『続・十六年』

夜遅く戻ってきたと思ったら、その日のキースは調子が良くないといって、すぐにベッドへもぐり込んでしまった。食事もいらない、とにかくゆっくり眠らせてくれ、という。三十を幾つもこえた彼をそう子ども扱いする訳にもいかず、ウォンはしばらく彼をひとりにし、自分の書斎にひきとった。
しかし、翌日の夕方になっても部屋から出てくる気配がない。
さすがにウォンは不安になった。簡単な食事を用意し、寝室をノックする。
「起きてらっしゃいますか」
「あ……うん」
変にくぐもった声がこたえる。布団をかぶっているようだ。
「入っても構いませんか」
「何の用だ」
気怠い答え方に、さらにウォンの不安は増す。
「お食事をおもちしました。まるいちにち、何も食べてらっしゃらないでしょう」
「そういえばそうだったな」
他人事のような物言いにたまらず、ウォンは寝室へ踏み込んだ。
キースは顔だけ布団から出している。ウォンを見ても、身体すら起こそうとしない。
「まだ起きられないほどお辛いのですか。食欲もわかないほど?」
ベッド脇の小卓に、ウォンは銀のトレイを置く。キースは目を細めて、
「いい香りがする。粥か?」
「ええ。貴方のお好きな中華がゆです。本当は暖かいうちに召し上がっていただきたいのですが、今が無理でしたら、後で暖めなおしますから」
ウォンの手料理が食べたい、とキースがねだるようになってから十余年、せがまれるままに中華の腕をふるってきた。洋の東西にわかれてはいるが、二人とも海に囲まれた土地で育っているせいか、食べ物の好みに意外な共通項がある。特に海鮮系は喜ぶので、時々こうしてこしらえてみる。
柔らかな香りが空腹を思い出させたか、やっとキースは静かに身体を起こした。
「ウォン」
「はい?」
「……食べさせて」
低く呟いて、キースは目を閉じた。
薄く開かれた口唇は、接吻を待ってでもいるようだ。
とてもその年齢とは思えない、みずみずしく誘う表情に、ウォンは一瞬みとれた。
匙をとりあげて、粥をその口元へ運ぶ。
チュ、と音をたてて、キースはそれをすすりこんだ。
「美味しい」
「食べられるんですね?」
ウォンは具も匙にのせて、再び口へ押し込む。
濡れた音を響かせて、キースは飲み込んだ。
そして、笑いを含んだ声で呟く。
「こんな時にオイスターか」
ウォンは真面目に答えた。
「牡蠣は《海のミルク》といって、栄養がありますから」
キースは軽く肩をすくめた。
「精がつく、の間違いだろう? 亜鉛が多く含まれているから、男性機能を高めるというじゃないか」
ウォンはうっすら頬を染めながら、
「誘ってらっしゃるんですか」
キースは苦笑しながら、
「いや、君に応えるのは、もう少し元気になってからにしたい」
「そんなにお疲れですか? 熱は?」
「明日まで寝ていれば良くなる程度だが」
「ちょっと失礼」
ウォンはコツンと額をあわせる。キースの肌は普段から熱いが、高熱という感じはしない。全体的なオーラは弱っているが、目つき顔つきは病んでいる者のそれではない。むしろ仮病に近いような……単純に甘えているのか、それとも?
ウォンは相手の表情をさぐりつつ、
「脈をみても構いませんか」
「医者でもないのに?」
キースは手を布団の中にもぐらせたまま、ウォンを面白そうに見つめる。
やはり怪しい。
「見せてください」
「あ」
この世の誰よりも素早く動く男が、キースの手をとる。
両方の掌に、ひきつれた白い痕があった。
治りかけの火傷のような。
だが、一昨日まではそんなものはなかった。
つまりキースは、これを隠すために部屋にこもっていたのだ。氷の能力で傷を冷やし、ひそかに、かつ急いで治療していたのだろう。
普段手袋を填めているキース・エヴァンズの肌を、こんな風に焼くものとは、炎か、それとも、強い電流――。
ウォンはぐっと声を低めて、
「十日前にはあんなことを言っておきながら、マイト・ジュニアに会いに行かれましたね」
キースはうなずいた。
「君の古いスケジュール帳はもう、過去の君に書き換えられることはない」
ウォンは相手の傷にそっと触れながら、
「いったい何をしたんです」
「何も」
やはり痛むのか、キースはかすかに眉をしかめながら、
「する必要もなかった。マイト・ジュニアは、自分の時をかける能力に疑問を抱いて、父親が誰なのか確かめたくて過去をのぞきにいっただけだ。十二歳の少年らしい冒険心でしたことで、君を害するためじゃない」
ウォンも眉を寄せる。
「本当ですか」
「君、パトリシア・マイヤースを強姦したことになってるらしいが、実は愛人に誘拐させただけで、何もしてないんじゃないのか?」
さらりと言われて、ウォンはとっさに返事ができなかった。キースは相手から自分の掌をそっと取り戻しながら、
「いや、過去のことはどうでもいい。とにかく彼は、君が父親である可能性がまったくないことを確認できたから戻ってきたんだ。安心するがいい」
「いったい彼と、何を話したんです」
キースは微笑みを浮かべたまま、答えない。心を読ませようともしない。
ウォンは肩をおとした。
「この年齢になって、過去の不品行を暴かれるとは……」
「だから、君ではないと言ったろう。安心していろ」
「では、なぜ話してくださらないんです?」
キースの微笑みは動かない。永遠のように静かだ。

