『初めての。』

「酔いざましに、少し歩くか」
「……ああ」
うなずいて、刹那はガデスと肩を並べて歩きだす。
ガデスはいつもどおりのガデスだ。ほろ酔いかげんらしく、やや陽気なぐらいだ。
その顔色をチラチラとうかがいながら、刹那は歩く。
言いたい台詞を、飲み込んで。

「飲みに行く。一緒にくるか」
「え」
ガデスはさっき刹那の部屋に来て、いきなりそう言った。とっさに答の出ない刹那を見て、ガデスは奥のクローゼットへ顎をしゃくった。
「もし、出る気があるならすぐに着替えろ。そのなりじゃ目立ちすぎる」
「ちょっと待ってくれ」
刹那は慌てて服をかえ靴を履きかえ、ガデスの後をついて軍の外へ出た。
任務以外で、基地外へ出るのはほとんど初めてだ。
いや、一度、思いあまってここを飛び出したこともあったが……そう、あの時もガデスが迎えに来てくれたんだった。
暖かな感情が、身体の底からじわりと湧きあがる。
刹那は明るい声を出した。
「それで、何処へ行くんだ、ガデス?」
「何処だっていい」
ガデスは葉巻を口の端にくわえて、
「たまには基地の外で飲みてえと思っただけだ。おめえはそういう気にならねえか? いつもおんなじ連中と飲み食いしてて、飽きねえか?」
「ああ……」
と、それきり刹那は答に困ってしまった。ガデスは酒も煙草も自由にやっているが、基地内が原則として禁酒禁煙ということもあって、一人の時の刹那は飲まないし吸わない。勧められれば飲むし飲めるが、有難いことにないといられないということもないからだ。
するとガデスは煙をふう、と吐き出しながら、
「まあ、ここらにはコジャレた店もねえから、たいした気晴らしにゃならねえかもしれねえがな」
「あ」
なんだ、そういうつもりなのか。
いつも基地に籠っていると気づまりだろう、と連れだしてくれたのだ。
刹那はわざと軽口を叩いた。
「まあ、確かに安酒場が相場だろうな。おまえの奢りで高い酒を飲もうとは思わないし」
「馬鹿、誰が奢ってやると言った」
「そうだな、うまい酒は自分の金で飲むに限る」
「ち、生意気ぬかしやがって」
そんなやりとりの後、二人は小さな酒場におさまった。
見慣れた顔はない。少し遠くまで来たので、兵隊らしき姿もない。そういう意味では気分も変わるし、落ち着く。
カウンター席の隅に腰を据えて、二人は同じバーボンをやる。
ガデスは楽しそうに飲んでいる。俺は人並みの待遇じゃ満足しねえ、などとよく言っているが、その飲みっぷりは実に素朴だ。見ている刹那も幸せになってくる。
「確かに、たまには外で飲むのもいいな」
「だろう?」
「ああ」
二人は何を打ち明けあう訳でもなく、ただ並んで飲み続ける。
刹那はいい気持ちだった。酒を飲む楽しさをしみじみと味わっていた。ヤケ酒や身体を暖めるだけの酒なら知っていた。気取って飲む時の難しさも知っていた。だが、こんなに静かで楽しい酒は初めてだ。
相手がガデスだから、なのか。
いいかげん飲んだ頃、ガデスがそろそろ出るか、と言い出した。
「そうだな」
頃合だろう。これ以上飲むと酔いつぶれてしまうかもしれない。
ぽうっとしながらもガデスに醜態を見せたくないと思い、刹那はシャンと背を伸ばした。
結局勘定はガデスが払った。刹那がカードしか持っていなかったのと、見慣れぬ客を店主が信用しなかったからだ。ガデスは文句も言わずに全額現金で払った。誘ったのは俺だからな、と屈託なく。
外の冷たい空気にあたって、刹那は小さく震えた。
「まっすぐ基地に帰るのか?」
ガデスはふむ、とうなずいて、
「そうだな。酔いざましに、少し歩くか」
「……ああ」
うなずいて、刹那はガデスと肩を並べて歩きだす。
ガデスはいつものガデスだ。ほろ酔いかげんらしく、やや陽気なぐらいだ。
その顔色をチラチラとうかがいながら、刹那は歩く。

帰りたくない。
そう言いたいのだが、言えない。
口説き文句のようで恥ずかしくて。
誘われて飲みに出て、それだけで楽しかった。だからしばらく、このまま二人でいたいだけだ。だが、帰りたくない、なんてうっかり口走ったら、抱かれたくてついてきたように思われてしまう。別にそれが厭な訳ではないが、それだけが目当てと思われるのは厭だ。
「外歩きには少し寒いか」
ふと、ガデスが刹那の方を見た。
「そろそろ帰るか? それとも、もう一軒行くか?」
「あ、うん」
「どうした?」
刹那は返事に困って、うっすら潤んだ菫いろの瞳でガデスを見つめた。
帰りたくないって、言いたい。
やっぱり欲しい。抱かれたい。
誘ってくれたのは、ガデスもそういうつもりだったからなんだよな?
それとも、そんなことを考えてるのは俺だけなのか?
いい。
もう、それだけが目当てと思われてもいい。
「できたら、今晩は……帰りたくない」
呟いた瞬間、刹那は物翳へさらいこまれた。
「え」
建物の壁に押しつけられ、甘く口唇を奪われて、刹那は全身の力が抜けるのを感じた。
「……ガデス」
「そんなつもりじゃなかったが、そう色っぽい瞳で見つめられちまうとな」
そう囁くガデスの瞳も、口吻の余韻か熱っぽく潤んでいる。
こんなガデスは初めて見た。刹那は胸をときめかせながら、
「でも、本当は帰らないと駄目だ……ろ?」
「外泊届けは二人分出してある。心配するな」
刹那は小さくうなずいた。
嬉しかった。

翌朝。
「本当に、最初からこうするつもりじゃなかったんだがな」
安ホテルの一室で、刹那の裸の背を抱き寄せながら、ガデスは低く呟いた。
照れている。
そんなガデスを見るのも初めてだな、と思いつつ、刹那はその熱い胸に頬を埋めた。
「うん。……わかってる」

(1998.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『つれていって(Take Me With You)』1999.5)

『二人だけの秘め事』

「……もう、自分でも気付いているのでしょう? 自覚症状が出ていなければ、かえって危険な状態である、とも言えますが」
米軍サイキッカー部隊司令リチャード・ウォン少佐は、カルテから顔を上げ、執務室へ定時報告にきた若く美しい青年をじっと見つめた。
刹那はうなずいた。
「わかっていました。だいぶ前から、時々身体が思ったとおりに動かなくなったり、あちこち急に痛みだしたりしていたので」
「そうですか」
眼鏡の下の瞳は真剣な色をたたえて、
「それで、どうしたいですか、刹那? あなたには選択権があります。このまま人工サイキッカーの実験を受け続けて、再び力を盛り返す方に賭けてみるか、それとも実験をすぐに中止して、すべての能力を放棄する方を選ぶか――」
「少佐」
刹那はウォンをじっと見つめ返した。
「少佐の温情は有難いと思いますが、俺には元々選択権なんかなかった筈です。俺は自分で人工サイキッカー計画に志願したんです。過去も名前も故郷も家族も捨てろと言われて、それに従ったんです。そんな俺に、軍より他にいられる処はありません。能力を放棄してお払い箱になれば、どのみち生きてはいられないでしょう。……違いますか?」
ウォンは静かに首を振った。
「温情だけで言うのではありません。その後の追跡調査も軍の資料になるからこそ、能力の放棄という選択肢を勧めているんです。熟練した兵士がみな使い捨て、では困るのですよ。年かさの兵士がよい指導者になるのと同じで、できれば今後のあなたには、後発の人工サイキッカーの指導をしてもらいたいという期待があるんです」
刹那は薄い口唇を歪めた。
「少佐は、本当に、そんなことが俺に出来ると思ってらっしゃるんですか?」
ウォンはうなずく。
「ええ。あなたは数々の実験に耐えて自己の能力を伸ばし、優秀な仕事をしてきた兵士です。思考もきわめて明晰です。あなたになら何でもできますよ」
優しい声で励ますように、
「とりあえず、ホルモンの異常などももう一度詳しく調べなければなりませんし、実験と訓練を一時とりやめましょう。右脳へのダメージも大きいですが、内臓各部もかなり弱っています。なるべく安静に過ごしていて下さい。あんまり脅かしたくはありませんが、このままでは命の危険も……」
刹那は瞳でうなずいた。
「わかっています。実験場へ行く代わりに、これから毎日医療スタッフの元で精密検査を受けろということですね?」
「そうです」
少佐はカルテを軽く指で弾いて、
「明日から、細部の検査をし直してゆきましょう。よく考えなければ……あなたにとっても私達にとってもベストの選択が出来るようにね」
刹那は頬を引き締めた。
「出来れば、この闇の能力は失いたくないんです。少しでも残しておきたいんですが」
「そうですか。では、その方向で考えてゆきましょう。でも、無理は禁物ですよ? わかりましたね?」
刹那は軽く敬礼した。
「はい。お心遣いどうも有難うございます、少佐」
失礼します、と刹那はそのまま退出しようとする。ウォンは思わずそれを呼び止めた。
「刹那」
「はい?」
ウォンはデスクを離れて、刹那の前に立った。
「今更ですが……あなたを愛していたのは本当です」
薄く潤んだ、黒い瞳の訴えるもの。
刹那は淡く微笑んだ。
「わかっています。少佐には感謝しています」
落ち着いた声で答える。
するとウォンの表情がガラリと変わった。口唇を歪めて、
「感謝、ですか。……ガデスはあなたに随分と優しくしているんですねえ」
皮肉めいた声。
「え」
はっとして、刹那はウォンを見返した。
嫉妬?
まさか少佐がガデスに嫉妬を?
刹那はほんの少しだけ頬を染め、うつむいた。
「……はい」
「そうですか。お幸せに、刹那」
刹那は黙ってうなずいた。そして、顔を伏せたまま執務室を出た。

