にっこり微笑みかけてきた。
彼は、私が誰だかわかっているのだ。
充分近づいてから、ウォンはヘルメットを脱いだ。押し込んでいた髪が流れ落ちる。胸ポケットにしまっておいた眼鏡を取り出して、顔にかける。
それでも、涙がにじむのは隠しようがなかった。
「お久しぶりです、キース様。お会いできて嬉しいです」
やっとそれだけ言うと、相手も瞳を潤ませて、小さくうなずいた。
「うん。……僕もだ」

5.

二人はそれから、肩を並べて土地の検分を始めた。
考えていた事を語り合いながら歩いた。休息を取り、また近くのガスステーションで質素な食事を摂りして、一日中歩き続けた。日が暮れて、互いの車とバイクを近くの街にあるモーテルに運ばねばならなくなるまで。
ツインルームにおさまっても、二人の瞳の輝きは昼と変わらなかった。軽い興奮状態のまま、二人は地図を広げた。テーブルの角を挟み、話し続けた。
「なんだか、あの土地で行けそうな気がするんだ」
「そうですね、だいぶ見えてきた感じがします」
二人は二人とも、今日あの場で会うべくして会ったと感じていた。
会ったのは偶然ではないが、別に具体的な連絡をとりあった訳ではない。つまり、気持ちの一致が二人を結び合わせたのだと思っていた。
夜が更け、話に一句切りがついて、沈黙が訪れた。
キースは急にうつむいてしまった。何か思いだしたかのように、頬を赤くし、膝を揃えてモジモジし始める。
「あの……ウォン」
「なんですか?」
「まだ、もう二度と会わない方がいいって、思ってる? まだ、僕が怖い? 触りたくもない?」
ウォンははっとキースを見つめた。
まだ、この間の事を怒っていらっしゃるのか、と。
そう思った瞬間、ウォンはたやすくパニックに陥った。
会いたいんです。触れたいんです。でも本当は会わない方がいい。怖いんです。でも、こうしているのがとても幸せなんです。でも怖い。貴方といたいんです。でも一緒にいては駄目なんです。特に今は。
口唇すら動かせないでいるウォンを見て、キースは立ち上がった。
ウォンの椅子の後ろへまわり、その背中にそっと寄り添い、きゅっと抱きしめた。
「キース……様……」
「君は知ってたか? 僕はいつも、こうやって君の背中に甘えたいと思ってたんだ。それから、君を抱きしめたいと思ってたんだ。君が僕にするみたいに、そっと、優しく、とろかすような抱擁ができたらいいなって」
キースはウォンの髪に頬を埋め、その香を嗅ぎながら囁き続ける。
「なんだか誘ってるみたいに思われるのが厭で、ずっと我慢してたんだ……だってウォン、淫乱な僕が嫌いだから……少しでも乱れると、困った顔をしてたろう……僕はずっと恥ずかしかった。君みたいな経験豊かな大人が思わず引いてしまうぐらい、僕は色狂いなのかなって……そうだったのかもしれない。だっていつも、君が欲しくてたまらなかったんだから……本当は、僕のウォンっていつも言いたかったんだ。でも、言っちゃ駄目だと思ってた。悲しくなるから……いつか君が、僕を置いていってしまうのがわかってたから……」
キースはそこで抱擁の腕をほどいた。
「君が厭なら、もう触れてくれなくていい。君が厭なら、僕からももう二度と触れない。でも、もし良かったら、僕の夢にもう少しだけつきあって欲しい。今日、とても楽しかった。やっぱり君と仕事をしたい。君より優れたパートナーはいない。もう僕になんて飽きてしまったかもしれないけれど、でも、もし、君が良かったら、もう一度だけ……」
ウォンは肩を震わせていた。
言葉を失うほどの、激しい想い。
何を決意したのか、彼は青い顔をして立ち上がった。
キースをにらみつけ、低く絞り出すような声で、
「いいですか。その口唇が、僕は淫乱だ、なんて二度と言えないようにしてあげます。本当の性の快楽を、今晩貴方の肌身に叩き込みます。覚悟してください。どんなに私が貴方にふさわしくないか、どんなに酷い男か、その全身にすっかり覚えさせてしまいますからね」
ほとんど殺気に近いものを感じて、さすがのキースも震えた。
「いいですね?」
だが、重ねて念を押された時、喉を鳴らしながらもキースはうなずいていた。
「それでも……君が欲しい」
次の瞬間、キースはいきなりベッドへ投げ出されていた。物狂おしい口吻。引き裂かれる服。ウォンの巨体の下で、キースは揉みくちゃにされた。「駄目」という制止の声は聞いてもらえず、愛撫はひたすら執拗だった。キースの視界はずっと白熱して、時折別の色の光が混じる事もあった。快楽が強すぎて目を開けたまま堪えることができない。何度も姿勢を変えさせられ、そのたびにウォンはキースを激しく貫いた。ここまで乱暴にされるのは初めてで、苦痛を感じていい筈なのに、キースの口唇から洩れるのは喜びの喘ぎだけだった。
ウォン、僕が厭になった訳じゃないんだ。まだこんなに僕を好きなんだ。どうしよう。嬉しい。もっとひどくされてもいい。もっと僕をむさぼって。二度と離さないで。ああ、腰がくだける、身体の形が溶けてなくなってしまう……。
キースが意識を失っても、ウォンはその身体を姦し続けた。キースが息をふきかえすと、更に激しく犯し続けた。夜が明けて、自身が力尽きてベッドへ倒れ込むまで、ウォンの凌辱は終わることがなかった――一時も休むことなく続いて。

