『期待』 WONG*KEITH ---- That was before Psychic Force 2012.

何度もキーボードを打ち間違う。目の周辺の筋肉が震える。
「……今日は、もう寝てしまおう」
疲れがたまっていて、仕事の句切りもいい、となれば、一日ぐらい早く眠っても構わないだろう。一秒でも早く救って下さい、と自分を待っていてくれる全世界のサイキッカーには申し訳ないが、そうそう倒れてもいられない。今晩はこの辺にしておくのが賢明というものだ。
キースはデスクを離れると手早く寝仕度をし、シャワーを使った。
「ふう」
寝巻きに着替え、清潔なベッドに仰向けに横たわり、身体を長く伸ばす。
全身の力を抜くと、甘い眠気がふわりとキースを包みこんだ。
「ん……」
その瞬間、ウォンの舌の感触がふいに胸の上に蘇ってきて、キースは思わず身をよじった。
ペロ、と焦らすようなその愛撫。軽やかに滑る指先。押し付けられる熱い掌。濡れた口唇がたてる音。縛ってあるのに流れ落ちてくる、柔らかな黒髪の重さにもくすぐられて。
あの瞬間はいつも、期待で全身がうずく。
期待。
「何を期待しているんだろう」
頬に、血がのぼる。
そうか、僕は、この身の中心の昂ぶりが解放される鋭い快楽の瞬間を、毎回そんなに待ちこがれているのか。あの、胸がふくれあがるような喜びを。
「違う」
それだけじゃない。
僕の期待しているのは、身体だけのことではない。
ウォンは僕に欠けている何かをいつも埋めてくれるのだ。その激しい情熱で。そのタフさで。策士の強引さで。
それに、寂しい時、一緒にいて欲しいのはウォンだ。
だってウォンは知っている、僕の心に巣食う暗闇を。彼もまた持っているのだ、ゆえのない迫害を受ける悔しさを。人を殺したいと思うほどの強い憎悪を。実際に人を殺し、血にまみれた自分の掌を。それでもまだ遥かな高みを目指したい、と願う誇りを。
バーンには、僕の心の底にある屈託はどうしてもわかってもらえない。彼と一緒にいれば、僕は健全な常識の世界にたち帰れるかもしれない。もっと素晴らしい夢を見ることが出来るかもしれない。しかし、僕の苦しんでいる場所までは、彼は降りてきてくれない。
でも、ウォンと一つになる時、そこには安らぎがある。慰めがある。
僕は、それを一番期待しているのだ。
「ウォン……」
キースは、自分の掌を脚の間へ滑り込ませた。
すでに少し高まっている、そこ。
愛しい者の顔を思い浮かべて、キースは指を動かし始めた。
「ん……」
「お休みになろうとしていたのではなかったのですか」
低い、聞きなれた声に、キースははっと飛び起きた。
どうしてこの男は、名を呼んだだけですぐに現れたりするのだ。
リチャード・ウォンはしかし、いつもの微笑をたたえてそっとキースを抱き寄せた。
「お疲れなんだと思って、我慢しようと思っていたんですよ」
「ウォン」
「でも、どうしても抱きしめたくて……」
「あ!」
そのままベッドへ押し伏せられて、キースの声はうわずった。
「抱きしめる、だけ……?」
「いいえ。本当は全身で貴方に触れたい……くちづけたい、身体の隅々まで……貴方に声をあげさせたい……ひとつになりたい」
甘い囁き。服を通して感じる相手の筋肉の堅さ。ウォンの熱い素肌を思い出して、キースは思わず鳥肌だった。
「欲しいって、言わせたいのか」
ウォンは軽く目を伏せて、
「いいえ、私が、欲しいんです。そんなにひどくしませんから、少しだけ、貴方の時間を下さい」
「……うん。わかった」

言葉通りウォンの愛撫は穏やかなもので、キースは反対に苦しくなった。
変だと思う、大切にされているのに辛くなるなんて。
しかも、胸の奥を渦巻くのは、普段の期待ではなかった。
キースは堅く目をつぶった。
駄目だ、ウォン、あんまり優しくしないでくれ。
僕は本当は、そんな風に扱われるような綺麗な人間じゃないんだから。
駄目だったら。
ああ、いっそ君が、手ひどく裏切ってくれたら……。
その瞬間、ウォンがすい、と身体を離した。
「キース様は、私に裏切って欲しいのですか」
しまった。
強く思ったために、テレパスで伝わってしまったらしい。
キースは目を開け、とむねを突かれた。
なんて寂しそうな、表情。
「信じていただけなくても、仕方がないとは思っていますが……」
何故だ。普段の策士の顔はどうした。どうして僕の前だと、そんなに素直な感情を見せてしまうんだ。悲しげな瞳で見つめてくるんだ。
「そうじゃない」
キースはウォンの掌を掴み、自分の左胸に押しあてた。
「そうじゃないんだ、ウォン。なんていったらいいのか……」
君になら裏切られても構わない、という台詞は実はもう何度も言っていた。それはその時の本心だった。ウォンにもらったものはとても多く、もしウォンが自分に飽きて離れていくとしても、恨みはしないと思っていた。
でも、実際裏切られた時、本当に自分は耐えられるだろうか。
今は確かに苦しいけれど、ウォンが目の前から消えてしまったら、もっと苦しくなるのではないのか。
ああ。
正直に言おう。相手は僕に誠実に向き合おうとしてくれているのだ。僕も出来るだけ誠実でいよう。それが一番いい。
「ウォン……あんまり優しくされると、かえって苦しい気持ちになったことがないか?」
「キース様」
ウォンの表情が微笑みに緩んだ。
「ありますよ。キース様はどうして拒んでくれないのか、と思う時もあります」
キースはほっとしながらも頬を染め、
「拒んだ方がいいのか? もしかして、嫌がってみせた方が君は嬉しいのか?」
その方がそそるのかもしれない。でも、そうしてくれと言われたらどうしよう、とキースは身を堅くした。出来ない。初めから出来なかったけれど、今更抵抗なんて、演技でも出来ない。恥ずかしい。
「そうではありません」
ウォンは、キースの上に静かに身を伏せて、
「こんなにも貴方に溺れてしまう自分が、怖いんです。だから、嫌がってくれたら、もしかして今だけは触れずにいられるかと思って……貴方の肌の感触を、少しでも忘れられるかもしれないと思って」
「させなかったら、君は僕を忘れられるのか?」
ウォンは再びキースを優しく抱きしめて、
「そうですね。たぶん、無理でしょう……」
わかった。
僕が期待しているのは、この囁きの熱さだ。
本当に愛されていると信じられる、この瞬間なのだ。
「僕もだ。僕も、きっと無理だ」
「キース様」
ウォンの愛撫が激しさを増した。
しかし、その抱擁に溺れながら、キースは心の隅でまだ考え続けていた。
こんなに好きになってしまうと、裏切られる日のことを考えておかないと、きっと死んでしまう。裏切られなくとも、たとえば事故でウォンを失う可能性だってあるのだ、その時がいきなりきたら、絶対に耐えられない。失うのが惜しいものこそ、いつも手放せる用意をしていなければならないのだ。心の準備だけでも怠りなくすませておく、それが賢いやり方というものだ。だいたい、一人の人間に多くを期待してはいけない。そんなに全てを満たしてはくれない筈だ。それが世の常だ。その筈だ。
「キース様」
「ああ……」
もう駄目だ。
身も心も満たされる瞬間を求めて、キースはウォンを抱き寄せた。ああ、自分はこんなに期待している。どうしていいかわからないぐらい。賢い生き方なんてどうでもいい。理性が何を言い聞かせたって、もう堪えられない。欲しいのだ。今はどうしても。欲しいのだ。何もかも。
「……愛してる」
ノア総帥としての自分を忘れ、キースはウォンにすがりついた。
ある意味それは正しいことだった。ウォンはまだ迷っていた。そして、決めた筈の裏切りの日をできるだけ伸ばそうとしていた。誰だってあらがいがたいものだ――そう、こんな一途な期待に対しては。
「私もです、キース様」
「うん……」
不思議な悲しみに互いの胸を苦しめながら、二人は愛しあい続けた。
遠く近い破滅の日に、微かな甘さを期待しながら。

(1998.5脱稿/初出・恋人と時限爆弾『lose control』1998.8/『ノア方舟計画3』イベントパンフレット)

『lose control』

――――― 1.WONG/KEITH/SETSUNA

《プロジェクトAP》――PROJECT Artificial Psychic PRODUCE――つまり人工サイキッカー製造計画を提唱し押し進めているのは、他ならぬ米軍サイキッカー部隊隊長、リチャード・ウォン少佐である。
国防省の意図はどうあれ、現在の軍内超能力者の研究の最高責任者はこのウォン少佐で、ほぼ全権を委任されているといっても過言でない状態となっていた。実際彼は有能で、優れた能力者の捕獲、懐柔洗脳、改造強化、敵対する存在の掃討、反抗組織への対応、それらを一手に引き受けて見事な成果を上げている。自らも時を操るサイキッカーであり、軍に参入するはるか昔から私設研究所などを構えて、戦闘用アンドロイドにまで超能力や増幅装置を持たせていた男であるから、これは当然の業績といえた。
しかし、リチャード・ウォンは自分の部隊を日々充実させながら、満足する様子をまだ一度も見せていない。それどころか、普通の人間に改造手術を施して超能力者化するという計画《プロジェクトAP》を提案、すみやかにそれを実行に移した。彼の直属の上司であるG大佐やウォンの目付け役のT補佐官などは、プロジェクトの進行スピードのあまりな早さに驚き、不審の念さえ抱いたが、「私の望みは全人類をサイキッカーにすることです、そうすればきっと、この世界にも平和が訪れるでしょう……いえ、これは私の戯れ言です、どうかお気になさらず」などと柔らかな言葉で軽くあしらわれてしまった。
ウォンがなぜ、今ある超能力者達で満足しないのか、その真意は誰にもわからないままであった。いったい彼は、以前いた超能力者組織ノアから引き抜いてきたエミリオやガデスといった連中の能力に不満を抱いているだけなのか、それとも愚民共にも使いようがあるとばかり、本当にこの地球上を超能力者だらけにし、最終的にその帝王として君臨しようと考えているのか、それとも単なる私利私欲のために軍の資金を流用しているだけなのか、裏切りのゲームを何度も楽しむために新たな駒を増やしているだけなのか――彼は常に鷹揚な微笑を浮かべ、その裏にある考えを決して読みとらせない。
いや、読みとらせる訳もなかった。
誰にも知られてはならなかったからだ。
そう、彼以外の者には、本当のところを教えてはならないのだ。
いいえ、本当は、貴方にさえ。
キース様。

シーツの波の上で、二人は並んで横たわっていた。
「……ウォン?」
「お目覚めですか、キース様」
「うん。もう朝か?」
「そうですね。そろそろ私も行かなければならない時間です」
「そうか」
昨晩は何もなかった、二人はただベッドでまどろんでいたのだった。服もいつもの服で、眠る前はノア総帥とその片腕らしく、真面目に仕事の話などしていた。少し疲れたので横になって話を続けていたのだが、いつの間にかどちらともなく眠りに落ちてしまって、という形だった。
キースは壁の時計を確かめ、一度身体を起こそうとして、やめた。つぶらな瞳でウォンを見上げるようにし、
「少しでいい、行く前に、ぎゅって抱きしめてくれないか……それだけで、いいから」
キスはいらない、ただいつもの抱擁だけが欲しい、と言うのだ。
だが、ウォンは動けなかった。
どうしてだ。
どうして私は、この人が欲しがっているものを与えない。
安心感、情愛、優しい温もり、すべて与えてやれるのに。
何故だ。
愛しくて愛しくてたまらないのに。この私が、ただ見つめあうだけで、こんなに心が暖かくなっているというのに。
「……厭、か?」
動き出さないウォンを見て、キースの蒼い瞳が少し翳った。
「厭ならいいんだ。すまない、朝から甘えたりして……」
「そうではありません」
ウォンは慌てた。
だが、身体は動かない。
少しも動こうとしない。
「そうではないんです。でも、駄目なんです……駄目……」
「ウォン」