「なんで、俺……」
刹那は歩きながら、薄く染まった頬を何度もこすった。
妙な気分だ。ガデスのことを妬かれて嬉しいなんて、変だ。
「まさか俺、まだ、少佐の事を……」
好きなんだろうか。
心の奥で、少佐への未練はまだくすぶり続けていたのだろうか。
最初は少佐と顔をあわせるだけでも抵抗があったが、仕事で仕方なく話をしているうちに、恨む気持ちはだんだんと薄れてきた。一方的に少佐が悪かった訳ではない、ただ憎むのは筋違いだ、と落ち着いて考えられるようになってきていた。
だから、目の前であんな悲しそうな顔をされると、困ってしまう。焼き餅をやかれたりすると、妙な気分になってしまう。
何故だ。
「俺はもう、ガデスのものなのに」
ガデスの事を思うと、幸せになる。
身も心も暖かくなる。
抱きしめられただけでつい声が洩れてしまうぐらい、好きだ。
「でも、ガデスは、俺の事……」
ガデスは確かに優しい。だが、あれは誰に対しても優しいんであって、俺が好きだから特別よくしてくれてる訳じゃないんだ。俺を抱くのは弱い者に対する保護欲みたいなものだ。ガデスが少佐に「こいつは俺のものだ」と宣言したのは、弱っていた俺をかばうためで、あとでわざわざ「あれは言葉の綾だから気にするな」とまで言ってたっけ。
だから俺は、《特別》でもなんでもないんだ。
別に、それでも構いはしないが。
その時、背後から、耳になじんだ錆びた声が。
「おい、何を一人でブツブツやってやがんだ、おまえは?」
「……ガデス」
振り返ることができない。
今の言葉、聞かれたか?
俺の考えを読まれたか?
ガデスは偶然ここを通りかかったんだろうか、それとも?
刹那はわざと不機嫌な声を出した。
「何だ? 何か用か?」
「まあな」
ガデスは脇に回って刹那の肩をぐっと抱きよせ、その頬に軽く接吻した。
「あ」
思わず首まで赤らめた刹那に、
「今夜、俺の部屋でな」
囁いて、傷のある片頬にニッ、と笑みを浮かべる。
刹那が小さくうなずくと、何事もなかったかのようにすうっと離れて、
「じゃあな」
「……あ」
刹那は急激に早まった心臓の鼓動を抑えられず、その場に立ち尽くしていた。
馬鹿みたいだ、こんなにドキドキして。
ガデスが俺に感じているのは、同情の気持ちだけなのに。
それなのに俺は、俺の事をうんと好きでいて欲しい、何もかも忘れるほど激しく愛して欲しい、しっかりつかまえていて欲しい、と思っている。
馬鹿だ、俺は。
特別でなくとも構いはしない、と思うのは強がりだ。本当は自分だけが優しくされたい。もっともっと甘えたい。
「部屋へ戻ろう」
夜まで少し眠っていよう。どうせ安静を言い渡されているのだし、久しぶりだから、今晩はなかなか眠らせてくれないかもしれないし。
刹那はゆっくり歩き出した。
その頬は、まだ朱いままだ。

「柄でもねえ」
仰向けにベッドに寝ころんで、小さく呟くガデス。
昼間、口吻に頬を赤らめた刹那の顔が、目の前をちらついて離れない。
訓練場で一汗流して私室へ戻る道すがら、刹那が一人で歩いていたので何気なく声をかけたのだが、その顔を見たとたん、愛しくて抱き寄せずにいられなかった。
「やべえなぁ……」
刹那は呼べば必ず部屋に来る。そしておとなしく身体を開く。甘い声をあげてすがりついてくる時だってある。終わった後、名残り惜しげに身を寄せてくる時もある。何か訴えるような、濡れた瞳で見つめてくる時も。
ガデスはそれが、可愛くて可愛くてしかたない。
が、前のようにつっかかってこないのが寂しくもある。
通りすがりの口吻に応えてじっとしている刹那を、痛々しいと思ってしまう。
「あいつ、まだ、ウォンのこと忘れてやがらねえんだろうな……」
呟いて、腕を枕に横向きになる。
刹那が素直に抱かれるのは、失踪した時に俺にかばってもらった負い目があるからだ。抱かれて今でも厭がらないのは、忘れたくともウォンのことを忘れられないからだろう。少しずつ笑うようにはなったが、以前の元気はない。あいつは俺に慰めを求めて、この部屋へやってくるんだ。
刹那をあんなにしおれさせたのはウォンかと思うと、身の内で燃え上がるものがある。それは怒りというより嫉妬に近いもので、「あんな奴の事はさっさと忘れちめえ、俺がいるじゃねえか、俺を好きになれ、俺のことだけ考えろ」という台詞が、何度喉元まで出かかったか。しかし、口が裂けてもそれだけは言えなかった。愛情の強要をするのは厭だ。自分がウォンより劣っていると認めることにもなってしまう。それに刹那はおそらく「俺、ガデスを嫌いじゃない」と言うだろう。俺に悪いと思って、「好きだ、いつもガデスの事を考えてる」等と答えるかもしれない。そんな刹那はみたくない。「もう、ウォンの事は忘れたんだよな」と念を押すこともできない。そんなみっともない台詞は、死んでも吐けない。接触テレパスで心をさぐることも、プライドが許さない。
いまさら、惚れた晴れたの言って口説くのも、妙な話だしな。
「馬鹿か俺は」
らしくもねえ。
いったいなんでこの俺が、こうウジウジといつまでも……。
とそこまで思いめぐらせた時、インターフォンが鳴った。
「ガデス……いるか?」
刹那の、人目をはばかるような小声。
ガデスは応答口に向かって、いつもの声をつくろった。
「ああ。ドアは開いてるぜ。奥の部屋まで入ってこい」
「わかった」
刹那は足音もさせずに入ってきた。ガデスが寝ころんでいるベッドの脇まで来ると、瞳で、〈これからどうしたら?〉と尋ねてくる。
「来いよ、ここに」
腕枕をしていない方の手で胸を指さすと、刹那はベッドに腰をおろし、すうっとガデスの胸の上に身を屈め、口唇にそっと口づけてきた。
吐息のような、キス。
顔は離れたが、こちらを見つめる菫いろの瞳が妙に真剣なので、ガデスはかえって茶化さずにいられない。
「どうした? ずいぶんと積極的じゃねえか」
刹那は手袋の掌でガデスの頬に触れて、
「悪いか、俺からしたら?」
「別に構やしねえが」
「それなら」
刹那はガデスの頬に額に鼻先に、軽い口吻を降らせ始める。
「おっ……」
刹那の口唇が左目の傷の端に触れて、ガデスはびくん、と身体をこわばらせた。
感じる。
全身がカッと熱くなる。
「刹那、そこは……」
見慣れないガデスの反応に、刹那ははっと身をひいた。
「すまない。傷のところは、触られたら痛いよな?」
そうじゃない、と言いたかったが、感じていると知られるのも厭で、わざと冷静な声をつくろう。
「昔の傷だ。たいして痛みやしねえよ」
「でも」
「続けろや。ただし、服は脱いでな」
「わかった」
服のままじっと抱きあうのも風情があっていいものだが、今日みたいにしんみりした雰囲気の日は、さっさと裸になって盛りあがるに限る。ガデスは服を脱ぎ出した。刹那も言われるままに服を脱いだが、再びガデスに寄り添うと、こんどは口吻でなくて質問を投げかけてきた。
「ガデス。ききたいことがあるんだ」
「なんだ?」
「昔、惚れた女がいたんだよな。うんと強くて、ガデスの背中を守れるような女を、好きになったことがあるんだよな?」
妙なことをきいてくる。ガデスは眉をひそめて、
「まあな。で、それがどうかしたのか?」
「その女を、ガデスはどうやって忘れたんだ? ちゃんと忘れられたのか?」
なんだ?
いったい刹那は何をききてえんだ。
ウォンを忘れられないから、俺の過去を参考にしたいとでもいうのか?
まさか焼き餅をやいてるんじゃあるめえな。妬かれるような事じゃねえってのによ。
「そうだな」
ガデスは刹那の背を静かに撫でながら、
「忘れられた、といったら嘘になる。ありゃあいい女だった。でも、あいつは他の男に夢中で、結局あきらめるしかなかったからな」
「あきらめたのか?」
「ああ。自分のことを好きでもねえ女を、無理矢理アレしたってつまらねえだろう。まあ仕方ねえのさ、あいつは弱い男の世話を焼くのが好きでな。一度惚れたらよそ見はしねえ、けなげに尽くして尽くしきる女で、俺みたいな男は最初から眼中になかったのさ。しかし、もったいねえ話だぜ、あんなにいい女が、たいしたことのねえ野郎の尻ぬぐいで一生を終えようとするなんざ……世の中間違ってるぜ」
「いい女って、どんな風にいい女だったんだ? 強かったからいい女なのか?」
「ああ。恐ろしく強かったぜ。相手を倒すために強くなったんじゃねえ、好きになったもんを守るために強くなったってやつだからな。本当はうんと脆いくせに、いざとなったらなりふり構わねえ。あれがホンモノの女の強さってやつだ、男には持てねえ命の強さだ。あの女が俺の後ろを守ってくれりゃ、後は何にもいらねえと思ったさ」
刹那はガデスの裸の胸にぴったりと頬を押しつけた。
「惚れてたんだな、本当に」
「昔の話だ。今は何処でどうしてるのかも、知らねえよ」
それに、今はおまえが……と言う言葉をのみこんで、ガデスは身を起こした。刹那を下に敷きこんでしまって、
「俺が上じゃねえとどうも気分が出ねえ。先によくしてやるから、下になってろ」
〈下は厭か?〉と目で尋ねると、刹那はガデスを見上げ、小さく首を振った。
「……下でいい」

