『桜』

ウォンが、あわい桜色の爪先を口に含んだ。
「あ、や、そんなとこ」
「大丈夫、さっき綺麗にしたでしょう?」
「でも……あ」
秘所を含んだ時とは違う喘ぎで、ウォンはひどくそそられた。
さっき身体を洗った時、爪先をぎゅっと握りしめたらビクン、と震えたので、それで今晩の愛撫に加えてみたのだが。
「全身性感帯ですね。とっても敏感」
「君が触ってるからだ」
「ふふ」
ウォンはひどく嬉しそうに、
「お厭でないのなら、もう少し丁寧に」
「う、ん」
素直な甘い声。熱い敏感な身体。可愛らしい恥じらい。
興奮よりも幸福感に包まれて、ウォンはキースを抱きしめる。
キースはキースで、安心したようにウォンの胸で目を閉じている。
穏やかな愛の時間。
ゆっくり。二人のリズムをあわせて。ゆるやかに。身も心もひとつに。
「もう、だめ……」
かすれ声にうながされ、ウォンは絶頂へ恋人を誘う。
そしてキースが一度、二度、と身体を痙攣させると、もう一度バスルームへ飛んで。

再び清潔なベッドの上で。
「どうぞ」
ウォンに渡された乳白色の暖かな液体に何も考えず口をつけて、キースははっとした。
「いたれりつくせりだな」
「え?」
自分の具合の悪さにキースは気付いた。身体が熱いのは余韻じゃない。風邪でもひきかけているのだ。ウォンはそれに先に気付いたのだ。なぜならウォンが手渡したのは、安眠のまじない、子供用の紅茶だった。本来的なアメリカのケンブリック・ティーなら、紅茶をたっぷりの湯で割ってからミルクを入れるのだが、濃くいれた紅茶と砂糖をミルクに落としてあるようだ。キース向けにアレンジしたのだろう。
「僕のこととなると、そんなに敏感か」
「だって、貴方の身体をもっと楽しみたいんです。元気になってもらわないと」
キースの頬がぽうっ、と染まる。それはむろん熱ではなく。
「僕も……乱れ狂わせて欲しい、けど」
「どうしたんです、そんなに頬を赤くして。いいのに、欲しがっても」
「自分がいやらしいことばかり考えてる気がして」
「私のことを、でしょう?」
カッとなって背けられる頬にウォンは掌をあて、
「私だって、貴方のことばかり考えてしまいます。お嫌ですか?」
「それでも、君には君の世界があるはずだ」
「そうですね。でも、Omnia vincit amor.――愛はすべてを征服する、といいますよ」
「そのラテン語、使い方がおかしいぞ」
そう言いながら、寄り添ってくるキースを抱きしめて。
眠るまで、そっと静かに呼吸をあわせて。

よしよし、と髪を撫でながらウォンは思う。
可愛らしい、可愛らしいキース・エヴァンズ。
だけれど。
本当に可愛らしいのは、私の方だ。
実は、今晩は自分が甘えたかった。
別にそう口走っても構わないはずだったが、もしそれでちょっとでも不快な顔をされたり、大いに喜ばれてよしよしとされるのも、厭なのだったりする。
なぜなら今のキースなら、その気になれば人差し指の一本でウォンを狂乱へ導くことができる。その第一関節を破壊しそうな勢いで締め付けてしまうことさえある。
そう、今はそこまでされたいのではない。
出先でもあり、キースの不調に気付いたのもあって、保護者ぶりを徹底したが。
ただ、優しく抱きしめられたかった。
「まあそれは、別の機会で構わないのですがね……」
そしてウォンも、清潔なぬくもりの中で目を閉じて。

★ ★ ★

「桜をご覧になったことはありますか、キース様」
「桜か。そうだな。アメリカでは特によく見た」
「そうですか」
二人は日本に来ていた。時は四月。首都周辺では桜が満開の季節である。
「ちょっと、観にいってみませんか」
「もう夜だぞ」
「夜桜というのは風情があるものだそうですよ」
「もしかして、君はあまり見たことがないのか」
「香港にはないものですからね、桜は」
「そうなのか」
キースは立ち上がる。
「君がそんなに見たいなら、行くか」