「駄……」
声を出して、やっと目が覚めた。
「昔の夢か」
そう呟いてウォンは、刹那のベッドに居る自分に気付いた。
刹那は、《プロジェクトAP》の最初の実験体、つまり人工サイキッカー第一号だ。この名もコードネームであって本名ではない。そして彼は、この軍の基地内ではウォン少佐の第一の愛人でもある。そう、眠る前、今晩も彼の部屋を訪ね、甘い口吻と巧みな愛撫でとろかして、充分に満足させてから終わったのだった。
「刹那?」
青年は、答えない。
白い裸の背を見せて、安らかな眠りを眠っている。
刹那は美しい青年である。軽く伸ばした淡いきんいろの髪。肌理の細かい肌。透きとおるような菫いろの瞳。くっきりとした目鼻だち。鋭敏にしなやかに反りかえる伸びやかな肢体。ウェストのくびれた見事なプロポーション。二十七歳という気力の充実する年齢が、彼の美しさをさらに増している。
ウォンが刹那に手をつけたのは、なによりもこの美貌が気にいったからだ。なぜこんな秀麗な青年が軍などに入ってきたのかといぶかしんだ程で、人工サイキッカー計画に彼が志願してきた時には目をみはったものだ。
そして刹那は、見事に実験をクリアし、驚異的な闇の力をその身につけた。力を持ったことは彼に新しい自信をつけ、その表情は明るくきれいなものになった。
ウォンはそれから、だんだん刹那が愛しくなってきた。きけば軍に入った動機は、今まで父子ともども屈辱的な生活を強いられてきたため、すべてをはねかえす純粋な力が欲しかったのだという。なるほど、それでは過去も名前も消される極秘プロジェクトなのだと脅されてもビクともせず、「構いません、俺はサイキッカーになりたいんです」と言いはる訳だ。刹那の中で燃えている感情の熱さはよくわかる。生い立ちこそ違え、人におとしめられたことをバネにして這い上がってきたことは自分も同じだからだ。しかも、刹那という青年は単純かつ純情だった。《刹那》の名はウォンがつけたのだが、その時彼は、頬を染めて喜んだ。新しい超能力技を覚えるたびに少佐に見せ、自分の成長ぶりを素直にアピールした。血気盛んで、多少見栄坊のところもあるが、そんな部分も愛らしく思えて、それでつい手を出してしまったのだった。
もちろん、身体の方でも手なづけておけば、さらによく言うことをきくだろう、という下心もあった。ウォンは十代からベッドの中で多くの男女を翻弄してきた。ベッドの外でもうまく操るために。
だが、最初に抱いた晩に刹那が泣きだした時、そういう下心はどこかへ飛んでしまった。
泣きじゃくる刹那をあやしながら、ウォンは優しく尋ねた。
「なぜ、泣くのです……何が辛くて、そんな?」
醜い行為を強いるようなことはしなかった、終わってすすり泣かれる覚えはなかった。
「違い、ます……」
刹那はまるで子供の顔で、声もようやく絞り出すようにして、
「辛いんじゃ、ありません……こんなに優しくされたのは、初めてで……それで……」
可哀相に、とウォンは胸がいっぱいになった。
その無防備な様子。無垢な涙。
この青年は、今まで犯されこそすれ、ちゃんと愛されたことがなかったのだ。誰かに心配されたり、かばってもらったり、優しくされたりすることに飢えきっていたのだ。
「少佐……」
しがみついて泣く刹那を抱いてやりながら、ウォンは彼を愛しいと思った。そして、心の底のどこかで、この青年を信頼しはじめていた。信用する必要など全くない筈なのに。だが、刹那とベッドを共にすると不思議な安心感が生まれた。今まで誰と眠っていても、ぐっすり寝てしまうことは本当に珍しかったのに。
これは刹那が超能力者になったせいではない。ガデスやエミリオと寝ても、こういう感情は得られない。なら、これは刹那を愛しているからなのだろうか。だが、キースと寝ていた時に味わっていた情感とも少し違うのだ。
何なのだろう、この気持ちは。
同情か?
いや。
そうではあるまい。
キースへの気持ちとは違った意味で、私は刹那を愛しはじめているのだ。
「刹那」
ウォンはかつての恋人の面影を振り払い、刹那を後ろからそっと抱きしめた。
「……?」
刹那はようやく目を開き、それからウォンの腕を上から自分の掌で押さえた。
「少佐……」
低く呟き、嬉しそうにじっとしている。
ウォンはそのうなじに口づけながら、心の中で、違う、と呟いていた。
違う。
全然違う。
ほどよい身長以外は、抱き心地さえ違う。
これは私の欲しいものではない。
これではない。
愚かな。
あんな風に別れてきてしまったのに、私はまだ……。

ここ二年の間にリチャード・ウォンのとった一連の行動――超能力者の秘密結社ノアの秘密基地を爆破したこと、軍サイキッカー部隊を設立して日々増強していること、特殊将校の立場を利用して独自にプロジェクトAPを発動、新たな手駒を増やし、データをとり続けていること――実はこれらに深い意味などなかった。
彼のしていることは、ただのひまつぶしだった。
さっさと世界を支配すればいいのに、もたもたと超能力者のコレクションを増やしているのは、それが時間つぶしに過ぎなかったからだ。
だが、なんのために?
それはキースに追ってきてもらいたいがため。
キース・エヴァンズの敵となり、その心の中に憎悪の対象として深く刻まれ、やがてこの軍内部にまで追ってきてもらうため。
これがどんなに愚かなことか、よくわかっている。
だが、キースに抱く恋心があまりに大きくなりすぎてしまったのだ。自分をコントロールできなくなって、それから逃れるためだけに、私はノアを出てきてしまったのだ。
そう、ただ、それだけのこと。
私は敗者、逃亡者なのだ。
だって、忘れようにも忘れられない。
貴方の面影が、一日たりとも脳裏を離れない。
今でも気持ちは募るばかりだ。
「刹那」
その背から口唇を離すと、刹那は身をくねらせて、ウォンの胸に頬をうずめた。もう一度抱かれることを期待しているらしい。
「少佐、俺……」
「ええ……愛していますよ、刹那」
ウォンは愛撫を再開した。
それからすぐに、刹那の洩らす甘い声が部屋の薄闇のなかに満ちた。
しばし、時は流れて。

――――― 2.WONG/KEITH/CARLO

優しい、口吻。
ウォンの朝のキスは、優しすぎるほど優しい。後をひかないように、と思っているのか、ごくあっさりとすまされてしまう。夜のキスは優しくても、何度も何度も繰り返されて、それだけでため息が洩れ、身体の芯が溶けてしまうような深い情感のあるキスなのに。
「ウォン」
まだ甘えたりない、としがみつくと、ぎこちなく抱き寄せられて。
「キース様」
胸の奥がうずく。もっと甘えたい。ねえ、もう朝だけど一度だけ。
あ、ウォン。
嬉しい。
君、朝からするのは苦手なんじゃなかったのか?
いいのか?
あっ……。