濡れた太い指がつぷ、と蕾の中にもぐりこんでくる瞬間、刹那の全身は喜びにのたうつ。指の微妙な動きと同時に胸を吸われ、朱い突起を舌でチロチロとなぶられて、たまらず躰をつっぱらせる。上と下の快楽が一直線につながって身肌を塗りつぶし、神経も思考も与えられる愛撫だけに集中する。早く二本目の指が欲しい。押し広げられ、探られる快楽をむさぼりたい。
「ガデ……ス……」
掌を伸ばして指をねだる。
「欲しいのか? 待ってろ」
指が二本に増やされた瞬間、刹那は鋭く息をのんだ。思わず腰がのみこむ動きをしてしまって、どんなに自分がそれを待ち焦がれていたかわかった。甘く長い前戯が、彼の官能を完全に燃え上がらせていた。
しかし、ガデスの指の動きは優しい。あくまで馴らすためらしく、刹那のポイントをわずかに外して動いている。その物足りなさに思わず、
「焦らさ……な……もう、俺……」
「そうか、そろそろか」
指が抜かれ、硬く熱いものが刹那の蕾に押しあてられる。
刹那は胸が苦しくなって、ぎゅうっとガデスにしがみついた。
「や、やだっ」
「どうした、何が厭なんだ?」
ガデスがゆっくり腰を動かし始めると、堪えきれなくなった刹那が足を絡め、ガデスの下半身をぐっと引き寄せる。
「や、あん……」
「厭じゃねえんだろ? どうして欲しいんだ?」
どうして欲しい、んじゃない。
欲しいんだ。
ガデスが欲しくてたまらない。
優しくしなくていい、もっと激しく愛して欲しい。
首を引き寄せキスをねだりながら、悲鳴にもにた高い声で刹那はガデスを求める。
「あ、もっと……もっと、強く……かき回してぇ……っ!」

「は……あっ……はあっ……」
荒い吐息。
ひとくさりが終わって、刹那はほとんど放心状態だった。ガデスはそれを落ち着かせるように軽く口づけて、
「大丈夫か?」
「……うん」
うなずく刹那の頬は赤い。それは激しい運動と快楽の余韻を示しているのだが、急に湧いてきた羞恥心の現れでもあった。
恥ずかしい。
さっき、俺、いったい何て口走った?
あられもない台詞を何度も何度も。
でも、欲しくてたまらなかった、あんまり夢中だったからつい……軽蔑されてるだろうな、とんでもない淫乱野郎だって。ガデスの同情の気持ちもすっかりさめて、もう二度と抱いてくれないかもしれない。
そしたら、どうしよう。
するとガデスは、刹那の頬をそっと手ばさんだ。
「綺麗だぜ」
「え?」
刹那は耳を疑った。
今まで優しい台詞は何度もきいたけれど、そんな口説き文句は初めてだ。
ガデスは刹那に囁きがきこえなかったと思ったのか、更に念を押すように、
「綺麗だ、と言ったんだ。達った後のおまえの顔、どんなに綺麗か自分で知らねえだろ」
「嘘……だ」
そんなことを言われたら期待してしまう。同情でなくて、ガデスは俺の事が好きでこうしてくれているんじゃないかと。
刹那はわざとつっけんどんに、
「疲れてるし、いつもより汚い顔してるんじゃないのか?」
「なら、見せてやろうか?」
枕元に伏せられていた、シンプルな手鏡を渡される。
「え……」
鏡に映るのは。
うっとりと潤んだ瞳。頬だけでなく身体中の肌が薄く染まって。相手に何もかもゆだねきっている安心の表情。少しけだるいけれど、物憂い美しさとでもいうべきものが漂う顔。思ったよりも浅ましくなく、醜くもない。
「本当に綺麗なのか、俺?」
「綺麗だ」
「だってガデス、そんなこと、今までひとことも言わなかったのに」
刹那の瞳が熱く潤む。ガデスは少し照れたように、
「そうか、言ってなかったか……言われてみれば、そうだな。ずっと前からそう思ってたんだが……そうか」
「ガデス」
ああ。
ガデスが、俺を、綺麗だって。
ずっと前から、そう思ってたって。
そんな台詞が、ガデスの口からきけるなんて。
もっとききたい。
愛してる、なんて言ってくれなくていいから、もっと何か言って欲しい。
「どうしたんだ、刹那」
こんな単純な台詞一つで刹那が泣きだしそうになるとは思わず、ガデスは戸惑っていた。綺麗だ、と言うだけで泣くのなら、もっと甘い台詞をいろいろと囁いてやろう。柄じゃねえが、もしそれで刹那の心が、少しでも俺に傾くのなら。
「泣かせるために言ったんじゃねえぜ。ほら、どうした、え?」
髪をすき、背を撫でさすってやると、刹那はきゅっと身体を押し付けてくる。
彼は再び足の間を熱くしていた。物欲しそうに震えている。
「なんだ、まだ欲しいのか?」
刹那は小さくうなずく。
「素直だな。そんなに欲しかったのか。そういやさっきも凄かったしな」
「ガデスは、もう厭か?」
伏し目がちに問う刹那に、ガデスは微笑む。
「そんなさみしそうな顔をするんじゃねえよ。してやるから」
「じゃ、入れて……」
刹那の求めに応じて、二人は一つになる。
「動かして、もっと」
喘ぐように呟く刹那。
うごめく内壁は焦れたように、くわえこんだものをきつく絞り上げようとする。
ガデスもなんだかたまらなくなって、前よりも激しく腰を揺すりあげる。
「どうだ、刹那? いいか?」
「あ、い……痛……」
ついに刹那の口唇から苦痛の声が洩れだして、ガデスは一瞬動きをとめた。
「辛いか? 抜いた方がいいか?」
刹那はかぶりを振った。
「やだ……やめないで……」
痛みを感じながらも、刹那の内奥はガデスに与えられる熱を求め続けていた。これ以上続けても傷が増えるだけ、快楽より痛みの方が大きくなるとわかっていながら、動く身体を止められない。ガデスが達く前に、短く小さくていいからもう一度頂上を味わいたくて、刹那はしきりにもがいた。今この瞬間に、快楽の最後の一滴まで飲み干さないと後悔するといわんばかりに。
甘い悲鳴。
「俺、いま死んでもいい、ガデス……」
「刹那」
ガデスは動きを遅くした。その代わり、刹那が一番感じる部分にジリ、とこすりつけるようにしてくる。掌を刹那の前にまわし、中心をそっと握りしめる。
「あ……っ」
前と後ろを緩急をつけて愛撫され、刹那の視界は真っ白になった。内奥を何度も引きつらせながら、
「やだ、やだ、俺だけじゃやだ、ガデスも……っ!」
刹那の絶叫をきいた瞬間、低いうめきを洩らしてガデスも達していた。
駄目だ。
すっかりおまえに参っちまった。
ガデスはぐったりとなった刹那を抱きしめながら、ずっと無言で口説き続けた。
刹那。俺の刹那。
二度と離さないから、覚悟しろよ……。

