『素顔のままで』

「珍しい」
ベッド脇のテーブルの上に、縁なし眼鏡が置きはなしになっていた。
音がしているから、ウォンは朝からシャワーを浴びているのだろう。そのために外していったのだろうが、普段の彼なら浴室まで持っていく。
そっと取り上げて、キースは眼鏡を額にあててみる。つるの幅は意外に狭く、彼の顔にもぴたりとおさまった。度のはいっていない、つまりは伊達メガネだ。鋭い表情を少しでも和らげ、相手に与える印象を良くするためのもの。薄い色すらついていないが、それで多くの企みを、ウォンは幾度も隠してきたに違いない。
「ああ、もういらしていたんですか、キース様」
ウォンがシャワールームから出てきた。
すでに上着を羽織り、手袋までつけている。
「またすぐ、出かけなければいけないのか」
昨夜、ウォンの帰りは遅かった。だからキースは、自分の部屋で一人眠った。そして目覚めて、もう一度ウォンの部屋まで来たのだ。
「いいえ。午前中はまだここにいるつもりです」
柔らかく答えて、微笑むウォン。
「そうか」
キースはベッドに腰をおろし、彼を見上げた。
湯を使ってきたはずなのに、ウォンの頬に血のいろがのぼっていない。おそらく仕上げに瞬間冷却を使ったのだろう。普段よりもさらに白い、しっとりと滑らかな肌を見せている。ゆるく結ばれた黒髪も艶やかに輝いて。
「お似合いですが、返していただけませんか。それは私のものですよ」
眼鏡に伸ばされてくるウォンの腕を、キースはつい、と逃れた。
「まだ足りないのか、君は」
「え?」
広い肩幅を、豊かな上背をゆったりとした金糸の上衣と緋色の胴着で覆い、手袋まで填めて指先さえ露出しようとしない。不思議な微笑で鎧うだけではたりず、表情のニュアンスまで眼鏡で消そうとするのか。もう僕に隠すことなど何もないだろうに――という言葉を、キースは口にしなかった。
そのかわり。
「ウォン。今朝は、服を着たままでしたい。そうやって、服装をすっかり整えている君は……魅力的だ」
「キース様」
嘘ではなかった。
すべて覆い隠しているからこそ、ウォンは美しかった。
キスの時も眼鏡をなかなか外そうとしない頑なさも嫌いではなかった。最後まで秘密を持ち続けようとする態度も。彼の謎めいた微笑みは東洋の神秘性の象徴であり、恋の優れた手管の一つでもあったが、キースに向けるその微笑は、ただごく素直なはにかみ、押し隠さずにはいられないほどの気持ちのたかぶりを表しているからだ。
しかもその小道具の一つ、眼鏡を置き忘れていたということは、ガードがいささかゆるんでいる証拠。軽くゆさぶればグズグズと陥落するだろうと、キースは踏んでいた。
案の定、ウォンは薄く頬を染めて、
「汚れますよ、そんな」
「替えがない訳じゃないだろう」
「でも、最後までは」
「わかってる。どうしても邪魔なら脱ぐから」
「では、ぎりぎりまで……努力しましょう」
ウォンは小さなため息をつくと、静かにキースを抱きしめた。
「あ」
鋭い容貌が間近に迫る。軽くくちづけられ、ベッドに押し伏されて、キースは小さく喘いだ。
「外さなくていいのか、ウォン」
ウォンはキースの自由を奪う形で愛撫を始めていた。眼鏡を外すことができず、キースは細いつるをシーツにこすりつけた。
ウォンは含み笑いを洩らした。
「つけたままでしろ、といったのは貴方ですよ」
「フレームが歪むだろう」
「大丈夫ですよ、慣れていますから」
「眼鏡しかつけていない愛人を押し倒すのにか?」
「ああ、そういうプレイがお好みだったんですか、キース様は」
「ウォン!」
キースの胸元を、脇の下を巧みにまさぐりながら、ウォンは囁く。
「気になって集中できないとか、痛い、というなら外して下さい。そうでないのなら、このままします」
「う」
キースは返事に詰まった。邪魔で気になるのは事実だが、ウォンの指づかいが、それをあっという間に忘れさせようとしていた。布ごしに揉みしだかれるのは、直接焦らされるよりも強烈な感覚で、乱れたシャツの上から舌で濡らされ、歯をたてられるのも、優しい感触であるにも関わらず、異様な情緒をかきたてた。胸底に灯る暗い火が、じりじりと広がって全身を嘗めつくしていく。物狂おしく。
「確かに興奮しますね。服をつけたままでなんて、久しぶりです……」
ウォンの声が掠れだす。キースもうわごとめいた声で答える。
「前にも、こんなこと……?」
「ええ。最初の頃は」
「最初から、こんな淫らなことをしていたか?」
「淫らに思うのは、お互いの身体を知り尽くした後だからですよ」
「だから、隠す方が新鮮……」
「たぶん」
それでもいつの間にか、キースの中心だけが、服から引きずり出されていた。ウォンがそれに口唇をあてようとして、制止された。
「……そこは、君の掌で」
「あくまで直に触れないようにするんですね。わかりました。それなら」
手袋の感触が敏感な部分を包みこむ。もう片方の手指で後ろを探られて、キースはきゅうっと身体が緊張するのを感じた。本当にこのまま最後まで? こんな不自由な体勢のまま、眼鏡もかけたままで? 確かに興奮しているけれど、もっとちゃんと一つになりたい。やっぱり最後は。
その心を見透かすように、ウォンが囁く。
「もう少しだけ脚を開いて下さい。下穿きだけ……」
「それだけ降ろしても無理だろう」
「いえ、後ろからなら」
「バックでしたいのか」
「やはり、お嫌ですか」
一瞬のためらいの後で、キースはくるりとウォンに背を向けた。
「……構わない……今日は」