気がつくと、肩を揺すぶられていた。
「キース様、キース様、大丈夫ですか」
「……ああ」
肩を抱いていたのは、カルロ・ベルフロンドだった。
僕はなんという夢を見ていたのだ。こんな時に、あんなことを現実の感触と間違うなんて、なんて僕は馬鹿なんだ。
あたりいちめん瓦礫の山だった。
あの美しかったノア地下秘密基地が、こんな無惨な有様になって。
戦っている最中、バーンが先に爆発に気付いた。バリアガードを張り、落ちてくる物と風圧から守ろうとしてくれた。とっさに自分でもガードをした。だがそれも長くは続かず、キースは何かにぶちあたって、意識を失った。
わかってる。
この爆破はウォンの仕業だ。
ウォンでなければ、こんなことは出来ない。
胸の芯が凍りつく。
いつか出ていく者だとわかってはいた。人を裏切ることを生業としてきた男だ、いずれはこんな日もくるだろう、と予想はしていた。
だが。
それでも、これはあまりにも。
「ずっと探していたんです。御無事でいて下さって、本当に良かったです……キース様」
ああ、こんな時に、やっと目覚めた時に側にいてくれたのが、カルロとは。
カルロは悪い青年ではない。二十二という年の割には妙に幼い気弱さがあるが、ノアとキースに堅い忠誠を誓っている。
今も、こちらをのぞきこむ眼鏡の奥の青い瞳は、ひどく心配そうで。
だが、キースはそれに冷笑を返した。
「あまり無事ではないようだ。身体が動かない」
「腰と脚に大きな怪我をなさってるからです。手当てをすればよくなります。さあ、行きましょう」
そう言ってカルロはキースを抱き上げようとしたが、そこでグラリとよろけかかった。力が足りないせいではない、カルロもまた怪我をしているのだった。キースはカルロの腕を外して、
「無理をするな、カルロ。じっとしていればある程度はダメージは回復する、今すぐ移動しなくてもいい。それに、手当てといっても、ろくなことも出来ないだろう」
ここまで基地が壊されてしまっていては。医師達は生きているのだろうか。薬品や医療器具も運び出せているとは思えない。
だが、カルロは首を振った。
「僕にキース様が見つけられたんです、軍の掃討部隊がここを見つけるのも時間の問題です。とりあえず移動しないと……キース様を一人で置いていく訳にはいきません」
「掃討部隊?」
「はい。爆破の直後、米軍の秘密部隊が基地内に侵入してきたんです。サイキッカーは全員投降しろ、軍は君達を保護する、だが、ここで抵抗するものは容赦なく殺す、と」
キースは目を閉じた。
そうか、やはりウォンは軍と結託したか。
つなぎをつけていることは薄々知っていた。そうでなければ得られない情報もある、つながり自体は悪いことではないと思っていた。
だが、それはこの日のためだったのか。
君は、たったそれだけの器しかない男だったか。
アメリカなどという一つの国の軍の内部におさまって、そこで平気な顔をしていられる程度の男なのか。
それが、君の考える世界征服の現実か。
ちゃちな考えだ。
そのぐらいのことなら、君でなくともできるだろうに。
だいたい、派手好きな君が、巨大な経済力を持つ君が、その程度のことで、本当に満足できるのか?
確かに軍には、それなりの力がある。だが、それ以上の力を持つものが、それを抑える力のあるものが、もっと君にふさわしいものが、あるだろう?
キースは瞬間、ノア総帥の顔を取り戻していた。
「掃討部隊は何名だ?」
「わかりません……バラバラに逃げていたので」
「そうか」
いい答は期待していなかった。カルロはお坊っちゃんだし、いざという時に脆いタイプである、この混乱の中で多くを把握できている筈もなかった。だが、今までのキースの右腕は優秀な男だった。これぐらいのことは即答し、なおかつ自分の価値判断を加えてよりよい方策を示してくれた。
ウォン。
キースは軽く首を振った。
「……それで、同志の死亡数はわかるか?」
カルロはうなだれ、声を低めて、
「はい。僕の確認した中では、爆発によって死亡したものは八名、軍に抵抗して殺された者は二名です。それ以外の多くのメンバーは、軍に捕獲されました。軍の目を逃れ、僕と一緒に行動している同志は、ごくわずかです。彼らの多くは傷ついています」
「そうか」
その程度なら、まだ救いがあると言えるだろう。
キースはふと、親友の無事を思った。
「バーンは、その……死んだ中にいるのか?」
カルロは口唇を噛んだ。しばらく答をためらい、それからやっと口を開いた。
「バーン・グリフィスはかなりの重傷です。見つけてすぐ処置をしましたが……絶望的です」
「そうか」
キースは急に、胃のあたりに重い疲れを感じ始めた。
もう、ノアに希望はない。
ウォンが裏切った今、同志のほとんどが失われてしまった今、基地を破壊されてしまった今、僕にいったい何が出来る。
僕の、ノア総帥としての仕事は、終わったのだ。
そう、バーンも死にかけているというのに。
不思議に激しい痛覚はなかった。アドレナリンでも出ているのだろうか。それとも脊髄でも損傷していて、下半身の痛みを感じられなくなっているのか。
まあいい。歩けなくなったところで飛べる。エネルギーを使いすぎるなら、車椅子を使う手もある。大昔のTV映画で、車椅子の鬼警部の話があったときくが、椅子の中で静まりかえっているのも、元総帥らしくていいかもしれない。
ふ、今はそれどころではないか。
キースは薄く笑って、顔を上げた。
「カルロ。私が生きていることを、同志達にはしばらく知らせないでくれ」
「キース様」
驚くカルロを片手で制して、
「私の超能力の波動は強い。一緒にいると皆みつかってしまう。この怪我では当分まともに戦えそうにない。共に行動すると足手まといになるだろう」
「キース様」
カルロは茫然と呟くように、
「ノアの皆を導けるのはキース様だけです、キース様が皆の前に姿を現して下されば、皆、戦えます……それなのに」
キースは冷たく首を振った。
「今、それだけの人数で、この状態で、軍に戦いを挑むのは無意味だ。自殺行為でしかない。それに、皆をまとめるだけなら僕でなくともできる。まとめ役が必要ならば、しばらく君が代わりをしてくれ。今の私には、一人で静かに体力を回復する時間が必要だ。だから私は、皆とは違う場所に隠れる」
「ですが」
キースの強い眼差しは、それ以上のカルロの言葉を失わせた。
「君を信頼している。頼む。私だけが隠れられる場所を探して、そこへ連れていってくれ」
「わかりました」
カルロは、近場の避難場所を探すために立ち上がった。
「いくつかあるとは思います。少しだけ待っていて下さい」
「よろしく頼む」
カルロをそんなに信用している訳ではないが、少数の同志をまとめて避難させるぐらいの力はどうやら持っているようだ。ある程度のことはまかせよう。もしその間に軍の掃討部隊が来たら、戦えばいい。私はキースだ。キース・エヴァンズだ。地獄のような米軍研究所を脱走し、秘密結社ノアをつくりあげた男だ。決してただでは死なない。うかうかと捕まりもしない。
キースの瞳に光が宿っているのを見て、カルロは少し安堵した。この人はまだ死んでいない、内側にいつもの情熱を燃え立たせている、と感じとったからだ。
「それでは」
と行こうとしたカルロに、ふとキースは声をかけた。
「そういえば、レジーナは無事なのか?」
レジーナ。レジーナ・ベルフロンド。カルロの大切な妹。もし彼女がいなければ、この兄はどこかで命を落としていただろう、血族の争いと収容所時代の荒波のどちらかの中で。レジーナはカルロの支えであり、大切な家族であり、また命を賭して守らねばならない大事な存在なのだ。
カルロの表情が緩んだ。
キース様は大丈夫だ。こんな時に、僕だけでなく、僕の妹まで心配してくれている。
やはり、キース様は僕らの救世主なのだ。
知っていた。妹と共にあの地獄の収容所から救い出された時から、知っていた。
キース様。
「はい、無事です。一緒に行動しています」
キースは淡く微笑んだ。
「よかったな。不幸中の幸いだ。大事にしてやれ」
「はい」
カルロは飛び立った。
キースは余計な波動を悟られぬよう、その場でじっと気配を殺した。
ふと、涙が出かかる。
もし、裏切ったのがウォンでなく、ここに助けに来てくれたのがウォンであったら、僕は間違いなく泣きだしていただろう。
だが、今は泣けない。
考えなければならないことが沢山ある。
そして泣くには、残された虚無はあまりに大きすぎた。
「ウォン……何故」
無駄な問いが口をついてでる。
わからない。
キースにはわからなかった。
爆破の二日前の晩、ウォンが部屋に来た。
そして、こんな風に切り出した。
「抱きしめさせてください……ただ、それだけでいいんです」
妙なことを言う、今更何を、と思ったが、表情が真剣なので断われず、ベッドの上で抱きあった。服も脱がず、キスもせず、相手の重みを半身に感じながら一晩を過ごした。
なんとなく不思議な感じはしたが、悪い夜ではなかった。ウォンの愛情と肌身の暖かさを、改めて確認できた気さえしてした。
それなのに。
そうか、あれが別れの挨拶だったのか。
「ウォン」
何を考えて。何を思って。
怪我をしていない胸元を押さえながら、キースは低くうめいた。
「……痛い」
そして、しばし時は流れて。

――――― 3.SETSUNA/WONG/KEITH

「少佐……俺、そんなに優しくされなくても、大丈夫ですから」
その晩、一段落を終えて後を清めてやり、軽くくちづけてやると、刹那が頬を薄く染めてそんなことを言い出した。
「すごく、嬉しいんです。でも、そんな、壊れものを扱うみたいに大事にされると、なんだか気が遠くなって……少佐はいつも、誰を抱く時も、そんなに優しいんですか……?」
「刹那」
言われてウォンははっとした。
キースが甘やかされるのが好きだったので、刹那を抱く時にその時の癖がつい出ていたのだった。
キースはいつも、優しい口吻を欲しがった。戯れに夜、「濃厚なキスと静かなキスとどちらをご所望ですか」ときいてみた時、彼は「静かなキス」と答えてうっとりとウォンを見上げた。そして、言われたとおりのキスをしてやると、とろりと溶けたようになって。
キースはいつも、行為が引き起こす直接的な快楽よりも、そこで交わされる愛の囁きや、いたわりの視線や、甘い抱擁を喜んだ。いや、いつもではない。昼間の彼と夜の彼は別人だった。昼の彼は、軍への憎悪と、同胞への尽きせぬ博愛と、我が身に何度も降り掛かった悲劇によって植え付けられた深い絶望と、それに断じて負けまい、戦い続けてみせる、という強い意思に満ちている。その激しい情熱を怜悧な面の下に隠し、まだ十代とは信じられない有能さで総帥の執務をやりこなす。だが、夜の彼は――ウォンの腕の中で震える彼はただいじらしいとしか言いようがない。自分に向けられた愛情に懸命に応えようとしてくる。だが、そんな時、ウォン自身がどうしていいかわからなくなってしまうのだった。どうすればいいのだろう。ただ寂しくて温もりが欲しいだけなのなら抱きしめてやればいい、気持ちの確認をしたいがために抱きあっているのなら、それらしい愛の言葉を囁けばいいのだろう。
だが、それでいいのか。キース様が欲しいものは、本当にそれなのか。
それから、私の欲しいものは?
私がキース様から欲しかったのは、いったい何だったのだ?
「少佐」
刹那は菫いろの瞳をくすませて、
「あの、俺、わかってます……少佐がこんなに大切にしてくださるのは、俺が実験体だからなんだって……別にそれが嫌なわけじゃないんです。俺は望んでサイキッカーになったんですから。過去も家族も本当の名前もいらないし、少佐の命令にならなんでも従おうと思っています。でも、不安になるんです。能力がなくなったら俺は捨てられるんだ、俺より強い人工サイキッカーが出来たら、少佐はそいつと寝るんだって思うと……それで、もしそいつがこんなに優しくされるんだろうかって考えたら、俺……」
刹那ははっと顔を上げた。
「すみません、俺、いったい何を……」
「いいんですよ、刹那。よくわかります、言ってくれてよかった」
それは当然の嫉妬、当然の不安だろう。
ああ、キース・エヴァンズも、「君は君自身のものだ、誰と寝ようと気にしない、僕は君を縛りたくない」などとききわけのよい台詞など吐かず、これくらい素直に焼き餅をやいてくれていたなら。
ウォンは優しく刹那を抱き寄せた。嘘でもいいから、ここは優しくする場面だ。
「刹那。人工サイキッカーの実験は難しいものです。そうそう出来るものではありません。それに、あなたの力が自然になくなることはありません。新たな力を加えることさえ出来ます。ですから、あなたの価値がなくなることはありません。それに、私はあなたが人工サイキッカーだから抱いているのではありません。あなたという人を愛しているから、こうしているのです。ですから、怖がられているなんて思いもしませんでしたよ……優しくされると、怖いですか?」
刹那は大きく目をみひらいて、
「だって、俺だけ先に何度も気持ち良くなるんですよ? 少佐は何を考えてるんだろうって思いますよ。少佐が自分がよくなるために俺を使ってるんだったら、よくわかるから、反対に、怖くなんかならないです」
なるほど、そういう怖さもある、か。
怖いのは、優しくされるのに慣れていないせいだ。他人の親切をうけるとすぐに疑り用心してしまう、そういう育ち方をしてしまっているのだろう。サイキッカーではないが、彼もまた、理不尽な現実に押し潰されそうになりながら生き延びてきた者なのだ。
ウォンは、刹那の髪をそっとすいてやりながら、
「刹那。自分のためだけにするのは、愛しあうとは言わないんです。私は、あなたが愛しくて、こうして触れているんです。それだけで心地良いんですよ」
「でも、少佐……」
俺だってそれを信じたいけど、と訴える瞳。
なら、信じてください、刹那。
「前にも言いませんでしたか? ベッドの中では少佐と呼ばないように、と。これは命令ではありませんが、できたらウォン、と呼んで下さい。少佐、と呼ばれると、上司の権限であなたを無理矢理抱いているようで、厭なんですよ」
「え」
刹那はぽうっとなって、
「そんな……俺は、そんなこと全然思いません……だって、俺、少佐が……」
少佐が好きなんです、抱かれるのが好きなんです、とまではさすがに言えないらしい。無理に言わせることでもないので、柔らかな微笑みで受け止め、刹那から掌を離した。
「なら、ウォン、と呼んでください。もし、私を恋人だと思ってくれるなら……いいえ、少しでも嫌いでないなら」
刹那は少しだけためらって、それから、精一杯の気持ちをこめた瞳で相手を見つめ、
「……ウォン」
その瞬間、ウォンは泣きだしたくなった。
キース様。
貴方にこうやって名前を呼ばれたい。
貴方を今すぐ抱きしめたい。愛撫でとろとろにとろかして、私の事しか考えられないようにしてしまいたい。離れたくない、としがみつかせて、泣かせたい。
キース様。
だが、潤みかけた相手の瞳を見て、刹那は誤解した。自分の台詞に感動しているのだと思ってしまい、おろおろとなだめにかかった。
「あの、泣かないでください……俺、本当にウォン、て呼んでもいいんですか」
「ええ。呼んでください。何度でも」
「……ウォン」
それから刹那は、繰り返し相手の名を呼んだ。
薄闇の中、いつしか二人の熱い吐息が、それに変わった……。

