『爪 痕』

「お帰りなさい。はやかったですね」
その日、先にベッドで待っていたのはウォンだった。
一瞬眉を寄せたキースに、のんきな声をかけてくる。
「さて、食事にします? お風呂にしましょうか。それとも、わ・た・し?」
微笑みかけるウォンに、キースは一言ぶっきら棒に、
「君にしよう」

「ああ……」
ため息とともに、満足そうにベッドへ身体を投げ出すキース。ウォンは含み笑いをしながら身を起こし、
「今度はお腹の方も満たしませんか」
「何か用意してあるのか」
「ちょっと飲みたい気分だったので、旬は過ぎていますがエビのカクテルなど。キャビアのカナッペもありますよ。肉やチーズの方がご所望でしたら、それもありますが」
「僕の部屋の冷蔵庫は、そんなに入るものだったかな」
「よろしければお持ちします」
「ベッドで裸では行儀が悪い」
「それはそれで、味わいのあるものですけれどね」
言いながら照明を明るくし、髪をゆるく結い上げたウォンの背を見上げ、ふっとキースは眉を寄せた。
肩胛骨のちょうど真ん中あたりに、爪でひっかいたような痕がついている。自分でつけられる場所ではないから、さっきキースが夢中になってしがみついた時のものだろう。枕元の薬箱をとっさにさぐりながら、
「ごめん、ウォン」
「はい?」
「こんなところに傷が……」
キースが指を伸ばし、薬を恋人の背にすりこもうとした瞬間。
「まだ痕が?」
反射的にそう呟いた、ウォンの頬が引き締まる。
キースもはっと身をひいた。
ウォンが、心を閉ざしている。
内心を覗かれぬよう完全に閉ざしている。
こじあけようとすれば相手の精神を破壊しかねないほどの、鉄壁防御。
キースの瞳に白い炎が燃え上がった。
「今すぐ君の部屋へ帰れ」
「わかりました」
するりとガウンを羽織ったウォンは、次の瞬間、フシュンとかき消えた。
ひとり残されて、キースは憮然と呟いた。
「なぜ、言い訳のひとつもしていかない……」
その呟きをウォンは知らず、おそらく聞こえても意味を知らず。

★ ★ ★

「浮気している、と思われたでしょうかねえ」
いっそその方がいいが、という呟きをウォンはのみこむ。誤解されたままの方が、こっそり後始末ができていいのは事実だが。
とっさに心を閉じてキースに知られないようにしたが、背中の傷は浮気相手につけられたのではない。昨日、影高野の残党に不意打ちされた時のものだ。気をつけてすべて消したはずなので、まだ残っているということは呪術性のものなのだろう。身体の内側から傷が再生し始めているのだ。
ガウン姿のまま、ウォンはパソコンの上で掌を踊らせる。
「こういう類のものは、呪者そのものを倒す以外に消す方法はない、か」
仕方がない、もう一度探し出して自らの手で倒さねばなるまい。
これは恥ずべきことだ、油断大敵としかいいようがない。力の強い者、サイキッカーに強い恨みを持つものはすべて排除したので、栞をかつぐ連中をあなどっていた。時がたてば、力をつけてくるものがいるのを忘れていた。
しかし。
王たるもの、自ら動くことこそ恥と知れ、とも彼は思う。
この理想郷には人手が足りなすぎるのだ。おかげでせっかくの新婚ゴッコが台無しだ。愛する人とのひとときすらままならぬとは、なんともどかしいことか。
「キース様」
さっき抱いてきたばかりなのに、もう寂しい。
後で事情を話せば許してもらえるだろうとは思うものの、それまで何日かかることか。
だいたい浮気を疑われても自業自得なのだ、身も心も清らかでない。
たとえば昔飼っていた猫が恋しい日がある。
おいで、と呼べばすりよってくる、金の巻き毛の猫だった。時に無遠慮に膝にのってくる。しかたなし白い肌を愛撫してやるとたまらない呻きをあげ、菫色の瞳を潤ませて更に可愛く甘えてくる。
もう人にやってしまったが、あれは惜しかったと思いかえす時もあるのだ。
そんなこともあの人はみすかしていて、棘ある台詞を投げつけられたりするのだけれど。
今すぐ戻って謝って、ぎゅうっと抱きしめようか。
「でも」
きっとまだ、とても怒っていることだろう。
そう、せめてケリをつけてから。
薄暗闇の中、ウォンの掌は踊り続けて。

★ ★ ★

「ん……あ」
シーツを替えるのを忘れて眠ってしまったことにキースは気付いた。というか、かえることひとつが面倒くさい。ウォンがいれば察してやってくれるのに、などと怠け心までもたげてくる。
起きなければならない時間までまだ間があるので、キースは再び身体を丸めた。
朝ということもあり、性器が熱をもっている。
「ウォン……」
ここをウォンにしゃぶって欲しい。
あの口唇と指で、前も後ろもしてほしい。
うんと淫らな音をたてて、かきまわして欲しい。
ウォンにそう囁きたい。困らせたい。夢中にさせたい。
人肌が傍らにいることに慣れてしまうと、一夜の不在も耐えがたくて。

