『エヴァンズの夏』

一九九六年七月一日。
イギリスの香港返還まで一年をきったその日、大学の長期休暇中のリチャード・ウォンはその首都にいた。
陽光に、あざらかな緑したたる夏の朝。
ロンドンというのは不思議な街だ。
首都のど真ん中だというのに、ハイドパークなどという巨大な公園がある。一歩入ると、その静けさに驚かされる。夏ゆえに家族連れなども多くあり、皇太子の離婚騒動で穏やかならないケンジントン宮殿もこのすぐ隣の公園の中にある。インド系の移民も多く、貧民層のパーセンテージも少なくないのに、そこに広がる景色はやはり貴族達のものだ。何があるでもないだろうに、暑苦しい正装の紳士が行く。一歩外では、騒音も公害も税をかけなければならないほどひどく、子供が犬も飼えないような環境だというのに、百年前よりはまだましとすましているのだ。
ここもまた香港と同じく、一種の魔都であるのに違いない。
ウォンはロンドン大学の脇を抜け、ハイド・パークのフェンスの脇を、一人歩き続けている。額の汗を軽く押さえて一人呟く。
「ここも、夏がやや涼しいぐらいなだけのことだな」
歴史ある街並みは、彼にはなんの感慨ももたらさなかった。この春、オックスフォードよりも遥かに入学の難しい香港大学に入学し(三年制の大学のため十九で入学になる)、時間を見つけては世界中のチャイナタウンを訪れ、各国財界の情報をチェックしている彼に、今更目新しい景色があるわけもなかった。だいたい、気晴らしの散策の筈なのに、考えているのは会社の事だ。
しかも、物騒な独り言を呟く。
「あいつらをどう始末してやるか……先は長い」
あいつらというのは、彼の親族のことだ。
彼は香港の貿易会社の社長の息子である。ただし、第四夫人までの子供ではない。社長が外でつくった子供で、六つの時に彼の母が死んだため、ウォンの家に引き取られたのである。
当然のように、彼への風当りは強かった。親族で会社経営を固めることの多い香港の事、幼いながらも鋭い知性を見せる子供は、兄や伯父達の脅威だった。文字どおり彼は虐げられた。目に見えない暴力をふるわれ続けた(さすがに父親の前では、彼も手を出されなかったが)。
しかし彼は、それに少しもひるまなかった。何よりも負ける事が嫌いで、腰を低くし、頭の悪いふりをしている方がよいような時でさえ、昂然と頭をあげて彼らに対した。彼の母は、愛する息子に、誇りと夢を持ち続けることを教えていた。どんな目に遭おうとも、自分の信じることを貫きなさいと繰り返し語った。だから彼は、それに背くことなく生きてきた。これからもそうして生きてゆくだろう。
「今世紀中に全部片付けてやろう。それでこそ世紀末というものだ」
学業を修め終わる前に、少しずつ潰していこう。
さて、どうやって殺してやろう。どうやって操り、思いどおりにしてやるか。
彼の薄い口唇に笑みが浮かぶ。
こういう画策は実に楽しい。駆け引きの計画より楽しいものはない。どこで何をすれば一番効果的か。いつどこで味方を増やし、敵をほふるか。
彼にはすでに力もあった。もうすぐ二十歳になろうという青年として身体も充実し、知力も精神力もとびぬけていた。そして彼には第七の力、つまり超能力さえ備わっていた。僅かの間ではあるが、自分の周囲の時を止められるという不可思議な力、そして、空中元素を固定した長剣で相手を貫きその息の根を止める技を。
彼は、凶器を残さずに、人を殺せる。
「自分の手を汚す必要はないが……」
そう、超能力を使わなくとも、人が殺せるくらいの人脈はすでにもっている。
しかし、彼は自分の力を使いたかった。
今まで受けた屈辱は、自分自身の手で晴らす――それが彼のプライドだった。
彼は学業と会社の調査の合い間を縫って、超能力の研究者を集めていた。ゆくゆくは私設研究所をつくり、自分の能力を更に高めるつもりだった。
自分に出来る技は、ありとあらゆるやり方で磨いておく。誰にも遅れをとらぬようにする。万が一にでも遅れる時があれば、相手の時を止めてやる。
物思いにふける彼はいつしか、公園の中を歩いていた。サーペンタイン池の水面が風に吹かれて、あおみどりの皺を寄せている。彼はどんどん奥へ進んでいく。いつの間にか、ピーターパンの銅像が立つ小道に入っていて、静けさはなお増した。J・M・バリの童話に登場した永遠の少年は、夏の陽を浴びて鈍く輝いている。
彼はふと足をとめ、銅像をしばし見つめた。
「そういえば、この国はこういう国だったな」
それは観光地などによくある、公園に客を寄せるためにつくられた安っぽい像ではない。合理性をどの国よりも重んじる科学の国でありながら、大人にならない少年の劇が毎年行われ、また、本気で妖精を信じる国民も多いのがこの国なのだ。田舎には本当にそういうものが息づいているといまだに考えられているという。馬鹿馬鹿しいとも笑わずに。
こういった国民性を知っておくのは悪いことではない。実感しておけば商談もすすむ。なんでも中華的に相手に対し、やり方を押し付けるのはもう古い。敵を知り、良い部分を盗むことも必要だ。
「……さて、戻るか」
しかしウォンが歩き出そうとしたその瞬間、脇のしげみからザッと子供が飛び出してきた。
「お母様、そこにいらっしゃるの? 御本を読んでは……」
絵本を片手に息をきらせている。母親を探しているらしい。
しかし、近くにそれらしい人影はない。
「君の母親は、ここにはいないようだ」
ウォンは思わず少年に声をかけた。おそらくは三、四歳、幼児というほうが適切なのだが、どこか大人びた寂しい雰囲気を持っていて、少年としか呼びようのない感じがする。
「あなたは……」
少年はじっとウォンを見上げた。
美しい子供だ。
淡く輝く銀の髪。氷のように冷たく澄んだ青い瞳。
しかし、何よりもウォンが注目したのは、少年の放つ淡いオーラだった。
《これは、サイキッカーだ》
まだ発動していないようだが、潜在的には相当の超能力を秘めているとみた。このままさらって研究対象にしてもよい程だ。もう研究所が完成していたなら、ウォンは迷わずそうしていただろう。
少年もまた、ウォンに何かを感じているらしかった。逃げもせずにこちらを見上げているのは、東洋人が珍しいからでもないようだ。貴様は何者だ、俺に何の用だ、という無言の気迫が感じられる。
ウォンは、この少年が気に入った。
「ノアのことなら、私が話してあげよう」
少年がたずさえているのは、表紙からしてノアの方舟の物語の絵本だった。動物が沢山登場するこの聖書の説話は、創世記の中でも絵本にしやすく、子供も好きなものだ。
案の定、少年は子供らしく目を輝かせた。
「あなたもノアを知っているの」
「ああ。よく知っているよ。さあ、そばへおいで。君の本を読もう」
手招きをされて、少年はそっとウォンに近づいてきた。
「じゃあ、御本にないことも知ってる? 教えてくれる?」
「ああ、もちろん」
二人は並んで木陰に腰を下ろした。
少年は、近寄って初めてウォンの美貌に気付いたようだった。
「黒い髪がきれいなものだというのは、本当なんだ……」
後ろでゆるく結ばれた艶やかな漆黒の髪を見て、感心したように呟く。
ウォンは薄く微笑んだ。
賞賛の声には慣れている。チャイニーズ・ビューティ、と多くの英国人が彼を誉めた。誰よりもすらりと高い上背も、黒耀石の瞳の神秘的な輝きも、しっとりと滑らかな白い頬も、この国の若者にはないものだ。そして、誰よりも正確なキングズ・イングリッシュを話し、英詩や警句を巧みに引用して相手を驚かせる。彼は大勢の人間に注目されるべきエリートなのだ。
しかし、子供の言葉には裏表がない。本音と建前が恐ろしくかけ離れているこの島国において、含みのない純粋な誉め言葉はとりわけ心地良く耳に響く。ウォンが思わず微笑むと、少年も素直に微笑んだ。
「あなたはどうしてノアを知っているの? 異国のひとなのに神様をご存じなの?」
ウォンは保護者のような気持ちになって、普段と違う優しい声を出した。
「ノアを知っているのは、イギリス人だけではないんだよ。神様もイギリス人だけのものではないんだ」
ウォン自身はクリスチャンではない。だが、最低限のたしなみとして聖書はそらんじていた。彼の引用癖に役にたつからだ。まして、ノアの物語は創世記の中でもあまりにも有名だ。
「まず、ノアは人間ではない。神に選ばれて方舟をつくった時、すでに六百歳だった。普通の人間はそんなに長くは生きられない。死んだ時には九百五十歳だったという。彼はアダムの十代目の子孫だと言われているが、人間よりは神に近いものだったんだ」
「ノアは神様に選ばれたの」
「そうだよ。行いの正しい者として、神の眼鏡にかなったんだ」
「神の……あなたのしているような眼鏡?」
少年は首を傾げた。ウォンは思わずハハ、と笑って眼鏡の縁を押し上げた。
「神の眼鏡にかなうというのは、神様に愛されて特別扱いをされたということさ」
そう言って少年の銀いろの髪に触れた。少年は驚いて一瞬身を硬くしたが、ウォンの好意だとすぐに理解したらしく、されるままになっていた。
愛らしい――。
ウォンは元々子供が嫌いでなかった。まして、何も知らない子供は。まだ、世界が自分の思いどおりにならないとは考えもつかないような年頃の子供は、ひたすらに愛らしい。世界は彼らのものだ。そして、どんなに憎らしいこと、賢しいことを言おうとも、本当の意味を知らない。つまり、彼らはまだ、世界のものなのだ。