――――― 4.CARLO/KEITH

「キース様、おかげんはいかがですか?」
「カルロか。いい方だ」
「入っても構いませんか」
「ああ」
テレパシーでの応答。ただし、最小の波動で。
キースはここしばらく、とある廃アパートの半地下の部屋で暮らしていた。傷は自力で直していた。化学的な方法と超能力と自然治癒力をあわせると、かなり早いスピードで体表面の傷が消えた。食糧と水、その他日常生活に必要なものは、三日おき程度でカルロが差し入れにくる。私のことはあまり気にするな、とは言ってあるものの、有難くもある。静かな暮し、生活の心配のない暮しは、キースの精神を落ち着かせた。もちろん軍に対する警戒は怠れないし、身の回りの雑事は一通りこなさねばならないが、誰にも会わずにすむ毎日、誰の相手もせずにすむ毎日は、平穏の一言に尽きる。
こんな日々を過ごしてしまうと、自分が総帥の激務をこなしていたことが不思議になってくる。よくやっていた、と我ながら思う。幼い頃から超能力者として狙われ、研究所で惨い目に遭わされた日々も苦しくてたまらなかったが、ノアを設立してからの忙しさ、辛さはその比ではなかった。敵も味方も彼の心をかき乱し、悩ませ、追いつめた。安らぎなどなかった。いや、安らぎはあった。愛する者の腕の中で眠るひとときには。それだけではない、彼がいてくれたからこそ、あの生活のすべては成り立っていたのだ。だが、今は、もう。
カルロは荷物を置き、珍しく晴れやかな笑顔でキースの椅子の前に立った。
「今日は、いいお知らせを持ってきました」
「いい知らせ?」
「はい」
キースが椅子をすすめると、カルロはかろやかにそこへ腰を降ろした。そして、きゅっと自分の拳を握り、
「僕たちは、ノアを再建します。基地が――つまり、器が、完成しました」
「なんだって?」
「すっかり元通りの建物です。いえ、土地柄の関係で深度その他違う部分もありますが、耐久性にしろ、機密保持にしろ、設備にしろ、超能力防護壁にしろ、以前とほぼ同じレベルに達している自信があります」
「本当なのか」
なるほど、それでカルロは、こうして見舞いにくる時に、いちいち前の基地の話をきいていったのか。時々妙なことを尋ねられるので、おかしいとは思っていた。地下の超能力防護室には実際にどのくらいの人間が収容できたのですか、などと細かいことまで。
だが。
「その資金は、どうした? 相当の金が必要だろう。どうやってつくった」
キースが目を細めていぶかしむと、カルロは不思議な笑みを浮かべて、
「それは、今はきかないでください。僕程度の力の人間でも、あったものをもう一度つくることは出来る、ということです」
「なるほど」
カルロの詳しい生い立ちは知らない。だが、富裕な家の出らしいことはきいているが、彼も妹も語りたがらないのであえて踏み込んだことはない。骨肉相喰む、というやつで、小さい頃は血族感の憎しみの中で生きてきたらしい。金のあるところでは余計な憎悪もうまれやすい。彼の国柄ではマフィアがらみもあるかもしれない。なるほど、資金源はおそらく、尋ねてはいけないものであるのに違いない。なまじな国やサイキッカーより、怖い相手であるのだろう。
カルロはキースをじっと見つめた。
「キース様。怪我の方は、もうだいたいよろしいんですよね」
「ああ。超能力を使わなくとも、立って歩くことができる。体力はだいぶ落ちてはいるが、これもいずれは回復するだろう」
「なら、構いませんね」
「何がだ?」
カルロは立ち上がり、キースの前にひざまずいて、その手をとった。
「ですから、準備は整ったんです。キース様、皆の元に戻ってください。そして、新生ノアの総帥として、世界中のサイキッカーに呼びかけて下さい。皆を導いてください。迷える同志を救って下さい」
キースの心は、シン、と冷えた。
何を言っているのだ、この男は。
僕の仕事はもう終わっているということが、どうしてわからない。
「新生ノア、か。……それは、君がつくったんだろう。総帥は君がやればいい。あの規模の基地をつくれるなら、人材がいるのなら、君がテレパシー放送をすればいい。君にだってやれる。必ずな」
キースが低く呟くように言うと、カルロはキースの膝にすがりつくようにして、
「僕では駄目なんです。僕には総帥の器がありません。それだけの力がありません。あなたはノアを、一からつくった人です。新しいものをつくりあげるエネルギーがどれだけ莫大なものか、僕にはわかります。キース様はそれを持っていらっしゃるんです。僕にはない。それに、何よりもあなたのカリスマ性が、あなたの求心力が、ノアには絶対に必要なんです」
キースはうるさそうにそれを払って、
「なら、あの爆発の時、私が死んでいた、としたら? 君の基地は、まったくの無駄になるというのか?」
「キース様」
さらに懇願しようとするカルロを押しとどめるように、
「私はまだ、皆の前に姿を現していないんだ。だが、それでもそれだけのものが出来たんだろう? 本当に私が、新しいノアに必要なのか? 私の仕事は、ノアが終わった時点でもう終わっている。そうは思わないか?」
「そんな」
「いいかカルロ、人権運動というものの歴史を君はどれだけ知っている? どんな差別も、たった一人の英雄によってくつがえされたことはない。多くの優れた人材と、多くの精力的な組織が生まれて、彼らがそれぞれの考えで、それぞれのやり方で動いていくうちに、少しずつ人の意識も代わり、時代も変わってゆくんだ。すべてそうだ。私達だけが例外にはなれない。もし、このサイキッカー狩りがずっと続いて、にもかかわらず私以外に立ち上がる者、旗を振る者が現れないならば、超能力者の理想郷など絶対につくれはしない。そして、つくれたとしても、それは決して続くことはない。人は変わる、人は死ぬ、誰か一人に寄りかかっているうちは、本当の正義など行われないものだ。もちろんすべてでなくともいい、だが、多くのサイキッカーが、それぞれに戦う術を身につけ、それぞれの場面で抵抗していかなければ、悲劇は増えるばかりなんだ」
かつてのように滑らかな弁舌。
圧倒されて、カルロはしどろもどろになった。
「ですが、僕達には、キース様の力が……必要……なんです」
キースはうなずいた。
「それはわかっている。君の手伝いはする。私でわかることはみな教えよう。だが、大幅な方向転換はまぬがれないと思ってくれ。忘れないで欲しい、君に出来ないことは、他の者にもできないし、これから生まれるサイキッカー達にも、ついてはこられないことなのだということを。手の届かない高みを目指すだけでは駄目なんだ。日々出来ることをやっていかなければ、な」
「わかり……ました」
カルロはすっかりうなだれてしまった。
「キース様の生死は、皆にはもうしばらく伏せておきます……」
「わかってくれたか」
カルロは渋々うなずいたが、ふと顔をあげて、
「ですが、基地には……来て下さい」
「何故だ」
キースは首を傾げた。
「今のところ、ここに隠れていても、私に危険はない。お互い別の場所にいた方が、まだまだ便利なのではないのか?」
「いえ、実は……」
カルロの眼鏡の奥の瞳がひかった。
「バーン・グリフィスの事なのですが、まだ微弱な生命反応があるのです。現在、基地内で彼の治療を続けています。それで、キース様の能力も、彼の命をとりとめるために必要なのです」
キースはアッと声をあげそうになった。
まだ、バーンが生きているというのか。
僕の力で助けられるかもしれない、というのか。
「よろしかったら、力を貸して、いただけませんか」
それは脅迫と言う、という言葉をキースは飲み込んだ。
そうまでして戻って欲しいのなら、行かなければならないのだろう。
確かにこれは、僕の始めたことだ。この先を見届けなければならないのかもしれない。一遊撃者としてでなく、元総帥として、ノアに戻り戦わねばならないのかもしれない。
どのみち僕には行き場もないのだ。
「わかった。君と一緒に、行こう」
カルロは目を輝かせた。
「有難うございます。後日またうかがいますから、仕度をしておいて下さい」
「うん」
カルロは喜んで部屋を出て行った。
一人残されて、しばしキースは物思いに沈んだ。
「僕はいったい、何のために……生きて……」
そう呟いてベッドへ戻り、泥の眠りに落ちていった。
もう、眠りしか、彼の心を和らげるものは残されていなかったのである。
そして、ただ、時は流れて。

――――― 5.WONG/SETSUNA

執務室。
ウォンは自室の他に、昼間仕事をするためのこの広い部屋を軍基地内に与えられていた。黒檀の机の上に積み上げられた書類に目を通し、また、小型端末に飛び込んできた新情報をチェックして、デイタイムの彼は、貿易会社の社長時代と、つまり有能なビジネスマンであった頃と少しも変わらない。軍の内部にいることで多少不自由がなくもないのだが、軍の監視をくぐり抜けて情報収集する手段も特殊ネットも持っているので、仕事が滞ったり、軍の動向を決定的に掴みそこねたりすることは今のところない。外部の視点がもう少しあれば、と思う時がなきにしもあらず、ではあるが。
「失礼します、少佐」
刹那が執務室に入ってきた。定時の訓練が終わって、その報告に来たらしい。デスクの前で軽く敬礼し、
「本日の実験、終了しました。特に異常はありませんでした」
「わかりました。お疲れ様です、刹那」
ウォンは書類から顔も上げずに答えた。
刹那の闇の超能力はほぼ開発し終わっていた。後は本人がどれだけうまく使いこなすか、という状態にまで仕上がっているのである。技が安定しなかった頃は、いちいちウォンも訓練を見にいき、チェックと激励を欠かさなかったが、もうこの時点に到ってしまっては改めて指導することもない。本人がさらに研鑽する気があればそれでいいし、なくてもそれなりに使えるようにはなっているのだから。
そんな訳で、ウォンは昼の刹那にもう深い興味を持っていなかった。定時報告だけでいい、後は勝手にやりなさい、という態度なのはそのせいだ。サイキッカーになったから可愛がっている訳ではないともう言ってあるし、昼間はあくまで上司と部下なのだから。
だが刹那は、そっと机をまわって、ウォンの脇にやってきた。
ウォンが知らん顔を続けていると、刹那は静かにひざまずいて、それから、ウォンの膝にふわりともたれかかった。
ウォンは何も言わない。
刹那はじっとして、服の布越しに、相手の肌の熱さを感じている。
ウォンは黙って、仕事を続けている。
いつまでもたっても何も言われないので、刹那はようやく顔を上げた。低い声で囁くように、
「……少佐」
なんとなくさみしくて身を寄せただけなのだが、きつく叱責されると思っていた。昼間からなんです、今ここに誰かが入って来たらどうするんです、と。
それなのに。
もしかして、甘えていても、いいのだろうか。
机の影だし、入ってきた者にすぐに見られるという訳でもないし。
「少佐、もうしばらく、このままでいても……いいですか」
「誘っているんですか?」
ウォンはようやく書類を置いた。声は厳しかったが、刹那の上に降ってくる視線は優しかった。
「私は木でも石でもない。そんなところにしがみつかれて平気でいられるほど、悟りすましている訳では、ないんですよ」
「あ」
刹那は赤くなった。少佐はいつもの冷静な顔のままだったから、そんなことを言われるとは思ってもみなかったのだ。
ウォンの声がふと和らいだ。
「そんな綺麗な瞳をして……刹那」
澄んだ菫いろの瞳は、ウォンの口吻に甘く潤んだ。
「この部屋の奥にもベッドがあります。しましょうか?」
「……はい」

