『呼び名』

一段落おわった後だった。今度は僕の番だ、とキースがウォンを身体の下に敷き、
「あと、ひとつ頼んでも……いい?」
上気した頬。可愛らしい口調、だが、妙に真剣な声。
来た、とウォンは身構えた。

最近、ふとした瞬間に、キースがウォンの口唇を奪っていくことがある。ごく軽やかなついばむキスだが、その直前直後の彼が、なぜか無表情か不機嫌で、ウォンの心をかき乱す。人目のある時はしない、つまり二人きりの時に限られているから、昼日中から誘われているのかと思わなくもない、しかし、それにしては素っ気がなさすぎる。
夜、ベッドの中のキースはいつもどおりだ。甘く柔らかなかたまり――ぐったりと、だが幸せそうな微笑で眠っているキースはたまらなく愛おしい。仕事中の凛々しさも、夜の可憐さも、傍らで見つめているのが楽しくて仕方がない。当たり前のように隣にいて、当たり前のように笑みかわして、それで日々が過ぎていくことが、ウォンの心に大きな安らぎを与えている。
だから例えば、おはようのキスをしなかった日なので、それを一つ取り返したいらしい、という想像でもつけば、ウォンも驚いたりしない。しかし何の法則性もないのだ。キースが甘えたい時の眼差しは決まっているから、その後どうこうしたいというのでもなさそうで。
単なる挨拶?
それとも驚かせようとしている?
まさか、新しく私を虜にする策? だが、ニコリともせずに?
本当はなにを訴えたくて?
そんな相手の緊張に気づいて、キースは苦笑した。
「難しいことじゃない。僕がしている間、ずっと呼び捨てにして欲しいんだ」
「呼び捨て?」
「だから、キースって」
「それだけでいいんですか?」
「うん。呼んでみて」
「キース?」
「そう」
拍子抜けしたウォンの耳に口唇を寄せて、キースは囁いた。
「できたら、なるべく沢山、呼んで」

「あ、嫌、キース……」
かすれ声をあげて、ウォンはハッとする。新鮮だ。慣れている【様】づけを禁じられただけで、こんな風に感じるものか。不思議な従属感――呼び捨てているのに、さらに貴方のものになった気がする。何故だろう。
キースは入り口を探るのをやめ、前をソロリとなぞった。
「嫌じゃないだろう、こんなにしていて。それとも、もっと焦らして欲しいのか?」
「意地の悪い……あ」
胸板をキュッと摘まれて、ウォンの声は更に掠れる。キースは笑いを含んだ声で、
「そうだな、触れられるより、入れられる方が楽なんだものな、君は」
「そんなこと」
「なら、先に抜いていいんだな? 僕はその方が楽しいし」
「キース」
たしなめようとして、声は変にはねあがった。まるで懇願しているようだ。言葉なぶりをしないで、これ以上燃え上がらせないで、お願い、狂ってしまうから、などとあられもなく口走ってしまいそうで、ウォンは思わず口唇を噛んだ。
「わかった。もう意地悪しない」
「え?」
問い返す間もなく、濡れた切っ先がズッ、と押し入ってきた。そのまま達きそうになって、ウォンは懸命に堪えた。熱い。しかもなんて大きさだ。そんなに興奮しているのか。
「だから、もっと呼んで、ウォン」
「キース」
とたん、動きが速くなる。
「ほら、もっと」
ああ。
そんなに激しく犯されたら。
「キース、でも、あ、あ、ああっ……!」
責めは執拗を極めた。
一度終わっても離してくれず、何度も何度も犯された。もう壊れる、と無意識に口走った。泣きながらキースの名を呼ぶ。とりつかれたように、キースは硬く反り返ったもので中をかき回し続ける。その興奮は、ウォンが初めて見るものだった。そう、キースは笑顔だった。瞳が輝いていた。ただ欲望をむさぼる人間の表情ではなかった。
夜明け近くになってやっと疲れ果てたらしい、最低限の後始末をして、キースはガクンと眠ってしまった。
ウォンは思わず呟いた。
いったい、何が貴方を、そんな……?

翌日。
デスクに向かっていたウォンの後ろに、キースがすうっと忍び寄る。
「何をしているんだ?」
楽しそうな声。
服ごしでもわかる、熱く湿った身体を押しつけられて、ウォンはホウ、と大きなため息をついた。
「キース」
振り返ったウォンに一瞬たじろいだキースへ、寂しげな眼差しがこう続けた。
「私はそんなに……他人行儀ですか?」

★ ★ ★

ベッドで目覚めた瞬間、キースは下半身がズク、と疼くのを感じた。
昨夜の余韻だ。
ウォンが傍らにいたら、もう一度、ときっとせがんだに違いない。
「燃えた……」
予想もしていない効果があった。
昨夜のウォンは本当にそそった。掠れた声で呼ばれるたびに身体が熱くなった。どちらかといえば抱きしめられる方が好きなのに、もっと鳴かせたくて夢中で腰を使い続けた。涙で黒髪を濡らしながら、内壁でひくひくと絞り上げながら、僕の名を呼ぶウォン。新たな情感を覚えているのも、当惑しているのも見てとれて、キースの身体は喜びで痺れた。最近はだいぶ敏感になってきていて、クルクルッと胸を撫で回すだけで甘い吐息を洩らすようになったが、あくまで「好きだから仕方なく許しているのだ」という態度は変えられずにいた。そのウォンが、こんな風に乱れるなんて……嬉しくてたまらなかった。
ただ。
本当は、ベッドに入る前に言いたかったのだ、「二人きりの時、いや、ベッドの中だけでいい、呼び捨てにして欲しい」と。