「そう。じゃあ、神様に選ばれて、愛されたんだね。だからノアは、自分の選んだ動物を連れて方舟に乗って、それで、洪水の時に助かったんだね」
「そうだよ。よく知っているね」
「それは、お母様が前にお話ししてくださったから」
なるほど、少年の母は、すでに何度もこの本を彼に読んでやったらしい。しかし子供は、その内容をしっていても、誰かに本を読んでもらいたがるものだ。そして、それについて質問をするのが好きなものだ。
思ったとおり、少年は上目づかいにウォンにこう尋ねてきた。
「でも、わからないことがあるんだ……選ばれた者は助かった。一年もの長い間、方舟の中でがまんしなければいけなかったけど、でも、鳩が戻ってきて洪水がひいた後、地に降りてきてまた増えたよね?」
幼い子とは思えないほど難しい言葉を使う。たぶん御言葉として、聖書をそのまま憶えているのだろう。ウォンはうなずいて、
「そうだよ。洪水で洗われてすっかり清らかになった世界に、選ばれた者だけが再び栄えたんだ」
「じゃあね」
少年は目を伏せがちにして、
「……じゃあ、選ばれなかったひとたちは、動物達は、鳥達は、どうして死ななければならなかったの? 神様に愛してもらえなかったから?」
ウォンはとっさに答につまった。
彼自身はもちろん、彼なりの答を持っている。つまりそれは、聖書の神はヤクザの親分だからだ。子分である人間には無茶しか言わない。そしてどうして子分どもが従うかというと、強大な力をみせつけた後に恩義を押し付けるからだ。自分の敵になるものはすぐに殺すが、従ってくるものは末代まで面倒を見てやろう、というのが、神と人間の契約の基本だ。そこには慈悲や愛はない。あるのはドライな現実と理不尽だけ――例えば、有名なアベルとカインの兄弟の物語はどうだ。弟の贈り物だけを受け取ってえこひいきをしたくせに、その後何故怒っていると叱られた兄カイン。怒って弟を殺したカインに、神はいったいなんと言った――大丈夫だ、おまえとおまえの子孫は殺されない、印をつけて、殺そうとする者は私がたたってやるから、と恩義で縛り付けたのだ。これのどこに愛がある?
確かに、中華社会にもこういう部分がある。同族を守るという意味での厳しい掟がある。しかしキリスト教の本来的なあざとさにはかなわない。敵か味方か、オール・オア・ナッシングしかない西洋人種の考え方は、時に残酷でしかない。
ウォンはそれを、どう説明していいか一時迷った。子供にわかる言い方ができるだろうか、と彼らしくないことを思った。おそらくこの子は家族に愛されていない、自分が母から受けたような密度の濃い愛を注がれていないので、ひどく不安なのだ、ということを感じ取ってしまったのだ。
答に窮したウォンを見て、少年は質問を変えた。
「どうやって神様は、愛するものと愛さないものをわけたの? ノアを愛することにきめたの?」
「神は、愛を……決めてわけたわけでは……」
母は私を愛してくれた。それはそう決めたからではない。父は私を愛さなかった。おそらくそう決めたからではない。愛はただの抽選くじのようなものだ。そして、誰かを助けるということは、イコール愛ではない――。
「神は、正しい者、自分に背かない者は助けるんだよ」
ウォンがやっとそれだけ言うと、少年は低く呟いた。
「そう。じゃあ、本当に正しい者、神様に背かないひとは、必ず救われるんだね。救われない者は、正しくないんだね」
意味をわかって言っているのだろうか。
しかし少年の顔色は暗く、しかもこう続けた。
「でも、神様は洪水の後、後悔なさったっていうよ。もう二度とこんなひどいことはしないって。だから、神様も、本当はまちがう時があるんじゃ……」
ウォンは、少年の髪を再びそっと撫でた。
「君の名前はなんていう?」
急に話題が変わったので、少年は顔をあげた。表情は曇りというより疑問の色に変じた。
「……キース。キース・エヴァンズ」
「それは、誰がつけた名前?」
「おじいさま。もうおなくなりになったけど。でも、どうして?」
少年の気持ちは切り替わりつつあった。さらにウォンは励ますように、
「キースがノアのことを知りたがったように、私も君のことが知りたかったんだよ。君は賢い子だ。神様にも選ばれるし、愛されるだろう。何も心配することはないんだよ」
今まで誰にも言ったことのない、歯の浮くような台詞を続ける。
「世の中には、神様が知らない決まりがあるんだ。生き残るのが正しく、強い者なんだ。だからわざわざ、ノアだけを選んで洪水を起こす必要はなかったんだ。キースの言うとおり、その時神様は間違ったんだ。でも大丈夫だ。神様が間違えても、人間が間違えなければ、みな滅びたりはしないんだよ」
「そう」
少年は、わかったようなわからないような顔をしている。ウォンに言いくるめられてしまって、自分の考えが混乱しているようだ。しかし、核戦争時代以降の子供である。すぐにピンと理解して、諸行無常な発言をする。
「あのね、もしかして、神様に意地悪をされるのはしかたのないことなの? 愛されることにも、選ばれることにも、正しいことにも、関係ないの?」
「キース、それは……」
いいかけるウォンをさえぎって、
「僕は、ノアみたいに神様に選ばれたくない。選ばれないで、死んでいく人達と一緒にいたい。おじいさまがね、友達がみんな先に死んで、自分だけが残されるのはとてもつらいことだっておっしゃったの。空軍で戦争に行った頃、いつも友達を助けられなくてくやしかったって。どんなに名パイロットと言われても、ただ生き残るのは悲しかったって。だから僕も……」
「キース、もういい」
ウォンは少年を抱き寄せた。
この子は祖父を愛していたのだ。そして、愛されてもいた。そして、置いていかれたことが本当に悲しくてしかたがないのだ。ウォンにはその気持ちがわかる。母が死んだ時の悲しみは、十数年たった今でもぬぐえない。この悲しみに対してだけは、彼は素直に身をまかせる。それがウォンの中にある、一番人間らしい感情なのだった。
少年は、黙ってウォンに抱かれていた。青年の腕の中でこう呟く。
「おじいさまね、髪は黒くなかったけれど、あなたのようにうんと背の高い方だったの。イギリス人で、一番大きい飛行機乗りだったって」
ウォンは胸を突かれた。
この子に危害を加えてはいけない。さらって実験材料にするなんてとんでもない。この少年はあるがままに育てばいいのだ。こんなに清らかな子供だ、超能力も発動しないかもしれない。あれはある意味、虐げられた者のための余分な力なのだから。
そっとしておいて、やろう。
「キース」
ウォンは優しい笑みをつくった。
「一緒にお母様をさがそうか。御本を読んでもらうつもりだったんだろう」
「あ」
少年の顔は再び曇った。
「本当はね、お母様は公園にいらっしゃらないの。今はご病気で、遠くの街で休んでらっしゃるの。だから、いるはずがないの。でも今日は、どういう訳か、前みたいに公園にいらっしゃるような気がして……」
「なるほど」
もしかすると、療養中のこの子の母には、超能力が少しあるのかもしれない。ウォンが、その波動に似たものをもっているのかもしれない。それをかぎとって、この少年は彼の元に現れたのかもしれない。
まあ、単なる気のせいの可能性もあるが。
「なら、家まで送っていこう」
「いいえ。一人で帰れます」
少年は首を振った。言葉づかいもきっちりと改めて、
「本当は、今日は出かけてはいけなかったんです。だから、あなたと一緒に帰るのは……」
「まずいという訳か」
「そうです」
市内のかなりの交通量のせいか、子供を一人で街中に出したがらない親がいる。母親が病気で療養中、父一人では子供のことに手が回らず、となれば、いっそ外出を禁じるかもしれない。
少年は本を片手に立ち上がり、ウォンに頭を下げた。
「ノアの話をしてくださってありがとうございました。あの、お名前をきいてもいいですか」
「私は……WONG FEI FONG」
彼は英語の通称でなく、広東語の本名を名乗った。母がくれた大切な名を。
少年はよく聞き取れなかったようだ。首を傾げて、
「ウォン……さん?」
「ああ。いつか大きくなった時、君はもう一度私の名をきくよ。おそらくね」
ウォンはいつもの尊大な笑みで答えた。
この子が大きくなる頃には、自分は世界中に名をはせている筈だ。どんな国の人間も財界のボスとして知る人間になっている筈だ、と。
キースはその言葉の意味がよくわからなかったが、もう一度頭を下げ、礼を言って、うさぎのように植え込みの隙き間に再び消えていった。それが近道なのだろう。子供の足にとっては、十数メートルの距離も遥かな道のりである。
ウォンは、腰のあたりを払って立ち上がった。
「キース。悩まなくていいんだよ。生き残るのが正しい者なんだからね」
そう、来年、香港がいよいよ中国へ戻る。だが、経済界は変わるまい。マスコミがどう騒ごうと、今より更に栄えるだろう。そして、強い者が生き残り、さらに力を伸ばすだろう。
その中に絶対自分がいる。
そして、すぐに香港を飛び出す。
アジア、ヨーロッパ、アメリカ、世界全部を我が手にする。
「そう、世界は私のものだ……!」

