『プロポーズ』

「今まで一番嬉しかったのは、どんなことでした?」
その時ウォンは、暖かなベッドの中でうっすら眠気がさし、なんともいえず満ち足りた気持ちでいたので、あまり深い考えもなしに呟いていた。
「ん」
寝返りをうち、キースはウォンに背を向けた。
「君に、プロポーズされた時……」
小さな声が闇に吸われる前にそれが返事だと気づいて、ウォンは急いで後ろからキースを抱きしめた。
「嬉しかった?」
キースはきゅっと身をすくめた。
「繰り返させるな」
いらだち混じりのその声が意味するのは、肯定、恥じらい、そして――誘惑。
「キース様」
首筋に口唇を押し、敏感な箇所へ指を滑らせてみると、それに対してなんの拒みもなく、ただ甘い吐息だけがきかれた。こうなったらもう、する事は一つしかない。互いの内側で疼くものがおさまるまで、淫らな喜びをむさぼりあうしか。
熱い秘処を押し開いて、その中へ入り込む。
「ウ……ォン……」
犯されながらキースは、きれぎれに彼の名を呼ぶ。
その声はただ喜びを求めるのでなく、怒っているようにも泣いているようにも聞こえて、恋人の心をゆさぶった。
どうして貴方は、こんな時まで苦しそうなんです。
優しく、とろかしたいのに。
そんな寂しそうな顔、しないで下さい……。

目覚めた時、キースはいなかった。
枕元にメモが残されている。
「外の風にあたってくる。夕刻までには戻る」
やりすぎた、とウォンはため息をついた。
あまりに濃密な愛戯に、息がつまってしまったらしい。キースは実は孤独を好む。大勢に囲まれることと同じぐらい、一人の時間を必要とする。仕事以外の束縛を大変に嫌う。ウォンはそれを理解しているので、適度な距離を心がける。常にべったりとせず、必要な時にだけ現れる、仕事もキースの苦手な部分だけ手伝う。愛情の表現もなるべく押しつけがましくないようにする。それがキースにとって心地よいと知っているからだ。
とはいえ、たまには度を越えてしまうこともある。
そんな時、キースは自分で一人になりにゆく。
そうなると、戻ってくるのを黙って待っているしかない。
「キース様……」
シーツに指を滑らせると、青年の残り香が淡く立つ。
と同時に、胸底に残っていた不安がかきたてられた。
君にプロポーズされた時、と貴方は言った。
いったい何時のことをさしているのか。
貴方への気持ちに偽りはないが、プロポーズの台詞に覚えがないのだ。
己が言葉の軽さを今さら呪う。
沢山の嘘をついてきた報いで、本気の時も余分な言葉が溢れる。愛している、などとは百万遍も言ったろう。決してキースばかりに囁いたのでない、気障な台詞を喜ぶ連中に、気前よくいくらでも振りまいてきたのだ。
まさか、昨晩、カマをかけられたのか?
誓いの言葉が足りないと。
いや、そうではあるまい。繰り返させるな、の口調は演技ではなかった。
それならば私はあの人にプロポーズしたのだ。
嬉しかった、と言わせることを、言ったのだ。
どの、言葉だったろう。
貴方が一番喜ぶ台詞は、なんだったろう。
思い出せない歯がゆさと、得体のしれない不吉な塊が、ウォンの胸を重くする。
とはいえ、いつまでも此処にだらだらと居ても仕方がない。
シャワーを浴び、身支度を整え直し、ウォンは仕事の資料をとりに自室へ戻った。
と、部屋に入る前に、人の気配に気づいた。
「誰が?」
即座に室内にテレポートしたウォンの目の前にいたのは、予想していた人物ではあった。
だがその顔を見て、彼は叫んでいた。
「キース様、なぜ、貴方がここで……泣いているのです!」

キースは少しも眠れなかった。
それでも、満足して寝てしまったウォンの傍らで、しばらく息を殺していた。
苛立っていた。
身体でごまかした……そう、ウォンをなじりたかった。
あの様子からして、覚えていないのだ。自分が何を言ったか。
僕が、あの台詞にどんなに感動したか、わかっていない。
《私が迷った時も、一緒にいて下さい。私には、貴方が、必要なんです》

