『涙の理由』

震える手でペンを拾い上げ、キースは白紙に「DON'T DISTURB」(入室禁止)と書いた。それをバスルームのドアにはると、中へ入って簡単な結界をはった。
服をぬぎすて、シャワーのコックをひねる。
目を閉じてぬるい水流を顔にしばらくあて、それから乾いたタオルに顔を埋めた。
「長くて、十分か……」
壁のデジタル時計をちらりと見て、キースは声を殺して泣き始めた。

先日独立したばかりの小さな組織が、壊滅した。
外部からの攻撃のためではない。内部分裂だ。
情報を知ったキースは口唇を噛んだ。
やはり、手を離すのが早すぎたか、と。
同じサイキッカーというだけで群れ集うのは危険なことだ。利害関係が一致しなければ簡単に裏切り、同胞の情報を売る可能性が出てくる。共通の理想があり、優れたリーダーが存在し、なおかつ上下の力関係のバランスがとれていなければならない。特殊な力を持つもの同士だからこそ、普通よりさらに神経を使わなければならない。
キースには彼なりに組織づくりのノウハウがある。ウォンの助けもあって幾つかの集団を束ねてきたが、中には独自に動きたい、と巣立っていくものがある。
そのためにキースは骨をおった。
不安はあったが、トップにたてる資質のある者を育てたし、相性のいいパートナーを何人か選び出して補佐役にすえた。ある程度軌道にのったと思ったから、キースはそっと援助の手を引いた。
それがどうやら、早すぎたものらしい。
手を離すタイミングの、その見極めは難しい。とはいえ、自分の判断ミスはくやまれる。
だが、だからといって身内で殺し合うとは。
愚かにすぎる。
いったい何度繰り返せば、こんなことは終わるのか。
やりきれない気持ちのもっていき場がなく、キースは無言で自室へ戻った。
そして、バスルームへ戻って泣き始めた。
涙には、心にたまったよどみを洗い流す効能がある。やたら泣き続けるのは体力の消耗でしかないが、必要な時に流れ出るものは単なる生理機能を越えて大切なものだ。喜怒哀楽をよくコントロールしてきたキースには、涙も特別なものではない。負の感情は人前でなるべく出さぬようにつとめてはいるが、ひとりの時には泣く。男なんだから泣くんじゃない、などとつまらぬことを言われて育った訳でもない、助けを求めてきたものに応えられなかった時の悔し涙は、それこそ数え切れぬほど流してきた。
なに、十分も泣けば気が晴れるだろう。
そうしたらタオルでよく冷やして、目元の腫れをひかせておけばいい。
ウォンが気付いて心配したら、ちょっと具合が悪いので一人で寝かせてくれ、とでも言えばいい。
「……ん?」
人の気配を感じた気がして、キースはタオルから顔を上げた。
バスローブを羽織って外へ出ると、ドアに貼った紙に、単語がひとつ書き足されていた。「DON'T DISTURB YOURSELF.」――「どうぞそのまま、私のことはお構いなく」だ。
人の姿はない。
しかしキースは叫んだ。
「ウォン! 何処だ!」
「ご用ですか?」
シュッと音をたてて現れた丸眼鏡の男は、いつもの不可思議な微笑を浮かべている。
「この落書きはなんだ!」
「私からの【お邪魔しません】という返事のつもりですが」
にらみつけられてウォンは肩をすくめた。
「わざわざ【入るな】と書いておいたりするからですよ。悪戯したくもなるというものです」
「ひとりになりたい気分だったんだ。それだけだ」
「それは了解しています」
真顔になってウォンは続けた。
「落ち着いたら、私の部屋にでもいらしてください。たまにはよろしいでしょう、お茶でも煎れてお待ちしておりますよ」
シュン、と姿を消した。
キースはバスルームへ戻った。
鏡で目元の腫れを確認する。
このみっともない顔を、見せたくなかっただけなのに。
身支度もそこそこに、キースはウォンの部屋へ向かった。
「はい?」
出迎えたウォンにキースは一言、
「邪魔するぞ」
広い胸に踊るように飛び込んで、そこで感情を爆発させた。