こうしてウォンの、十代最後の夏は過ぎていった。
奇しくも香港がまだイギリス統治下にある最後の夏、彼にとって決定的な出会いを、すでにしてしまったことを気付かずに――。

(1996.12脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Triangle Heat/トライアングル・ヒート』1997.2)

『トライアングル・ヒート』

1.

「ウォン……どうかしたのか?」
キース・エヴァンズはけげんな顔で呟いた。すでに二人は一糸まとわぬ姿である。いつものウォンなら、服を脱がせる前からキースに声をあげさせている。ベッドに横になるのは、すでに一ラウンド終了した後であることも多い。
だのに、今日のウォンは妙だった。
キースを静かに床に横にし、その銀の髪をすくようにしてただ撫でるだけだ。幼な子にするようにいたわり深い。そして、それ以外の場所には決して触れない。抱きしめようとさえしない。二人をさえぎるものはシャツ一枚、シーツ一枚ないというのに、身体を少し遠ざけている。元結いをとかれて広がった黒髪さえ、キースに触れないようにしている。表情もどこかくすんでいて、何か思うところがあるらしい。
なんにしても、これは全くウォンらしくないことだ。
「どうした? いつものように思いどおりにすればいいだろう」
思いどおりにする――これは言い得て妙だ。ウォンの普段の行為は、そういう言葉でしか表せないような激しいものだ。そしてキースは、自分からは決してウォンを求めない。夜、基地の最深部にあるキースの私室に押し込んでくるのは、常にウォンの方だ。
ただしキースは、ウォンが肌に触れてきた時、一度も拒んだことはない。彼はいつも、ウォンの好きにさせている。そしてまた、自分も行為を楽しんでいる。
そこらへんに、彼の言葉のニュアンスが隠されている。つまりどんなに力で組み敷かれていても、精神的には若い自分の方が優位であるということを暗に伝えているのだ。
これは面白い現象だ。二人は十八才と三十四才、倍ほども年が違う。しかもキースに閨房の喜びを一から十まで教えこんだのはウォンだ。普通なら、若いキースがウォンの手管に夢中になって、何もかも欲しがり甘える時期の筈だ。
しかしキースは、そうはしない。だが、拒みもしない。
そこに、二人の関係の微妙さがある。
案の定ウォンは、手を止めて低く呟いた。
「キース様は、どうして私に抱かれるのですか」
それが彼の、長い間の疑問だった。何しろ、最初に口唇に触れた時から抵抗されなかった。少し辛いかと思われることを強いても、やめろとは言わない。
心が読めない。
ウォンの超能力に読心術はなかった。いや、もしあったとしても、この若さで大勢のサイキッカーを束ねる強大な超能力をもったキースが、やすやすとウォンに心を読ませたとも思えない。何もかも氷点下以下に凍えさせる、氷の鎧をまとった青年なのだ。
彼は単なるお飾りの総帥ではない、あらゆる意味で氷の帝王なのだ。
「どうしてなのですか」
普通の人間ならいくらでも操れる。思うままに欺き陥れ、屠ることができる。いつもそうやってのしあがってきたのだ、リチャード・ウォンという男は。
それなのに。
心が知れない。その奥底は、どうしても。
「答えてください、キース様」
年上の女性に憧れて、ろくに口もきけないでいるうぶな青年のようにウォンの声は掠れた。キースは薄く笑った。
「今更おかしなことをきくな。では、君は何故私を抱く」
「それは……」
ウォンは一瞬つまった。一言では答えられない。最初に触れた時と今では理由も違う。そして、今の気持ちは自分でも理解できないのだった。
キースは身体を起こし、毛布を引き寄せて下半身を覆った。
「わかっている。それは君にメリットがあるからだ。あらゆる意味でな」
「メリット?」
「経済力や超能力だけでは私を縛りきれないからだろう? 財界の大物リチャード・ウォンを越える条件の良いスポンサーなど、今のノアにはまず望めない。だが、絶対に現れないとは言い切れない。その時、いきなり切られることを恐れているのだろう? たかが塊儡、若造一人に何ができるとなめてかかるよりも、身体の関係でもつけておけば、裏切られる確率は低くなると踏んだ――そういうことだろう?」
ウォンは言葉につまった。
そんな功利的な理由だけで、この青年に触れてきた訳ではない。
しかしキースは、そう考えている。
そう、彼は、人間をそういう意味でしか信じられないのだ。
無理もない話ではある。
イギリスの上流階級の家に生まれながら、幼い頃から家族の愛に恵まれなかったらしい。しかも、小さい頃から超能力が発動してしまったため、諜報機関に目をつけられてしまった。逃げるように単身アメリカへ留学、ひっそりと寮生活をしていたが、十五の年についに米軍の超能力研究所に捕獲され、研究材料として繰り返し惨たらしい人体実験をほどこされて――それで、どうやって人間を信じろというのだ。同じ研究所に捕まっていたサイキッカー達は、逃亡計画をはかって全員殺された。家族も故郷も友人も同志も奪われた彼に、信じることのできるものはあまりにも少ない。超能力者の秘密結社ノアをつくりあげてはみたものの、彼自身がこの場を理想郷と考えているかは疑わしい。ただ、普段孤独な超能力者達が、仲間がいるということを知って慰めにしていることに、かすかな喜びを感じてはいるようだ。
だから、それ以外の感情の動きを、キースはここ二年見せたことはなかった。少なくとも、ウォンの前では。
それも無理のない話だ。
ウォンは、仲間を募るキースのテレパシー放送を受けて、ノアへやってきた。サイキッカーの理想郷をつくるという目的に賛同し、莫大な資金援助をした。核ミサイルの攻撃にも耐えられる、地下三十二階の美しい秘密基地も、ウォンの力があってこそ完成した。彼は私設超能力研究所のノウハウも、ノアの組織にあまさず投入されてきた。ウォンの幹部参入によって、ノアが受けた恩恵は多大である。
しかしそれは、ウォンが自分の利益になるから行ってきたことでもある。実際彼が運営する部分で、赤字の類が出たことはない。だがそれ以上に、ノアを利用して彼が潤っている。
そんな相手に、真実の喜怒哀楽を見せる人間がどこにいるだろう。ビジネスパートナーにはビジネスの感情しか見せない、それは当り前のことだ。
キースは身を起こし、白い壁によりかかって皮肉な笑みを浮かべた。
「君のような男は、ただ寝るだけの相手には不自由しないだろう。男も女も、喜んで君に抱かれに来る筈だ。だのにわざわざ私を選んで押し倒す。こちらが理由をききたいくらいだよ。まあ、こうして何度も抱いておけば、自分の優位が信じられるんだろうがな」
ウォンも身を起こしたが、すぐにうつむき、その声は低くくぐもった。
「キース様は、では、メリットがあるから私に抱かれるのですか」
「ああ」
ブルーの瞳で挑むように、
「別に、特に不愉快という訳ではないからな。私も君をつなぎとめておける。互いにプラスになるのなら、こういう関係は悪くない」
「キース様」
ウォンは顔をあげた。
「貴方は本当はそういう人ではありません。自分をおとしめる必要は……」
「おとしめてなどいない」
「貴方は本当は熱い正義を持つ人です。他人を思いやる気持ちに溢れた優しい人です。そんな言葉で、自分を傷つける必要はないんです」
なんと、ウォンらしくない台詞だろう。
キースは思わず笑いだした。
「私の心は氷、いや、冷たく硬いダイヤモンドだ。優しくもなければ思いやりもない。私は、個人的な感情を持たない人形のようなものだ。だからウォン、君でさえも、本当の意味で私を動かせはしないのだ。いや、誰にもできない。たとえ命を奪おうとな」
「いいえ」
ウォンは、ずい、とキースににじりよった。
「貴方の心に一人だけ入り込んだ男がいます。貴方が唯一愛した者、そして貴方を裏切った者、その男の名は……バーン」
パァーーン!
高い音をたてて、キースの平手がウォンの頬を叩いていた。
「茶番もいいかげんにしろ。用がないのならでていけ。私にも休息は必要だ」
