『11月30日』


「たいした意味も、ないものですよ」
ウォンは自分のインターフェースの上で、いつもどおり軽やかに指を踊らせていた。
彼は自分の誕生日を知らない。
母は教えてくれなかった。その日も祝ってくれなかった。
だから、秋も深まった頃に生まれおちたらしいという伝聞で充分、と思っている。
中国では昔、虚歳(数え年)という数え方があった。正月にすべての人間がひとつ歳をとるというわかりやすいもので、その考えはウォンの生まれになじむ。一年が365日の太陽暦に添って暮らしている時代において、次の365日でひとつ歳をとるというのは合理的な計算ではあるのだろうが、二十歳をすぎてしまったら、一年はさほど大きな差でない。まして、時をかける能力をもつウォンの場合、同年齢の他の人間よりも、長く時を過ごしていることになるのだから。
そう、時そのものが、彼にあたえられた最大の贈り物だ。
他人のことほぎなど、必要ない。
よって、祝うことなど。
「無意味です」
ウォンの指は、いっそう早く動く。それこそ目にもとまらぬ速さで。
「どうしたリチャード・ウォン。それとも、独り言か?」
彼の書斎に、うら若きノアの総帥、キース・エヴァンズが滑り込んできた。
「別に何も」
「煮詰まっているように見えるな」
「私は時を操れる男ですよ」
「それでも忙しい時はあるだろう」
「仕事のできる男というのは、常に余裕のあるものです」
「そうか。だが、空気を変える必要はないか」
「換気は充分です」
キースは肩をすくめた。
「気のきいたフレンチを見つけたので、ランチを試そうと思っていた。ひとりでは味気ないし、誰かを誘って意見をききたいのだが、そんな様子では、君はとうてい、外など出られまい」
「いいえ」
ウォンはぴたりと、華麗な指の動きをとめた。
「おつきあいしましょう。貴方が自分の食事に興味をもつなど、めったにあることではありませんからね」
「それはありがたい」
ウォンは立ち上がり、短い上着を羽織った。
「どこです、それは」
キースは苦笑した。
「ゆっくりつきあえとはいわないが、そう慌てるな」

「悪くは、ないだろう?」
海の見えるホテルのフレンチレストランに、二人は差し向かいで座っている。
ウォンはうなずいた。
「そうですね。料理人の腕は確かなようです。シノワの要素も、これぐらい品のいいものなら……貴方のおっしゃるとおり、使える店です」
「そうか、気に入ってくれたか」
キースはニコニコとウォンを見つめている。
氷の総帥の屈託ない笑顔は珍しいので、ウォンは首を傾げた。
「なぜそんなに嬉しそうなんです」
「意外に可愛いところがある、と思ってな」
「何の話です」
「本当は誰よりも、祝って欲しいんだな、と」
キースはワイングラスを掲げた。
「どんな人間も、愛されて悪い気はしないはずだ。誰かが心にかけてくれているというだけで、心強いものだ。だが、この世に生まれたことを祝って欲しいという願望は、自分からは言い出せないものだからな」
おめでとう、と囁くと、キースはグラスを口唇にあてた。
「……かないませんねえ、貴方には」
ウォンもグラスを持ち上げ、赤い液体をゆらした。
日々の生活に余裕がないのは、お互いさまだ。
なのに十六も年下の青年に、大人の余裕と心づかいを示されてしまうとは。
「たしかに、贅沢なひとときほど、素晴らしい贈り物はありません。すべてを失ったとしても、思い出だけは、誰も奪うことのできないものですからね」
「おや、この世界すべてが、君のものではなかったのか?」
面白そうに呟くキースの前で、ウォンはグラスの液体を干した。
うっすら潤んだ深い蒼の瞳が、伏せられる。
「……それでも、時々忘れてしまうのですよ。この世に自分は、ひとりきりではない、ということをね」
ありがとうございます、という囁きはちいさく、キースの耳にやっと届くほどで……。

(2008.11脱稿)



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Written by Narihara Akira
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