苦しい。
胸が苦しくて刹那は目覚めた。
ガデスに抱きしめられているから苦しい、というのではない。
ドキドキがあまりにうるさくて、頭の中に心臓があるようだ。身体全体の感覚も変だ。ひどい脱力感がある。単なる疲れでなく、何もかもが遠く離れてゆくような。空気の粘度があがってうまく呼吸できず、溺死者のように窒息しそうだ。
ついに、来るべきものが来たんだ。
別れの時が。
「ガデス、起きてくれ……」
刹那は相手の胸を拳で叩いた。
「うん、なんだ?」
心地よい疲れにまどろんでいたガデスは、うっすらと右目を開いた。刹那は薄れかかる意識の中で、一生懸命声を絞り出す。
「こんな風にしてられるのも、たぶん、もう今夜で終わりだ……だから……もう一度だけ、おまえは綺麗だって言ってくれ……頼む」
「いったい、どうした?」
ガデスは苦しそうな刹那の顔に驚いてすっかり目をさまし、
「今夜で終わりってのはどういう意味だ。いまさら俺を焦らしたいのか? そんな妙なことを言わなくたって、俺はちゃあんとおまえに惚れてる。安心しろ。おまえを抱かなかった晩は、おまえの夢を見るぐらいなんだからな」
刹那は薄く笑った。ガデスの掌をそっと握って、
「最後の最後に、そんなに凄い口説き文句がきけるとは思わなかった……良かった」
ガクン、と気を失う。
「どうした刹那。どうしたんだ。しっかりしろ、目を覚ませ、おい」
ガデスは慌てて恋人の身体をゆさぶる。苦しみの表情に薄い微笑みを凍り付かせて、刹那はもう反応しない。
「ふざけてんじゃねえ、いったいどうしたっていうんだ、起きろ刹那」
刹那はぴくりとも反応しない。ぐったりとした身体の重みは意識のあるものの重さでなく、そして奇妙に冷えていて、どう考えても非常事態だ。
「刹那!」
ガデスはシーツに刹那をくるむと、部屋を飛び出した。
医務室の医者共か、それともサイキック研究班共の処へか。何処へいけばいい。誰にみせれば刹那を助けられる。
「刹那、しっかりするんだ、刹那」
声をかけながらガデスは走る。
大きく見開いた右目から、熱い涙を流しながら。
「絶対に死なせねえぞ、おまえを……!」

手術室の扉の前で、ガデスの肩を叩く者が一人。
「ウォン」
ガデスが振り向くと、長身のホンコン・チャイニーズは神妙な面もちで丸眼鏡を光らせて、
「今晩あなたと一緒だったんですね、刹那は。とりあえず、すぐに処置室に運んでくれたことには、御礼を言っておきますよ」
「おい、刹那はいったいどうしたんだ、何であんなになった、まさか死ぬんじゃねえだろうな?」
すっかりとり乱しているガデスを見て、ウォンは口唇を歪めた。
そんなに惚れ込んでしまっているのか、さぞ大事に可愛がっていたのだろう、刹那があんな穏やかな顔で私を見る筈だ、と。
「今の刹那には安静が必要だったんですが、あなたには言えなかったんでしょうねえ」
「安静だって」
「人工サイキッカーになるために施した手術と薬物投与が、刹那の脳と内臓を蝕んでいたんです。急激にひきだされた力がどんな反動を引き起こすかは、ダニエル・キイスのSF小説を読んでいなくても想像がつくでしょう?」
そこまではっきり言われれば、人工的に知能を高められたネズミと青年の話を描いた古典SFなど知らなくともわかる。刹那は実験体なのだ、そういう事態は予想されてしかるべきだった。
ガデスはギロリと目を剥いた。
「それはともかく、言えなかったってのはどういう訳だ。刹那は自分が死にかけてるのを知ってたっていうのか」
ウォンはひるまずにらみ返す。
「ええ、知っていましたよ。刹那は裏表のない性格ですが、だからといって頭が悪い訳ではないんです。自己防衛のためなら学習の手間も惜しみませんし、実験体であることの自覚から、体調には充分気を配っていました。ですから彼は、自分が今後の選択肢を選べる事も知っていました。私はすぐに実験をやめて養生することを勧めたのですが、彼はそれを望みませんでした。できるだけ闇の能力を残したいと言ってね」
「待て、自分の寿命がうんと縮まってもサイキックを残してえと言ったのか?」
ウォンは首を傾げた。
「そうですね、彼もそこまでは考えていなかったかもしれませんが。……ですが、彼の体内のダメージは私の予想以上です。彼の望みをかなえることはすでに不可能です。手術で右脳に埋め込んだ能力開発チップをすぐに除去する必要があります。彼の超能力はすべて失われます。それをしても、命の保証はできかねる段階にまで、状態は悪化しています」
「そんな馬鹿な」
茫然と立ち尽くすガデスの頭の中で、今晩の刹那の台詞の断片が蘇る。
もう一度だけ。
もっと。
惚れた女がいたんだよな?
もう厭か?
いま死んでもいい。
やだ、やだ、ガデスも一緒に。
綺麗だって言ってくれ、頼む。
「そうか」
あれは全部、俺を口説いてたのか。
ガデスは拳が白くなるほどきつく握りしめた。
なんて鈍感なんだ、俺は。
あんなに熱っぽく見つめられていたのに。あんなに切なげにすがりついてきてたのに。
刹那は単に慰めて欲しくて甘えてたんじゃない、あれがあいつの精一杯の愛情表現だったんだ。あいつはもうウォンじゃなく、俺の愛情が欲しくてたまらなかったんだ。
こんなことになるのなら、もっと早く打ち明けておくんだった。おまえに夢中なんだ、おまえを失いたくない、と。
そしたらおまえは、あんなはかない笑顔で俺を見なかったんだ。
刹那。
目の前が暗くなる。
「とにかく助かる事を祈りましょう。今は何を後悔しても無駄です、祈るしかありませんよ」
ウォンの皮肉な声が、うちひしがれたガデスに更に追い打ちをかけてくる。
「彼が自分の命をあきらめていないのなら、まだ希望はあります。あなたへの想いが、彼を生の世界へ引き戻してくれるかもしれません。安静にしていなければならない事を忘れて、あなたに抱かれたぐらいなんですから。よほど欲しくてたまらなかったんでしょうね、あなたが」
眼鏡の奥の瞳が、厳しくひかってガデスを射抜く。
「不調や寂しさに気付いておあげなさい、本当に好きであるのなら。私だって、刹那には幸せになってもらいたいんです。憎んで別れた訳ではないんですから」
「よくもぬけぬけとそんなことが言えるな、てめえは」
ガデスもウォンをにらみかえす。
「俺だって、刹那が幸せなら奪る気なんざ起こさなかったぜ。てめえのせいで、刹那がどんなに辛い思いをしたかわかってんのか? なんべん俺の胸の中で泣いたと思ってる。弄ぶだけ弄びやがって、ふざけたこと抜かすんじゃねえ」
「おやおや」
お熱いことで、とウォンは肩をすくめた。
「まあ、ここで私達が喧嘩をしても仕方がありません。とにかく今は、あなたが刹那の支えなのですから、目が醒めたらせめてうんと優しくしてあげて下さい」
「言われなくてもわかってる」
二人はぷい、と顔を背け、手術室の前を離れた。
祈る気持ちは同じだ。
ただ、ガデスの方が、悲しみの気持ちがより深いだけだった。

