『耽 溺』

気晴らしをしたい、とキースがため息まじりに呟く。
そうですね、このところ籠もりっきりでしたからね、どこか出かけましょうか、ご希望の場所はありますか、とウォンが尋ねる。
キースはこう答えた。
「……図書館」

読みたい本が書庫に閉じこめられていることの多かった幼児時代のキース・エヴァンズにとって、アメリカの開架式図書館の充実ぶりは驚きであり、その開館時間の長さがどんなに激しい喜びだったか、それを知る者は少ないだろう。彼はただひたすら読んだ。何もかも得るために。そして、何もかもを忘れるために。
「夜の図書館でデートもいいですね」
ウォンが楽しげに囁くのをキースは邪慳に払った。
「私は本を読みにきただけだ。邪魔をするな。時間が惜しい」
いくら夜更けまで開いているとはいっても、二十四時間営業の図書館はさすがにわずかだ。一時期そういったサービスをする図書館もあったらしいが、防犯上の問題もあって廃れてしまったのだ。『ファールプレイ』という映画の中で、ゴールディ・ホーン演じる図書館員が襲われる場面がある、夜の仕事中に棚の陰から現れた男に麻酔で眠らされさらわれそうになるのだが、実際はもっと様々な事件があったに違いない。ネットの時代が到来して、昼夜をとわず瞬時に得られる情報が増えたのもあるだろう。
それでも多少不自由があろうとも、本がもつ独特の魅力をキースは忘れえない。
しかも、初めて来た遠方の図書館だ、棚の間をぬって歩くのは冒険に似る。手当たり次第につんでは自分の砦を築き、かたっぱしから崩してまた積み上げる。そうしているうちに、彼の内側は生気に満ちる。無駄に眠っていた知識は揺り動かされて新しい意味を持ち、痛ましい記憶はやさしく塗りかえられて、次なる力と変わってゆく。古今東西、有能な指導者で本を読まないものはいなかったといわれるが、そういう意味でもキースは正しく総帥の器だった。
「では、私もここでくつろぐことにしましょうか」
リチャード・ウォンもキースの脇に席をとり、幾冊かの本を積んで静かに読み始めた。彼もまた没頭するのは早い。銀髪碧眼のイギリス青年と、長い黒髪を流した中華系実業家が並んで読書をする様はあまり目立たず図書館の中に溶け込み、時を操れる男とともにいながら、キースは時間を忘れていた。
ウォンが、手元の本を読み終えた。書架へ戻すためにふと立ち上がり、キースの後ろを、失礼、と通った。
「……ん」
キースはとっさに身を硬くし、一瞬の後、頬を染めた。
気配が脇を過ぎた瞬間、キースは恋人の匂いを嗅ごうとしていた。そして、特に新しい香りに気づかなかったので、安心した。シャワーの匂いさえもしない。そう、今日のウォンは誰にも会っていない、誰とも寝ていないのだ……そう考えて、はっとした。
邪魔をするなと言っておきながら、僕は何を。
本当は意識していた。身体の片側で、ウォンをずっと感じていた。互いに触れていなくてもそれは大きな安らぎで、まるで違うことを考えていても側にいてくれるウォンが好ましかった。
キースは、ウォンの側にあった本の山を取り崩した。恋人が戻ってくる前に素早く。
ウォンはそしらぬ顔で戻ってきた。
が、しばらくすると、その掌が無言でテーブルの上を滑った。
キースの右手に、手袋をしていないウォンの左手が静かに重ねられる。
本当にそっと、指三本が軽くふれあう程度。
それきりウォンは、掌を動かさない。
「……」
キースは酩酊を覚えた。
魂の底まで染み込んでいるウォンの愛情が、ふわっと沸きたって全身を熱くする。もう本の内容など頭に入ってこない。ページを押さえた左手すら動かすことができず、キースは息をひそめたまま、ウォンの次の動作を待った。視線が頬にあたったことに気づいて、やっとキースは相手を見た。
見つめあったまま、数秒が過ぎる。
「ウォン」
「はい」
長い睫毛を伏せがちにして、キースは呟く。
「どうして拒んでくれないのって、まだ、考えてる?」
「え」
掌を握りもしてこない恋人の様子は、青年を不安にもさせた。
ウォンの中にある暗い欲望の一つ――相手に拒絶されたい、という不可思議な熱情が、また彼を支配しているのではないかとキースは疑っていた。世界を足下に踏みしだきたい男にとって、あふれ出て止まらぬ他者への愛は一つの矛盾で、それが激しければ激しいほどつらくてたまらぬものらしい。普通の人間だとて、天国と地獄を行き来するような揺れ幅の大きい感情生活にはそうそう耐えられないから、ウォンのようにプライドの高い男にとっては、それは更に辛いかもしれない。彼の最初の愛撫の弱々しさ――ためらいがちな口づけ、優しい抱擁――それらはすべて、了解を求め愛を乞う仕草だ。大切だから優しくしたいという気持ちとともに、それはウォンの不安の大きさも示している。何度抱き合っても幾度愛の誓いを繰り返しても、それはすっかり消えないものらしい。
少しでもなだめてやりたくて、キースは低く呟いた。
「ここでしましょうって言われたって、僕は拒まないのに?」
「キース様」
「淫らなポーズだって恥じらう演技だって、君の望むように、するのに……」
「嘘つき」
「え」
ウォンの手にふいに力が籠った。
「貴方の恥じらいは、演技なんかじゃ」
そのままぐっと引き寄せられ口唇を奪われて、キースは低くうめいた。
やっぱりこんなところじゃ……その言葉を飲み込んで、ウォンの口づけに身をまかせる。からみあう舌。もどかしく喘ぐ喉。広い背に腕を回しクッとしがみつくと、ウォンの掌はキースの髪をすき、さらに口づけを深くする。
ウォン。
凄く、いい。
抱きしめられキスされただけで達ってしまいそう。
それは、愛撫に敏感な身体につくりかえられてしまったからでなく、君に感じさせてもらいたいから。
その喜びに飲み込まれたいから。
だから。
全身の輪郭をその掌でなぞって。口唇を押して。僕の内奥まですべて味わって……。
陶然と目を閉じたキースから、やっと口唇が離れた。
「ここでは落ち着かないでしょう、いくら人気のないところでも」
「?」
「キース様の好むところでしましょう。誰にも邪魔されない静かなホテルで。清潔なベッドの上で。明け方までゆっくり、二人だけで眠れる部屋で」
たしかにそれは、いつもキースの望むところ。
薄目のままコクン、とうなずくと、ウォンは彼を抱いたままテレポートした。
本の砦の残骸を無惨に残したまま。