熱く息をはずませて、刹那。
「ん……」
今晩はきっと少佐は部屋に来てくれない、と思うと、昼間だということも忘れて何度も求めてしまう。少佐の執務の時間を削っているとわかっていても、止められない。ウォンは刹那をあやすようにしながら、その求めに応じて幾度となく抱いた。
「ウォン……」
陶然として、やっと刹那はウォンの胸に寄り添った。
「満足、しましたか」
「はい」
毎晩抱いてやっている訳でもないし、まだこの年齢ならば昼からでも欲しいか、などと思いつつ、ウォンは刹那に一つの疑問を囁いた。
「刹那は、私に抱かれるのを、屈辱と思うことはないんですか?」
「え?」
刹那は驚いてベッドから身を起こした。
「なんで屈辱なんですか? 俺が男だからですか? 確かに、もし今少佐以外の男に無理強いされたら、それは俺だって屈辱だと思います、だけど……」
ウォンはなるほど、と思った。この青年も、信頼している相手なら、愛情を感じている相手なら、抱かれてもあまり厭でない、というタイプか。ある意味、くだらないプライドがなくていい。
ウォンはしんみりとした声を出した。
「いえ、ただ、私は白人ではありませんからね。東洋人だと珍しがられることや、蔑まれることも多いのです。ただでさえ中国人は煙たがられるんです、怪しげな術を使えるのはチャイニーズだからだろう、などと言う輩もいるんですよ」
軍に連れてきたサイキッカーの中でも、ガデスあたりはそんなことを考えているようだ。うさん臭い男だ、信用できねえ、と影で言っているらしい。まあそれはお互い様なので、本当はなんとも思っていない。
だが、刹那は同情深い顔になり、
「煙たがるなんてとんでもない、少佐はご立派です。少佐は元々、青年実業家だった方なんでしょう? 有能なビジネスマンで、資力だけで世界を牛耳れる方だって、みんな噂してます。それなのに、どうして軍なんかに来たんだろうって」
なるほど、商売上手を青年実業家などと言い替えるか。ウォンが感心していると、刹那は新たな疑問をぶつけてきた。
「それに、白人じゃないっておっしゃいますが、少佐の瞳、少し青が入ってるじゃないですか。どうしてですか? サイキッカーだからじゃないですよね」
あまり明るくない生まれ育ちを刹那には全く話していないし、今更話すつもりもないので、ウォンは少し考えた。そして、質問を返すことにした。
「刹那こそ、どうして軍に来たんですか? 単に力が欲しいだけなら、もっと早く入隊してくるでしょう。この年になって、どうして?」
「俺……は……」
刹那は急に口が重くなった。
肌をあわせている今、心の中をのぞくことはかなり簡単だが、ウォンはそれをあえてしなかった。
しばらく待っていてやると、刹那はぽつりぽつりと自分の身の上話を始めた。
家が貧しい農家だったこと。
都会に憧れていた自分は、それがとても厭だったこと。
しかも親父はお人好しで、土地や作物を何度も騙し盗られてしまったのに、相手を訴えることもせずに細々と仕事を続けた。だが、さすがに生活がきびしくなり、母もあきれて家を出ていってしまった。家を継ぐつもりはなかったが、刹那は家に残っていた。親父は悪い人間ではないし、学校も途中までは行けた。若い頃は、いつかなんとかなるだろうと思っていた。
だが、現実は甘くなかった。
彼らの家と畑が、ある日完全に奪われてしまったのである。
刹那ももう成人していた、こうまでされてはさすがに許せず、親の言うこともきかずに相手にねじこみに行った。
彼は相手に酷い目に遭わされた。
裁判に訴えても無駄だった。もう一度昔の畑に仮住いを構え、何年も争ったが、その間、理不尽な暴力が何度も彼を襲った。死なずにいられたのが不思議なくらいだった。
刹那は絶望した。
暴力にではない。
その時、彼の親が、「我慢するんだ、我慢だよ」としか言わなかったからだ。
そして、悪いのはおまえだよ、私達のような貧乏人には、力のないものは、金持ちや力のあるものに逆らってはいけないんだ、と繰り返した。
刹那の怒りはその時、すべてこの父に向いた。
物の売り買いが下手なのは仕方が無い。何度も騙されたのも、騙す方が上手だったのだろう。力のないものが力あるものにただ逆らうのは、無謀な行為であるというのも正しいだろう。
だが、瀕死の息子に、あなたは、「おまえが悪い」と言うのか。
大事な一人息子が乱暴されたというのに、ああなんと酷いと泣いてもくれず、そして、決して相手と戦おうともしてくれず、当然抗議すらしてくれず、だが俺だけを責めるのか。
それをあなたは、庶民の知恵というのか。
違う。それは意気地なしだ。
いや、意気地なしでさえない。
すまない、私におまえを守る力がなくて、ともし言われたなら、彼は親を許したかもしれない。
だが、いくら責めても、何の言葉もきけなかった。
刹那は家を出た。
もう、あの人は親でもなんでもない。
俺は、絶対にあの人のようにはならない。
そう考えて、しばらく放浪した。
裁判のために十代最後から二十代半ばを無為に過ごしてきた彼には、定職というものが考えられなかった。知っているのは百姓の仕事のことだけ、しかもまずいやり方しか知らない。それに、彼自身、何が欲しいのかよくわかっていなかった。都会に出ても彼を夢中にさせるものはなく、また、大金を稼ぐだけの才覚も彼にはなかった。
そうして刹那がたどり着いた先は、軍の志願兵だった。
かなり細いが、護身のためにある程度きたわっていて頑健だった彼は、雇われ兵士に向いていた。
そして、人工サイキッカー計画をきいた時、これだ、と思ったのである。
俺が欲しいのは力だ、絶対的な力だ、と飛びついたのだった。
「なるほど」
話を聞き終えたウォンは、よしよし、と相手の背を撫でてやりながら、
「……刹那は、お父様がとても好きだったんですね」
「えっ」
刹那が目を剥くと、ウォンは優しく続けた。
「もし、嫌いだったなら、あなたもお母様と家を出ていた筈です。大人になってから、お父様の家や畑を守ろう、と立ち上がったりなどしなかった筈です。あなたを見ればわかります。あなたはいい青年だ。お父様もきっといい方だった筈です」
「俺は別に、親父のことなんか……親父なんか大嫌いです。あんな男、好きだったことなんてありません。俺は親父のために戦ったんじゃない、俺は、親父になんか全然似ていません!」
刹那はひどくムキになった。
どうやら図星のようだ。刹那が父に対して怒りを感じているのは、そうまでしても正当な愛情をもらえなかったからだ。子供の不満なのである。まあよくある話だ、自分自身の小さな世界で精一杯の男が、息子を愛し守るだけの器量を持てない、ということは。それは仕方のないことだ。だが、子供にとってはそれはたまらないことだろう。外ではなんと罵ろうと構わない、だが、二人きりになった時、可哀相に、と泣いてさえもらえなかった息子は、殴られただけ損だろう。そして、殴られたことよりも、責められたことに深く傷ついて。大人であっても、身内に味方をしてもらえないということは、あまりに辛く寂しいことだ。幼い頃のウォンには母がいた。母が優しさも誇りも持たせてくれた。それがいつも、彼の支えとなっていた。だが、刹那にはそれすらなかったのだ。
「そうですね、そうなんでしょう。……わかりました」
ウォンはそれ以上、相手の暗部をさぐるのをやめた。
そんなところを突つかれて、嬉しい者もいなかろう。いじめるために話をきいた訳ではない。もっとこの青年を理解したいと思ったからだ。
もう一度、ウォンは優しく刹那を抱き寄せた。
「可哀相に、刹那」
「あ、少佐……」
「辛かったでしょう、刹那。ずっと独りで。寂しかったでしょう。ね……」
「いいんです、そんな、俺は、別に……」
言いながら、刹那の瞳は潤んでいた。相手の手だとわかってはいる。同情の言葉を並べるだけならどんなにたやすいかということは、刹那だって知っていた。
それでも、いつの間にか大声で泣きだしてしまっていた。
俺はもう何度、少佐の胸で泣いているだろう。人前で泣いたことなど、今までほとんどなかったのに。流れるのは悔し涙ばかりで、嬉しい時や悲しい時に泣くなんてことはまずなかったのに。
どうしてだ。
少佐の前だからか?
刹那はだんだん落ち着いてきて、それから深く反省をした。自分から身を離し、そして頭を下げた。
「すみません、少佐の貴重なお時間を……昼間から奪ってしまいました……」
ウォンは磊落に笑った。
「いいんですよ、刹那。急ぎの仕事もありませんでしたしね。それより、時々ここでしましょう」
「えっ」
刹那が驚くと、ウォンはあたりを見回して、
「あなたの部屋も面白いですが、この部屋も小じんまりとしていて意外に落ち着きますからね。執務室の奥まで侵入してくる者もいませんから、時々ここで逢いましょう。スリルがあって面白いでしょう?」
「……はあ」
冗談とも本気ともつかないので、刹那は曖昧にうなずいた。するとウォンは嬉しそうに手をあわせ、
「では、決まりです。大丈夫、今晩はあなたの部屋に行きますから」
「し、少佐!」
刹那が思わず赤面するとさらに楽しそうに、
「たっぷり可愛がってあげますからね、覚悟していて下さい」
「そんな」
俺は今日はもう、と言いかけて刹那は言葉につまった。さっきまで誘っていたのは俺なのに。昼間からあんなに求めたら、そう言われても仕方がない。それに、もう駄目です、なんて、恥ずかしくて、言えない……。
ウォンは青年実業家らしい若々しさと爽やかさで、刹那に軽くくちづけた。
「大丈夫ですよ、ひどくはしませんから。それより、夜まで眠って少し休んでおいてください、ね?」
笑って服を着込み、執務室に戻っていってしまった。
刹那はしばらく、ベッドの上から動けなかった。
眠っていたのではない。
恥ずかしくて、たまらなかったのである。
「少佐……」
少佐が好きだ、と改めて思った。
そして、左胸を押さえて、小さく呟いた。
「……俺の、少佐」

――――― 6.KEITH/WONG/CARLO

もう、だいぶ夜も更けた。
眠い。疲れもかなり激しい。目がかすんできたし、身体のあちこちが痛む。
だが、決めなければならないことがまだある。今日のうちにやっておかねばならないことが、まだ、残っている。
実はキースは、今晩は一度ベッドに入っていた。だが、起き出してしまったのだった。
眠れない。眠っていられない。
気持ちばかりが焦る。ミスも出てくる。そうじゃない、そんな策をうとうとした訳じゃない、それでは同志の退路を断ってしまう、僕がしたいのはそんなことじゃなくて、もっと安全に彼らを逃がすことだ……焦るな……もし、ここで仕損じたら……だが……。
その時、ウォンがシュッ、と微かな物音をたてて現れた。
「キース様」
「君か」
いつものように手伝いにきてくれたのか、とキースはほっとした。アドヴァイスが欲しかった。相談がしたかった。これは僕の手に余る。だが、しなければならない仕事だ。どうしたらいいんだ、どうしたら。
しかしウォンは、キースの額にすっと掌をあて、軽く眉をしかめた。
「少し、熱いですよ。また、無理をなさって……」
「たいしたことはない。それより、手伝ってくれ」
「ええ」
ウォンはキースの手元に視線を落とし、いくつかの仕事を取り上げて、後をさっと片付けてしまった。
「そうですね、早急に手当てが必要なのは、これとこれでしょう。後は、もう少し時期を見るべきだと思います。ああ、ここには揺さぶりをかけた方が良いでしょう。すると、こちらがすぐに動き出す筈です。その場合、二種類の対応が考えられますが、とりあえず最悪の状況を避けるには……」
キースが迷っていた部分を手際よく分析しその後の手配の方法を示すと、ウォンはにっこり微笑んだ。
「さあ、今晩はここまでにしましょう。あとは、明日です。それで間に合います」
「だが」
「貴方はもう今日の仕事を終えました。ですからもう、いいんです。もう、眠ってもいいんですよ」
そう言って、ウォンは優しくキースの頭を撫でる。
キースは気持ちがふっと楽になるのを感じた。
その言葉をききたかったのだ。もちろん、いつ休息をとるかというのは、自分自身が決めることだ。だが、他人の手が、言葉が、どうしても欲しい時がある。
キースは、ウォンの胸元にそっと身を寄せた。
「一度、眠ってみようとしたんだ。でも、眠れなかったから」
「不安、なんですね」
「うん」
目を閉じようとすると、突然怖くなる時がある。いろいろな考えが頭をかけめぐる。今日出来なかったこと。誰も救えなかったこと。一日がただ無駄に終わって、たぶん明日もなにもなしえないだろうこと。それなのに、僕などが人の上にたっていてもいいのか。
世界を急に変えることが無理だということは、よくわかっている。もし急に変えれば、それだけ大きな反動がくる、ということも。簡単に解決する問題など一つもない、ということも知っている。自分がしていることのすべてが正しいと思っている訳でもない。だが、それでも何かしたい。この僕に出来ることを。助けを求めてくる者達に、できるだけのことをしてやりたい。そうでなければ、僕が大勢の仲間の命を犠牲にしてまで、今日まで生き延びてきた意味など、ない。
ウォンは低く囁いた。
「キース様。不安になるのはわかります。そういうお気持ちになるのは、当たり前の事です。ですが、せめて私の腕の中にいる時は、他の事は忘れて下さい。貴方の憂いをすっかりぬぐいさることは私にはできないのでしょうが、今だけは……こうして抱いていますから、今だけは安らかでいてください」
「でも……」
「それとも、私など信用できませんか? かえって安らげないでしょうか」
ウォンが微苦笑に口元を歪めると、キースははっと顔を上げて、
「信用してない訳じゃない。ただ、僕は……」
「キース様。キース様は、世界中のサイキッカーの苦しみを救うのが、御自分の仕事だと思っていらっしゃるのでしょう? ならば、私の苦しみも救って下さい。不安で眠れない貴方を見ているのは、結構私も辛いものなんですよ」
キースの口唇にも苦笑が浮かんだ。そう言われては、ベッドに入るしかあるまい。
「わかった。眠る」
「ええ」
いつものように軽がると寝台まで運ばれて、キースはほっとため息をついた。
「ウォン。本当に眠ってもいいのか?」
今夜は触れなくてもいいのか、と尋ねる前に、ウォンはキースの口唇に指で触れ、
「ええ。ゆっくり眠って下さい。もし、私を少しでも哀れに思うなら……」
哀れに思う?
どういう意味だ? 聞き間違いか?
僕はウォンを哀れんだことなんかない。同情で肌身を許していた訳じゃない。それなのに、どうしてそんなに苦しそうな顔で、僕を見つめるんだ。
君は、もしかして、苦しいのか?
何故?