キースが総帥業をやってこられたのは、ひとえに多くから求められたからだった。それはたやすいことではなかったが、誰かのために働くのは彼にとって喜びであり、生きてゆく意味になりえた。疲れ果てて自暴自棄になりそうな時も、待っていてくれる存在があれば踏みとどまれる。そうしてようよう、彼は生き延びてきたのだ。
ただ一人、リチャード・ウォンはキースに多くを求めなかった。むしろ彼は、沢山のものをキースに与えた。資金、的確なサポート、愛情、ぬくもり、性の喜び……年齢差を思えば、キースが与えられる側であるのは自然だったといえよう。もちろんウォンも、キースを、ノアを、自分のために利用した。ひどいこともした。しかし、それを差し引いても、キース個人はウォンに多くを負っていた。キースにとって、ウォンは必要な人間だった。仕事上のパートナーとして、安らげる恋人として。
それでも、一方的に与えられるだけでは、嫌だった。
だから、ウォンのあの台詞には、意味があった。
《私には貴方が必要なんです》
どんなに嬉しかったかしれない。
単純な、ごく単純な言葉の組み合わせだ、よくある台詞だ。
しかし、とても緊張していて、精一杯の告白なのだと、はっきり伝わってきた。
顔が赤くなるのが自分でわかった。
気づいたのだ、「愛しています」は百万遍もきいた。だが、「必要なんです」は、今が初めてだと。
ウォンの愛情を、もう疑うまいと思っていた。普段のウォンは誠実な恋人だが、不安にかられると恋人を試さずにはいられない男だ。そのたびキースも不安になり、ウォンの心を疑った。しかし、策士の冷たさも不器用な愛し方も、結局いつも受け入れてきた。それが彼の素顔なのだし、その不完全さはかえっていとおしいものに思えたからだ。
そんな男が、決死の形相で《貴方が必要なんです》というのは、本当に本気でしかありえない。その言葉はプロポーズ以外の何物でもなかった。何もかも捨てて君の腕に落ちても悔いはない、とキースは思った。僕がもっているものならいくらでも君に分け与えようと、心の中で密かに誓った。
それなのに。
きれいさっぱり、自分が何を言ったか忘れてしまうなんて――ウォン。

枕元にメモを置き、キースは簡単な身仕舞いを整えて外へ出た。
隠れ家の外はすでに明るく、初夏の風は爽やかだった。
濃密な薔薇の香りが、どこかから運ばれてくる。
子供の頃、母親に本を読んでもらった公園をふと思い出した。
その公園で、不思議な東洋人に出会ったことがある。細かいことや、何を話したのかはすっかり忘れてしまったが、おそろしく高い身長と、優しそうな黒い瞳を覚えている。ロンドンは移民の街だが、その多くは交わることがない。異邦人とでくわし親身にされる経験はわずかで、それゆえ一番古い記憶としてキースの中に残ったのだった。
だからリチャード・ウォンに会った時も、どこか懐かしみをおぼえて。
「あ……」
涙が溢れてきた。
涙が溢れる自分が悔しかった。
なぜ泣く。
信じていけない男と、よく知っている。
口先一つで人も金もどうとでもしてきた男だ、その道具にいちいち重きを置いてはいないのだ、今更何を驚いている、とも思う。
大げさにすることでも、大げさに考えることでもない。
それなのに涙が止まらないのは、そんなにもウォンが好きだから……。

いくら歩いても気持ちが晴れず、かといって夕方帰る、と残してきた寝室へ戻る気にもなれない。思いあぐねて、キースはウォンの部屋に入った。
ウォンはまだ戻ってきておらず、彼の寝台のシーツはピンとはったままだ。そこでしばらく眠っていようか、と思った瞬間、キースの瞳から再び冷たいものがこぼれ落ちた。
どうして僕は、こんな思いをしなければならない。
ウォンにどうして、直接怒りをぶつけない。
それは、嫌だから。
こんな脆さを、みっともなさを、さらしたくないから。
自分をこんなにした男に、憎しみさえ感じたその瞬間、驚きの声が降ってきた。
「キース様、なぜ、貴方がここで……泣いているのです!」