★ ★ ★

マイト・ジュニアの過去への跳躍がウォンをおびえさせたのをみて、キースはあらためて、時をめぐる超能力について考えることになった。
ウォンの能力は、空中に大剣を出現させる以外は、比較的わかりやすいものだ。その原理はともかく、他者よりも速く動く能力であることは間違いない。分身にしろテレポートにしろ、例の「時よ!」もそうだ。
ならば、マイト・ジュニアがどんな能力をもって過去のウォンを襲おうと、その素早さで切り抜ければいい。いま現在無事なのだから、多少過去が変わるとしても、命の危険を感じる必要はないはずだ。己の手を汚すことに一切ためらいのないあの大男が、経験値の少ない子ども一人、あしらえない訳がない。
だいたい、かの少年の時間跳躍能力は、どのようなものなのか?
ウォンは追跡調査をしていたのだから、なんらかの記録があるはずだ。
キースはデータベースにアクセスし、ひそかに目を通した。
「タイム・パラドックスは、犯されていないようだがな」
マイト・ジュニアは何度か過去にとんでいるが、そこで決定的なことはしていない。過去の他者を驚かせた記録が残っている程度で、誰かを害してはいない。未来が大きく変わると、元の時間軸に戻れないかもしれないことを知っているのだろう。パラレル・ワールドにとばされる可能性もある訳だが、それもあくまでSFの概念、実際にあるかどうかすらわからない世界に飛ばされるのは誰だって嫌だろう。それどころか、時空の狭間で自分の命が失われるかもしれないと思えば、どんな考えなしの子どもでも、そう大胆な行動にはでるまい。しかもジュニアは、過去で何日かすごすと、その何日かぶんをとばして現在に戻ってくるらしい。自由自在でないぶん、彼の中で時間は常に正常に流れている訳だ。
脅威ではないな、というのがキースの判断だった。
むしろウォンは、現在のジュニアを怖れなければならないはずだ。もし彼に強制的に過去に連れ去られたら、それこそ命をおとす可能性があると言っていた。だから監視していたのだろうし、それは正しい。
ならば、ウォンのあの動揺は?
「サイキックフォビア(超能力嫌悪)とでもいうべき感情か?」
超能力者の中に、超能力を忌み嫌い、怖れる感情がある。
普通の人間も多かれ少なかれ、超能力めいたものをもっている。第六感で目に見えないものを感じたり、相手の心や未来を察知することができる。気の力で人を倒すことも。
しかし、その力がはっきり人を害することが可能である場合、突然人は、サイキッカーと自分の間に線をひく。ひくだけではない、危害を加える。もしくは「兵器」という最悪の形で利用しようとする。己がのぞんで身につけた力でも、嗜好でもないのに、ひとからげにしてさげすみ、差別するだけではあきたらずに暴力をふるう。だからサイキッカーのほとんどは、力を無理矢理制御し、隠し続ける。ただでさえ超能力ゆえに身体に負荷がかかっているのに、常に極度の緊張とストレスにさらされ続ける。それでもわざわざ狩りたてようとする者がいるから、望まなくともどうしても戦わねばならない羽目になる。
そんな悪意に囲まれ続けていると、誰でも疲れ果て、己を責めているつもりはなくとも、無意識に自分に対する嫌悪をはぐくんでしまう。
自分が一カ所秀でているぶん、普通の人間よりも超能力に対する恐怖が大きくなる。
ウォンすら、その罠にはまってしまっている可能性がある。
時を操る、己の能力ゆえに。
だが。
「なんのために、私とサイキッカーの理想郷を追求してきたのだ」
人間の方が共存しようとしないから、生き延びるために自分たちだけの王国をつくってきたのだ。政治的なことなど本当は好まないのに、同志が心穏やかに過ごせる場所を維持するために奔走してきた。己に対して、無駄な罪悪感や恐怖をもたずにすむように。
いまや若いサイキッカーの中には、迫害の歴史を知らない者もいる。かろやかに超能力を使って無事だった例も聞く。今の比較的平和な世界は、自分の努力がどこかで花咲き、実を結んでいるからだ。そう思いたい。ウォンの力添えのおかげで、どんなに悲劇が減らされているかと。
そう、サイキッカー同士で傷つけあうことのないよう、できるだけの努力をしなければ。
そう、この私、キース・エヴァンズが。

