『謹賀新年』

私室でスーツケースを開きながら、リチャード・ウォンは実に何気ない風に呟いた。
「これから香港で年越しをしますので」
「里帰りか?」
こちらもなにげなく返事をして、キースはハッとした。目の前にいるのは、次々に襲ってくる血族を根絶やしにした男だ。故郷に戻る、ということは決して楽しいことではないはずだ。
ウォンは相手の緊張に気付かないのか、すらすらと答える。
「ひとり、挨拶をしなければならない相手ができてしまいましてね。なんというか、ひとにらみで華僑の八割方がおとなしくなるという、長老的存在なので」
キースは口唇を歪めて、
「君は世界の支配者だと思っていたが?」
「人の上に立つからこそ、勘所は押さえておかねばなりません。使える相手の機嫌を損ねて、足元をすくわれるのは愚かなことですよ」
「それもそうだな。味方は多い方がいい」
キースは身を屈め、ウォンのスーツケースをのぞきこむ。
「……で、何で行く?」
「何、とは?」
交通手段のことだろうか?
香港島へ入るだけなら、手段はいくらでもある。自家用セスナだろうとヘリだろうと。フェリーでも、海底トンネルを通って車で入ることだって出来る。まあ近くからならテレポートでも可能だが。
「だから、一緒に行くなら、何を使うのがいいかときいているんだ」
「一緒に!」
ウォンは破顔した。
「そうですか。ではジャンボジェットで。ビジネスクラスをとりましょう」
「それはまた普通だな」
キースが怪訝そうな顔をすると、ウォンは口元を押さえながら、
「基本ですよ。スチュワーデスに毛布をもってこさせて、その下で戯れるのは。意外な景味がありますよ」
「なんだ、悪い本を読んでるなあ」
苦笑いしつつもキースは、毛布の下で手をつないだまま眠れるならそれもいいな、とふと思った。人目はばかることなく、ウォンの肩にもたれていたい。淫らな戯れよりも、仄かなぬくもりを、しばらく味わっていられたら。
「とにかく、僕のぶんの荷物もつくらせてくれ」
「わかりました」
が、次の瞬間、眼鏡の奧の瞳はすうっと細くなって、
「ただ、香港についてからは、しばらく一緒にいられません。それは構いませんか?」
「その間、観光でもしている」
「非常に人の多い場所ですから、身の回りには充分注意を払わねばなりませんよ」
「それは何処でも同じだろう」
「そうですか。それならば結構です」
ウォンはスーツケースを閉じた。もう一つ小型のものを引っ張り出しながら、
「楽しい旅にしましょう」

そう。
飛行機の旅は、二人が望んだように心地よかった。
ただし、目的地についてからは、話が別で。

★ ★ ★

「残念なお天気ですね」
標高五五四メートル、香港島の最高地点であるここビクトリア・ピーク頂上からの眺めが、【百万ドルの夜景】と呼びならわされているものだ。しかし、真夜中の大きな満月には薄い雲がかかっており、へんに黄色みがかって、夜空に凍り付いた太陽のようだ。
当然、夜景などのぞむべくもない。
「かまわない。それはそれで」
キースはあいかわらずぶっきら棒だ。極彩色に彩られた展望用のあずまやで、ウォンはキースの後ろに所在なげにたたずんでいるしかない。

某大人との用事をすませ、やっとウォンが市内にとったホテルに戻れたのは、大晦日の夜も更けた時間帯だった。
「すみません、キース様。遅くなりました」
「構わない」
キースは短く答えた。あらかじめ一緒にいられないことは言っておいたので、それについて文句をつける気はないのだろうが、とても上機嫌とはいえない顔つきだ。ウォンはおそるおそる、
「夕食はもう?」
「君のおすすめのレストランで、百万ドルの夜景をみながらとった。ひとりでな」
「お酒の匂いがしますね」
「飲んだ。だが、一人じゃ酔えない」
あきらかに絡む物言い。
ウォンは小さくため息をついた。
「少し、二人で歩きましょうか。外は寒いですが」
寒いとはいえ、香港は亜熱帯である。真冬の夜、野宿の人間が凍死したら、それが驚きのニュースになる国だ。今から散歩としゃれ込んでもそうおかしくもない。
キースはうなずいた。薄いコートを羽織りながら、
「そうだな。行こう。飛ぶのではなく、歩こう」