泣きはらした瞳は、アイスブルーというよりすでに薄い菫色と化していた。
ウォンはとっさに悟った、キースの憤りを。
プロポーズの言葉すら忘れた不実な恋人と、怒っているのだと。
ただにらみつけるだけでない、高ぶった感情は全身で表現されていた。
身を翻し逃げようとするその掌をウォンは思わず捕らえた。
「待って」
キースは顔を背けたままだ。
手をもぎはなす努力を無駄と知ってか、あえて抵抗はしない。
しかし、伝わってくる細かい震えは、ウォンを鋭く苦しめた。貴方を傷つけるぐらいなら、私はいっそ滅びたい――そう口走るのをようやくこらえて、ウォンは青年の身体を腕の中へ抱き込んだ。
「なぜ貴方は、私を選んで下さったのですか……」
低く囁くと、押し殺した声で返事があった。
「方舟に乗る者は、一人でも多い方がよかったからだ」
「ただ、それだけ?」
「ああ」
かたくなに顔を背けたままのキースへ、迷いながらもウォンは一つの告白を始めた。
それは一つの賭けであり、最後の切り札だった。
「昔、とても可愛らしい子供に出会ったことがあります」
「?」
「まだ三つか四つぐらいのその子は、こういいました――《僕は、ノアみたいに神様に選ばれたくない。選ばれないで死んでいく人たちと一緒にいたい》。そんな幼い男の子の口から、なんて悲壮な正義が洩れるものかと、私はとても驚いたものです。その頃すでに、私は野望にとりつかれていて、利用できるものはなんでも利用する悪党になりはてていましたが、その子供だけは、自分の欲望で汚すまい、と思ったのです。その子は明らかにサイキッカーでした。すでに淡いオーラを発していました。銀色の髪、蒼い瞳……その子と一緒にいたのはほんのわずかな時間でしたが、時々思い出されるのです。そして、今でも、その子を傷つけたくない気持ちは、変わりません。その子がこぎ出す新しい方舟が沈まないよう、手助けしたいと」
「ウォン」
僕の記憶を読んだな、と言おうとして、キースはハッと顔を上げた。
「まさか、君が?」
「ええ。あの時の私は、今のキース様よりまだ若かったのです。お母さまが療養中で、公園に一人で絵本を読みにきたとおっしゃいました。創世記の絵本をお持ちでしたよ」
「いつ、気づいた」
信じられない、と目を瞬くキース。ウォンは目を伏せがちにして、
「さあ、何時だったか……貴方が聞き分けのいい子供の顔をするたび、記憶の底がゆすぶられていましたから。でも、この話をすると、貴方はきっと《子供扱いをするな》と怒ってしまわれると……それで、今まで言わずにきました」
「なら何故いま言う」
「私の中に、きれいなものの種をまいたのは幼い貴方なんです。それは、大人になった貴方の愛情で芽を出し、今までずっと育ってきました。深く根をはって、もう私の中から抜きがたくなってしまった。貴方のそばで、貴方に暖かく照らされていないと枯れてしまう花……」
頬のあたりをかすかに緊張させながら、ウォンは続ける。
「それは最初から貴方のものですから、泣かずに摘んで下さい。貴方が欲しいだけ……いいえ、貴方に摘みとってもらいたいのです。そうしないと、狂い咲く花のせいで、私はおかしくなってしまう」
「僕の手が……必要なんだな?」
ウォンは静かに微笑んだ。
「繰り返させないで下さい、それはプロポーズの言葉なんですから」
そう、キースが喜ぶのは、必要とされることだから。
これで間違っていないはずだ。
そうでなくとも、泣きはらした顔で念を押すのだから、キースが聞きたい言葉はそれのはず。
もう一度聞きたい、と求められたら言うつもりだが、安売りをしてはいけないはずだ。
「ウォン」
「はい?」
「君が一番嬉しかったのは、どんな時だ」
「あ」
これには答えなければなるまい。
キース・エヴァンズは答えたのだ。言いながら恥ずかしかったに違いないのだ。それでも本当の気持ちを伝えてくれた。
ならば、私も正直に答えよう。
「貴方が、こんな風に赦してくれた時です……」
「馬鹿だな」
キースの顔が奇妙な笑みに歪んだ。
「なら、君の望むとおり、君の花の蜜をかたはしから吸い散らかしてやる」
「キース様」

……そして二人は、六月の薔薇より濃密な花の香に溺れた。

(2002.3脱稿)

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Written by Narihara Akira
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