『喧 嘩』

「この猫の面倒を、いちにちだけ見てほしい」
白い長毛も艶やかな、菫いろの瞳のペルシャ猫が、ちんまりと二人を見上げている。
キースに頭を下げられてしまったウォンは、ひどく浮かない顔で、
「すみません、私は猫を飼った経験がないのです」
「おとなしいから大丈夫だ。気になるなら、ケージにいれておいていい」
「しかし、預かりものなのですよね?」
知人の飼い猫という紹介で二人の部屋に持ち込まれたのだ。細い黒の首輪もつけている。
首を傾げるウォンに、キースはさらに押しかぶせるように、
「だからこそ、君に頼んでいるんだ。今日は出かけないと言っていたろう」
「しかし、餌やトイレは」
「問題ない。もともと放し飼いされているものではないからな。トイレは本人が心得ている。餌は夕方に一度やってくれればいい。袋と皿はそこにあるから」
ウォンはため息まじりに、
「仕方がありませんねえ」
「本当にすまない。頼む」
そういってキースは、いそいで出かけてしまった。
白猫は無言のまま、ウォンをじっと見つめる。
「……やれやれ」
喉でも撫でてやればいいのかもしれないが、そんなお愛想をする気力がわかない。
実は、ウォンがなぜ今日外出しないことにしたかというと、このところなんとなく、身体が重いからだった。 具体的にどこが悪いということはない。疲れがたまっているのか、すこし喉が痛むし、昨晩あまり眠れなかったが、それだけだ。ひとり静かにしていれば、すぐ良くなる程度の不調だ。もしくはキースに、かいがいしく看病してもらいさえすれば。
いや、もちろん、そんな甘いひとときを期待していた訳ではない。
心配して欲しいわけでもない。
だが。
「預かったはいいが、出かけなくてはならなくなった」
それはないでしょう、と言いたかった。
もちろん、たかが猫いっぴきのことなのだが。
キースが言ったとおり、行儀もよさそうだ。
性別の確認どころか、名前をきくことすら忘れていたが。
ウォンは菫いろの瞳を見おろし、こう語りかけた。
「部屋の中は散歩してかまいませんよ。何かを破いたり、汚したりしなければ」
猫は、了解、とでもいうような目つきをした。
実際、彼の言葉を理解したかのように、部屋の中を見回し、居心地の良さそうな片隅へ、ゆっくり歩いていく。
ウォンはデスクに向かい、簡単な仕事から手をつけはじめた。
だが、すぐに眼鏡を外し、眉間を押さえる。
「これは、困りましたね」
どういう訳か、作業に没頭できない。
おそらくこれは、招かれざる客のせいだ。
命のないものでさえ気というものがあり、その波動で心を乱される時がある。
まして、人なれした生き物が同じ部屋にいるのだ。落ち着いていられる、訳がない。
「だから、飼ったことがないって、言ったじゃありませんか」
ウォンには生き物を育てた経験がまったくなかった。キースもたいした経験値はないと思われるのだが、人間の子どもは恐れげもなくあやす。大人に対する時と態度を変えないので、むしろ喜ばれているぐらいだ。あれは自分にはできない、とウォンは思う。どうしても身構えてしまうのは、性格の差か、器量の差か。
「しかたがない。少し、休みますかね」
ウォンはパソコンの電源を落とした。
昼間から横になるのはためらわれたが、少し眠れば、今より楽にはなるだろう。
猫をケージに入れるかどうか悩んだが、部屋のドアは内側からはあかないし、キース以外の人間はみだりに開けることもないのだから、ほうっておいても大丈夫だろう。
そう考えて、ウォンは上着をぬいだ。
すとんとした寝着に着替え、喉に一枚タオルをまいて、ベッドに入る。
「……なぜこんなに、神経がたっている?」
こうして横になってみると、やはり頭が重い。睡眠に飢えている身体を自覚する。
なのに眠気がさしてこない。
むしろ、腰のあたりにわだかまっているものがあり、妙なうごめきを見せている。
こちらの緊張も、ほぐしておいた方がいいのかもしれない。
ウォンは枕元にある、クリネックスの箱をひきよせた。
指で静かに、猛ったものをさすりはじめる。
「ふ……」
身体の芯に火がともったが、なぜか今日はキースのイメージが浮かんでこない。
中途半端な燃え上がり方に、ウォンの腰は焦れてきた。
こんなに時間をかけていたら、猫にも気づかれてしまうだろう。
あいかわらず部屋の隅でのんびり座っているが、寝ている自分を見られていることは間違いないのだし。
いつしかウォンは、金髪の猫の面影を脳裏に浮かべていた。
その従順な、しなやかな身体。菫いろの瞳。
かつてのウォンの、一番醜い部分を知っているのは、あの猫だ。己の苦しみも弱さも、すべてすっかりさらけだした上、相手に慰めまで求めた。
実は、そういう経験はウォンには少なかった。誰かを抱くという行為は、あくまで相手をコントロールするための手段であって、自分が溺れるためにするのではないからだ。むろん、キースとする時は、愛を伝えるための行為だ。だからウォンは、自分の一番純粋な部分を捧げている。どんなに淫らなことをしあったとしても、その時、彼の心はたいへん清らかな状態でいる。
そう考えると、欲望のままにむさぼった恋人というのは、一人だけだったのか。
「×××!」
息を殺して達すると、ウォンはやっと、身体の力が抜けるのを感じた。
なんとか、眠れそうだ。
どうせそんなに眠れまいが目覚ましをかけておくか、などと思いつつ、ウォンはそのまま、眠りに落ちてしまった。
部屋の隅にいたペルシャ猫がベッドに近づいてきてウォンの枕元にとびあがり、そこで身体を丸めた時も、目をさまさなかった。