刹那は一週間も目を覚まさなかった。
手術は一応成功したが、身体のあちこちの故障が大きく、すぐに蘇生させるのは危険だったのだ。
そして、刹那の菫いろの瞳が最初にうつしたのは、左頬に大きな傷のある男。
「……ス?」
「刹那、俺がわかるのか?」
「ん……わ……」
刹那の喉が渇いていて声が出ないのに気付いたガデスは、白湯をいれた吸い呑みを口元にあてがい、くわえさせてやる。
「そう、管を舌の下へいれるんだ。楽にしてろ。自然に喉へ流れ込むから」
「うん、あ……」
軽く咳こんで、刹那は吸い呑みを離した。
「もういい。楽になった」
「そうか」
渡されたタオルで口元をぬぐい、それを握りしめたまま刹那はガデスを見上げる。
「……もしかして、ずっと看病してくれてたのか?」
「別にそういう訳じゃねえ。ただ、そろそろ目を覚ます頃だって医者共に言われたから、ちょっと覗きにきただけだ」
ついいつもの軽口で答えてしまって、ガデスは自分で眉をしかめた。おまえが心配で夜も眠れず、手術室の隣の仮眠室で幾晩も暮らしてた、と正直に言ってやれば良かったと。
包帯と点滴だらけの、見るも痛ましい姿。
ガデスはそっと刹那の掌を自分の掌で包み込んでやりながら、
「で、気分はどうだ、刹那?」
刹那は霞のかかった顔で、
「身体がだるい。どこも重くて、あちこちこわばってる」
「そうか。仕方ねえだろう、だいぶ長く眠ってたからな。まあ、あんまり無理はするな。大きな手術をしたばかりなんだ、当分ベッドの生活になるだろう」
「手術?」
刹那の瞳が光る。
「もしかして、俺にはもう……サイキックが?」
刹那の望みは能力を残すこと、というウォンの台詞がふと耳に蘇ったが、ガデスは優しく微笑み、恋人の肩のあたりを軽く叩いてやった。
「そういうことだ。ま、元々なかったもんなんだから、今更いらねえだろ?」
刹那はだが、そこでぎゅっと口唇をむすんでしまった。
何かを必死で堪えているような表情。
「刹那?」
刹那は深く呼吸すると、じっと宙をにらんだまま、
「……少佐は?」
「さあな。仕事じゃねえのか?」
「俺、ウォン少佐に会いたいんだ。仕事が終わってからでいいから、少佐に来てもらえるように頼んでもらえないか」
なんで俺が、と言いかけて、ガデスは先をのんだ。刹那の立場は特殊で、軍内でも完全に孤立している。物を頼める相手など、まったくといっていいほどいないのだ。
ウォンとはおそらく今後の相談をするのだろう、と考えて、ガデスはもう一度ぽん、と刹那の肩口を叩いた。
「待ってろ。いま呼んできてやるからな」
飛び出してゆくガデスの背を、じっと見つめる刹那。
その菫いろの瞳から涙が溢れ出したのを、ガデスは知らない。
当然、涙の理由も。

「ちきしょう、一体どういうつもりだ刹那の奴……」
怒りながら歩き続けるガデス。
その昼、見舞いにいった彼に、刹那は露骨に眉をしかめてみせた。
「何の用だ」
「え」
どういう訳か、毎日病室を訪れるガデスに、刹那はあまりいい顔をしなかった。ウォンが来ている時は、部屋にも入れさせない。だが、こうまではっきりと厭な顔をされたことは、今までなかった。
腹がたったが相手は病人だ。ガデスは優しい声を出した。
「何の用だ、じゃねえだろ。おまえの顔を見にきただけだ」
「俺のやつれた顔なんか見て何が楽しいんだ。やたらに来るな。別にヒマじゃないんだろ」
「なんだって」
確かに閑な訳ではない。刹那が心配でたまらないから、ミッションや訓練のあいまに少しでも様子を見たくて来ているだけだ。点滴も外れて、だいぶ起きていられるようになった刹那が退屈だろうから、少しでも気をまぎらせてやろうと思っているだけだ。それなのに、その言いぐさはなんだ。
そう思っても、次の瞬間、ガデスはたやすく折れてしまう。ベッド生活の寂しさですねているのだろう、と刹那の頬に掌を触れ、錆びた声をうんと甘くし、
「少しぐらいやつれてたって、おまえは綺麗だ……本当だぜ」
と耳元で囁いてやる。
「馬鹿!」
刹那はその掌を振り払った。
「俺はおまえの顔なんか見たくない。しかも毎日毎日。暑苦しい!」
それは、全身の毛を逆立てて威嚇する猫の怒り。
照れているのでなく、本気で刹那が怒っているのに気付いて、ガデスは大きなショックを受けた。
何をそんなに怒ってるんだ。何が気に入らない。
「出ていけ。もうすぐ少佐が来るんだ。おまえは邪魔だ」
ガデスはすくっと立ち上がった。
「そう嫌われちゃあ仕方ねえな。……あばよ」
これ以上一緒にいても、更に機嫌を損ねるだけ――そう判断したガデスは、さっさと病室から退散した。
そして、ウォンとすれ違う。
「おや」
どういうつもりだ刹那の奴、などと呟きつつ、苦虫を噛みつぶした顔で歩み去っていくガデスを見送りながら、ウォンは微笑む。
「喧嘩するほど仲がいい、という奴ですか……羨ましいことです。少々妬けてしまいますねえ」

ちきしょう。
腹がたって眠れない。
あいつは俺の事が好きなんじゃないのか。
この間までのいじらしさはどこへいった。
しかもなんで、ウォンとばかり会いたがる。
まさか、あの二人、ヨリが戻りかけてるんじゃあるめえな。
刹那は意地っぱりだが、裏表なく優しくされると簡単に相手を信頼し、コロリと落ちてしまうような脆さがある。まして昔の男、嫌いで別れたのでないウォンに親身にされれば、消えかかっていた恋の炎が再び燃え上がる可能性もある。
へっ、それならそれで構うもんか。
刹那なんかのしをつけて、ウォンの野郎へつき返してやる。
「ち」
なんて醜い焼き餅だ、とガデスはベッドの上で寝返りをうった。
悪い方にばかりとるんじゃない。
二度と顔もみたくない、と言われた訳じゃない。
たまたま今日は、あいつの機嫌が悪かっただけなんだ。
俺が病室に行くのを厭がるのはたぶん、弱った自分の姿を見られたくないからだ。ああまでつっけんどんだったのは、ウォンと何か話があって、特別早く追い払いたかったからかもしれない。俺にはきかれたくない話の一つや二つ、刹那にだってあるだろう。
「だらしねえなぁ、この俺様が」
それでも、刹那が自分に甘え、なつく仕草が目蓋を離れない。
どうしても逢いたい。
刹那。
ガデスはムク、と身体を起こした。
もう眠っているだろうが、それでいい。寝顔だけでも見たい。
昼間から横になっていれば、夜眠れずにいるかもしれないし。
そのまま部屋を出ると、ガデスはそっと足音を殺して刹那の病室へ向かった。