★ ★ ★

帰還予想地点に光の塊が現れた時、キースはとっさに我が身の危険を感じた。
マイト・ジュニアは時間旅行から強大なエネルギーを帯びて戻ってきていた。
しかし、弱りきってその場に倒れそうになった少年を、思わず抱きかかえずにはいられなかった。
放電は強く、キースの腕と掌を焼く。
懸命にこらえて、ジュニアに語りかけた。
「大丈夫か」
「あんた……キース・エヴァンズか」
息を整えながら、ジュニアが呟く。キースはじっとその瞳をのぞきこんで、
「君本人に会ったことは、ないはずだが」
「こっちは何度かこっそり見てる。リチャード・ウォンを狂わせた男だ」
キースは思わず苦笑した。
「ごあいさつだな。いったい君は、過去に何をしにいっているんだ」
ジュニアは弱々しく首を振った。
「何も。俺は亡霊みたいなものだ」
「今度は謙遜か」
少年の身体を支えて、キースは飛ぼうとした。
「とにかくこんな弱っていては、誰かに見つかったら面倒だろう。体力が回復するまで、どこかに姿を隠さねば」
ジュニアは首を振り、キースの胸を押し返した。
「そんな必要はない。誰にもねらわれてないから」
「なぜ断言する」
マイト・ジュニアは、十代前半とは思えないほど老成した声で返事をした。
「役に、たたないからな」

