『それでもなお』

夜も更けて、ちょうどその時、司令センターには他に人間がいなかった。
それでも八雲総一は、神名綾人と二人きりだということを意識していなかった。神名大尉はいまやすっかり八雲TERRA総司令の右腕であり、年下ながら信頼のおける友人だった。
だから、報告が終わって清潔な笑顔が近づいてきた時も、何も警戒していなかった。
「八雲司令」
「なんだい?」
「無理に忘れようとしなくても、いいと思いますよ」
「綾人くん」
普段の総一なら、子どもっぽい瞳をさらに丸くして「なんの話かな」ととぼけてみせるところだが、そう囁かれた瞬間、つい顔色を変えてしまった。
何故なら朝方、功刀仁に抱きしめられる夢を見ていたからだ。
今日に限らない、ここのところ連続なのだ。
総一の功刀への気持ちはなにより敬愛だった。混乱や不安だけでない、あの寛やかな胸に情欲まで受けとめてもらえるとは思ってもいなかった。それは功刀の慈愛であることは間違いなく、だからあの夜はこの上なく幸せだった。
一度でも満たされたのだから、余計な感情は昇華されたと思っていた。キムの純粋さは嫌いではない、初めての子どもも可愛い。功刀司令の遺志を継ぎ、世界の安定に力を注ぐことで、自分の過ちもそそがれるだろうと思って、今まで頑張ってきたのだ。
それなのに。
総一の気をしってかしらずか、綾人は例のノンビリした声で、
「そろそろ功刀さんの三回忌ですよね。モニュメントなんか建てなくてもいいと思いますけど、八雲さんが追悼するのはいいんじゃないかなって。盛大にやるのが嫌だったら、ささやかな会でも構わないと思いますけど、みんな、功刀さんを慕ってたわけですし」
総一はようやく、いつものポーカーフェイスを取り戻した。声も軽く、
「そうだね。考えておくよ」
三回忌か。
そうか。功刀さん、僕を心配して夢枕に立ってくれているんだ。
頼りない僕を少しでも励まそうとして。
でも、それなら抱きしめなくてもいいのに。
思い出してしまう。どうしたって。
夢の中の功刀さんは優しくて、「いい子だ」と囁きながら髪を撫でてくれる。くちづけだけでたまらなくて、いっそこの身をむさぼってくれたらとさえ思う。泣きながら目覚めて、そっとバスルームへ逃げ込む羽目になる。キムに説明できない。知られたくない。それは彼女に対する裏切りだからではない。大切な思い出を少しでも傷つけられたくないからだ。誰も知らない秘密の夜を。
「あのう」
まだ綾人はその場を去ろうとしない。いいかげんうるさいと追っ払うべきだと思いながら、総一は先をうながした。
「次はなんだい」
「いえ、個人的な追悼の方がよければ、僕、つきあいますけど」
総一は思わず綾人をじっと見つめた。
何を、知ってる。
勘の鋭い青年だ。気付いたのかもしれない。いったい何があったのか。僕は功刀さんへの感情を隠しきれなかった。そして、神名綾人を無防備に自分に近づけすぎた。
総一は苦笑してみせた。冗談めかして、
「ボクは弱虫なんだ。君の胸で泣くわけにはいかないからね」
「キムの前じゃ、もっと難しいでしょう?」
やはり、知っているのか。
だが、知られているのなら開き直ってしまえばいい。
総一は声の調子をさらにあげて、
「嫌だなあ、それじゃ誘ってるみたいだよ?」
「誘ってるんですけど」
「アッハハ」
あれだけ周囲の女たちの目の色を変えさせておいて、そんな冗談も言うんだ。
「綾人くん、天然ボケもさ、度が過ぎると罪だよ」
「もちろん、僕が功刀さんの替わりにれるなんて思ってないし、替わりになるつもりもないですけど」
綾人は視線をそらさない。しごく真面目な顔で、
「功刀さんって発音するたび、苦しそうな顔するぐらいなら、忘れてるふりなんかしないで、僕に思い出話の一つもしてくれればいいのになあって思ってたんです」
総一の頬は、ふっと緩んだ。
そうだった、神名綾人は八方美人だった。誰にでも親切で、誰にでも愛想を言うのだ。これぐらいの好意は、裏表なく申し出る。ただそれだけのことだ。
「むしろ八雲さんには、功刀さんのこと、忘れないでいて欲しいし」
「あのね、綾人くん」
総一は目を伏せながら、
「口にすると消えてしまうものがあるんだ。本当にあったことと、変わってしまうものが。だから、思い出話はちょっとできないな」
「そういうもの、なのかなあ」
「ボクの場合はね」
綾人はこころもち肩をおとして、
「うーん、そうですね。大切な思い出だったら、そう簡単には人に話せないか」
「そうだよ」
総一は司令の椅子から立ち上がった。
「もう帰るよ。綾人くんも疲れたろう。そろそろあがって」
「八雲さん」
突然きゅっと抱きしめられて、総一は硬直した。
綾人はあれから成長して、今では総一より背が高いくらいになっている。
すれちがった頬が動いた。
「また、宿泊室で寝るつもりなんでしょう。無理しすぎです」
「そんなことないよ」
「泣きたい時は、ちょっとでも涙を流した方が楽になります」
「綾人くん!」
「泣くまで、離さない」
綾人にそう囁かれた瞬間、背筋を一種の情感が走り抜けたが、総一はあくまで冷静に、
「そんな怖いことも言うんだ。遙さん、気が気じゃないね」
「僕は、八雲さんの友だちじゃないんですか?」
はぐらかしているのか、本気でいっているのか、探っているのかわからない。
総一は混乱を隠せず、綾人をつきはなした。
綾人は心底困った顔で、
「八雲さん、ひとりの時も泣けないんじゃないかって、ずっと心配で……僕の胸で泣いてくれたらと思うのは、おかしなことですか」
「おかしいよ」
そう返事をしながら、総一は自分の膝から力が抜けていくのがわかった。
そうだ。
僕はひとりぼっちなんだ。
最初からひとりだったけど、今もまた、ひとりなんだ。
誰もわかってくれない。わかってもらいたくもない。
功刀さん。
ひどいな。孤独の味まで教えていかなくても、いいのに。
「嫌だなあ。本当に帰れなくなっちゃったよ……」
後から後からあふれ出すもので、視界はすっかり曇った。
誰かの掌が髪を撫でてくれているのを感じていた。何か囁いているのも。

それでも総一の胸を占めているのは、削げた頬に浮かぶ寂しげな微笑みだけ――。

(2004.7脱稿)

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Written by Narihara Akira
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