ウォンは、頬を押さえて絶句した。
キースの指先から冷気がほとばしり、ウォンの顔全体を白く凍らせてしまっていた。それは、キースの激情を端的に表していた。
図星、なのである。
ウォンは無言のまま立ち上がり、洗面台に向かった。凍りついた顔と手を洗い、ようやく口がきけるようになっても、何も言わなかった。服をつけなおし、そのままキースの寝室を出て行った。
一人残されたキースは、服をつけずに寝台に横になった。
毛布を引き寄せ、身体を丸めて呟く。
「私はバーンを、そういう意味で愛していたのではない。そういう意味では……ない」
バーン・グリフィスは、キースの十八年間の生涯の中で、友人と呼べる唯一の青年だった。彼がアメリカに来て学校生活を始めた時、最初に声をかけてきたのがバーンだった。
明るく太陽のような笑顔のバーン。単純で、落ち込んでもすぐに立ち直るバーン。しかしキースが深く屈託し、どうしても外へ出たがらない時は、訪ねてきてそれとなく励ましていった。キースが人と違った能力を持っていると知っても、まるで態度を変えなかった。
裏表のない誠意、飾らない好意――本当の友情。
それが、キースの心を照らす唯一の灯火なのだった。
だからこそ、彼の心は痛んでいた。
「わかってもらえなかった……バーンに……」
バーンは、キースのテレパシー放送をきき、先日ノアにやってきた。彼はずっとキースを探していたのだと言った。急に学校からいなくなったから、どれだけ心配したか、とも。
しかしバーンは、ノアを見学した数日後、突然こう言いだした。
《なんなんだ、ここは? 超能力者だけの組織なんてつくっても仕方ないじゃないか。サイキッカーも、一般の人間と暮らさなきゃ駄目だ。そうじゃなきゃ、何にもわかってもらえないぜ》
キースは愕然とした。
バーンの楽天性はよく知っていたが、ここまでとは、と。
どうして多くの超能力者達が、キースが声をかけただけで集まってくると思うのだ。それは、キース自身のカリスマ性のためだけではない。彼らは孤立している。だから仲間が欲しいのだ。ただでさえ、国家の裏機関から常に狙われ、利用されようとしているのだ。一般人からも、特異な存在と白い目で見られ、迫害されている。さらし者、笑われ者にされるのはまだいい方だ。
だから、サイキッカー同士が助け合う組織は、絶対に必要なのだ。
それなのに、こんな陽気な理想論を吐くとは。
キースにとってきわめつけのショックは、バーン自身も超能力を持っているということだった。
それなのに、自分の痛みをわかってくれない、ということだった。
《だって俺、炎の能力で困ったことはないぜ》
要するに、バーンの能力はごく最近になって発現したので、誰の目にも触れていなかったのである。彼は、自分に現れた第七の能力にいっとき驚きはしたものの、たいして悩みはしなかった。親友の力と大差ないものだ、こういうこともあるのだろうと考えた。また、キースが普通の生活をしているのを三年程近くで見ていたため、用心の仕方をおのずから学んでいた。
だから、困るようなことが、何もなかったのだ。
キースは言葉が継げなかった。しかし、バーンは悪意のない顔で、
《目を覚ませよ、キース。あのウォンとかいう親父の言うとおり、世界征服しようなんて思っちゃいないんだろ? こんな風に利用されてて、この後どうする気なんだ》
その時のキースの胸に沸き上がった怒りは、思いもよらぬ台詞を彼に叫ばせていた。
《世界征服はウォンが言い出したことではない! 利用しているのは私の方だ! バーン、私達の同志になれ、それしか君の生き延びる道はない!》
バーンは返事をしなかった。
ただ、茫然と相手を見つめ返すだけだった。
キースはその時、自分の怒りを少しでも理解してもらえたと思った。
しかし、それは間違いだった。バーンは、エミリオとウェンディーという二人の年若いサイキッカーを連れて、秘かにノアを脱出してしまったのだ。
追っ手は一応かけてみたが、音沙汰はまだない。
「バーンはわかってくれなかった……」
全身が強く痛む。少しでも動かすとギシギシと鳴るようだ。別に酷使した訳ではない、超能力を使いすぎた訳でもない。
これは、精神が身体を使って悲鳴を上げているのだ。
涙を流せないほどの哀しみを、激しく訴えているのだ。
「そう、わかって、もらうつもりだったんだ……」
バーンには余計な説明はいらないと思っていた。顔を見れば今までの苦しみを理解してくれると思っていた。辛かったんだな、と抱きとって甘やかしてくれると思っていた。
しかし、互いに非難めいたことしか言えなかった。
そのまま別れてしまった。
三年のブランクは、二人が考える以上に大きかったのだ。
「無理もない……わからなくたって仕方がないんだ。それなのに、僕は……」
頼りたかったのだ、バーンに。
「感傷だ。感傷でしかない。時間だけだろう、この痛みを薄れさせるのは」
大丈夫だ。耐えられる。
それに、ウォンがいる。
今までずっと支えてきてくれた、ウォンが。
キースは、今日、ウォンが自分を抱かずにただ共に寝ていたのは、彼なりの思いやりであることに気付いていた。
こんなにショックを受けたのは久しぶりのことだ。敵だと思っているものにはどんな攻撃を受けても耐えられるが、友人だと思い、ただ一人信じていた男に裏切られるのはやはり辛い。どうしても動揺が外にあらわれてしまっただろう。
だからウォンは、キースの気持ちが少し和らぐまで、いつもの手管はひかえたのだ。
だが、それは余計なお節介だった。
むしろ、何も考えられなくなるまで、激しく責めさいなまれた方がよかった。あまりつらいと、何もかも忘れるために、すべてを誰かにゆだねてしまいたい時がある。今日はそういう気分だった。
それなのに、あんな嫉妬めく台詞を投げつけてきて、しかもこうして、一人置き去りにしてゆくとは。
キースは毛布を堅くまきなおし、寝返りをうった。
「しかし、ウォンはあれで本気なんだろうか」
正直、ウォンの気持ちは今ひとつ理解できない。ウォンがキースに迫る理由は、どう考えても単なる快楽のためではなかった。また、キースを手なづけるためだけでもなさそうだ。最初のうちは、試してみたかっただけのことなのだろうと思っていた。しかし、もう一年近くもそれが続いている。飽きる様子もない。
もしかすると、ウォンは本当に私が愛しくなってきてしまったのだろうか。
「ミイラとりがミイラに、というやつなんだろうな」
キースは、誰に触れられても平気というところがあった。冷感症なのではない、ただ、人体実験の際に無理矢理触られいじられ、薬物投与、電気ショックの他、あらゆる虐待を尽くされたので、身体が反応しても心は閉ざす、という無惨なことをおぼえてしまったのだ。だから、嫌いな人間と寝たとしても、キースの身体は感じ、喜びもする。あまり嬉しいことではないが、それが彼の現実だった。
ただ、ウォンは――。
たとえあの優しさが偽りでも、少しでも慰められた。
しかし、もし計算ずくでなく愛され始めたのなら。
そう思うと、キースの心の隅にうずくものがあった。
「今更、世迷い言を……どうして抱かれる、だと? 何故私が拒まないと思っているんだ。おまえのように信用ならない男に、黙って身をまかせていると……」
キースは上手に他人に甘えるということを知らない。それを学ぶ時間がなかった。また、冷たく尖った容貌や、自信に溢れた言葉も、彼を実際の年齢以上に見せてしまう。
しかし、彼はまだ子供だ。本当は不器用で、繊細な一青年に過ぎない。
だから、キースにはウォンが必要だった。
大きな身体で自分を包み込み、冷たいベッドを暖めてくれた大人の男を、キースは彼なりに愛していた。
「ウォンは楽だ。わかってもらう必要もない。余計な期待もしなくてすむ」
呟いて硬く目を閉じる。
「私はバーンを、そういう意味で愛していた訳ではない……」
自分に関わりの深い二人の男のことを交互に考えながら、キースはいつしか孤独な眠りに落ちていくのだった。
しかし彼は、すっかり読み違えていたのだ。
バーンのことも、そして、ウォンのことも。

2.