薄闇の中で目を醒ましたウォンは、キースの寝息をきいて安堵した。
嬉しい、と思う。
あまり露骨に嬉しがると、この人の哀しみを深くしてしまうから口には出せないけれど。
あれだけ怒り、泣きじゃくった後で、この胸に甘えてくれて。
「そのままここで、眠ってくれたのですからね……」
他人のために涙を流せる貴方の純粋さ。
その裏にある、自分の暗部にすっかり目をつぶろうとする貴方の片意地。
どちらも愛おしい。
貴方の悲しみも怒りも、すべて受け止めたい。
だから、こんな風に許されている静かなひとときが嬉しい。
とはいえ私も、とっさに他人に隔てをおく人種だ。いくら習い性とはいえ、それが貴方を寂しがらせているのもよくわかる。弱音を吐いたり甘えたりして見せると、目を輝かせる貴方のなんとも可愛らしいこと。そんなに優位に立ちたいかと驚いてしまう時もある。
それだけ、愛されている訳だが。
でも、あまりぴったり寄り添いすぎてもいけないのだ。
一緒に泣いてしまうと、貴方の方が気をつかって泣きやんでしまう。
泣きやませたいならそれでもいいが、貴方が保護者の気分になってしまっては、感情の整理がつけられまい。
悲しいときには、心ゆくまで泣かせてあげたい。
涙にはそれだけで一つの浄化作用がある訳だから、喜びに乱れ狂わせて、それで泣かせてあげてもいいのだけれど、気持ちが沈んでいる時の貴方を責めるのは、こちらも辛い。
「それなら、いたずら書きなんてしていくな」
目を開けたキースが、ハッキリと硬い声で言った。
「すみませんね」
ウォンは小さくため息をついて、
「私はひどい男ですから。私のために泣いていてくださる訳ではないと思うと、茶々のひとつも入れたくなってしまうんです」
「君のせいで泣いてみせれば、オロオロするくせに」
「まだ、気持ちがさっぱりしない?」
「すりかえるな」
ふいにキースの声は弱まって、
「そんなに僕が好きなら……もっと、わかって欲しいんだ」
ああ。
確かに。
貴方は相手を尊重する人。ゆえに自分もよく理解してもらいたい人だ。
最低限、からかったりしてはいけなかった。そんな場面ではなかった。
「すみませんでした」
「許さない」
キースは着てきた服の隠しから、ピルケースを取り出した。なにか一つ口に放り込むと、ウォンの口唇を奪った。
口腔内でつぶれるカプセルの感触。甘苦い味。
絡みついた舌はそれを吐き出させることを許さず、ウォンの喉は鳴った。
長いキスが終わり顔が離れた瞬間、苦しげに彼は呟いた。
「私にその手の薬物は効きませんよ」
「もし君に効かなくても、僕には効く。たっぷりと泣かせてやろう」
「なんて恐ろしいものを用意しているんです」
「依存性のないものだ。効果も一晩ほどらしい。恐ろしいことは何もないさ」
ウォンははっと思い出した。好奇心の旺盛な人だ、そして小道具を使うのはむしろ好きな人だった。催淫剤を使われたことも今までなかったのかもしれない。だからこんなことを何の抵抗もなく。
「いっそ薬が効いた方が、君も楽なのにな」
そう囁かれただけでウォンの瞳は潤んだ。
観念するしかない。
せめてあまりにみっともなく乱れないよう祈りながら、ウォンは身体の力を抜いた。

傍らで額を出して眠っている男を見つめながら、キースはそっとため息をつく。
充分に泣かせた。
許してやるか。
だいぶ疲れさせてしまったし。
こんな無防備な横顔を見られるのも、僕だけなんだろうし。
「わかって欲しい、といっても、わからないんだからな、君は」
ここでなら時に素直に泣きじゃくってもいいと決めた場所はたった一つ――ウォンの胸の中。
しかしこちらがいくらそう念じていても、肝心のウォンがとんちんかんに謝ってしまうのでは興ざめだ。あまりに焦れったくて、なんで君なんか好きになってしまったのかな、と思う時もある。
その理由が、君が「仕事ができるから」でなくて、「思いのほか不器用」なんだから、仕方がないけど。
あんな風に君が泣くのも、僕の前でだけなんだろうから。
我慢しよう。
そう思った瞬間、ウォンのまなじりから新しい光が溢れた。
起きていたか、とキースははっと身を起こし、
「どうした」
静かに黒髪に吸い込まれていくものをぬぐいもせず、瞳を閉じたままウォンは呟いた。
「それならこっそり独りで泣かないで、最初から私のところへ来てくだされば……十分だけ泣こうなんて寂しいこと、考えないでください……」
「ウォン」
震える瞼に、キースはそっと口づけた。
「わかった。次から、そうしよう」

(2004.4脱稿)

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Written by Narihara Akira
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