「キース様。起きて下さい、キース様」
気が付くと、目の前にカルロの顔があった。
「ああ、君か」
いけない。デスクで眠ってしまっていたらしい。
先ほどまで仕事をしていたのだが、疲れが出たらしい。カルロが後で来ると言っていたので、それまでは寝ないつもりでいたのに、ついうとうとしていたのだ。
「すみません、これに目を通していただけませんか」
「ああ。わかった」
新生ノアの基地は、前と多少違いがありこそすれ、確かに立派なものだった。キースはカルロに連れられてここへ来て、そして地下にある秘密の総帥室へ入った。
キースの希望通り、彼がここにいることは、内部のメンバーには伏せられていた。
だが、情報というのは洩れるものである。
カルロの動向を疑っているものや、キース・エヴァンズに希望を抱くものは、それなりに周囲をうかがっている。敏感にもなっている。
キース様はやはり生きている、僕達のために戻ってきてくれたのだ、と新生ノア内部に活気が生まれつつあった。
当然、仕事は増える。
それなのにカルロは、細かい決定事項まで、いちいちキースのところへ持ち込んだ。そんなことは以前の総帥時代でさえ考えたことはない、決めにくいことはそれぞれ適当な人材に割り振るんだ、とその都度話してやるのだが、なかなかそれが出来ないらしい。
キースはカルロの持ち込んだ資料を見、軽く舌うちした。
カルロはどうも、基本的に勘違いをしている。ノア自体が理想郷なのではない。この場所は皆の一時の避難場所でしかない。一カ所にとどまろうとするものはすぐ腐敗する、力が衰える。超能力者だけの新しい国などつくれはしない。それぞれの地域で状況も違う。それなのにカルロは、むやみに同志を募ろうとしている。それだけで軍に戦いを挑もうとしている。
だが、それでは駄目なのだ。数だけでは戦えないのだ。それぞれがやるべきことを胸に抱き、やれることからやっていくようにしなければ、何も解決しないのだ。何のための武力行使なのだ。人間達を怖がらせるだけ怖がらせて、その後どうしようというのだ。理解されることも大切だ。威嚇も、話し合いの場も、駆け引きも、人間との交渉にはありとあらゆる場面が必要なのだ。ノアが大きな組織で、目立つ旗印であればあるほど、様々な手段を講じなければならないというのに。
実際こんな調子では、ガデス達が出ていってもしかたがあるまい。彼らを僕は責められない。
「キース様」
カルロは、期待に満ちた瞳で、それぞれについて意見を求めてくる。
「ああ……そうだな、これは、私が思うには……」
うっとおしい。
とりたてて急ぎのものなんか、ないじゃないか。
こんな時、ウォンなら眠らせてくれるのに。
バーンはまだ目覚めず、氷温カプセルの中で治療が続けられている。
キースの心の中で、バーンはもう死んだ友だった。生きていると思うには、期待も希望も、あまりにも薄すぎて。
ああ、僕なんか、助けようとしたばっかりに。
一通りの意見をすませると、キースは資料を放り出した。
「もういいか? 少し休みたいんだ。一人になりたい」
「あ、はい、わかりました」
カルロは資料をかき集めて、立ち上がった。そそくさと退出する。
「それでは、失礼します」
「ああ。おやすみ」
不機嫌な声に送り出されながら、カルロはドアの外に出た。
だが、そこでほうっと資料を抱きしめた。
「……キース様」
その瞳に、切ない想いがにじんで。
そして、低く呟くように。
「おやすみなさい、キース様……」

――――― 7.WONG/SETSUNA/KEITH

それは、執務室の奥の部屋を逢い引きに使いはじめてから、何度目のことだったか。
「?」
刹那はふと顔を上げた。
ベッドに腰掛けたウォンの膝の上に乗せられ、後ろから愛撫されている時、どういう仕掛けか、ふと室内の灯火が明るくなったのだ。
「あ……え?」
少佐の掌の動き、身体の動きに気をとられていた刹那は、目の前にあるものが一瞬なんだかわからなかった。この部屋の中に黒い大きな衝い立てがあるのは何度も見ていた。だから、それが立っているだけだと思っていた。
だが、今日は、それが大きな鏡だったのだ。
「……な……」
刹那はきゅっと身が引き締まるのを感じた。
そこには、少佐と自分の姿が映っていた。後ろから濡れたくさびを打ち込まれ、自分がそれを深く飲み込んでいる様が、足を開かされているために、はっきりと。
なんて、淫らな。
「駄目です少佐、こんな……駄目」
「ウォン、厭だ、と言うんですよ」
厭なのではない、ただ恥ずかしいだけなので、刹那は困ってしまう。口唇を噛みしめてこらえようとするとウォンは薄く笑って、
「なるほど、厭ではないんですね?」
「あっ」
急所を巧みに突かれ、甘くとろかされて刹那はのけぞった。
「駄目です、少佐……もう……」
「だから、ウォン、と呼びなさい」
「ウォン……」
「そう、欲しがるんです。何度も名前を呼んで、欲しい、と言うんですよ」
「あ……はっ……」
欲しい、とはさすがに言えないけれど、屈辱の感情は不思議に湧いてこなかった。それよりも愛されている実感の方が強い。膝に乗せられて子供のようにあやされているような安心感もあって、でも熱く長く硬いものでかき回されて、切なくも苦しくもある。
しかも、あの鏡に映った自分の姿の浅ましいこと――俺は、なんて顔をして少佐に抱かれてるんだ。快楽に醜く歪んで――いつもこんな様子なのか。全身を血のいろに染めてこんなに身悶えて。
目を閉じてしまえばいいのだが、それすら恥ずかしい。少佐に全部見られているのだ。視線を反らせたり今から瞳をつぶったりしたら、何と言われるか。
そう考えた瞬間、ウォンの掌が刹那の前を滑った。
「綺麗ですよ、刹那。ここだけでなく、全身が薔薇いろで」
「や……もう、止めて下さい……ウォン……」
「やめません」
「あ」
「可愛い、刹那」
「あ……んっ!」

何度も放って、ぐったりとベッドへ身を投げ出した刹那は泣いていた。悲しいとか苦しいのでない、ただ涙が流れるのだ。
汗と涙に濡れたその瞳の縁に、ウォンは軽くくちづけて、
「今夜はだいぶ泣かせてしまいましたね。でも、一度、あの時のあなたがどんなに綺麗か見せてあげたかったんですよ。どんなに悩ましくて、どんなにそそるか……」
そう囁かれて、刹那は再び身体を火照らせた。ウォンは淡く微笑み、青年の髪を撫でながら、
「恥ずかしかったんですね。わかりますよ。でも、厭ではなかったでしょう? それに、あんなに感じていたんですから、ね?」
刹那は涙ぐんだまま、
「別に、恥ずかしくなんか……平気です」
「おやおや」
ウォンは刹那の耳元に口唇を寄せ、軽く吐息を吹きかけた。それだけでもア、と小さい声を上げてしまう刹那をそっと抱きしめて、
「泣きながら、平気だ、なんて言わないでください。まるで、虐めているみたいでしょう。……いえ、そうですね、あなたが恥ずかしがることがわかっていてしたんですから、虐めたことになるんでしょうね。でも」
じっと菫いろの瞳をのぞきこんで、
「恋人が恥じらう様子というのは、妙な話ですが嬉しいものなんですよ。信頼してくれているからこそ、恥ずかしくても拒みきれないでいるんだと思うと、ひどく愛しくなるんです。たとえそれが演技でも、その媚態に騙されてしまいたくなるんです。そんな風につよがる姿も愛らしいですが……とてもあなたらしくて、私は好きなんですが」
「少佐」
刹那はやっと泣くのをやめた。
瞳がとろんとなって、ウォンを見上げる。口吻が欲しいのだ。
軽くくちづけてやると、刹那は甘いため息を洩らした。
「ん……」
可愛い。
だが、その瞬間、ウォンの胸の中に別の面影がさした。
キース様。
あの人はつよがるというよりも、最初は無感動を装っていた。まだ打ち解けていなかったのだ、あの頃は。素直に心を開いてくれるようになってからは、恥ずかしがったり甘えたりしてくれるようになって。でも、そうなると、今度はこちらが戸惑うようになった。
なにしろ、キース・エヴァンズが相手では、今晩刹那にしたようなことは出来ない。あの人は後ろから抱きしめられることは嫌いでないが、そのままバックでされるのは厭がったからだ。
「駄目だよ、ウォン。出来ない」
「何故です? 立ったままではしませんよ」
「そうじゃ、なくて」
人によっては無様なようす、屈辱的なポーズだと嫌うので、そのせいかと思ったら、彼は薄く頬を染め、
「だって、後ろだと君を抱きしめられないだろう。怖くなった時、君の胸にしがみつけないじゃないか……それに、顔が見えないと、寂しいし……」
なるべく多く触れあっていたいから、という語尾がかすれて、首まで朱くした。
この人は、自分の言っていることがわかっているのだろうか。しがみつくといっても貴方の場合、強く抱き寄せるようなことは滅多にしないのに。
それとも、我慢していたのか?
この、甘えん坊が?
キース様。
その時の様子を思いだしただけでたまらなくなり、ウォンは刹那を強く抱きしめた。
「少佐」
「今晩は、この部屋で眠っていって下さい。あなたと抱きあったまま、眠りたい。このまま隣にいて下さい」
「……はい」
刹那はうなずき、ふと気付いた。
この人は寂しいんだ。さっきは俺にあんなことをしたくせに、その俺の胸にこんな風に甘えようとするなんて。
でも、この瞳の翳りは、いったいなんなんだろう。
たぶん、少佐は誰かを求めているのだ。
それは、誰なんだろう。
俺は、その誰かに、なれるんだろうか。
単なる実験体や愛人なんかじゃなくて、少佐にとって必要な人間になれるんだろうか。
刹那はおずおずと腕を伸ばし、ウォンを静かに抱きしめた。
ウォンは一瞬、ドキリとしたように身をこわばらせたが、あくまで優しく刹那を抱き返して、こう囁いた。
「あなたの闇の中で、眠りたい……」
闇は、時に安らぎでもある。刹那のような、根の悪くない人間の持つ闇は、本来的には甘く懐かしいものだ。
「もし、ウォンが、そうしたいのなら……」
次の瞬間、灯火が細くなった訳でもないのに、部屋はまたたくまに深い闇に沈んだ。
その中で、何かが蠢く音がしばし。
だが、すぐにそれは規則正しい呼吸に変わっていった。
二つ、よく重なって。

