『十六年』

朝の着替えをしながらキースは、ライティングデスクの上に黒革の手帳が置かれているのに気づいた。
自分のものではない。
ウォンもそう不用意に、私物を置きはなしにはしないのだが。
いぶかしみつつ手にとってみると、やはり彼のスケジュールメモのようで、漢字とアルファベットとなにかの数式が並んでいる。デジタルで残しておきたくない特別な記録なのだろうか。人に見られて構わないような、当たりさわりのない内容のようだがと思いつつ、それは少々暗号めいて、キースの好奇心をそそった。
「あ」
間に挟まっていた紙片が、ひらりと宙を舞った。
折り畳まれていたそれを拾い上げてキースは、ふと頬を染めた。

《君は君の道を行け。僕は僕のやり方で行く。僕達は敵ではない。生き方こそ違え、今でも同志だ。いずれ、また何処かで必ず会える。その日までしばしの別れだ。愛している。――キース・エヴァンズ》

それはまだ二十歳になるかならないかの頃、軍とノアとに離ればなれになっていたウォンにあてた、走り書きのラブレターだった。
なんという時の早さだろう。
もう自分も三十四の男盛り――ノアという秘密結社をこしらえ、世界に宣戦布告したあの頃から、十六年もたっているのだ。
だが二人は今も、変わらず共にある。
本拠地を変え、時に組織をつくりなおし、世界中を飛び回りながら、公私ともにパートナーとして傍らにいる。身内らしい穏やかな親愛で結ばれている。
「ああ、そうか」
昨夜のウォンは情緒たっぷりだった。優しく抱きしめてくれるのはいつものことだが、とろけて相手に身をゆだねたとたん強く求められて、久しぶりにあられもない声が出た。今のウォンは落ち着いた紳士で、そう乱れることもないので、キースも夢中になってしまった。目覚めた時に全身を満たしていたのは幸福感で、最中よりいっそ恥ずかしいぐらいだった。
そうだったのか、昔の恋文を発見して、あんな風に。
あの切なげな眼差しも、熱烈な愛撫の理由も、それか。
ほっとため息をつくと、キースは服装を確認するため、姿見の前に立った。
この年になって、やっと中身と外見がつりあった。年相応の貫禄と経験に裏打ちされた柔らかさで、人と対することができる。「自分が願うのは何か?」「相手の笑顔」――そんなことをあっさり口にできる、普通の平和主義者になった。むろんそれがどんなに難しいか、わかっていてのことだ。
後ろに年かさの、謀略の得意な男を従えているので、キースはむしろ単純であり続けなければならなかった。相手の湿っぽさや昏さに飲み込まれない、強い意志でなければ。
ところで、ウォンはどこにいるのだろう。
出かける予定はないのだから、基地内で仕事をしているかもしれない。
今朝はどんな顔でいるのか、見てやろう。
キースは寝室を出た。ウォンの部屋に向かった。