「まだ動いているんだな」
ピーク・トラムの駅前で、キースが足を止めた。
「ええ。真夜中近くまで動いていますよ」
ウォンは相づちをうつ。
ピーク・トラムとは一種のケーブルカーで、ビクトリア・ピークへ登るためのものだ。そんなに高い山ではないから、歩いても車でも登れるのだが、基本的に富裕層の子弟が住む山であって私有地の多いこと、道がかなり蛇行していて、トラムで一直線に登る方が圧倒的にはやいというのがあり、当地で一番有名な名所を訪れる観光客の足としては、通常これが選ばれる。特に年末は高層ビルがライトアップされており、夜の眺望は格別なはずだ。
足を止めたままのキースに、ウォンは重ねて声をかけた。
「乗りましょうか」
「うん」
観光客の群れに混じって、二人はトラムへ乗り込む。
彼ら自身もまったく普通の人間のように。
「……不思議な、ものだな」
「何がです?」
キースは独り言でも呟くように、
「昼間、イギリス人の少年を見た。途中の駅で降りたが、革鞄をしょって、学校の帰りらしかった。地元の足でもあるんだな、これは。だが、あんな裕福そうな子供が、何故こんな面倒なところに住むのかと」
ウォンは驚いた。
昼間、この人はひとりでこれに?
しかしその質問は飲み込んで、ウォンはキースと視線もあわせずに応えた。
「ビクトリア・ピークに住んでいるのは、むしろイギリス人の方が多いんですよ。ここに住む中国人は本当に裕福な層だけ、土地の値段が高すぎるので、おいそれとは住めないのです。平均的なサラリーマンの月収は、すべて家賃に消えると言われていますからね」
キースは眉を寄せた。
「家賃に消えたら、いったいどう生活するんだ」
「それ以外の生活費は、副業でまかなうんですよ。香港島で夜でている屋台は、みなサラリーマンのアルバイトです。昼夜で倍稼ぐ訳です」
「たしかに、商売人の国とは知っていたが」
キースは暗い窓の外へ目をやった。
「こんな山がちの島に、何百万もの人間を詰め込みすぎなんだ。だからあんな無茶な丈の建築物が建つし、金持ちまで不便な場所に住む。車は信号を完全に無視するし、ここは彼らにとって、そんなに離れがたい理想郷なのか?」
キースの言いたいことを理解しつつ、ウォンは会話をそらす。
「世界貿易の一大拠点ですからね。ビジネスマンにとっては理想の場所なのですよ。なにしろ新年の挨拶が、【恭禧發財(クンヘイファッチョイ)】――お金に恵まれた、幸せな年をお迎えください、という国ですからね」
「ふん」
キースはそっぽを向いたまま、
「その割に英語が通じないぞ。そのくせ、大晦日なのに、どこもクリスマスセール中だ。いくら暦が陰暦で本当の正月が二月だとかいっても、商魂たくましすぎるぞ」
ウォンはさらに驚いた。
昼間、本当にこの人は、ひとり香港を探索したのだ。
しかも、買い物をしようとしたらしい。
いったいどんな顔をして?
確かにキースの言うとおり、その日はとっくにすぎているのに、街中でまだクリスマスソングが流れている。ショッピングモールの巨大クリスマスツリーもそのままだ。洒落た店でもクリスマスセールがうたわれている。めぼしい品は売り切れても、その勢いで新年を迎えてしまおうという訳だ。
そういう猥雑さに、この人は耐えられないかもしれない。
連れてくるのではなかったか、と後悔しつつも、ウォンは普通の声で続ける。
「通じませんでしたか。変ですね。今でも英語教育には、力を入れているはずなのですが」
香港では授業をすべて英語で行う学校も少なくない、教育水準も高い。たとえば一年の予備期間があるため、香港大学は三年で出られるが、これが非常に狭き門で、英国の一流大学に留学するよりはるかに難しいのだ。それはウォンが青年だった頃と変わってはいないはずだ。
キースは口をつぐんだ。
そして、テレパシーがウォンの中へ流れ込んできた。
【君があんまり流暢だから油断していたんだ。だが、広東語か標準語でしゃべれと要求されても無理だ。テレパシーでの買い物では不自然すぎるしな】
【なにか欲しいものがありましたか】
【いや別に】
そう言いながら、キースが思い描いているものが伝わってきた。
昼間の彼が一番興味をひかれたのは、中華カラーの土産物や安いブランド品でなく、ひっそりと静かな店先に置かれていた石細工だった。特に、本物そっくりにつくられた桃の木に魅了されたらしい。ピンク色の石を丁寧に磨き上げたらしい果実、艶やかな翡翠の葉。それが低木風の土台に巧みにあしらわれている。さすがパラダイスを桃源郷と呼ぶ国、桃の木そのものを一つの芸術品にするとは、と感心し、見とれながらそのつるりとした冷たさを指先で確認したらしい。
「ご存じですか」
「うん?」
「桃の木は、中国では正月の縁起物であるだけでなく、恋愛成就を願うものなんですよ」
「だから?」
「買って、帰ろうかと」
「僕はいらない」
言葉は短かったが、そこにわずかに恥じらいがにじんだ。
ウォンはほっとした。
もうすぐ頂上だ。
見晴らしのいい場所で、新年の抱負を語りあうのもいいだろう。
貴方の心が少しでもほぐれたなら。

