『戯 れ』

「ホウ?」
パブの片隅でごく薄い水割りに口をつけていたウォンの視線は、壁に映されたフィルムにふと吸い付けられた。
あまりクリアな映像でないが、年齢差と体格差のある男同士が、笑いながら肩をぶつけあい、じゃれあっている。別にそう珍しくない絵であるが、そういうのは同世代同士で行われる行為であるのが普通だ。また、同胞の気安さというのとも、ちょっと違う雰囲気だ。
そして気付いた。
そうか、ここはそういった男専用のパブだったか。
密談の相手がこの店を指定してきたので、ウォンは今晩ここへやってきた。必要な物の受け渡しがすんだ後、別々に出ることをあらかじめ約束していたので、相手を先に送り出したのだが。
「ふむ」
ウォンは豊かな黒髪をゆっくり後ろへ払いのけた。
彼の美貌は店の人間の視線をひきつけはしているようだが、殺気を帯びた長身の彼に、あえて粉をかけてくるものはいない。
もう一度店内をぐるりと見渡し、酔えもしない色つき水をもう一口含むと、ウォンは昏い視線を壁に投げた。
画面の二人はすでに服を脱いでいたが、それでも学生のふざけあいのような感じで、むしろ微笑ましいような光景だ。ホーム・ムービーのような素朴な画面だが、どうせ白人同士だ、そのうちハリウッド式に激しい絡み合いになるだろうと思って眺めていると、意外にしっとりとした口づけを交わし、情感たっぷりの交合に移行した。
ふっと欲望がきざして、ウォンは頬をこわばらせた。
煽られたことを恥じたのではない。
ふと、あることに気付いたからだ。
つまり、この私は――。

★ ★ ★

キースはすっかり寝仕度を整えていて、清潔な笑顔でウォンを迎えた。
「おかえり」
ウォンはただいま、というかわりに、彼を強く抱きしめた。
それからキスの嵐が始まった。
互いの口唇をなぞりあうような口づけ。絡みあう舌。ふっと離れたと思うと、耳を噛まれ首筋を吸われ、思わず小さな声を出すとまた口元へ戻ってくる。
呼吸が苦しくなるころには、キースはほとんど服を脱がされてベッドの上にいた。
「ォ……」
ウォンの掌はすでに様々な場所を愛撫していたが、口唇だけは顔周辺を離れない。つまりずっと見つめられっぱなしなので、キースもすっかり潤んだ瞳で見つめ返す。そのうち堪えきれなくなって目を閉じてしまうと、涙が溢れた。ウォンの太い指はそれをぬぐいながら、吐息でなおキースの口元に触れる。キースの全身はウォンの口吻をしっているが、ここまで物狂おしく口唇を求められたことはない。ウォンが入ってきた時も喉の奧で小さく呻くことしかできず、たわいなく身体を震わせた。
すっかりグズグズになってしまったキースをもう一度達かせると、自分もすませてウォンはふっと身体を離した。
「……」
様子がおかしい。
キースは息を整えると身を起こした。ウォンの背中に口唇をあてて、
「良かったよ?」
「そうですか」
「どうした、ウォン?」
「別に」
「じゃあなんで、そんなに寂しそうな声を出す」
「貴方の言うとおり、寂しいからですよ、キース」
キースがはっと顔を上げると、ウォンは半分だけ頬をふりむけて、
「私は貴方を愛していて、貴方も私を十二分に愛してくださっているのに、それでも寂しい。嫉妬してしまう。それだけのことです。よくある話です、気にしないで」
「どうしたんだ」
「貴方はまだ、彼を求めている。楽しい日々を忘れかねている」
「なんの話だ」
「とぼけても無駄ですよ。パブで流されていた、あのフィルム。貴方の仕業でしょう」
「そ……」
キースの反応は一瞬遅れた。それはつまり、図星の証拠で。
ウォンは自分の膝を抱えて、
「とても趣味の良いものでした。ああいう店には不自然な程。それで気付いたんです。誰かが私にこれを見せようとしているのじゃないかと」
背を丸めたまま呟くように、
「性的な表現としかいいようのないものですし、子どもに見せるものでもないでしょうが、あれはポルノではありませんね。なにより爽やかでした。エロティックなフィルムはすべて陳腐で下品なものしかないと思いこんでいましたが、己の偏見に気付かされましたよ。よく見つけてらっしゃいましたね。もしかして店主と懇意なのですか」
「違う」
「でも貴方はリクエストをした訳です。かつての親友と自分を、彷彿とさせるものを」
「違う!」
キースは真っ青になった。
そんなつもりではなかった。
いたずら気をおこしたのは事実だった。スケジュールをチェックしたら、ウォンがゲイバーで誰かと待ち合わせている。そこでなにか仕掛けてやろうと思った。
実はキースは、ここのところずっと考えていた。
ウォンがその気になるのはどんな時なのかと。