「う……うあ……」
薄闇の中、刹那はびっしり寝汗をかいて、ひっきりなしに身体をつっぱらせていた。
悪夢にうなされているのだ。
起こしてやりたい。いや、もし身体の異常があって苦しんでいるのなら医者共を呼ばなけりゃ、と思いつつ、ガデスはベッド脇でなすすべもなく立ち尽くしていた。
だってもし、またおまえか、と憎しみの瞳で射られたら。
だが、こんなに苦しんでいるものを。
そう思った瞬間、伸びた刹那の掌が、ガデスの指先に触れた。
「お!」
瞬間、刹那の見ている夢がガデスに流れ込んできた。
黒いマスクをした数人の男に乱暴されている刹那。
そのやり方は巧妙で実にいやらしく、肌にほとんど傷をつけずに最大限のダメージと屈辱を与えている。周囲にも大勢人がいるが、ただ虚ろな瞳を見交わすばかりで、誰も刹那を助けようとはしない。
刹那は声をあげない。疲れ果てていてろくな抵抗もできない様子だ。うめき声だけは洩らすが、助けて、とは叫ばない。
そんな刹那の視線がチラチラと行くのは、背を丸めている痩せた小さい男だ。その男だけは、刹那の方を見ていない。刹那よりやや薄い金いろの髪の中年の男。薄汚れた服を着て、黙々と鍬で地面に穴を掘っている。変に細長い五角形の穴だ――まるで棺桶のような。
なんて厭な夢だ。
ガデスは思わず刹那の掌を握りしめた。
「あ」
刹那の夢の中に、新たな男が現れた。
俺だ。
刹那を抱えおこし、にっこり笑って、もう心配するな、と囁いている。
「馬鹿、おまえの助けなんかいらない! 一人でやれる!」
そう叫んで、刹那ははっと目を覚ました。
ガデスが自分の掌を握っているのに気付いて、驚いている。
「どうして……?」
「うなされてたから、少しでも落ち着かせようと思っただけだ」
「そうか……」
刹那はもう片方の掌で額をぬぐった。
別に、ガデスの掌をもぎはなそうとはしない。
だが、深いため息を一つついて、
「俺の見てた夢、見たのか?」
「いや」
ガデスは即座に答えたが、刹那は薄く笑った。
「見てなきゃ、そんな瞳で俺を見ないだろ」
「……」
「いいんだ。見ようと思って見たんじゃないんだろ。接触テレパスってのも、便利なようでいて、けっこう嫌なもんだよな」
どう返事をしていいかわからなかった。刹那は続ける。
「昔の事なんて忘れようと思って考えないようにしてるんだが、夢だけはどうしようもないんだ。見たくもないのに、時々親父や故郷の夢を見ちまう。思いだしたくない事ばかり、蘇ってくる」
あの、穴を掘ってたのが刹那の父親らしい。
ガデスが小さく身震いすると、刹那は淡い微笑みのまま、
「哀れまないでくれよな。よくある話なんだ。……お人好しの男がいて、なけなしの土地を騙しとられて、それでも文句も言わないで働いてたんだ。妻には愛想を尽かされ逃げ出され、かつかつで一人息子を育ててた。お人好し親父は、自分の実りがどれだけ絞りとられようと、どんなに不条理ないいがかりをつけられて田畑を取り上げられようと、愚痴は少しもこぼさなかった。だが、それは辛抱強かったからじゃない。戦う意思と力を持たなかったからだ。ちいさなボロ家まで押さえられそうになって、俺はついに戦う事に決めた。田舎弁護士にかけあった、一生懸命法令や判決例を読んで勉強した。無理に押し入ってくる無法者を追い払うために毎日毎晩見回りもした。我流で身体も鍛えた。ろくな武器も集められなかったが、それでも一人で応戦した。なにしろ誰も助けてくれない、気の毒がってもくれない。みな無関心だ。だから、俺一人でやるしかなかった。だが、一人じゃどうにもできなかった。何度も闇打ちされた挙げ句、何もかも奪われた。親父は俺をかばうでもなく、黙って故郷を離れて、遠い村で下働きに使ってもらうことにした。俺は機会をうかがって、何度も家を取り返しにいこうとした。でも無駄だった。余計につけ狙われるだけだった。……そして、俺はやっと全てをあきらめて、しかたなく故郷を離れた。だが、何処へいってもいい事なんかまるでなかった。それから、流れ流れて軍へきたんだ。それが俺の過去のすべてだ」
そうだったのか。
どうして刹那が自分の無力さをあんなに厭がるのか、自分の身体を損なってまで超能力を欲しがるのか、ようやくガデスは理解した。
少しでも過去の悪夢を忘れたいのだ。楽になりたいのだ。孤立無援の状態でも、必ず勝利できる者になりたいのだ。あの屈辱に二度と甘んじたくないと願っているのだ。
きっと毎日、ウォンにかけあっているに違いない。どうしたら力を取り戻せるか、それだけで頭がいっぱいなのに違いない。
「すまなかったな、刹那」
握った掌に想いを込めて、ガデスは詫びる。
刹那は顔を背けた。
「謝るな。ガデスが悪い訳じゃない。俺が勝手に話したことだ」
懸命に堪えているようだが、半分涙声だ。
「……ガデス。掌を離してくれ」
「え」
言われた通り掌を離してやると、刹那はくるりとガデスに背を向けてしまった。押さえつけたような低い声で、
「昼間は悪かった。気がたってたんだ」
「わかってる。無理もねえよ。俺はもう気にしてねえぜ」
「ガデス……」
「ん?」
長い沈黙。
刹那は声を更に低くして、ほとんど呟くように、
「もう、あんまり俺に優しくしないでくれ」
「何故だ」
「優しくされると、辛い」
「辛い?」
「だって俺、二度とサイキッカーになれないんだ。少佐に何度もかけあってみたが、超能力はもう絶対にもてないって言われた。命があるだけ有難いと思いなさいって。俺の身体はガタガタなんだ、これから使える力は普通の男以下になる。……だから、もう、優しくしないでくれ」
ガデスは何を言われているのかわからなかった。
彼は、刹那の本当の願いにまだ気付いていなかったのだ。
「何を言ってんだおまえは。おまえがサイキッカーでなくなった事と俺に、いったいどういう関係がある。俺がおまえに優しくするのは、おまえが好きだからだ。おまえがどんなに弱くなろうと、嫌いになったりしやしねえ。妙な心配をするんじゃねえや」
「そうじゃない」
刹那は顔を覆って、わっと泣きだした。
「だって俺、もう、おまえと行けない……!」
ガデスははっと胸を打たれた。
まえに、《いつかおまえと一緒に行っていいか》と尋ねられた事があった。
あれは、本気で言ってたのか。
刹那は涙を指の間から溢れさせ、しゃくりあげながら言葉を継ぐ。
「おまえと一緒にいられるのは、サイキッカー部隊としての仕事の時だけだ。だから、俺は強くなりたかった。ずっと一緒に仕事をしたかった。ガデスが軍をやめるなら、それについていって、おまえの背中を守りたかった。でももう、おまえと一緒にミッションに出るのは無理だ。しかも俺は実験体だ。軍の機密だ。おまえがここでの仕事を終えて出ていくことになっても、ついていくことはできない。……だから、辛いから、もう優しくしないでくれ」
「刹那」
「厭なんだ。同情されるのも、ただ守られるだけなのも。ガデス、本当は強い女が好きなんだろ。男だって、強い男が好きだろ。だから、俺は、もう……」
ああ、刹那はどんなに強く、この俺を想っていたのか。
「馬鹿」
ガデスは思わず刹那を抱えおこし、ぎゅっと堅く抱きしめた。
「余計な事にばかり気を回しやがって……馬鹿野郎……」
「ガデス……」
刹那は濡れた頬を、ガデスの首筋に押しつけた。
「俺は馬鹿なんだ。軽蔑してくれ。俺、あんなに少佐が好きで、あんなに大騒ぎしたのに、今は、俺、おまえを……」
「刹那」
その瞬間、口唇を奪っていた。涙の味がする。刹那は拒まなかった。滴に濡れた長い睫毛を伏せて、じっと堪えるようにしていたが、ガデスの口吻におずおずと応え始めた。
「ん……」
そっと口唇が離れる。
潤んだ瞳で見上げる刹那を、ガデスは熱く見つめ返す。
「俺が全部なんとかする」
「ガデス」
「いいか、ミッションの時は一緒にいられなくとも、基地に戻ってきたら真っ先におまえの元へ帰ってくる。だから泣くな。俺がこの基地を離れるような事になったら、おまえも一緒に移動させる。除隊になったら、おまえを連れてここを出ていく。軍の機密なんざクソくらえだ、いざとなったらおまえと駈け落ちでもなんでもしてやる。もちろん手は打つ、追っ手のかからないやり方を考えるさ。ウォンと駆け引きの一つもすりゃあ、たぶんなんとかなるだろう。いいか、おまえのためなら、俺は何でもできる。何でもやってやる。だから泣くな。おまえが俺に愛想を尽かして、二度と顔も見たくないと思う日まで、絶対に離れてやらないからな」
〈本当に?〉などと、刹那は念を押したりしなかった。
嘘でもよかった。未来の事なんかどうでもよかった。
刹那はただ感動していた。あのガデスが、こんなに熱烈な愛の告白をしてくれるなんて。自分が先に愛想をつかすことすら考えていないのだ。
「わかったか、刹那?」
「うん」
刹那はガデスの胸に顔を埋めた。
「ガデス……好きだ……」
呟いて、また涙を流し始めた。
今度はガデスも泣くな、とは言わなかった。
刹那を抱き寄せたまま、いつまでもその背を撫でていた。
いつか二人で、本当に一緒に行こうな、との想いを込めて。

(1999.1脱稿/初出・恋人と時限爆弾『つれていって(Take Me With You)』1999.5)

『喜びも悲しみも幾年月』

「あーっ、だから駄目だって言ったろ、ガデス!」
畜舎から出てきたとたん、ガデスは大声で怒鳴られた。
「また乳牛を持ち上げて運んだろ! デリケートな生き物なんだって何度言ったらわかるんだ。おびえて明日、また乳が出なくなるじゃないか!」
秋の夕陽を背に、みつまたの鋤をしょって仁王立ちの刹那。
ガデスはチ、見つかったか、と舌打ちして、
「ああ、ワリィワリィ、今日はあんまり小屋に戻るのがノロいからよ、つい」
苦笑いでごまかそうとする。刹那は眉をつりあげたまま、
「牛は別に足の遅い生き物じゃない。力づくで言うことをきかせようとするからゴネるんだぞ。それに、いくら遅いったって、うちには母牛小牛が一頭ずつしかいないんだから、ちょっとは我慢しろよ。酪農は辛抱が一番大事なんだ、面倒がいやなら、牛なんかやめよう」
「わかってるって。もうしねえよ」
「本当だな?」
刹那にかたく念を押されて、ガデスは大きくうなずいた。
「ああ、大丈夫だ。ところで、おまえの方は、仕事、終わったのか?」
「大体はな。……あ、もう風呂が炊けてるから、ガデス、先に入れよ」
刹那はやっとニッコリ笑った。
すっかり日焼けした頬。キツい農作業でいたんでしまっている淡い金髪。大きなつばの麦藁帽子にチェックのフランネルのシャツ。洗いざらしただぶだぶのオーバーオールを着込んでいるために、モデルか俳優とみまごう見事なあのプロポーションが、すっかり隠れてしまっている。
完全な田舎の農夫。
変われば変わるもんだ――というか、これが刹那の本来の姿なんだろう。地道に自分の土地を耕し、作物を育て、天候や害獣と戦い、確かな実りをとりこんで蓄える者。澄んだ菫いろの瞳に、軍にいた頃の翳りはない。言葉遣いもすっかり丸くなった。身体の方もかなり健康を取り戻していて、笑顔に屈託がない。それを見るたび、ガデスは幸せな気持ちで満たされる。愛しくて抱き寄せたくなる。
俺の、刹那。
「風呂か。おまえはどうするんだ?」
「だから先につかってくれ。俺はまだ、農具の片付けがあるから」
「たまには一緒に入らないか? 背中ぐらい流してやるぜ」
というか、流してみたい。
そして、そのまま刹那と。
刹那はガデスが何を考えているかに気付いて、少しだけ頬を染めた。怒ったように早口で、
「何言ってんだ、あんな狭い処に二人で入れるか。馬鹿言ってないで、早くすませてくれ。早風呂も、百姓の仕事のうちなんだからな」
「ああ、わかったわかった」
ガデスは手を振って、大人しくその場をひきあげた。
まあいい、今日は例の日だ。
風呂で全身、すっかり綺麗にしておこう。
それに、刹那が風呂に入っている間に、アレを用意できるしな。
あいつ、少しは喜ぶかな。
ま、ちょっとぐらい厭な顔をされたっていいさ。俺が今日を大事な日として覚えてたって事だけ、刹那にわかってもらえれば。
頬をわずかに緩ませながら、ガデスは家に戻ってゆく。
二人が二人きりで棲む、小さな小屋へ。