――――― 8.KEITH/WONG/CARLO

身体がうずく……。
その晩、久しぶりの情動にかられて、キースはそっと自分の胸と足の間に掌を伸ばした。
もう、誰かがくるような時間でもない。
キースはベッドに横たわり、好みの空想を探した。
ふうっと、触れられた記憶が、蘇ってくる。
熱い口唇が、舌が、指が、掌が、流れ落ちる髪がここをなぞっていった感触。
何度も囁かれる自分の名前。そして、愛の言葉。
優しい抱擁は、それだけで全身がとろけるよう、心に火が灯るよう。染み込んでくるようなぬくもり。潤みを帯びてこちらを見つめる昏い瞳。愛しげにこの髪をすく大きな掌。ふわりとかぶさってくる上半身と、そっとからめられる長い脚、滑らかな肌。思わず声を洩らしてしまうと、あやすように背を叩かれて、愛撫よりもかえって身体の芯が痺れてしまう。顎を捕らえられ、優しく口唇を吸われると、もう気が遠くなって何もわからなくなる。何もかも投げ出してしまうと、ヒタ、と寄せられた胸の鼓動のあまりな早さに驚き、こちらの胸も高鳴ってくる。
ウォン、君はそんなに、僕のことを――。
「んっ……」
肌が熱を帯びてくる。胸がときめく。小さな声が出る。ウォン。
「キース様!」
「カルロ……」
見られてしまった!
キースは全身が凍りつくのを感じた。
目の前に立っているカルロの瞳のいろは、とても尋常でなかった。その視線は、はだけられたキースの胸に、なまめかしく血のいろに染まっている白い肌に釘付けになっている。
何故いきなり入ってきた、こんな時間に、などと牽制する間もなかった。
カルロはキースに飛びかかってきた。
腕の中に抱きしめ、必死で口唇を奪おうとする。
「やめろ! やめるんだ、カルロ!」
キースは激しくもがいたが、カルロは力を緩めなかった。
「触れたかったんです、あなたに触れたかったんです。ずっと、ずっと、欲しくって……こんなあなたを見たら、もう……止められません!」
脚を堅く巻き付けられ、熱い身体を押し付けられて、キースは更にあばれた。
「やめろ!」
「嫌です!」
カルロの大きな掌が、キースの素肌を這い回る。がむしゃらに撫で回されて、キースは絶叫した。
「やめろ! 無理矢理そんなことをしたら、研究所の連中と同じだろう!」
一瞬、カルロの力が緩んだ。キースは相手をつきはなした。
カルロは大きくよろけ、茫然と床に膝をついた。
「すみません……こんな……つもりでは……」
そんなつもりではなかった、緊急に見てもらいたい仕事があって、この部屋に来ただけだった。だが、ベッドの上で乱れ、切なげな声を洩らすキースを見た瞬間、理性の糸が切れてしまったのだ。
ああ。
僕は、なんて馬鹿なんだ。
無理強いしようとするなんて。
収容所のケダモノ共と同じことを、キース様にしようとしていたなんて。
キースは服の乱れを整え、息を整えると、声を低めてさとすように、
「君の気持ちはうすうす知っていた。好きな相手に触れたいと思うのは当たり前のことだ。だから、いま君のしたことを責めようとは思わない。……でも、私は、君とそういう関係になりたくないんだ。悪いが、そういう気持ちになれない。……無理にされることが、どんなに嫌なことか、おそらく君も知っている筈だ。……わかってくれるな?」
「わかります」
カルロは涙ぐんでいた。
「すみませんでした、キース様。……許して……くださいますか?」
キースは口唇をつぐんだまま、じっとカルロを見おろした。
カルロはうなだれた。透明な滴が、その膝にぽたぽたと落ち始める。
「すみません。虫のいいことを……僕を許してくださらなくて構いません。でも、お願いですから、ノアから出ていかないで下さい。二度としません、ですから、ここに居て下さい。それだけで、僕は……」
「出ていったりはしない」
キースは短くそれだけ言った。カルロはその場につっぷすようにして、深く頭を下げた。
「有難う……ございます……」

カルロが少し落ち着き、部屋を出ていった後で、キースはもう一度自分の肌に触れてみた。
駄目だ。
湧き起こるのは不快感だけだった。
身体の怪我はほぼ癒えて、精神的にもだいぶ新しいノアに慣れた、と思っていた時期だけに、今のダメージは大きかった。
カルロに裏切られた、という思いではない、収容施設の中で受けた乱暴を、すっかり思いだしてしまったのだ。
「僕は、どうして今日まで生きてきたんだ」
心の中は真っ暗だった。
死んでしまえ、おまえなんか死んでしまえ、あんな辱めを受けてなぜ生きている。どうしてあの時死んでしまわなかった? 仲間も友人も皆おまえを置いていった、そして、恋人もおまえをあんな風に捨てていったのに、何故おめおめと生きながらえている?
キースは部屋のあかりを消した。
大きく目を見開いて、いつまでも、その闇をじっと見つめていた。
僕は、何故。
ああ。
すべてよ、凍りついてしまえ。

――――― 9.WONG/SETSUNA

怖い。
その日の少佐は普段と別人のようだった。
無言で部屋に押し入ってきて、すべてが終わるまでに彼が発した言葉はたった二言――「濡らしなさい」「足を開きなさい」だけだった。黙っていきなり犯されたほうがまだましだったかもしれない。その瞳の冷たいこと、表情の残忍なこと――あまりに恐ろしくて。
だが、それでも刹那は何度も濡れていた。
物のように扱われる快楽というのもある。性急で乱暴な愛撫に、被虐の欲望をひきずりだされでもしたのか、鋭い声をあげて彼はよく応えていた。
長い間、折檻にも似た行為が続き。
「……刹那」
汗がひえて冷たくなった刹那の胸に、ウォンはそっと顔を寄せた。
「大丈夫ですか? それとも、まだ、欲しいですか?」
「少佐の、御命令でしたら……」
刹那は目を伏せ、低く答えた。
抗議の気持ちはない。だが、これ以上は身がもたない、というのも事実だった。精魂尽き果てて、指一本動かすのもつらいほどなのだ。
「命令だなんて」
ウォンは静かに刹那の背を抱き寄せた。
「八つ当りをしてすみませんでした。あなたを怒っている訳ではありません、別のことで、少し苛立っていたんです」
ウォンの苛立ちの原因は一つではなかった。だが、最大の理由はキースの情報が入ってこないことにあった。今日も、某所に現れたという話がまったくの嘘で、それがあまりに腹立たしくて。
キース・エヴァンズ。
貴方は何をしているのだ。
貴方はじっと大人しくしていられる人ではあるまい。
新生ノアも動きだしている。そのやり方に、貴方の影響がはっきり見てとれる。それに、カルロごとき若造に、あれだけのことができる訳がない。
それなのに、貴方は何故姿を現さない。
まさか、あの程度の爆発で貴方が死んだとでもいうのか。
ありえない。そんなことが、あってたまるものか。
「俺、平気です……」
弱い声の返事があって、ウォンははっとした。謝ったばかりなのに、またキースのことを考えていた。なんとうかつな。この私が。
「俺……」
刹那の声が、一段高くなった。しゃがれたような、変に潰れた声で、
「少佐が……好きです」
「刹那?」
「愛しています、って言われるたびに、嬉しくてたまりませんでした。少佐の瞳が、俺を見てないことに気付いていても」
刹那は泣いているのだった。涙を流さずに泣いているのだった。
ウォンは言葉を失った。
「少佐が誰のことを考えながら、俺を抱いてるのか知りません。知りたくないんです。身代りだなんて思いたくないから……自分が抱かれてるのに、嫉妬に狂いそうになるなんて、嫌だ……」
刹那はウォンの胸を押し返すようにしながら、
「いいんです、愛されてなくても。可哀相だって思ってもらえるなら。少佐からもらえるなら、同情でも欲しいんです。おまえは馬鹿だって皆に笑われてもいい。おまえは束の間の愛人なんだ、すぐに捨てられるんだぞって嘲られたって気にしない。それで、いいんです。だって俺、少佐が……少佐が好きで、たまらな……」
「刹那」
苦しい。
この刹那は私自身だ。キース様に愛されている確信が持てず、不安になっていた時の私。
ああ、初めて気付いた。
この台詞は、言われても苦しいのだ。
貴方も苦しかったのですか、キース様。
私は貴方を、こんな風に苦しめていたのですか。
ウォンは強く刹那を抱きしめた。
「刹那。あなたさえよければ、あなたの束の間の恋人でいさせてください。もし私が、それに値するのなら」
「少佐」
刹那の目から、やっと涙が溢れ出した。
同情でも嬉しい。騙されていても構わない。
ああ、自分が情けない。こんなに好きだなんて。なにもかもさらけだして、懇願せずにいられないなんて。
「少佐、束の間でなくて、ずっと側にいたいんです。俺は少佐のものです。あなたしか見えないんです、あなたしか……」
「刹那!」
ウォンはきつく刹那を抱きしめた。
嘘でもよかった。こんな台詞を言われたかった。キース様に。
側にいたかった。いつでも、いつまでも、貴方といたかった。
寂しい。
寂しくてたまらない。
「刹那……刹那……」
激しくくちづけられ、抱きしめられて、刹那は再び身体の芯に火が灯るのを感じた。
少佐。俺の少佐。
あなたが好きです。あなたが……好き……。