「おはよう、ウォン」
ウォンは簡単な朝食を広げていた。当然のように二人ぶんだ。
「お先にいただいています」
切り分けたベーコンエッグをフォークに刺したまま、ウォンは微笑んだ。
テーブルにつき、キースも自分の皿に塩をふった。
「なんだか、懐かしいものが部屋にあった」
キースは相手の表情をそしらぬふりでうかがいつつ、
「気負っていた。今見ると恥ずかしいな」
「今だからといって、恥ずかしいこともないでしょう。貴方は変わっていません」
ウォンは、暖めたミルクに刻んだチョコレートをおとし、ゆるくかきまぜる。
「それにしても、十六年の年の差など、この年になると本当にたいしたことはありませんね。すっかり縮まって、なくなってしまったようです。五十にして天命を知る、などと言いますが、貴方はあの頃、すでにそれを知っていた。そして私は……」
キースにもホットチョコレートを差し出す。
その声は、妙な落ち着きで発せられた。
「世界の王でなくなりました」
薄く度の入った眼鏡の向こうで、細い瞳はさらに細められた。
「お別れの日が近いようです、キース・エヴァンズ」
とっさに、返事をすることができなかった。
それでもアイスブルーの瞳は、まっすぐウォンを見つめかえした。
「タイムマシンが完成したのか」
「いいえ」
ウォン自身が、時をさかのぼることに強い興味を持って研究していた。それは時を操ると思われている彼が持っていない能力であり、それゆえに致命的な弱点になりかねないと考えていたからだ。可逆能力とはまったく異なるものだが、加速能力の原理すら不分明なままでは、とウォンは己に様々な分析を加えていた。人工的に再現できるものであれば、ニセモノに負ける可能性もでてくる。《この世界の時に君臨する者》でいられなくなる。
ウォンはすうっと目を伏せて、
「いま存在する物質を、過去に送り込むことは可能になりました。ただ、その原理が実におそまつなので」
「なんだ」
「そういう能力を持つサイキッカーに、持たせるということです」
「そういう者が現れたのか」
「ええ。覚えてらっしゃるでしょうか、マイトという少年を」
「まさか」
ウォンがかつて洗脳した、雷の剣をふるうサイキッカーだった。ウォンが軍から抜ける時、猿芝居に利用した。マイトに未来からきた刺客という暗示をかけ、その手にかけさせるようしむけたのである。ウォンは彼に殺されたふりをして軍を抜け、それまで別々に動いていたキースと共に、裏社会へ潜った訳だが。
「彼の息子が、時間跳躍能力を持っていることが判明したので、追跡調査をしていました。そして一昨日、突然姿を消しました。エネルギー波の測定によると、おそらく過去の、あの時代へ」
キースは首を振った。
「ありえない。パトリシア・マイヤースがそんな危険を息子に許すか。だいたい年齢もあわないだろう」
「未来はひとつではないのです。時間をこえる能力のあるものがその主観をもって動けば、微妙な差異のある過去が発生します。こうして私の与えた暗示が嘘でなく、現実となったのです」
「しかし、何故そんな」
「人に言えないことを続けてきた報い、ということでしょう」
ウォンの口唇が皮肉にゆがんだ。
「マイト・ジュニアが過去で何かしているのは事実です。昨夜、私の昔のスケジュール表に微妙な変化が現れました。その文字を見る限りでは、他の誰でもない、過去の私が書き換えています」
キースはピシリと言い返す。
「だからといって、君が滅びるという確証はない」
「ええ。過去の私がうまくやれば、今の私も消えずにすむでしょう」
「他にも跳躍能力のあるサイキッカーがいるだろう。その誰かに頼んで、過去の自分に知らせればいい。いや、君自身がそのサイキッカーと一緒に跳べば」
ウォンは静かに首を振った。
「私の身体が、跳躍能力と調和しないようなのです。過去に戻ることは、私の能力を相殺するだけでなく、死につながる可能性が高い。それに、未来からの伝言なるものを、過去の私が信じるかどうか」
「なぜそんなに悲観的なんだ」
「お知らせしておけば、覚悟ができるでしょう?」
ウォンは微笑みを浮かべた。昨夜、キースを抱きしめる直前に浮かべたのと同じ、不思議な熱を込めた微笑みを。そう、あの切なさの本当の理由は。
「別れのつらさは、なるべく少ない方がいいかと」
キースは黙ってウォンの顔を見つめていたが、やがて、フ、と小さな笑いをもらした。
「優しさのつもりか」
テーブルを回り、ウォンのかたわらに立つ。
「君のうぬぼれもたいしたものだ。いつまで保護者気取りだ? もう充分一緒にいた。僕ももう、何もできない若者じゃない。一人で歩いていける。新しい同志を募り、共に働くことも。そして」
柔らかな頬に触れて囁く。
「不意に君を運命にさらわれてしまうことなど、とうの昔に覚悟していた。あの手紙を書く前から、ずっと」
いつも不意に姿を消してしまう男だ。置いていかれることも覚悟せずにつきあっていられない、というのは、まぎれもないキースの本音だった。
ウォンは、そんなキースの掌を押しいただくようにして、
「貴方がそういう人だからです。どんなに辛くても《君は君の道を行け》と言ってしまえる人だから心配なのです。そんな風に言いながら、君が過去に行けないなら、信じさせるために僕が行ってもいい、と思ってらしたでしょう」
「ウォン」
「やめてください。私のために危険を冒すのは。辛い過去を余計にやり直すのは。もし万が一、私がひとり、この未来に置き去りにされてしまったら」
ウォンの瞳はうっすら潤んでいる。
それこそが、彼が一番怖れていることか。
だから先手をうって、こんなことを言い出したのだ。
キースはゆっくりうなずいた。
「わかった。覚悟をしよう。様子もみよう」
ウォンの手を優しく握りかえしながら、
「……だが、僕の未来は、君と共にある未来しか、ないからな」

(2005.7脱稿)

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Written by Narihara Akira
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