日本にサイキッカーの拠点を密かにこしらえることが計画されている。すぐそばに香港があるのだから、それで構わないようなものだが、密教系の能力者の存在が千年以上の歴史を誇り、今なおその術を磨いている国だ。影高野こそ潰したが、その反動で、第二第三のサイキック狩りなどされてはかなわない。それで今回、新しい足がかりをつけにウォンが動いたのに、キースが興味をもってついて来た。
だが、思ったより日本は寒く。
二人は暖かな格好をして夜の散歩へ出た。
ウォンがふと、公園らしいところへスウッと入っていく。
「ここは都下で有数の、桜の名所だそうですよ」
「ふうん」
なるほど、ライトに照らされてぼうっと白く浮かび上がる桜が重なり合う姿には、幻想的な味わいがある。
不思議に静かだ。
「名所のわりに、見物人がいないな」
「周辺住民の安眠を妨げるので、午後十時以降は、花見の客は立ち入り禁止なのだそうです」
「それでも不埒者が入り込むのが常だろう、こういう場所は」
「私達のようにね」
ウォンはニッコリと微笑んで、
「邪魔が入るのが厭なので、簡単な結界をそちこちにはってみました。私達だけの貸し切りと思って下さい」
「なるほど」
風ではらはらと舞う白い花びらの中を、二人は歩く。公園の中央には大きな池があり、その周りを這う小道も、ところどころ控えめに照らされている。
電車の走る音がする。近所のレストランが洗い物をしている音がする。しかし歩き続けているうちに、すべての物音は幾重にも重なる木々の中へ吸い込まれていった。二人の足音ですら。
「ボートに乗ると、もっと間近でみられますよ」
「乗りたいのか」
「ええ」
ボート小屋がある。
そのゲートをくぐると、なにやら怪しいボートが一つだけある。
「なんだあれは」
「鳳凰をかたどったのではないですか。アジア人らしい趣味ですねえ」
そんな、馬鹿な。
キースは喉元まで出かかった言葉をようやく飲み込んだ。
鳥類らしい長い首と羽をもち、華やかな緋と金のペイントをほどこされた二人乗りボートは、どう見てもウォンの趣味としか思われず。
どうやって運んできたのか知らないが、こんなものまで用意して、しかもとぼけて乗りたがるとは、なんと子どもっぽい男なのか、と思いながら、キースはそのボートへ近寄った。
「これは足で漕ぐものだな。君にまかせる」
「二人で一緒に漕がないと、ぐるぐると回ってしまいますよ」
「そんなこともあるまい。シャフトは連動しているぞ」
「そうですか」
残念そうに言うので、キースはすっかりおかしくなって、
「おいで、ウォン。ほら、一緒がいいんだろう?」
先に乗り込んで手招く。
うなずくと、もやい綱をほどいてウォンも乗り込む。
水面にさざ波が広がり、ボートが暗い水をかく音だけが響く。
池の脇に植えられた桜は、その枝をほとんど水につけんばかりに伸ばしていて、落ちた小さな花びらが、湖面の端をゆらゆらと漂いながら白く埋めている。
「とけない雪のようだな」
ロンドンの雪は都市部らしく湿りけが多く、しかもきれいではない。それでも、しっとりとした花びらが静かに降っている様は、キースの胸に望郷の念を呼び起こす。ウォンはボートを漕ぐのをやめ、低く呟くように、
「桜は処女性を象徴しますが、野生種は実は長い寿命を持つ木だそうですよ」
「そうらしいな」
二人はただ桜の木の下をたゆたう。見とれている。
ふと、キースの腕がウォンの首へ回された。
え、と振り向きざまに口唇をすいあげられ、髪の元結をほどかれてウォンはドキリとした。キースの掌がウォンの上着の胸をまさぐっている。
こんなところで。こんなところで。
「誰にも邪魔されないんだろう、ここでは?」
ほんのわずか口唇が離れた瞬間に、キースが囁く。
「でも、ここでは危ない、水の上でなんて」
「危なくなんかない。そんなことをする気はない」
キースは自分の肩を指さして、
「ほら、おいで」
ウォンはやっと自分が何を言われているか理解した。
今夜は甘やかしてくれるつもりなのだ。そっと肩に頭を預けるがいい、と。
黒い乱れ髪が、静かにキースの肩を覆う。
「ウォン」
「はい」
「そのまま眠ってしまってもいいぞ」
「風邪をひいてしまいますよ」
「その時は僕が暖めてやるから」
耳に直接伝わってくる振動が心地良い。
「ほら、僕の方へ、もっと」
しばらくして、ウォンが低く呟いた。
「花見がこんなにいいものだとは、知りませんでしたよ……」

ホテルへ戻って湯浴みをし、着替えをすませた後。
キースがア、と小さな声を上げた。
ベッド脇に置かれていたガイドブックに視線を奪われている。
ウォンは寝そべったままのんびりと、
「どうしました」
「あの公園、池の端に祠があったろう」
「ありましたねえ」
「あそこに祀られているのは女性の神様で、あの池でボートに乗ると、神様が焼き餅をやいて、カップルを別れさせるという迷信があるんだそうだぞ」
「ふふ」
ウォンは嬉しそうに笑った。
「私達はカップルなんですね? いいですねえ、神様に嫉妬されるなんていうのは」
「君、もしかして知っていて連れていったのか?」
ウォンはキースの膝へ手を伸ばし、そこへ顎を重ねた。
「私が信じているのは別の神様ですからね。だって、何もかもお見通しなんですから、かないません」
「ウォン!」
「迷信でも厭だなんて、言わないで下さいね。あまり嬉しがらせないで」
浴衣の裾を割って、ウォンの掌が入り込む。

なんにせよ悩ましい春の一夜だ。

(2003.4脱稿)

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*注:東京都武蔵野市にある、井の頭恩賜公園・井の頭池には弁天様が祀られており、この池でボートに乗るカップルはその弁天様の嫉妬を買って別れる、というジンクスがある。漫画の題材にもなっている有名な俗説だが、海外向けのガイドブックに載っているかどうかは定かでない。ちなみに2003年現在、手こぎ、足こぎ、スワンボートがあるが、鳳凰はもちろん存在しない。

Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/