「俺の知っているキースは、あんなじゃなかった……」
目蓋の裏に、軍服めいたブルーのコスチュームを着て冷笑する友の姿が浮かぶ。
いや。
焼き付いて離れないのだ。
ノア地下秘密基地から二人の子供を連れて脱出したバーンは、彼らを別々に安全と思われる場所に預け、自分は一人で家に戻った。
家族は喜んだ。
バーンのこの三年間は、家族にとって心労の絶えない三年間だった。親しくつきあっていた友人が急に失踪した、ということが、まずあまり嬉しい事実ではない。しかも、その消失に首をつっこみ、ことあるごとに自力で捜し出そうとする努力にもハラハラさせられてきた。何かあったらどうしよう、この子も何か危険な秘密を知って、誰かに殺されたりさらわれたりしないか、とどれだけ心配したか。
しかし、息子は無事に戻ってきた。
「父さん、母さん。キースは生きてた。やっと会えたよ、元気だった」
「それはよかった。よかったな、おまえ」
家族はその知らせにすっかり胸をなで下ろし、笑顔で彼を迎えた。しかしバーンの顔はすぐに曇った。
「でも、すっかり変わっちまってた……キースのやつ、まるで別人だった。あんな奴じゃなかったんだ、あいつは……」
バーンの母は、息子の背中をそっと叩いた。
「きっと、キースにもいろいろあったのよ。責めちゃいけないわ。それに、男の子はうんと変わるものよ。特に、十五から十八歳の間は、一番変わる時期。会わないでいれば、別人みたいになってても不思議じゃないのよ」
「わかってるよ、母さん。わかってる」
キースを責めるつもりはない。
彼の身の上に起こったことは、自分の想像の範囲を越えて酷いものだったのだろう、とも思う。
しかし、あれがキースだなんて。
《心ある超能力者よ、ノアに集え。人間は敵だ! ここが君達の、唯一の理想郷だ!》
氷の右手を高々と差し上げて、集まってきたサイキッカーを扇動する。その声は、苦しみや悲しみよりも、憎しみに満ちて――。
信じたくない。
見たくなかった、あんなキースは。
「どうしてあんなになっちまったんだ、キース」
その戸惑いは、いつしか鉛のおもりのように、バーンの胸に沈んだ。
どうしてもとりのぞけない、重たいくびきに思われた。

十五の頃のキースは、人ぎらいだった。
どんなスポーツもやらないし、それ以外の何か特定のグループに入ったりもしないし、友達もあえてつくらないようなところがあった。いつも窓辺によって、一人本を読んでいるような、物静かな学究肌の少年だった。
人前で目立つのが何よりもいやなので(というか目立つことイコール危険だったせいだと思われるが)、できる教科の成績をわざと落とすようなこともしていた。ただ、寮住まいの奨学生のため、あまり悪い点数でもまずいので、そこらへんは適当に調節する。つまり、嫌味なほどに頭脳明晰だった訳だ。
だが、彼が他人を見下すようなことはなかった。いつも慎ましく穏やかだった。バーンがレポートの相談に行っても、こんなことも知らないのかい、と呆れたことはなかった。参考書を何冊も貸して要点を教えてくれた上に、バーンに向いた作文方法を教えてくれた。
「バーンのレポートにはこういういい所があるんだから、そこは残さなきゃ。こっちが一般論だから、ってねじまげても、誰も喜ばないよ」
「俺のレポートに、そんなにいい所があるのか?」
「当り前じゃないか。変なことを言うなよ。僕のよりずっといいよ」
バーンの目から見れば、キースの精密なレポートの方が非のうちどころがないように思われる。
「でも俺、キースのみたいに深いドウサツなんかないし、過去のデータとか分析する力もないし、馬鹿みたいな夢みたいな作文だぜ?」
「でも、バーンの方が絶対いいレポートなんだよ」
「何がだ?」
「夢みたいでいいんだよ。未来を信じられるなら、それでいいんだよ。だって、信じられたら、何かが変わるかもしれないじゃないか。僕みたいに、後ろ向いてしか物を考えられない人間が書くものより、ずっといいよ。それは、大勢を率いて生きていける、君の資質を表している。こんなにいいことはないよ。だって、僕みたいに絶望しか表せない人間は、まず絶望しか呼ばないんだから。だから、少し、うらやましいよ」
バーンは、キースの言う意味をはかりかねた。夢みたいでいい、というのはいささか馬鹿にされているような気もした。確かに自分は楽天家だが、何も考えていない訳じゃない。キースに比べれば深いことを考えていないかもしれないが。
しかしバーンは、友人の知性を尊敬していた。そして、友人に対する思いやりももっていた。
「キース。俺だってキースがうらやましいんだぜ。俺にないものが、キースの中に沢山ある。俺、キースからいろんな事を教わった。そういうことは言いっこなしにしようぜ」
「そうだね。……ありがとう、バーン」
二人は、その性格が正反対ゆえにひかれあっていたらしい。長所短所が重ならないため、たとえ意見が別れてもぶつかりあうことがなかったのだ。互いのことを認め、余計な見栄なしにつきあえた。
キースの超能力について、バーンがどうこう言わなかったのも当り前だ。それを知る以前から気のおけない友人だったのだ、新しい秘密が明かされただけのことだった。ただ、キースが内側に閉じ込もる原因、家族と離れなければならなかった理由がそこにあるのを知っていたから、そのことは誰にも洩らさなかった。友人が見せ物になるのを面白がるほど、バーンは人非人ではない。
「キース。世の中に不必要なことなんてないんだから、おまえがその力を持ってるのは何か大切なことのためなんだぜ、きっと。だから大事に使えばいいんだ」
キースは友人の好意に感謝し、彼にだけは打ちとけていた。時には冗談めかして、
「そうだね。子供二人がスーパーボウルのタダ見をするような使い方をしちゃ、本当はいけないんだろうな」
「あ、まだあん時のことを言うのかよ。おまえ、そういう奴だったんだな」
「あはは、バーンこそ」
そんなやりとりをしては美しい笑みを見せた。
あの頃のキースは、もういなくなってしまったのか。

「……違う。キースは騙されているだけなんだ」
夜中、自分の部屋の天井を見つめながら、バーンは呟いた。
自分の心が必要以上に乱れているのは、キースが変わったからだけではない。
リチャード・ウォン、とかいう怪しい東洋人のせいだ。
「あいつは、キースを……」
誰にも言えない、ひとつの情景。
バーンが基地の見学をしていた時、キースの私室の前を通った。何故かドアが細く開いていたので、閉めようと思って近寄った。
その瞬間、全身が硬直した。
ウォンがキースを抱き寄せて、机の前で濃厚な口吻を交わしていたからだ。
しかも、口唇が離れた後、キースはこう言った。
「なんだ、今日は夜まで待てないのか?」
今日は、だって?
「この基地には、昼も夜もありませんよ。お厭ならやめますが」
ウォンがいやらしい猫撫で声で囁く。しかしキースはふっと笑って、
「好きにしろ。ちょうど気持ちを切り替えたいと思っていたところだ」
「ならば、遠慮なく」
ウォンは眼鏡を外して上着のポケットにしまい、それを椅子の背にかけた。そして、おもむろにキースの床の絨毯の上に押し伏せた。しばらく揉みあっていたが、そのうちキースの口唇から、切ない声が洩れ始めた。
それ以上、見ていられなかった。耳を塞ぎ、その場を急いで離れた。
「キース……キース………」
バーンだとて、友人の裸身くらいは見たことがある。学校生活やキャンプにはシャワーや更衣室がつきものだ。
しかし、あんなキースは知らない。
あんな風に乱れて、他人の肌を求める姿は。
そう、キースがいやがっていたのなら、バーンはすぐさま中に飛び込んでウォンを殴っただろう。どんな大怪我をしようと、全力で友を守っただろう。
しかし、どうみても、あのキースは……。
バーンは、友の心を思って泣いた。
この三年、いったい何があったか知らない。しかしその間、キースはまぎれもなく孤独だったのだ。怪しげな男のいいなりにならざるをえないほど、孤立無援だったのだ。
「俺がそばにいてやれなかったばっかりに……」
もし、自分が一緒にいてやれたら、あんな屈辱的な目に遭わせずにすんだ筈だ。
翌日、遅まきながらキースに意見をしてみた。
しかし、友はすでに彼の言葉に耳を傾けなかった。
ウォンのいいなりなのだ。
バーンのショックははかりしれなかった。裏切られた思いでいっぱいになり、発作的に他のサイキッカーを連れて脱走してしまった。
だが、家に戻り、正常な生活を味わって少しでも落ち着くと、後悔ばかりがこみあげてくる。
「キース……おまえは本当に変わってしまったのか?」
違う。
あんなに頭のいい男から、果てのない夢を見ない男から、《世界征服》なんて、曖昧で馬鹿げた台詞がでてくる訳がない。デメリットしかないのに暴走する筈がない。
キースは寂しさに目がくらんでいるだけだ。負荷のかかりすぎるあんな組織はやめさせて、普通の生活をさせれば、優しい、穏やかなキースにきっと戻る。
行かなければ。
俺しか、今のキースはとめられない。