ぞろぞろとトラムを降りた観光客は、カフェテリアやその他の施設に散っていく。
騒々しいのが嫌いなキースをおもんぱかって、ウォンはひとけの少ない展望台へと彼を誘った。しかし、このもやった天気では、それこそ闇ににじむ凍った太陽しか見ることができない。
それでもキースは、そのもやの中をすかし見るように立っている。
いったい何を見ているのか。
背後に立つウォンにむかってか、まるでひとりごとのように、
「本当の正月に来てみたかったな」
「旧正月にですか」
その頃は確かに街はいまより華やかにはなるが、正月であるからには基本的に家族と過ごす時期であり、ウォンにふさわしい祝いの時期とはいいかねる。それよりも。
「二月なら、私がキース様の故郷へ行きたいですね」
「馬鹿を言うな。イギリスはそれこそ雪と霧の時期だ。何も面白いことはない」
誕生日をキースの祖国で、と思ったのだが、考えてみれば彼もご同様、暖かい家庭も縁者もそこにはすでにないのだ。
「いい。気がすんだ。帰ろう」
「そうですね」
二人は引き返した。
どう帰ってもよかったが、まだトラムの最終が出ていないようだったので、駅へ来て切符を買った。
「ウォン」
「はい?」
「あそこのもぎりは、どうやって帰るんだ?」
改札は有人である。若い女性が半透明のボックスの中で客を待っている。ほとんど真夜中に近い時間にだ。車掌らしい男性が、発車までの時間つぶしに近くをぶらぶらしている。
「この山を一人で降りるのか、それとも近所に泊まるところがあって、最終が出たらそこへ帰るのか?」
「さあ、そこまでは知りません」
ウォンは首を傾げた。含み笑いをしながら、
「気になるのなら、直接聞いてみてはいかがです?」
「そうだな」
キースは一瞬もためらわず、その黒縁眼鏡の女性に近づいていった。そして尋ねた。
「一つ質問をしたいのだが」
「どういったご用でしょう?」
顔をあげた女性に真顔で、
「最終電車の後、どうやって山を降りる?」
言われた彼女は、怪訝そうに眉をひそめた。英語が通じないのかと、キースはゆっくり繰り返した。
「最終電車の後、あなたはどうやって帰るんだ」
車掌らしい男がキースの後ろで笑い出した。改札の女性もつられて笑った。そして、
「お客さんが全員のったら、改札を閉めて、自分も最終電車に乗って山を降ります」
その答えに、後ろの男の野次が重なった。
「彼女が気に入ったなら、最終の一つ前の電車で一緒にお帰んなさい。最終の改札はかわりに自分がやりますから、気にしなくていいですよ」
「そういう意味できいた訳ではない」
キースは憮然と答え、そのまま改札を通った。ウォンもゆっくり後を追った。
すぐにトラムは動き出した。
上ですっかり上機嫌になったらしい、酔っぱらいらしい白人の一団が、笑いながらキースの方を見ている。どうやら改札の香港人女性をナンパした、と話題になっているらしい。口説き上手なイギリス人だと、冷やかすような声もあがる。
帰りのトラムの中で、キースは一言も口をきかなかった。ウォンも話しかけずに見守っていた。
ホテルへ帰る道すがらも。

部屋に戻り、コートを脱ぎ捨てるキースに、ウォンはなにげなく話しかけた。
「午前零時に、新年を祝う花火が港であげられる予定だったのですが、この天候で中止のようです。残念ですね」
「それはそうだろう、あげても誰にも見えやしない」
キースは相変わらず不機嫌だ。
それだけでなく、どうも調子がよくないようだ。普段の彼なら、ぱっと興味本位の質問をききにいったりなどしないのだし、何か心にかかっているのではあるまいか。
こういう時、キスでなだめるのもあまりいいことではないのだが。
それでも新年の祝いに、口唇をちょっと盗んでも構わないだろう。
ウォンは静かに身体を寄せた。
「日付が、変わりますよ」
「うん……あ」
顔がそっと離れた時、キースは穏やかな顔に戻っていた。囁きも優しく、
「新年おめでとう、ウォン」
「おめでとう、キース」
その時、外でポン、ポポン、と大きな音がした。
驚いたキースが窓辺に寄ると、港の空を花火が彩っていた。
雲の隙き間から見える。
天候がやや回復したと判断して、あげたものらしい。
それこそ靄の晴れた顔で、キースは振り返った。
「無理矢理ついてきてすまない」
「え?」
「勝手に不機嫌になって……それでも、いい機会だから、君の故郷がどんなか知りたかったんだ。君の記憶をいくらさぐっても、年齢の差は埋めることはできない。それなら直接、君の育った場所を自分の目で見たり聞いたりすることで、君をもっと理解できるようになるんじゃないかと思って……ただ、それだけなんだ」
「ああ」
凍った空を見つめながら、この人はそんなことを考えていたのか。
もう十二分に貴方に愛されているのに。
これ以上は過分というものだ。
それに。
「キース・エヴァンズ。私達が埋めなければならないのは、過去でなく未来です」
「わかってる」
キースはカーテンをひいた。
「だからこれからも、節目節目を静かに一緒に過ごせたら……」
自分の胸に飛び込んできた人を抱きしめながら、ウォンは答えた。
「なによりですね」

生まれた場所を血族を失ったとしても、何もかもなくす訳ではない。常に時は流れ新しく育まれていくものがある。だから人は祝う。花火をあげ、おめでとうと言う。愛しあう。
そしてまた、彼らもだ。

(2003.1脱稿)

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Written by Narihara Akira
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