乱れた着衣で。
四つん這いになって。
手淫され後ろから犯されて、キースは喜びの呻きを上げていた。
こんなことで興奮するなんて、という気持ちも心の隅にはあった。ありきたりのシチュエーションだ、古くさいポルノの、幾千幾万と繰り返されてきた焼き直しじゃないかと。 しかし、全身が敏感になっているのは事実だった。
鼻の上にかけられたままの縁なし眼鏡、その軽い重みが、キースに眩暈を起こさせていた。そこから神経が痺れてくる。下半身の疼きとも、胸をしめつける切なさとも違う、もう一つの陶酔。ウォンと舌をからませなくとも、ウォンを秘処でのみこまなくとも、彼の一部を自分に取り込んでしまったような錯覚に陥って、キースはいつになく乱れていた。だからウォンがクライマックスを迎えたその時、キースも熱いものを勢いよくほとばしらせていた――ウォンの手袋に、たっぷりと。

「全部、着替えた方がいいですね」
「ああ」
息が整うと、二人は顔を見合わせて苦笑いした。
たいして汚れはしなかった。さして臭うこともない。
しかしすっかり乱れ、皺になってしまっている。これから二人は人前に出るのだ。このままの服装ではいられまい。
「僕の我が儘で……悪かったな」
「いいえ。こちらこそ、昨夜は予定より遅くなってしまったのですから」
「しかたない。なんでも準備というのは思いどおりにいかないものだ。しかもまた、新しいことを始めようとしているんだから」
「緊張していますか、キース様」
「していないといえば嘘になる」
「そうですか。でも、ノアを始めた時と比べたら?」
「比べられない。あの時は君がいなかった」
むしろ緊張はしていなかった。何も知らなかったからだ。無謀だった、十代の自分は。ひたすらに尖っていた。わかっていても出来ないことがあるという現実を認められなかった。なんでもやれると信じていた。
今は自分を、経済的に、経験的に支えてくれる人間がいる。ずっと恵まれている訳だが、かえって自分の責任を重く感じてしまう。自分の気持ち一つで投げ出せない仕事をしているのだと思うと、怖くもなる。
しかも今度は新しく街ひとつをつくったのだ、より政治的なことが求められる時、自分にどれだけの仕事ができるのだろう。今まで乗り越えられなかった困難を、今度は切り抜けることができるのか。
それでも心地よい疲れは、そんな不安をまぎらわせていた。
「ウォン。君、これからずっと眼鏡を外していたらどうだ?」
「え」
「これは私がもらっておく」
キースはやっと眼鏡を外し、自分の服の隠しに納めようとした。ウォンはその手を押さえた。
「差し上げるのは構いません。貴方の前でずっと外していろというなら、そうしてもいい。ですが……」
「なんだ」
「ずっと素顔のままでは、辛い時もあります。それに、貴方以外にはあまり」
「見せたくない?」
「見せてもいいんですか」
キースは小さくため息をついた。
「わかった。君の勝ちだ。これは返す」
眼鏡を渡しながら、キースは小さく呟いた。
「でも、時々は……」
「ええ。ちゃんと外します」

わかっている、キースだとて。
どんな格好をしていたとしても。どんな状況に立たされた時も。
自分の目の前のウォンはいつも、素顔のままだということを。

(2001.5脱稿)

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Written by Narihara Akira
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