夜明け前、彼は書き置きを残して、こっそり家を抜け出した。
《父さん、母さん、みんな、ごめん。せっかく帰ってきたけど、俺、やっぱり行く。キースを放っておけないんだ。もう一度だけ会って、話をしてきたい》
残された手紙を見て、家族全員が泣いた。
彼らはもう、二度と息子が戻ってこないことを予感してしまったのである。
そして、その予感は、悲しくも外れることはなかった……。

3.

その明け方、ウォンはキースの寝顔をじっと見つめていた。
「珍しい……眠りながら微笑んでいる」
キースが疲れて先に眠りこんでしまうのはいつものことで、そうするとウォンは、この部屋を抜け出して自室へ戻る。
しかし、その日のウォンは、どうしても戻る気になれないでいた。
数日ぶりの戯れだったというのもあるが、いい夢でも見ているのか、目の前のキースの表情が妙に穏やかなので、いつまでも見ていたい気がしたのだ。
「私らしくもない」
ウォンは苦笑した。
こうやって、キースが自分の傍らで安心してまどろんでいる。それを眺めていられるのが、しみじみと嬉しかった。
本当に、全くらしくない。
「私は何を恐れていたのだ?」
ここ一ヶ月程、得体の知れない不安がウォンを押さえつけていた。原因のわからぬまま日々は過ぎた。
が、ある日突然、彼は自分の惑いの源を知った。
バーン・グリフィスの存在である。
キースは、バーンだけは特別に扱った。ノアに来る直前からそわそわしはじめ、いつもの冷静さを完全に失った。バーンがノアにやってきてからも、壊れものを扱うように、うんとバーンを気遣った。一緒にいられない時にも最大の利便をはかってやり、基地内を自由に歩かせていた。
二人が目と目を見交わして何か言いかける仕草を見せた瞬間、ウォンの中で危険信号が点滅しはじめた。
キース自身は気付いていない。
自分がどれだけ、昔の友人に頼りたがっているか。今の状態でバーンに何か言われれば、どれだけもろく崩れ落ちるか。
これは、あらゆる意味で危険だった。
キースがバーンとノアを出ていく可能性、そして、ノアという組織自体の解散――最悪の事態を招く。
ウォンはそこで、古典的な罠をしかけることにした。
キースとの濡れ場をわざと見せつける。バーンはショックを受けて基地を飛び出すだろう。そうでなくとも、自分が見た情景のことは切り出せないまま、曖昧にキースに抗議をするだろう。その上に悪い暗示でも適当にかけておけば、二人の仲はすっかり険悪になるはず――。
彼の計画は遂行され、完全な結果を生んだ。古典は、その効果が高いからこそ繰り返されるのだ。
何も知らないキースの落胆ぶりは激しかった。
バーンが脱走した後、追っ手をかけることにまず悩んだ。そして、かけた後も絶対に殺すなと命じた。バーンが気持ちを変えて、もう一度戻ってくる可能性もある、と。
そこまでかばうのか、と思うと、さすがに面白くない。普段のキースは公正明大を絵に描いたような青年だ、ここまで私情を交えて動いたことはなかった。
ウォンの危険信号は明滅したままだった。
さぐりをいれて、頬をはりとばされたことすらあった。
だが、ここ数日、キースは落ち着いてきた。
瞳の色の哀しみも和らいで、人柄にも幅がでてきたように思われた。
バーンのことは、すでに懸念になったのだ。
この、穏やかな笑顔。
「キース様」
ウォンは、青年に身体を近寄せ、小さな声で呼びかけた。
キースは軽くうなずいた。
なんだ、起きていたのか、とウォンが抱き寄せようとした瞬間、キースの口唇が動いた。
「ああ。ありがとう、バーン……」
キースの白い頬を、つーーっと涙が流れ落ちた。
次々に溢れ出す透明な滴。端が奇妙につりあがって歪んだ口唇。それは、どうみても嬉しくて泣いているのだった。
その瞬間、ウォンはキースの首を締めかけていた。
「……っ!」
ウォンは慌てて手をひき、ベッドから転がり出た。
「私が……この私が……」
この青年を、そんなに愛していたのか。
彼の胸にめらめらと燃え上がったのは、まぎれもない嫉妬の炎だった。
何もかもを焼き尽くすような、激しい情熱。
上着を抱えて、ウォンは部屋を飛び出した。
「こんな……こんな筈では、なかった……!」

ウォンが、キースのテレパシー放送を最初にきいた時、彼の会社のっとりは完了していた。父親の所有していたものは、全部自分の手中に収めていた。野望の第一歩が満たされて、ある意味物足りない日々が続いていた。
「これは面白い」
使えそうなものはすべて使う、が基本的信条の彼である。全世界に向けて広く呼びかける強力なサイキッカーはぜひとも奪取すべき存在に思われ、当時のキースの潜伏場所へと単身向かった。
小さな地下シェルターの中、向かい合った青年の第一印象は、《こんな子供が!》だった。
確かにおとなびてはいる。同年代の男よりは老け込んでいる。あらゆる分野の知識に豊み、サイキックも強力だ。また、人の上にたつカリスマ性――同情や共感を呼ぶ悲壮な面ざしと、甘くやさしく耳に心地よい声をもっていた。
しかし、まだ十代半ばなのである。
話す内容も、どうしても理想や夢に傾きがちだ。
ウォンはだが、すぐに思い直した。
塊儡として使うのに、こんなもうしぶんない青年がいるだろうか。彼を前に押したてれば、かなりのことがスムーズにゆく。海千山千のウォンが出れば警戒される場面も、純粋な眼差しをもつキースを使えば簡単だ。
彼はすぐに青年のスポンサーになることを申し出た。資金操りの苦しいこの秘密結社は、どんなにうさんくさくても、当座はウォンを仲間にするしかなかった。
キースは最初、ウォンを露骨に警戒していた。
一緒の部屋で打ち合せなどしていると、親の仇にでも会ったように全身を緊張させていた。互いに慇懃な物腰ながら、心はいつもにらみあっていた。
しかし、キースには意外な弱点があった。
誉め言葉にひどく弱いのである。大げさに言われればいやがるが、そうでなければ、世辞だとわかっていても悪い気はしないらしい。また、同情心が厚く、哀れっぽい話をして助けて下さいといわれたりすると、簡単に信用して味方をしてしまう。外見のクールさとは裏腹に、人の良い、熱血な部分があるようだ。
ウォンはだから、自分の生い立ちをさりげなく会話に織り込むようにした。子供の頃、親族に虐げられて辛かった思い出などを、ぽつ、と呟く。そして、何でもありません、と笑顔で後をごまかす。
これは徐々にきいてきた。
誉める方はなかなかうまくいかなかったが(結構気難しいところもあるからだ)、ウォンを見る瞳がだんだん優しくなってきた。小さい子が兄に父に懐くような、甘えた仕草を見せる瞬間さえあらわれた。
そうなると、ウォンはキースが無性に可愛く思えてきた。
この感情は無駄ではない。芝居でそういうふりをすれば絶対に見抜かれる。本当に可愛く思っている部分がある方が、信用させられるし操りやすいし、裏切られにくい。
ウォンはしばらく、この偽の家族ごっこを楽しんだ。
ある晩、二人で遅くまで経済文書をつきあわせていた時、ふと目があった。
疲れて軽い眠気を感じていたキースの顔はごく無心で、ウォンはその氷の瞳に吸い込まれそうな気持ちになった。
「キース様」
「なんだ?」
「こういうことを、ご存じですか……」
キースの口唇を軽くチ、とついばむ。
ウォンはその瞬間、激しく後悔した。
勢いでいったい何を、と思った。汚らわしい、と振り払われると思った。
だが、一番の後悔は、その口唇があまりに滑らかで、そして甘かったことだった。つややかに濡れて、誘うように僅かに開かれて、ウォンの目の前にある。
つい、言い訳じみた下手なことを口走ってしまった。
「すみません、貴方の瞳があまりに美しいので……」
しかしキースは、ウォンを軽蔑の眼差しでは見なかった。振り払うどころか、その場にじっとして、相手の次のアクションを待っている。
突然なので、どうしていいのかわからないのだろうか。
それとも……?
ウォンは騒ぐ胸を抑えかねて、再び指でキースの口元に触れた。
すると、この青年は軽く目を閉じ、ウォンの口唇を受けるようにおずおずと差しだした。
それからは魔法の時間だった。
追いつ追われつする視線。離れては角度を変えて重なる口唇。ほらほら、と誘われ、つられて動く顔と、少しずつ近づいていく身体。
キースの動きはややぎこちなかったが、そのあどけないような仕草が逆に、ウォンの胸をしめつけた。
こうされることを待っていたかのような素直さ。
無垢な乙女のようなはにかみ、自然な媚態。
これではどちらが騙されているのかわからない、と思いつつ、ウォンはそのままキースを抱いた。これ以上ないというくらい細やかな神経を使って、キースの隅々に触れた。
青年は、最後の最後まで、なに一つ拒まなかった。