ウォンとの生活に不満はない。
例えば、緩急巧みなウォンの愛撫に満足しない夜はない。伊達に数をこなしているのではないヴァリエーションの多さ、熱い眼差しと甘い囁きは、身体の芯までズシンと響く。暖かな抱擁は、いつもそれだけで全身がとろけてしまうようで。
ただ。
キースは知っている、ウォンが欲しいのはキースの心であって、肉体に対して強い興味を持っている訳ではないことを。セックスはあくまでキースを魅了する手段であって、彼自身の欲望ではないということを。
そう思うと、少し寂しい。
愛情を伝えるのにはいくらでも方法がある、抱擁でなくともウォンの気持ちは伝わってくる。ただこちらを喜ばせるためだけに愛撫をして欲しくない。つい余計なことも考える、僕の身体がもっと魅力的だったら、彼の肉欲をごく自然にかきたてるものだったら、身体の相性が最初からぴったりだったなら、などと。
寂しさが増すのは、愛し合っている最中も、様付けで呼ばれる時……親しくなった相手にも丁寧な言葉を使う者は別に大人なのではない、猜疑心の強い、他人との間に壁をたてたがる人間なのだときいたことがある。ウォンの猜疑心が強いのはよく理解できる、キースに一番心を許しているとはいえ、すべて許しきれはしないのだろうという気持ちはわかる。キースだとて猜疑心は人一倍強いのだから。
もちろん、丁寧な言葉づかいは大切にされている証でもあって、それはキースにとってとても心地よいことだ。永く続けることのできる、ほどよい距離感と感じる時もある。だが、ウォンとの距離をグッと縮めたい瞬間もあって、それができないもどかしさに苦しむ。自分からは詰められるだけ詰めた、だから後はウォンから近づいてくれなければどうしようもない。しかし、君が欲しい、と求めれば、肉体の愛撫でからめとられてしまう。
幸せなのだから詰まらないことにはこだわるまい、と思いつつ、もっとウォンが欲しくて、キースは時々その口唇を盗んだ。気づいて欲しい、もっと近づきたくて焦れている自分を。ウォンが求めているのが自分の魂であるのと同じで、自分もウォンの魂が欲しい。もっと。
ずっとそれを考えていて、それで昨晩、一度目が終わった時、思いきって頼んだのだ。
せめて、今だけは対等な恋人同士のふりをしようと。
そうしたら。
もっとウォンを好きになってしまった。
もっと距離を縮めたくなった。
少しでも満たされたはずの飢えが、さらに強くなった。
「つける薬のない病か」
ひとつになりたい、と囁きあっても、それで身体も魂も本当にひとつになる訳ではない。何をしても飢えはおさまらない。愛しい人を手にかけてしまう者の気持ちが、キースにはうっすら理解できる。そうすれば飢えから解放されると思うのだろう、実際にはそんな解放はありえないが、わかっていても苦しくて堪らなかったのだろうと。こんなに君に夢中なのに、なぜわかってくれないの、と恨んでしまうのだろう。
そう。
それでも、今は一緒にいられるんだから。
ウォンの愛情は確かなんだから。
安心して、もっと好きになろう。近づこう。少しでも寂しさを減らそう。溺れてしまおう。
だから、甘えることにした。
普段どおり起き出しているウォンの背中に、寄り添ってみた。
すると、寂しげな瞳はこう応えた。
「私はそんなに、他人行儀ですか?」

★ ★ ★

ウォンはキースの体温から逃れようとはしなかった。じっと座ったまま、
「そうなんでしょう、キース?」
目を伏せて、まるで呟くように、
「遅まきながら、やっと察しがつきました。確かに私には堅苦しい、ぎこちないところがあります。貴方の前では特に。でも、たぶん、それが私の素顔だからです。本当は私は器用ではない。貴方がよく知っているとおり、屈託の深い臆病者です」
「ウォン」
「でも、ですから、最初からひとこと言ってくだされば良かったんです。《二人でいる時も他人行儀は、さびしいから》って。そうとわかっていたら、長い間おびえずにすみました。私はなぜ抗議のキスをされるのか、セックスで身体を支配されようとしているのか、なかなか見当がつかなくて……怖かった」
「ち……」
違う、と言おうとして気づいた。
そうか。
遠回りしていたのは、僕か。
もどかしがっていたのは、ウォンか。
キースはそっと手を伸ばして、相手の頬に触れた。
「抗議じゃ、ない」
静かに口唇を重ねて、もう一度キースは囁いた。
「欲しくて、たまらないだけなんだ……ただ、それだけ」
「キース」
ウォンの口唇が緩んだ。
昏い瞳に、力が静かに蘇ってきた。
「……ええ。私もです」

(2002.5脱稿)

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Written by Narihara Akira
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