ウォンが謝ってくるのを、キースは待っていた。
何か誤解しているようだが、浮気など疑ってはいない。
何故怒ったのかもたぶん理解していないだろう。
「つまらんことを内緒にするからだ」
おそらく誰かに襲われたのだろう、そして死角の傷を消し忘れたのだ。
だが。
反射的に隔てをおいたにしろ、秘密主義にもほどがある。
毎日こんなに身も心も寄せあっているのに、まだ僕を信用していないのだ。
「もしくはそんなに愚かな男と思っているかだ」
ウォンがどんなに苦労しているか、キースはよく知っている。
サイキッカー狩りは、いまだ終わる気配をみせない。
いま、世界のパワーバランスは最悪だ。
人種の坩堝と呼ばれつつ、いやな団結力と力をもつアメリカという国。それに対抗して立ち上がったヨーロッパ勢も、脆弱な上に寄せ集め組に違いない。このバランスの悪さ自体が世界を滅ぼしかねず、なぜ人が新たに兵器になりうるものに目をつけたかといえばそのせいだった。そしてサイキッカーが理想郷をこしらえようとも、これも寄せ集め集団には違いなく、ひとつの目的に対してまとまることはない。
希望はもちろんなくもない。世界各国に根を下ろし、それぞれの民族から恨みを買わぬよう上手に商売を続ける中華系の絆がある。この世の覇者たらんウォンが、表面上とはいえ、未だ長老たちのご機嫌とりに腐心しているのはそのためだ。
好きでやっているのだと思うこともできるが、正直申し訳ない時もある。私のためにあのプライドの高い男が、と思うと、そうまでするなと抱きしめてやりたい時がある。
こんなに愛しているということを、どうやって伝えたらいい。
リチャード・ウォン。

「戻りました」
翌々日の夜。
キースの私室をノックしたウォンは、かすかに血の匂いをさせていた。
「お話したいことがあるので、入れていただけますか」
「わかった。入れ」
キースは傍らの椅子に身を沈めると、居丈高にウォンに命令した。
「その場にひざまずけ」
ウォンは一瞬身を強ばらせたが、キースの前に身を屈めた。
キースはウォンの頭へ掌を伸ばすと、それを自分の膝の上へ引き寄せた。
「甘えて、いいぞ」
ウォンはそっと、キースの腿へ顔を埋める。
「キース様、私は……」
「わかっている。君の玉肌に傷をつけた相手を、倒してきたんだろう」
ウォンの頭を撫でながら、キースは優しい声を出した。
「季節はずれなのはわかっているが、君の好きなエビのカクテルを用意しておいた。ただ、モルトウィスキーしかないから、別のつまみがよければそうしよう」
ウォンは顔を上げた。瞳を淡く潤ませながら、
「なにより貴方が……欲しいです」

「痛むか」
ウォンの背中に傷薬をすりこみながら、キースは囁く。
「気持ちいいです」
冷たい塗り薬が、キースの指の感触が心地よく、ウォンはうっとりと答えた。
「気持ちがいいことはないだろう」
「だってそれは、貴方がつけてくださった痕ですから」
「つけるつもりじゃなかったんだが」
感極まってウォンの背中にきつく爪をたててしまった。最中に相手を噛む者もいるというから、その程度のことどうということもないかもしれないが、そこまでキースが夢中になるのは滅多にないことなので、ウォンは嬉しいしキースは恥ずかしい。
「明日もこの部屋で、眠ってもいいのでしょうか」
「大切な話がまだ終わっていないぞ」
「なんです?」
「何故君が、僕の前でぴしゃりと扉を閉じるような真似をするかについてだ」
「キース様」
ウォンは真顔になった。
やっと謝罪が始まるかとキースも真顔になると、ウォンはその頬に手触れて、
「自覚してらっしゃるかわかりませんが、先日私がこのベッドで貴方を先に待っていた時、一瞬嫌な顔をなさいましたよ」
あ、と声をあげるキースに、ウォンは顔を近づけた。
「誰にでも、無意識に踏み込まれたくない領域があるのです。このベッドだって、二人で使っていようとも、やはり貴方のものなのです。もちろん私の心は貴方のものですが、それでも反射的にかばってしまう時があることは、許していただけませんか」
その眼差しの強さに、キースは目を伏せた。
「それより、もっと自分をかばうんだな。君の背中に爪痕をつけていいのは、僕だけじゃないのか」
ウォンはその目蓋に静かに口唇を押して、囁いた。
「……もちろん」

(2004.2脱稿)

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Written by Narihara Akira
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