「あ」
風呂をすませて台所へ出てきた刹那は、そこにきちんと整えられた食卓を発見した。
見た目は質素だが、普段豪語しているだけあって、ガデスの料理の腕前はいい。何をつくらせても上手で美味い。男二人が腹を満たすのに充分な量。刹那の身体を考えて調整された栄養バランス。口に出しては言わないが、刹那はいつもガデスに感謝している。有難いと思っている。
「今日は夕飯、早いんだな」
「そうか?」
「うん。ずいぶん手回しがいいじゃないか」
「いや、今日はちょっとな」
ガデスはアルミ製の小さな樽をテーブルの上に置いた。胴の細長いビールグラスを持ち出して、樽の栓をひねる。
「アルコール? だから飯の前に?」
刹那が首を傾げると、ガデスは目でうなずき、二つのグラスに黒褐色の液体を注ぎ始めた。静かにたちのぼるきめ細かな泡。黒ビールだ。
グラスの縁きっかりで泡をとめ、ガデスは樽の栓を閉じる。片方のグラスを刹那に手渡し、もう一つのグラスを手にしたガデスは、軽く縁をあわせて持ち上げる。
「乾杯だ」
「え、あ、うん」
刹那は渡された液体に、そっと口をつけてみる。
甘い。でも不快な甘さではない。黒ビール特有の口あたりの良さとコクが、喉を熱く滑り降りてゆく。ガデスは一気にグラスを干している。刹那は二口目から一気にあおった。
刹那がグラスを置くと、ガデスは少し心配そうな顔で尋ねる。
「美味いか?」
「美味い。けど、こんなの飲んだ事ない。ハーフ&ハーフでもないし、カクテルでもないよな。なんだか不思議な味がする」
「ああ。俺のオリジナルだからな」
「え、ガデスがこれを?」
ガデスはニッ、といつもの笑みをほほえんでみせ、
「行った土地にあわせて酒をつくるのも兵隊の楽しみの一つだ、ビールぐらいなんて事はねえ。材料さえ揃えば、一ヶ月も寝かせりゃそこそこのもんが出来る。ただ、これはおまえの好みにあわせてと思ってな、アルコールの度数を高く、味も特別甘くしてある……ってえか、これが、俺が思うおまえなんだ。ぱっと見は普通だが、口にすると甘い上に強烈で、したたか酔わされちまう……」
言いながら、ガデスは薄く頬を染めた。俺はなんて気障な台詞を口走ってんだ、余計な事をほざいてねえで、一番大事な事を早く言わなけりゃ。
ガデスは刹那にじっと見つめられて、さらに照れて目を伏せた。
「そのよ、おめえとここで暮しはじめて、今日でちょうど三年目だろう。それで、記念日らしい事を何かしてみたくてな。俺は壊す方は得意だが、おめえみたいにいろいろコツコツ育てるのはあんまりうまかねえ。つくれるのはせいぜい酒ぐらいだ。だから、まあその、何だ……」
「覚えてたんだ、ガデス、今日のこと」
「当たり前だ、忘れちゃいねえ。一年目と二年目だって忘れてた訳じゃねえ、祝うどころじゃなかっただけの話だ」
「ガデス」
酔ったようにぽうっと潤む刹那の瞳。
いや、いま口にしたものと、ガデスの台詞に、彼はすっかり酔わされていた。
「俺も、忘れてなかった……」
二人の顔が、いつしかそっと近づいて。

軍を抜けるのは思ったより簡単だった。ウォンが刹那の願いをいれて、かなりの便宜を計ってくれたからだ。超能力を完全に失った刹那は実験体としての価値がありませんから、と言い、手術の予後が悪くて死亡、死体は秘密保持のため焼却処分、という風に、表向きの処理をつくろってくれたからだ。
「いいですか、刹那の面倒をちゃんと見て下さい。それから、くれぐれも人目にたたない場所で、ひっそり暮らして下さいね」
「わかってる」
かつての恋仇に駈け落ちを助けられるだけでも妙な話だというのに、何度も無駄な念を押されて、ガデスはうんざりした顔をした。
「刹那は俺のもんだ。言われなくたってうんと大事にするさ」
「ガデス」
ウォンは眼鏡を押し上げ、さらに疑い深い声で、
「辛抱ができますか? 刹那と二人きり、田舎にひきこもってじっとしていることが、本当にできますか? あなたのような人が、そんなつつましさに満足できるのですか? 単調な暮しに我慢できますか?」
「やってみるさ。少なくとも、少佐殿よりは辛抱できるだろうよ」
「わかりました。あなたを信用して、刹那を託しますからね」
ガデスは除隊届けを出し、それなりの年金を受け取って軍を離れた。表向きは一人だったが、彼が運びだした大荷物の中には、刹那が息をひそめていた。
二人は南部の片田舎に落ち着き、あるだけのもので生活しはじめた。
幸せな暮しがスタートする筈だった。
しかし刹那は、よく体調を崩した。軍で実験のために投与された薬剤の中には一種の麻薬も多く、刹那はその禁断症状に苦しんだ。一年目の刹那はほとんど病人で、暮しはじめて一年の記念日どころではない、その日は地元の小さな診療所で、下がらない熱と格闘していた。
二年目の刹那は少しずつ健康を取り戻してきて、小さな土地を耕す事を始めた。ガデスは乳牛を買って、なれない酪農を始めた。刹那にはあくまで百姓の意地があり、畑でできる範囲のことは、絶対ガデスにさせようとしなかったからだ。完全に復調していなかった刹那は、二年の記念日も倒れていた。収穫期の過労のせいだ。涙をのんで悔しがる刹那をなだめて、ガデスが続きを収穫した。
そして、今年は。
刹那は後遺症に悩まされる日もほとんどなくなり、畑仕事に精を出しても倒れなくなった。ミルクを卸して帰ってくるガデスを、毎日笑顔で迎えてくれるようになった。
多少ゆとりが出てくれば、ロマンティックな方向へ思考も向く。
それで、少しでも刹那を喜ばせようと、暮し始めた記念日にあわせて、わざわざ手間のかかるものをつくってみたのだが。

「ん」
口唇をそっと吸われて、刹那は切なげな吐息を洩らす。
「ガデス……」
ガデスの瞳も潤み出している。刹那の頬にあてた掌を首筋に滑らせながら、
「んーぅ、たまんねえなぁ。本当に甘いぜ、おまえの口唇」
「馬鹿、そんな……」
ガデスはその先を言わせない。尖らせた舌で刹那の口唇を割り、下の口にするように入れたり出したりする。驚いた刹那の舌が逃げようとすると、追いかけて巻き込んで嘗め回す。そのうち刹那の方も、自分からガデスの舌に絡みついてゆく。
濃厚なキス。
まだ何も脱いでいないのに、すでに一糸まとわぬ姿で抱きあっている気がする。
口唇がやっと離れると、ガデスが低く囁いた。
「メシの前に、おまえを食べたい」
「あ」
刹那の瞳が、困ったように宙をさまよう。
「どうした? 厭なのか?」
「そうじゃない」
刹那は小さく呟くように、
「本当は、夕食の後にしようと思ってたんだ……」
「何をだ?」
「ガデスに見せたいものがある」
そう言って、先にたって歩き出した。