翌朝のキースは、ウォンより早く起き出していた。先に湯を使い、服をつけた姿で寝台の脇に立った。
「そろそろ君も部屋に戻れ。その方がいい」
さすがに、ウォンと目があうと、まぶしそうに視線を反らした。
だが、声は平静だ。とりつくろっているのかもしれないが、普段の命令口調に戻っている。ウォンはやや落胆した。おそらくあれが初めての行為だったろうし、完全に籠絡したと思っていたが、と。
まあ、身体の関係というものは一度ですべてうまくいくものではない。機会を見つけて少しずつ、とウォンは思い直した。夕べの様子では、それをいやがることもあるまい、と。
「キース様」
身支度を整えながら、ウォンは尋ねた。
「あまり、辛い思いをさせたのでなければよいのですが……」
するとキースは苦笑した。
「ああ。たいしたことはない」
「たいしたこと?」
「もっと酷い目にいくらでも遭ってきた。あのくらいのことなら、どうということもない」
キースは自分が受けた人体実験の話を簡単に話した。どれだけ非道なことをされたか、幾つか例をあげて話した。モルモット扱いにされた時、そこに手加減というものはなかった、と。
「だから、君のしたようなことぐらいは大丈夫だ」
「キース様」
ウォンは妙なつまづきを感じた。確かにうんと優しくはした。しかし、それはキースの心をとろかすために、相手を思いどおりにするために、したことだ。それは、完璧に遂行された筈だった。
それなのに。
この余裕のある笑みは、なんなのだ?
ウォンにはわかっていなかった。キースは確かに若く、世間知らずではあるが、人の倍も三倍もの陰惨な事件に出くわしていて、その分精神年齢が高いところがある。ウォンは基本的には良家の子弟であり、エリートとしてぬくぬく育ってきた部分がある。辛い目に遭ったといっても、質が違うのだ。
だから、なりゆきやはずみで抱かれてしまうことなど、なんでもない、といえばそういいきれてしまうのだった。
ウォンは相手の顔をじっと見つめていたが、やがて肩をすくめて立ち上がった。
「いつまでも、朝寝をしている場合ではありませんでしたね」
キースは寝台の脇を離れ、ウォンに背を向けて自分のデスクに戻った。
「たまになら構わないだろう。勤勉なホンコン・チャイニーズは、休む暇などめったにとれないのだろうからな」
ウォンは身なりを整えながら、
「いいえ。なにしろ私は、《時》が使える男なんですよ」
「そうか。そうだったな」
「ええ。では、失礼します」
その瞬間、ウォンはキースの私室からかき消えた。
無駄なテレポートである。一刻も早く去りたい、誰の目にも触れたくないということなのだろう。
次の瞬間、キースは椅子の中に崩れ落ちた。
「ああ……」
昨晩のことが思い出されて、もう立っていられなかった。
もし、ウォンが目覚めた時にベッドの中にまだ一緒にいたなら、自分から際限なく求めていたに違いない。本来潔癖な彼である、それだけが恐ろしくて、疲れた身体に鞭うって服をつけ、限界まで虚勢を張っていたのだった。
「あれは戯れだ、本気ではない。一時の幻のようなものだ」
そう、身体に痛みは残るものの、本当に夢のような時間だった。
昨晩のウォンは、いつもの彼ではなかった。
はずみでふと顔が近づいた時、キースを見つめる瞳が急に細められた。
恋の矢に胸を射抜かれた者のような切ない表情で、しばし。
キース自身も魔にとりつかれたように、相手の口吻に応えていた。
「リチャード・ウォン……」
自分を利用しようとする男に、みすみす抱かれて思いどおりにされてしまうとは。
そう、抵抗しようとすれば、できた。
つまり、厭ではなかったのだ。
キースは深いため息の中に沈んだ。
ウォンの中にある邪悪なものは、確かに油断できない。握手のために右手を差しだしても、次の瞬間、残りの左手で相手を刺し殺して薄笑うような企みだらけの男である。
しかし、ウォンの奇妙な屈託や、暗い情熱は美しい。仕事の面にかけては彼より優秀なものはいない。しかもそれは、才能に甘えたインチキなやっつけでなく、並々ならぬ努力によってなしとげられている、きちんと評価をうけてしかるべきものなのだ。
キースはすでに、ウォンが嫌いではなかった。
「ほだされてどうする」
彼は苦笑した。
しかし、自覚があればなんとかなる。恋に盲目、の状態では本当に塊儡にされてしまうし、すぐに寝首をかかれてしまうだろう。
だが、意図的に対応しさえすれば。
そう、手綱のひき方さえ間違えなければ、最後の手札まで見せなければ、大丈夫だ。
キースの考え方はおおむね正しかった。
二人の関係は思いの他長く続いたが、バーンが現れて動揺するまでは、彼はウォンをコントロールできていた。
彼の計算ミスはただそれだけ――時の悪戯までを、計算に入れられなかったというだけのことだった。
そして折しも、このタイミングの悪さというものは、時を操る彼の男の上にも降り掛かっていたのであった。

「バーン・グリフィス!」
混乱したまま自室へ戻ろうとしたウォンは、我が目を疑った。
そこに、自分の恋仇を通路に見出したからだ。
そんな馬鹿な。嫉妬から見える幻か?
そうでなければおかしい。どうして戻ってきたのだ、この男は。
防衛ラインを突破することは可能だろう。いくら守りを堅くしてあるとはいえ、何日も基地内部を観察してきた男だ。脱走が可能だったなら、再度の侵入も難しくはあるまい。
だが、今更何をしにきたというのだ。
ウォンの困惑をよそに、赤い色をした幻影が怒鳴る。
「貴様! 今すぐキースを返せっ!」
「ふふ、それは、どう考えても不可能ですよ」
ウォンはすぐに周囲に透明な結界を張りめぐらせた。ここは基地最深部だ、内部の破壊は最小限に食い止めなければならない。それはまた、争いを大勢に知られないためのバリアでもあった。防音というだけでない、余計なテレパシーや思念や情報が、あちこちに乱れ飛ぶのをふせぐのだ。
「返すというのは、持ち主のところへ戻すという意味でしょう? キース様はあなたのものではない。差し上げることならできますが、私にはそのつもりはありませんしねぇ」
「なんだとっ!」
「いいかげん悟りなさい。キース様は私のものです!」
次の瞬間、ウォンの手から長剣がとび、バーンのすぐ脇をかすめた。
憎悪の力が加速をつけている。
バーンは押された。彼の超能力はあまり安定していないが、実はウォンやキースも越えるかなりのパワーのものだ。しかし、圧倒された。
「マジでいかなきゃやばいぜ!」
恐ろしいスピードで繰り出される十数本の剣。すぐに背後に回り込まれる。殴りかかろうと振り返るが、その時すでに遅しで、紫の霞がバーンを笑う。緑のオーラに包まれた次の瞬間、猛烈な衝撃に襲われる。
二人の死闘は続いた。
そして、誰にも気付かれないまま、その決着を見た……。

4.