自分がその気になっている時は、それこそ「おねだり」すればいい。ウォンはそのプライドにかけて、必ず応えてくれる。
しかし毎回、そればかりでは一方的だ。
だから、ウォンがふっと欲望にかられるのが、どういう場面か知りたい。性的な物語や映像を見れば反応するのか。その対象がなんだったら燃え上がるのか。やはり若い女を見れば、それなりにそそられるのか。そうして火がついた時こちらからせまったら、ウォンはいつもより激しく求めてくれるのか。
その欲情に何らかの法則があるなら、こちらも求めやすい。
もっと簡単にいえば、ウォンに「ねだって」もらいたいのだ。
向こうがその気になっている時にしてみたい。一から互いの熱情を高めていくのは楽しいが、即物的にやりたい時もある。互いの方向が一致したら、更なる高みにのぼれるかもしれない。だいたいウォンはこっちの趣味を知り尽くしているんだから、今の状態はフェアではない。深く立ち入るつもりはないが、向こうの趣味は知っているに越したことはないだろう、とキースは思う。どんな餌になら食いつくのか、その反応をちょっと見るぐらいは構わないだろう、と。
本人に直接尋ねてみるなり、こっそり心を覗いたりすることも、できなくはないが。
すっかり寝仕度が整った時、ウォンが寝室に入ってきた。
帰ってきてすぐ抱いてくれたら成功だな、と思って待っていた訳だが、まさかウォンが余計な気を回してしまうとは。
完全に予想外だ。
「違うんだ、ウォン、きいてくれ」
ウォンは膝を抱えていた腕をほどいて、やっとキースの方を向いた。優しく微笑んで、
「大声をださなくていいんですよ。バーン君に焼き餅をやいているのではありません。うらやんでいるだけです。私は貴方と無邪気に戯れることができないという、そのことが寂しいだけですから」
「ウォン」
「さっき、やってみようとしたんですが……あまりに遠くて……どうしていいか、わからなくなりました。私の性格では、無理なんでしょうね……」
キースはやっと気付いた。
この男は、僕に会うまで、誰にも心を許したことがなかった。
同世代とも同郷人とも、むろん血族にさえも。
ああいう類の親密さを、羨ましいとも思っていなかったに違いない。
しかしウォンは、あのフィルムに虚を突かれた。
身も心も互いに許しあったこの僕とでさえも、何もかも忘れて笑いあったことはない――その事実に気付いてしまったのだ。
そして僕が、ウォンにできないことを求めていると思い、悲しんでいる。
キースは思わずウォンの頬に手を伸ばした。
「僕だって誰とも、無邪気にじゃれあったことなんかない」
「なくても、願望としてある訳でしょう」
「ウォン」
その微笑みはあまりに寂しく。
「いい薬になりました。私は自惚れやですから、時々目を覚ますようなことがないといけません。貴方のことは何でも知っているなんて、思っていてはいけない。私は……」
「だから、僕の話を聞け!」
ウォンの左頬が高く鳴った。
ハッとしたように見返すその黒い瞳に、キースの瞳は挑むように、
「いかにも君は万能だ。できないことがあるのを認めたくはないだろう。だが、誰が君に似合わないことを要求した。自己完結するんじゃない。僕は君が好きだ。君の愛し方も好きだ。それ以上何を求める。君は何が欲しい」
ウォンは睫毛を伏せた。低く呟くように、
「……もっと深く、貴方の中へ降りていきたい。念入りに愛したい。貴方の望むことすべてに、応えたい」
「それなら君の思うとおり、念入りに愛してくれたらいい。僕だってそれが一番嬉しい。今更なにを迷う」
赤くしてしまった頬をキースはそっと撫でながら、
「健康的なじゃれあいに憧れているのは、本当は君の方なんじゃないのか」
「え」
「僕も慣れている訳じゃないが、こちらからしてみようか。童心にかえって、肩をこづきあえばいいんだろう? あんまりベッタリ甘えないで」
「私はむしろ、もっと甘えていただきたいのです」
「本当にそうか?」
キースはちょっと首を傾げながら、
「じゃあ、力を抜いて、もう一度横になってみろ」
「こうですか」
「うん」
ウォンの胸に寄り添うようにして、キースはそっと体重をかけていく。
長い腕が静かにキースの背中を包むようにすると、キースは呟く。
「自分が何でもできると思うのは、子どもの考え方だ」
「そうですね」
「そこで、認めてしまうのか」
キースは小さく笑って、ウォンの胸を震わせる。
「でも僕は、君の子どもっぽさが好きなんだ。何もできないと思うより、ずっといい。それに僕は、幾度も助けられてきた。感謝している」
小さな掌をウォンの胸にあてながら、
「でも本当は、君はとっても寂しいんだな。寂しいから余計なことも考える。愛してほしいって言えなくて、甘えて欲しいって囁くんだ」
そこでキースは顔をあげた。
「無理にあんなことしなくていい、ただ触ってくれればいい。そういう時じゃなくても。僕も君に触りたい。ただ寄り添ってるだけで、僕も安心するから。君だって、本当は……」
キースの言葉は口吻でさえぎられた。
「黙って」
柔らかな微笑みがアイスブルーの瞳を見下ろす。
「甘えてくださるんじゃなかったんですか」
「そうだったな」
「それと、後で、教えてあげますから」
「ん?」
「どんな時に、私が欲情するか」
キースは苦笑した。
「もういい。僕こそ、余計なことを考えてすまなかった」
「いいんです。それより、くっつきあいの練習でもしましょう」
キースは口唇を尖らせた。
「なんだ、もういいと言ったじゃないか。やっぱりああいうのが君も好きなのか」
「だって貴方も、ああいう形が嫌ではないのでしょう?」
「うん」
「それなら、ちっとも余計なことではありませんから……なぞってみませんか」

そして二人は無言で見つめあい、もういちどゆっくり戯れはじめて――。

(2004.9脱稿)

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Written by Narihara Akira
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