「おかえりなさい」
その夜、ニッコリと笑顔で出迎えたウォンに、キースは冷たい瞳を向けた。
「仕事は、すすんだのか」
「ええ」
「ならいい」
「猫も、ちゃんとブラシをかけて、餌をやっておきました」
「そのようだ。手際が悪かったわりに、とても喜んでいたな」
その妙な物言いに、ウォンも顔色を変えた。
「どういう意味です」
「君なら、すぐ見抜くと思っていたのに」
キースはひどく悔しそうな声で、
「その猫もサイキッカーだ。ただし、発するテレパシーを首輪でコントロールしている。今日は私にだけ、その猫が見たこと、きいたことが届くようにしてあったんだ。一つの実験としてな」
猫を一瞬振り返ってから、ウォンに視線を戻す。
「……実験台にしたのは悪かったが、君なら途中で気づくと思った。最終試験にふさわしい能力の持ち主なんだからな。だが、今日はそうではなかったようだ。それとも、ベッドで他の男の名を呼んだのは、わざとか?」
すかさずウォンは言い返していた。
「貴方こそ、私のプライベートをのぞきみるために、わざとこんなことを?」
キースは一瞬、言葉を失った。
普段のウォンなら、すぐに「すみません、そんなつもりでは」とうなだれるところだというのに、今日の彼は怒りに満ちていた。
「信じられません。私も貴方を何度も試すようなことをしてきましたから、文句を言う権利もないのでしょう。ですが、貴方がそんな品性のかけらもない行為を働いた上に、私に怒ってみせるほど愚かとは、思ってもみませんでした!」
キースの反撃を待たず、ウォンは淡いオーラを放ちはじめた。
「気分がすぐれないので、今日は私の書斎で休みます。失礼」
そういって姿を消した。
「ウォ……」
ひとり残されて、キースは茫然と立ちつくした。
なんだ。
こんな悪戯をしかけた、自分が悪いのか?
しかし今までも、似たようなことは何度もしてきた。
涼しい顔をしているウォンを見ると、時々、たまらなくなるからだ。
本当に君は、僕が好きか?
単に、堅苦しくとりつくろっているだけか?
僕が一番大切だというが、本当に大切なら、もっと心を開いて欲しいのに。
そんなことを考えているうちに、発作的に意地悪がしたくなってしまう。
猫でスパイするなんて、まだ可愛いもんじゃないか、とキースとしては言いたいのだが。
「もしかして、相当、具合が悪いのか?」
留守中のウォンの行為で、キースが一番驚いたのは、彼が昼からウトウトと眠りこんでしまったことだった。猫が身を寄せてきても気づかないほど、疲れきっていたことだ。
そんな素振り、自分にはぜんぜん見せていなかったのに。
あらためて、キースは腹がたってきた。
「なんだ、外出を中止して、横にならずにいられないほど具合が悪いなら、言ってくれたらよかったんだ。そしたら僕だって、あんなことはしなかった。だのに、僕の名を呼びもしない。起きたら起きたで、かいがいしく猫にブラシなんかかけて……勝手にひとりで寝るがいい、馬鹿!」
実にたわいもない喧嘩だ。誰か他人に話してしまえば、それこそ笑い話になる程度のことだ。
案の定、ペルシャ猫は、部屋の片隅で声も出さずに笑っていた。
それを両腕ですくいあげて、キースは囁いた。
「今日は私と寝るか、刹那くん」
いいんですか、と、猫はこたえる。自分が原因なんでしょう、と。
キースは首を振った。蒼い瞳を伏せて呟く。
「いいんだ。僕は独り寝が寂しいんだ。……誰かさんと、違ってな」

(2006.8脱稿)

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Written by Narihara Akira
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