「キース様、ほら、いやいやをしてみせて」
「いやいやって」
「演技でできるのでしょう、それで誘って下さい」
「誘うって、どうやって」
確かにキースの恥じらいは演技ではない。ウォンがはにかみを好むのを知っていて、それで甘える時もあるが、淫らな誘いのために頬を染める訳ではない。
「だって、別にいやじゃないのに……あ」
キースが息をのむ。ウォンの指は丹念に局所をいらっていた。熱くそそりたつものをなぞりながら、
「もう、こんなにして……つらいのでしょう? 私が昂まるのにあわせなくていいんですよ。焦らさないでって泣いていいのに、我慢している」
「やあっ」
入り口を探られて悲鳴をあげ、慌てて口唇を噛みしめるキースに、ウォンは低く囁く。
「今晩はゆっくり楽しみたいんです。もうしばらく堪えて下さいね」
思わずキースはいやいやをした。そんなに我慢したら狂ってしまう。
「よくできました。それでいいんですよ」
ああ、とキースは深いため息をついた。
「ウォン」
「はい?」
「もう、なんでもいい……それで君が喜ぶなら、好きなだけ弄んでくれればいい」
「それでは、お言葉に甘えて」
「あ、そんな!」
押し開かれ犯され、激しく揺さぶられ。
身体をのけぞらせてキースは幾度も達した。底がないのではと恐れてしまうほど、それは長く深い快楽。淫らな音をたて、熱く脈打つもので互いを濡らしあう。隅々までむさぼり尽くしてもまだ飽きたらぬように、ウォンはキースの髪に頬にキスを降らせる。愛しくてたまらないと小さく囁く。それを子守歌にしながら、キースはとろとろと眠りに落ちてゆく……。