十五の夏は、キースにとっては暑すぎた。
最後のサマーキャンプが終わり、明日は家に戻るという日も、バンガローで眠れないほどだった。皆が疲れて熟睡を始めても、彼だけは眠れない。
夜もいいかげん更けたというのに、そっと床を抜け出して、川辺に座って一人涼んだ。
あまり気分が良くなかった。
「……僕は、どうして生きていていいんだろう」
思わずそんな感傷を呟いてしまい、自分でも驚いた。しかしもっと驚いたのは、上から別の声が降ってきたことだった。
「キース、それを言うなら《どうして生きてるんだろう》だろ? そりゃ、生きる意味なんて、そう簡単に答の出るもんじゃないんだろうけどさ」
「バーン」
この友は、キースの様子がおかしいのに気付いて、後をつけてきたらしい。傍らに腰を下ろして、ニッコリ笑う。
「ここは涼しいんだな。考えごとをするにはいい場所かもな。どうして生きるか、なんて哲学的でカッコイイこと考えるんなら」
「かっこいい、か」
キースはバーンから顔を背けた。
「かっこいい、とかそういう問題じゃないんだ。今まで僕は、自分が生きていていい者だと感じたことがない。実際、僕は誰の役にも、何の役にもたたない人間だ。妙な力だけしか持ってない。それはいいことを呼び寄せない。僕はネガティヴにしか生きられないんだ。それなのに、生きていていいのかと思う……哲学でも何でもない、実感なんだ」
「キース」
「僕は、バーンのプラスになっているかい? 少しでも君の役にたっているかい? ある意味むしろ、君の荷物になってやしないかい?」
僕は有害な化物だ、親にも愛想をつかされるほどのね、という皮肉な笑みが、キースの顔に広がっている。
バーンの笑みの色が変わった。声も真面目なものに変わる。
「頭のいいおまえでも、意外に当り前のことを知らないんだな」
「?」
「友達でいるっていうのは、プラスとかマイナスとかで計算するものじゃない。利益が有るから助け合う訳じゃない。それに、俺はキースが大切だ。もしおまえが死んだら、俺は悲しい。もしいなくなったら、俺は寂しい。誰かにさらわれたりしたら、何をうっちゃってでもさがして助けだす。……そういうこと、ちゃんと、知ってたか?」
その声に含まれた誠意は、キースの胸に急激に染み込んできた。ありふれた言葉だ、誰にでも言える言葉だが、今まで二人の間に結ばれた信頼が、それを厚く裏打ちした。
「バーン、君は……」
「あのさ、おまえはいい奴だよ。誰がなんと言おうが、世界中の誰が敵になろうが、俺は最後までお前の味方だ。これ、世辞とかきれいごとで言うんじゃなくて、本当に本当だぞ」
「ああ。わかってるよ。ありがとう、バーン……ありがとう」

キースは泣きながら目覚めた。
「こんな時に、よくも都合のいい夢を……」
天井を見上げ、自分の部屋で眠っていたことを確認する。
あんな時期も確かにあった。
だが、もう自分は十五の頃とは違う。そしてバーンも。
その事は、数日前に充分思い知ったではないか。
まだ、ショックが残っていたのか。
「ああ、ウォンは、もう部屋に戻ったのか」
かたわらに眠っていた筈の男がいない。ぬくもりはまだ残っているが、それだけだ。
顔全体を寝起きの子供のようにこすりながら、キースはベッドを下りた。
「ここにいなくてよかった。あんな寝言を聞かれていたら……」
笑うだろう。それとも怒るか。いや、弱みを握った、とからかうか。
「まあいい。笑いたいなら笑わせてやろう」
キースの心は今や、静かな湖面のように落ち着いていた。
バーンのことは、もういい。
どこかで会おうと思えば、いつか会えるかもしれない。
わかりあえる日があるかもしれない。
いや、二度と会えなくても、それでいい。故郷でもどこででもいい、彼が幸せならば。
そう、今のバーンが自分をわかってくれなかろうと、十五の頃の彼の誠実さが嘘であった訳ではない。
だから、美しい思い出を捨てる必要もない。
「つらかったのは、本当だが」
バーンが出ていった時、心が凍てついて何も感じられなくなった。どんなに別のことを考えて逃れようとしても、同志を失うのはつらい、それはあたりまえのことだと繰り返し呟いても、その悲しみにおいつくものではなかった。気持ちは石のようにかたくなに閉じ、自分の感情はもう二度と息を吹き返さないだろう、と思った。
しかし、こうして自分は生きている。涙も流せる。
周りには自分を慕い、集まってきた者達がいる。必要としてすがってくる者達がある。そして、自分を支えてくれる者も。
「ウォン」
キースは身なりを整え、部屋を出た。
ウォンの顔が見たかった。もう大丈夫だ、ということを見せたかった。心配をかけてすまなかった、と伝えたかった。
しかし、その直後にノア総帥が地下通路で目撃したものは、変わり果てた友の姿と、返り血を浴びて立ち尽くしている自分の片腕の姿だった。
「キース様。そこにいらしていたんですか」
ウォンは、しごくゆっくり振り向いた。
「何故、殺した……!」
他の言葉が出なかった。
どうしてバーンがここにいる。
どうして戻ってきた。
しかも、何故、ウォンの手で!
「おわかりになりませんか?」
ウォンは微笑んだ。
正しくいえば、もう、笑うしか手段が残されていない人間の微笑みを浮かべていた。
「正当防衛とでも言えば、納得なさいますか? 先に襲ってきたのはバーン・グリフィスだと言ったら、許してくださいますか? それは……違いますね?」
眼鏡の奥にひかる瞳は、すでに正気を失っていた。
シュン、と二度目の結界が張られた。
事態を一瞬のみこみかねたキースは、完全に後手に回った。
勝負がつくのは早かった。
バーンを相手にしている時よりずっと早く、ウォンは相手をしとめていた。
きんいろの長剣が、深々とキースの胸を差し貫いている。傷口から溢れ出す血は、すべて流れきるまで止まらないかのようだ。
もう起き上がる気力のないキースは、薄目を開けて呟いた。
「何故、こんなことを……」
ウォンは足元の青年をせせら笑った。
「確かに、貴方を殺す時期としては少々早すぎましたがねぇ。しかし、バーンがここを襲撃して、貴方を殺したということにしておけば、ノア内部の動揺は最小限に食い止められます。後は私がキース様の意志を継いで、せいぜい皆を導くことにしましょう。有能な指導者を失って悲しむサイキッカー達の勢いは、充分に使えますからねぇ」
「私を……利用していた、といいたいのか……」
「まさか、気付かなかった訳ではないでしょう? 今更後悔していらっしゃるのですか」
「いや。……うっ」
キースは、断末魔の血を吐いて少しむせた。
「それは、いい。利用していたのは、私の方だったからな。だから、君に利用されていても、別に構いはしない……それで、君の気が少しでもまぎれるなら、好きなことをすればいい、と思っていた……だが、知らなかった……」
「キース様」
ウォンの瞳の狂気が薄れてきた。
「何を、知らなかったというんです」
キースはうっすらと微笑んだ。
「ああ。君が、激情で我を忘れ……発作的に殺そう、と思うほど、私に執着してくれていたんだ、ということを、知らな……クッ」
ウォンは、驚いてキースを抱き寄せた。
青年の声はどんどん弱く、小さくなっていく。
「きみ……よりも、私……を愛して、くれた……ものは……いない……君も、知らなかった、ろう……私は、それ……が、うれ、しかっ……」
そこで、彼はこときれた。
普段から低い体温の肌が、更につめたく冷えてゆく。
「キース……様」
ウォンは、青年の亡骸を抱きしめながら、しばし低く笑った。
「ふふ、嫉妬というのは、こんなに人の判断を狂わせるものなのか。これからは、気をつけなければな」
ウォンは今、全世界をゆるがす財産を引き換えにしてもいい、この青年の命が欲しいと思った。
しかし、時は戻せない。
止めることはできても、戻すことはできない。
「……世界はすべて、私のものの筈だったのに」
だが、キース亡き今、彼が手に入れられるのはそれ以外の世界だけだ。
それは、数えられる夜空の星全部に名前をつけて、これはすべて自分のものだと主張するほど馬鹿馬鹿しいことに思えてならなかった。
しかし、彼はやるしかなかった。
それがキースに期待された、悪人としての自分の姿なのだから。

キースの骸はきれいにされて、最深部の中央通路に氷詰めにされた。
秘密結社ノアは、偉大な総帥を失った後、その悲しみを力にさらに巨大になった。西暦二○一○年が終わる頃には、世界はまさしくリチャード・ウォン、という名の男の手で、塗りかえられようとしていた。
さて、彼の目論見は、いったいどこまで通用するのだろう?
一つだけ確かなのは、自分の命に執着がなく、まるでチェスの駒のように扱える類の悪人は、一番タチが悪いということだ。
それだけ知っておいていただければ、間違いない。
彼は、思うままに自分の野望をなしとげてゆくだろう。
なにしろ、残された世界は、すべて彼のものなのだから。

(1997.2脱稿/初出・恋人と時限爆弾『Triangle Heat(トライアングル・ヒート)』1997.2)

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