母さんが心配している、はやく家に帰らなければ、というマイト・ジュニアと連れだって、ひとけのない田舎道をキースはゆっくり歩き出した。
わざわざ尋ねるまでもなく、少年は自分の能力について語りはじめた。
彼によれば、時間というのは、個人の主観のつらなりであるという。彼の超能力はその隙き間に入り込むもので、過去の他者を見ることができるし、自分の姿を過去の他者に見せることもできる。意志の力で制御し、意図した過去の一点へ時空をこえて戻ることができるが、それは一種の幽体離脱のようなもので、物理的に相手に干渉できないという。楽しいことをしている時間はあっという間に過ぎるが、だからといって地球の回転スピードをあげて、日没をはやくすることはできないのと同じだと。
つまり、過去に戻って誰かを亡き者にすることはできない。どうしても相手を殺したければ、死ぬほど驚かせるか、なんらかの情報を伝えて絶望させるしかないが、そんなことは未来からきた人間でなくてもできることだ。
だから自分は、そういう意味では危険な存在ではない。使えないサイキッカーを狙うほど、軍や民間の研究所はヒマでもなければ困ってもいないはずだ、と。
キースは首を傾げた。
「だが、君の母親のパトリシア・マイヤースは」
ジュニアはふっと表情を曇らせた。
「ああ。母さんは、今でも狙われる時がある。あまり実戦的な能力じゃないが、俺よりパワーはあるからな。時々二人で迎え撃つ羽目になる。ただ、リチャード・ウォンが、とったデータを公開したから、サンプルとしての価値はそんなにないからな……」
「データを公開?」
少年はうなずいた。
「ああ。軍でサイキッカー兵士のテストをする時に使ってたらしい。母さんには、相手の超能力をそのまま打ち返す力があるから、その原理を機械的に再現したんだとかなんとか……おかげで母子二人、わりと安全に暮らしてるよ」
「ウォンが、そんなことを?」
「ああ。そのことは一応感謝してる。そのことはな」
ジュニアの大きな瞳が鋭く光る。キースは眉を寄せて、
「では、今回君は、過去に何をしにいったのだ。こんなに消耗して」
「あの男に、忠告しに言った」
「忠告?」
「ああ」
マイト・ジュニアは足をとめた。突然バリアガードをはる。
「こう言ったんだ。……俺は未来からきた。もしおまえが母さんに手を出さなければ、未来からは二度とこない。俺がまた来るようなことになったら、おまえでなく、キース・エヴァンズを殺す、と」
「ああ」
キースも思わず足をとめていた。
うまい脅しだ。
マイト・ジュニアは、ほぼ百パーセントマイトの息子だろうが、ウォンも彼の父親になる可能性のある行為を、パトリシアにした(もしくはしようとしていた)訳だ。それを止めるために、ジュニアは過去に飛んだ。本当にジュニアがウォンの息子なら、それをしなければ彼は発生しないのだから、当然過去にも飛んでこられない訳だ。そしてもしウォンが、ジュニアの制止を無視して彼の父親になろうとするならば、おまえでなく、おまえがもっとも苦しむ相手を手にかけてやると宣言した訳だ。たしかにキース相手ならば、どの時点で襲ってもタイム・パラドックスは生じにくいだろう。
だが、確かウォンは軍を抜けるためにマイト(父親)を操り、パティが彼の母である、という偽の記憶を刷り込んでいたはずだ。今回のジュニアの行動で、ウォンのその後の行動も変わってしまったりしないか。いや、もし変わってしまったら今の自分は――。
茫然とするキースの前で、マイト・ジュニアは警戒のポーズをといた。
「余計なことは考えない方がいい。さっきも言ったが、俺は亡霊と同じだ。人の生死や、歴史の流れを大きく変えることはできない。ちょっと歪みができたとしても、結局はつじつまがあうようになってるんだ。人は記憶を、自分の都合のいいように書き換えるしな。だから、今でもあんたがウォンと一緒にいるなら……どんな過去もささいなことじゃないのか?」
キースは苦笑した。
年端もいかぬ子どもに諭された。
何も案じることはないと。
それは確かに正論だ。今回のジュニアの行動で、二人の歴史の途中が変わってしまったとしても、今ともにある事実は変わらない。
それならば。
「キース・エヴァンズ」
「うむ?」
「母さんに会っていくか? その火傷、治療しといた方がいいだろう」
キースは首を振った。
「自分のおせっかいで負ったものだから、自分で治すことにしよう。なんでも冷やすのは私が最も得意とすることだ」
「ならいい」
去り際、キースはふと最後の質問を思いついた。
「君は、未来へは飛べないのか?」
ジュニアは薄く笑った。
「占い師じゃないんだ。あんたたちの将来なんか、しるもんか」

★ ★ ★

「……では、なぜ話してくださらないんです?」
キースの微笑みは動かない。永遠のように静かだ。
諦めて立ちあがろうとするウォンを、キースの声が制する。
「まだ、食べ終わってないんだが」
しかたなく腰を落ち着けると、ウォンは粥を相手の口元へ匙を運ぶ。
ひとしきり濡れた音を響かせた後、キースが小さくため息をついた。
「ウォン」
「はい」
「食べたりないからだ」
「え?」
キースは相手の口唇に指を触れた。
「君をまだ、食べたりてない……」

(2005.8脱稿)

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Written by Narihara Akira
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