明け方。
ウォンは目覚めて、背中でキースの寝息をきいた。
ほっとする。
そして、そんな自分に苦笑する。
今まで彼は誰かに背を向けて眠り込んだことがない。用心のためが習い性となり、誰にも背後を許さずきた。キースが相手の時も、最初は背など向けなかった。目覚めた時ほほえみかけるため、いつも向かいあうようにして眠っていた。
それなのに。
背を向けたままで、こんな安らかな気持ちでいられるなんて。
明け方まで一緒にいて、とせがむキースの気持ちがわかる。
安心して眠る恋人の吐息はなんと甘いのだろう。
同じ毛布の中のぬくもりはこんなにいいものだったか。
これで、キース様が後ろからそっと甘えてくれたら、もう死んでもいい。
たとえば、おずおずと小さな掌で触れて、頬を寄せてくれたら。
と。
寝息の音がとぎれたと思った瞬間、キースの掌が、ウォンの肩をそっと押さえた。
低い囁き。
「今の顔、見られたくないから、振り向かないで」
「キース様?」
「だから、恥ずかしいのは、演技じゃないから……」
あっとウォンは息をのんだ。
この期に及んでなんという誘い方をするのだ、貴方は。
呟くようにキースは続ける。
「どうしよう、君の気配を感じてるだけで、こんな……側にいてくれるだけで嬉しいなんて……いつも一緒にいるのに……暖かくて、それだけでいいなんて……あ」
我慢できなかった。
ウォンはキースを抱きすくめていた。
恋人の顔を胸にきつく押し当て、視線をそらしたまま、
「いい気晴らしになったようですね。そろそろ帰りましょうか」
その声はかすれ、震えている。
キースは腕を伸ばし、ウォンの背を優しく抱いた。
「隠さなくていい、もう一度欲しいんだろう、君も?」
「でも、今したら一度では足りません。それでもいいんですか」
「いいよ」
「後悔しても知りませんからね」
「うん。……でもたぶん、しない」

疲れてくたくたになった身体を清め、暖かいバスタブに沈める。ウォンが先に仰向けに、そしてキースが後からかぶさるように。
ウォンの腰の上で、足を開いたキースの腰が焦らす仕草をする。
淫らなそんなポーズも、この青年がするとなんとなく可愛らしい。爛れた愛欲、という言葉ぐらい、彼に似合わない言葉はない。乱れても崩れてはこないのだ。何もかも見せあい、身体の隅々まで知り尽くしているのに、お互いにまだ恥じらいが残っている。慣れてなんとも思わなくなるはずのことが、いつまでも新鮮に感じていられる。どこまでも、どこまでも魅力的な貴方――。
「どうした?」
物思いを問われてウォンは、相手の腰の蠢きを押さえようと手を伸ばした。
「いえ……私はどうして貴方がいつまでも恐ろしいのか、と」
「嫌なことを言う。そんなに怖いか」
キースは苦笑し、腰をすりつけるのをやめた。湯船からあがりその縁に腰掛ける。
「でも、怖がっても構わないよ、ウォン」
「え」
ウォンがはっと身を起こすと、キースは真顔に変わって、
「君は、僕を失うことが怖いんだろう? 僕が変わってしまったり、自分の情熱が醒めてしまうことが怖いだけなんだろう? それは別に変でもなんでもない、現実でも小説でも普通のことだろう。男は皆それにおびえる。永遠の愛という言葉を少女趣味とさげすむくせに、恋人と永遠でないことを異様に恐れて、そのために相手を殺すことさえ、するものだろう?」
「キース様」
とっさにウォンは返事ができなかった。
何もかも見通していて、それでもいいと貴方は言う。
この私の一番醜い部分までを知りながら、それでも私を選び許そうとする。
その愛に私は、値するだろうか。
ウォンはそっと、恋人の濡れた膝に手を置いた。
「もし、万が一、淫らな戯れに飽きてしまっても……」
「うん?」
「貴方の気配を感じているだけで幸せな瞬間を、私はずっと忘れませんから」
じっと見上げると、キースはすうっと目を伏せた。
「……忘れていいよ。それはきっと、とても辛いから」
ウォンが再び言葉を失った瞬間、キースは淡く微笑んだ。
「大丈夫、僕たちはそんなに長生きしない。飽きるまで一緒にいられないよ」
そんな不吉な、と言いかけるウォンの口唇をキースは指で押さえた。
「わかってる。とりあえず、飽きる前にもう一度しよう。ここじゃ本当に溺れてしまうから……また、ベッドで」
そういってウォンの腕を逃れ、キースはバスルームを出ていく。
その背を見送ってウォンは気付いた。
そうか。
溺れてしまいそうなのだ、キース様も。そしてそれが恐ろしいのだ。
自分の中で溶け崩れる何かを感じながら、ウォンも湯船をあがる。
「キース様!」
もう戻れないことはしっている。
時をとめても無駄なこと。
実ったものは熟し、いずれ腐り落ちる。
それでも、滅びる時まで一緒にいたいと願う気持ちもまた自然なこと。
ならば私は貴方と。
追いかけてきた濡れた巨躯に組み敷かれ、キースは小さく喘いだ。
「ここでも……溺れそう……」
「溺れていいんですよ」
「駄目だ……僕まで溺れたら、いったい誰が君を……」
「大丈夫です、貴方の愛で、かならず最後は正気に戻りますから」
「うそ、つき……」

そして二人は、溺れてもなお深い淵の底へ――。

(2001.10脱稿)

《サイキックフォース》パロディのページへ戻る

Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/