次にウォンが目覚めた時には、再び夜のとばりが降りようとしていた。
着替えの服をつけたキースが笑顔で、裸のウォンの顔をのぞきこんでいた。
「おはよう、ウォン。……といっても、もう夜だがな」
あんなにしたのに、まだ自分は嫌われていないのか、とウォンは驚いていた。
「キース様……お身体は大丈夫なんですか」
キースの微笑は消えない。
「胸を張って大丈夫とは言えないが、眠れたから体力はだいぶ回復してる。さっき身体も拭いてきた。それにしても、久しぶりにぐっすり眠れた……あんなに気持ちのいい眠りは、今まで味わったことがないかもしれない」
「キース様」
「君こそ大丈夫か? 起きられるか? 無茶をさせてすまなかったな」
「平気です」
ウォンは慌てて身体を起こした。
それは私が言うべき台詞なのに。
やはりこの人は恐ろしい。この人の目の前では、どんなに悪ぶっても無駄のようだ。何もかもすべて見抜かれてしまう。そして、許されてしまう。
もし神というものが本当に存在するのなら、それはキース・エヴァンズのような者に違いない。そうとしか思えない。
キースは静かな微笑を浮かべたまま、ウォンに寄り添った。
「ウォン。僕はそろそろノアへ戻るつもりだ。それで、戻る前に、君から一つ欲しいものがある」
「欲しいもの?」
「うん。僕は、君から約束が欲しい。次に会う日を約束して欲しい」
ウォンの髪を撫でながら、
「考えたんだ。どうしたら自分が一番幸せな気持ちになれるかってことを。それで、次にいつ逢えるか、その約束をもらうのが一番いいなって思ったんだ。君にノアに戻ってきてもらう訳にはいかないし、僕が軍に行く訳にもいかない。二人とも今の立場を捨てて逃げだしても、幸せにはなれないだろう。でも、離れていても、同じ仕事をしているのなら。次の約束があるのなら、僕はそれを楽しみに生きていける。君と離れていても耐えていける」
「キース様」
ウォンは長い腕をキースの腰に回す。そっと締め付けながら、
「本当に幸せになれるんですか? 私が約束するだけで?」
「うん。約束で君を縛りたい」
「約束なんて、実に不確かなものですよ。互いの都合がつかなければ逢えない時も出て来る筈。人を縛れるものではありませんよ」
「実際に逢えなくたって別に構わないんだ。また、その次の約束を君がしてくれるなら。気持ちの問題なんだ」
キースは間近でウォンの瞳をのぞき込んだ。
「ウォン。僕らは何者だ? 政府から、国家から追われるサイキッカーなんだぞ。しかも、ノアや軍から狙われている重要人物だ。明日、いや、たった今暗殺されてもおかしくないんだ。死んでしまったら、どんなに約束を守るつもりでいても、二度と逢えない。でも、大事なのは逢うことだけじゃないんだ。例えば約束なんだ。もし、君が一ヶ月先の今日、もう一度逢うと言ってくれたら、その瞬間僕は幸せになる。次の瞬間君に殺されるとしてもだ。わかるか? 約束を待つ間、人は楽しいことを思い描くことができるんだ。相手に嫌われていやしないかと無駄におびえなくてすむ。それが約束というものなんだ。だから、約束してくれ。また逢おうって」
ウォンは涙ぐんでいた。
「これは夢ではないんですよね?」
「おかしな事を言うんだな。こういう夢を、君はよく見るのか?」
「ええ。愚かしいでしょう、自分から離れておきながら、あんまりさみしくて、ずっと貴方の夢ばかり見ていたんです。ずっと」
「いや。ちっとも愚かしくなんか、ない」
二人は横になり、そのままぴったりと抱き合った。そのぬくもりと心地よさ。互いの境目がとけて消えてしまった気がして、しばらく二人は動けなかった。
「あの街ができたら、貴方と二人で、あの街で暮らしたい……」
「それもいいな」
キースは低く笑った。
「でも君は、すぐにあの街に飽きて、飛び出していくだろう。ノアから飛び出した時みたいに」
「キース様」
キースはクスクス笑い続けていた。
「しかたないと思っている。君は起きて夢を見る男だ。じっと眠っていられないんだろう。でも、それでいいんだ。それは僕も同じだから、それでいいと思ってる。それに、いつも一緒にいて飽きてしまって、結局別れてしまうのなんか厭だ。それより、こんな風に時々君に逢って、愛されたい。ずっと一緒にいるより、ずっと僕を好きでいてくれる方が、僕は嬉しい……そんなのは厭か? 僕の我が儘か?」
「いいえ」
ウォンはキースの額にそっと口づけた。
「私は、いつでも貴方ののぞみのままに」
「有難う」
充分に名残りを惜しみ、甘えあってから、彼らはそれぞれの巣へ帰った。
新しく生まれ変わった恋を、永遠以上の約束を、互いの胸に大事に抱いて。

そうして二○一二年はその幕を下ろし、サイキッカー達の上に新たな時代が訪れる事になるのだが、ここでひとまず筆を置くことにする。ハッピーエンドの先は知らぬが花ということを、最後に一言書き添えて。

(1999.3脱稿/初出・恋人と時限爆弾『眠り疲れて(TIRED OF SLEEPING)』1999.3/参考文献『アジア危機に挑む華人ネットワーク』蔡林海(Cai Lin Hai)東洋経済新報社)

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