寝室に入って、ガデスは驚いた。
昨日まであった二つのベッドが片付けられて、ダブルベッドが入れられている。
「どうしたんだ、これは? いつの間にここに?」
今朝まではなかったのだ、昼間彼が出かけている間に、用意されたに違いないのだ。
だが、まるで魔法のようだ。
刹那は頬を染めたまま、
「子供の頃、俺、干し草でベッドをつくって寝てたんだ。それで、今度は大人が寝られるものをつくってみようと思って……そんなに簡単に駄目にならないし、なったらなったで干し草を取り替えればいいだけだし……ガデスの留守中に少しずつ木枠をつくっておいて、干し草の方もブロックにして溜めておいて……全部一人でやったのは、びっくりさせようと思って……そろそろ二人で眠ってもいいよなって思って、でも、今のベッドじゃ狭いし、くっつけてみても、その、上で暴れると危ないから……」
ガデスは上着を脱ぎ捨てた。
ベッドに歩み寄り、そっと腰を降ろしてみる。
確かに、夏の日差しを吸い込んだ、乾いた草の香りがする。
素朴だが、頑丈さを備えた木枠の中に、ぎっしりとつまっている弾力がある。
刹那もやっとベッドに近づいてきた。
「どんな感じだ? その、座り心地とか、悪くない、よな……?」
「ああ、もちろんだ」
ガデスは恋人を見上げ、その手をひいて胸の中にさらい込んだ。
「せっかくおまえがしつらえてくれたベッドだ。少々もったいねえ気もするが、早速ここでしようぜ」

並んでベッドに横たわり、互いの舌を味わって、その感触に溺れる二人。
口唇が離れると、刹那が大きく喘いだ。
「もう、駄目……」
「何が駄目なんだ」
「とろけちゃう、から……キスだけで、こんな……駄目……」
さっきより優しい口吻なのだが、かえってそれが刹那の情緒をそそるらしい。もうほとんど服も取り去っているので、刹那の肌が全身上気しているのがわかる。
惚れた相手が腕の中でとろけているのを見る瞬間。男冥利に尽きるというものだ。ガデスは刹那の耳元に口づけて、熱い吐息と共に囁く。
「トロトロになっていいんだぜ。誰もきいちゃいねえんだ、俺しかおまえを見てねえ。安心して、何度でも良くなればいい」
刹那は小さく首を振った。
「違う、ガデスに見られてるから……恥ずかしい……んだ」
「馬鹿だな、惚れた相手となら、恥ずかしいのはだんだん良くなってくもんだぜ」
「でも俺、やっぱり恥ずかしい……ガデスの事、好きになればなるほど恥ずかしくて、どうにかなっちゃいそうだ……」
好きになればなるほど、か。
可愛いこと言いやがって。
ガデスは恋人の髪を撫で、優しい瞳で見つめながら、
「純情なんだな、刹那は」
「純情なのは、ガデスだって……そうだよ……」
刹那は淡く微笑んだ。何もかも知り尽くした女のような微笑みで。
ガデスは刹那をそっと抱き込んで、
「純情? 俺がか」
「うん」
そうかもしれない。おまえにすっかり夢中になって、挙げ句の果てに、こんな田舎に流れて来ちまったんだからな。おまえの面倒を見るだけじゃない、なれない牛の世話なんぞして、その乳を売ってチマチマ稼ぐような真似を、この俺様がするようになるとはな。確かに俺の方が、おまえなんかよりよっぽど純情なのかもしれねえ。
「よし。なら、もっと恥ずかしくさせてやる」
「あん」
年を重ね、さらに豊かな丸みを帯びてきた身体に、ガデスは舌を這わせる。逞しい腕で抱え込み、刹那の中心に顔を近づける。そして周辺から丹念に丹念に、指と舌の両方で愛撫をくわえてゆく。
もうたまらないらしく、刹那は口唇を噛みしめて必死で堪えている。
最初は指だけで達かせてやるか、と濡らした指を蕾に押しあてると、刹那の反応がふと変わった。
「痛……」
蕾が堅く閉じて、ガデスの指を拒む。
「焦らすなオイ、まだ一本だけなんだぜ」
「だって」
媚態でなく、刹那が本当に困っているのに気付いて、ガデスははっとした。考えてみれば本当に久しぶりなのだ。この三年の間、刹那は体調の良くない日の方が多かったのだ。抱き合って眠ることは何度もあっても、本格的に愛しあった事は数えるほどしかない。だから、この反応は当たり前なのだ。
「まあ、たまには焦らされるのもいいか。なんだか処女をやってるみてえだしな」
「馬鹿!」
だが、怒鳴った次の瞬間、刹那はふっとしおれて、
「もしかして、ガデスも、そういうのがいいのか? 俺みたいのじゃなくて、若い女の方が……」
「そういう訳じゃねえ」
ガデスは硬くした自分のものを刹那の蕾に押し当てて、
「知らねえそこらの小娘なんかより、おまえが俺ので乱れる方が、ずっといい……そそるぜ、その困った顔」
「や……」
刹那は息をのんだ。そんなに急には受け入れられない。
ガデスは腰を引いた。刹那の足を押し開いたまま、甘く囁く。
「まだ入れねえよ。その前に、ゆっくり、ほぐしてやるからな」

「まだ、動かないで……」
ぴったりと重なり、絡みあった身体。
刹那は目を閉じ、深くくわえこんだガデスの感触をじっと味わっている。
充分ほぐされた後なので、もう、あまり痛みは感じない。入り込んだものが内臓を押し上げているのか、喉元までかすかな圧迫感が這い上がってくるものの、彼自身のものもかなり熱くなっていて、解放の瞬間を今か今かと待ちこがれている。
それに気付いたガデスは、ほんの少し腰を揺らした。
「あん」
「おい、あんまり堪えて出さないのも身体によくないんだぜ」
わかってる。
ガデスにこれ以上我慢させちゃいけないし、自分もそろそろ達った方がいいんだと。
でも。
もう少し、だけ。
「動かさないと、ガデス、醒めちゃうか?」
「そう思うか?」
軽く一突き。その熱さ。
「あ!」
「もう動かさねえよ。それより、先におまえを達かせてやる」
ガデスの太い指が、刹那の中心に絡みつく。
「や、あ……」
巧みにしごきあげられ、刹那は全身を痙攣させた。
「駄目、駄目、駄目ぇっ……!」
刹那が解放を迎えた瞬間、きつく締め付けられたガデスも、刹那の中を思わず濡らしていた。同時に達して、ガクンとベッドへ崩れ落ちた。
抱きあったまま、息が鎮まるのを待つ。
「まだ、痛いか刹那?」
「もう、平気」
刹那はすっかり安らいだ表情で、ガデスを見上げた。
「でも、お腹すいた。ガデスのごはんが食べたい。暖め直して食べよう」
子供のような無邪気さ。ガデスは苦笑するしかなかった。
「こんな時に色気のねえことを言う奴だな。おまえのミルクが飲みたい、とかなんとか言えよ」
「飲みたいよ」
「え」
ガデスは耳を疑った。刹那は目を伏せ、それから上目づかいにガデスを見上げて、
「ガデスの、飲みたい。だから、ごはん食べたら、その後……たっぷり……」
耳まで赤くしながら、そんな事を言う。
本気なのか。
今晩、この続きをしようというのか。
だが。
「大丈夫なのか、おまえ。あんなに痛がってたのに」
刹那は小さくうなずいて、
「二度目なら、たぶん。力の抜きぐあい、思いだしてきたから。その、今だって平気だし」
「そんなこと抜かすと、今夜は寝かさねえぞ」
「いいよ、たまには。ゆっくり朝寝する日が、一日ぐらいあっても」
「そんな事言って、どうせおまえは一人だけ早起きするんだろう?」
百姓の習性で、夜明け前に刹那は目覚める。今のところ、ままごとのような百姓生活なので、特に仕事のない日もあるのだが、それでも気になること、確かめたい事があるらしく、刹那は毎朝部屋を出て行く。こちらも起きないではいられない。
だが、刹那はガデスの首に腕を回し、
「しても、ちゃんとベッドに戻ってくるよ。ガデスと一緒に起きたいから。だからこれ、つくったんだから。これから毎日そうしたいんだ。この三年間、ガデスはずっと俺を守ってくれたんだから、少なくとも俺も三年、ガデスが起きるのぐらい見守らなきゃ……三年どころじゃなくて、できれば、ずっと……」
「刹那」
ガデスは目頭が熱くなるのを感じた。
俺の刹那。俺の大事な刹那。
「なあ、メシの前に、もう一度だけ、な……」
熱い口吻。

天窓には星。
深く静かな宵闇が、いつまでも恋人達を包む――。

(1999.1脱稿/初出・恋人と時限爆弾『つれていって(Take Me With You)』1999.5)

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All stories written by Narihara Akira
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