――――― 10.KEITH

自室のシャワールームで熱い湯を浴びながら、キースは放心していた。
せっかく回復した身体も、毎日の激務でへとへとだった。
カルロのやっていることのすべてが間違っているとは言わないが、訂正してやらなければならない箇所があまりに多すぎる。これでは、自分が総帥として立った方が楽なぐらいだ――最後の手段ではあるが。
あまりにキースが人前に姿を現さないので、新生ノアの基地内ではキースが生きているというのは嘘ではないのか、という噂さえ流れている。カルロしか話をしていないなんておかしいじゃないか、と。まあ、それはそれで好都合だ。あまり彼らに頼られてばかりでは困るし、担ぎ出されて軍との全面戦争へ、などというのはもっと困る。だいたい軍では、サイキッカー部隊なるものが結成されたという。超能力者同志で争うことだけは、今の時点では避けたい。
とりあえず今は、カルロが他のメンバーから不信感をもたれない程度に手伝ってやり、現状を維持する、それが一番いいのだ。
いい、細かいことを考えるのはよそう。
今日は、もう休もう。
「ふ……」
シャワーを身体のあちこちにあてながら、キースは口唇を噛みしめた。
息が、乱れる。
血の巡りが良くなったせいだ。ずっと暖め続けているのは、軽く走るのより苦しい。だが、よく暖め、マッサージしておかないと、疲れがとれない。身体がこわばったままではぐっすり眠れもしない。
キースは強い水流を少しずつ位置を変えて、自分の肌にあててゆく。
「ああ、そうか」
ふと、キースは水流をゆるめた。椅子に座り、湯の温度を少しぬるくして、自分の脚の間にそっとあててみる。
「ん」
悪くない。
適度な刺激だ。
キースはゆっくり、指を動かしてみる。
「あ……」
水音に、微妙な音が絡まり始めた。
濡れた、久しく聞いたことのない、音。
カルロとのことがあってから、しばらくそこに触れていなかった。あの不快感を味わうのが嫌で。思いだしたくなくて。
だが、今晩は大丈夫そうだ。
時間が清めてくれたのかもしれない、過去の記憶も、何もかも。
それなら。
キースの指の動きが、少しずつ激しくなってきた。
熱い。
噛みしめた口唇から、喉の奥から、掠れた声が。
達きたい。もう。んん。
掌を動かしながらタイルの壁に寄りかかり、椅子の上で足を大きく開いて、キースは解放の瞬間を待った。濡れた音はそれだけで熱く、白い肌もあちこち朱く染まり出している。
あ、もう、駄目。
「あっ」
びくん、と身体が緊張し、大きく跳ねた。
溜っていたものが、激しく一気に溢れ出して。
「……嘘……だ」
キースはその場に、ずるりと崩れ落ちた。
信じられない。
達きたいのにまだ達けない、と思った瞬間、ウォンの笑顔がぱっと目の前に浮かんだ。
あっと思った瞬間に、放っていた。
信じられない。
他に何を考えた訳でもない、ただウォンの、あの普段の不思議な微笑みを思っただけだ。しかも、選んで思い浮かべた訳でもない。
それなのに、あんなに激しく達ってしまった。
荒い息をついたまま、タイルの床につっぷして、キースは泣きだした。
馬鹿。
ウォンの馬鹿。
本当はウォンに、あの時のカルロみたいにされたかった。激しく奪われたかった。
だって、君はいつも優しくて。優しすぎて。
僕の事が好きでたまらないといいながら、君はいつも、そっと壊れ物を扱うみたいに触れてきた。確かに優しくされるのは好きだったけれど、どうしてそんなにブレーキをかけているのか、といっそもどかしい時もあった。思いあまって押し倒すぐらいのことをしてくれてもいいのに。君なら、君になら、時にはそうされても良かった。君とだったら毎晩だって良かった。週に一回とか、月に何度とか、そんなじゃなくて、もっと。
あんな風に遠ざけられるぐらいなら、もっと激しく愛されたかった。飽きるぐらい抱かれたかった。死にそうになるまで君の愛撫に狂いたかった。やれるだけのことをやりつくして別れたのなら、僕だってあきらめがついた。
そうさ。僕は馬鹿だ。
まだ、君が好きなんだ。
あんなことをされたのに、あんな捨てられ方をしたっていうのに、まだ君が忘れられないんだ。
逢いたい。
君に逢いたい。
君は本当に軍にいるのか。
サイキッカー部隊のトップに立っているという噂は本当なのか。
あくまで僕を敵に回そうというのか。
君が、本当に君がか。
「……逢いたい……ウォン……」
タイルの床の上で、投げ出されたシャワーのノズルが生き物のように蠢いていた。
涙にくれる青年の肌を少しずつ、いつまでもぬるく濡らし続けていた。

――――― 11.WONG/KEITH/SETSUNA

「あ、ウォン、駄目、もう」
執拗な愛撫に、キースが思わず身悶えた。
我ながらいやらしいと思う。焦らすだけ焦らして、決定的な瞬間をずっと引き伸ばしているのだから。
だが。
きつく閉じた瞳。たまらない、と喘ぐ口唇。濡れた肌。身体の中心で震えている瑞々しい果実。どこか幼い恥じらいの仕草。血のいろを隠すように、シーツに埋められる頬。
可愛い。
たまらないのは私の方だ。本当に食べてしまいたい。もっといじめてみたくなる。
「何が、もう駄目なんです、キース様?」
「意地悪……」
澄んだアイスブルーの瞳に涙をいっぱいためて、キースはやっとそれだけ言った。
「わかってる、くせに……」
ウォンは優しくキースの銀の髪を撫で、
「だって、こうでもしないと、キース様は欲しいって言わないでしょう?」
「ウォン」
ふと、キースは真顔になった。
「どうして?」
あたりが急に暗くなった。
キースの瞳から涙は消えていた。ウォンの瞳をじっとのぞき込んで、一言一句くぎるように、
「何故だ? どうして君は、そんなに私に、欲しがって、ほしいんだ?」

ガバ、とそこで思わず跳ね起きた。
動悸が早い。
全身が、汗でびっしょり濡れている。
「……ああ」
自室のベッドの上で、ウォンは放心していた。
そうだ。
私は貴方に欲しがってもらいたかった。
どうしても欲しかったのは、ただ、それだけのこと。
なんという愚かしさだ。
あそこまで溺れておいて、私はまだなお欲しかったというのか。あれだけ抱きあっても足りず、貴方から求めて欲しかった、と。
なんという愚かしさだ。
キース様が、あれ以上欲しがってくれる筈などなかった。隙を見つければ、必ずこちらから触れにいった。彼の方から甘える隙などまず与えなかった。
それなのに、私はあの人にすがりついてきて欲しかったのだ。好きだ、たまらない、欲しい、と囁いてもらいたかったのだ。
そんな無茶を、なぜ考えた。
焦らすなり少し時間をとるなりもせず、相手を夢中にさせる策も手管も考えずに、向こうから働きかけて欲しいと夢想していたなんて。
愚かしいにも程がある。
今までどんな相手にも、そんな馬鹿な妄想を描いたことはなかった。
そう、そこまで恋に狂っていたのだ。何もわからなくなるほどに。
この私が。
ただ、やみくもに。

私は、本当に狂っている。
離れて思う時間が長くなればなるほど、もっと苦しいのに。もっと欲しくなるのに。本当にたまらなくなる。後悔する。
それなのに、私はノアを破壊した。貴方を置いてきた。
何度同じ過ちを繰り返せば気がすむのだ。
そんなことをして、何になるというのだ。
自分の馬鹿さ加減は知っていた、なのに、あんなことをして。
だが、苦しかったのだ。
苦しくてたまらなかったのだ。
自分で自分がコントロールできなくて。
貴方の側にいると、どうしても欲しがってしまう。多くを望み過ぎてしまう。信じている筈なのに、些細なことで嫉妬に狂う。好きになりすぎて、そのまま締め殺してしまいそうになる。
それが、怖くて。

だからせめてキース様、私を強く憎んで下さい。
もし生きているのなら、憎んで、憎んで、憎んでください。
最後の瞬間まで、私を罵って下さい。
負の存在でいい、貴方の心の中にいたい。
どんな罰を受けてもいい、貴方が私のことを考えていてさえくれるのなら。
私は、それだけのことを、したのですから……!

その瞬間、ピーッと部屋の端末が鳴った。
驚いてベッドを降り、画面を開いたウォンが目にしたのはこんなメッセージだった。

《これから四十八時間以内に、君のところへゆく。
二人きりで、会いたい。
理由はわかっているだろう。
私達は個人的に、つけなければならない決着がある筈だ》

そして最後に記された、K・Eのイニシャル。
いったいどうやって割り込んできたのだ、軍の内部の端末まで。私の部屋への直通の回路を、どうやって開いたのだ。
いや、あの人ならば私の手を知っている。数年共に仕事をしたのだ、私のやり方を熟知している。これくらいの芸当もわけなく出来る。あの人はそれだけの力を持った人だ。
それに、ここのパスワードは貴方の名前――KEITH・EVANS、そのままだ。
「キース様」
ウォンの瞳が深くきらめいた。
ついに、来てくれる。あの人がここへ来てくれる。
「最終幕が、あと二日でひかれるのですね」
ウォンは端末を閉じた。
そして、服を素早く着替えると、自分の部屋を出た。
行く先は――刹那の部屋だった。

「少佐」
刹那は寝巻き姿のままウォンを迎え、目を丸くした。
「どうしたんですか、こんな時間に」
夜というよりはほとんど明け方だった。抱きにきたのでないことは、その表情を見ればわかる。仕事だ。
部屋に入るなり、ウォンは切り出した。
「刹那。あなたに任務を与えます」
「はい」
刹那はキッと姿勢を正した。いったい何だろう。少佐のこんな真剣な顔は、初めて見る。
「難しい任務です。緊急です。そして、成功するまで戻って来てはいけません」
刹那の頬が微かにひきつれた。以前、パティというサイキックの少女の捕獲に失敗している。いずれ挽回させてもらうつもりでいたが、こういう言われ方をするということは、よほど厳しい仕事に違いない。
「日本に、影高野という術者の組織があります。彼らは、法力という一種の超能力を使います。そのトップに、未知の力を持つ少女がいます。彼女は神妃と呼ばれ、通称を栞といいます。彼女を捕獲して、ここへ連れてきて下さい」
刹那は目をしばたかせた。
「少佐……その、栞というのは、例の実験の素体に使うのですか?」
超能力実験の実験台をさらうというだけなら、そんなに焦ることもないのに、と刹那はいぶかしんだ。こんな時に質問返しなどすべきでないのはわかっているが、パティの時はそんなことは言われなかったので、つい尋ねてしまったのだった。
するとウォンはいかめしく眉を寄せて、
「ええ。ですが、それだけではありません。今、影高野の動きがかなり怪しいのです。栞は彼らの力の源になっています。このまま放置しておく訳にはいきません。ついでに組織も潰してしまいなさい。出来る範囲でいい。部下は何人連れていっても構いません。この作戦に関しては、指揮権を全面的にあなたに与えます。ただし、栞に傷をつけないように。そのまま連れてきてください」
これは嘘ではない。まるで嘘だと怪しまれてしまう。刹那にも、また、周囲にも。
「では、パティの捕獲は」
「栞が先です。パティの捕獲は、もう少し先で構いません」
刹那を日本に行かせたいのだ。パティのいる場所では、あまりに近すぎる。早く戻ってきて欲しくないから、栞のところへ行かせるのだ。それなら二日は戻ってこられない筈だからだ。
「わかりました」
刹那が大きくうなずくと、ウォンは手短に詳細を伝え、部下をつけて彼を送りだした。
彼の姿が遠く消えると、ウォンは小さく呟いた。
「……さようなら、刹那」
あなたが戻ってくる時、たぶん私は、もうこの世にいないでしょう。
後ですべてを知ったら、あなたはきっと怒るでしょうね。
でも、これが私のせめてもの思いやりなんです。
あなたをキース様に会わせたくない。絶対に戦わせたくない。私が死ぬところも、見せたくないんです。
すみません、刹那。
わかってください。
あなたを愛しているというのは、決して嘘ではないんです。
でも。
「さて」
ウォンはキッと表情をあらため、軍の基地内を歩き出した。
ついでだ、目障りな連中もこの際追い出しておこう。私達の再会に、エミリオやガデスに割り込まれては興ざめである。適当な任務を与えて外へ出そう。
早く、しなければ。
四十八時間は短い。
かっきり四十八時間後のことならなんとかなりはするが、その前にすべてを片付けておくのは、いささか難しい。
いや。
やって見せる。
私はリチャード・ウォンだ。時を操る男だ。全世界を支配する力を持つ男だ。それぐらいのことが出来なくて、どうする。
彼の瞳は輝き続けていた。
これから死のうと思い詰めている者というよりも、あまりに深い喜びに満ちて。

――――― 12.WONG/KEITH

予告の刻限が切れるまで、そろそろ十時間をきった頃。
基地の外、内部、ありとあらゆる監視カメラと超能力探査機器を自分の部屋の端末につないで、ウォンは静かに待っていた。
さあ、どうする、キース。
もうあまり時間がないぞ。日も暮れてくる。闇に乗じて、この基地に乗り込んでくるつもりなのか。
その瞬間、悲鳴にも似た電子音が鳴って、彼の端末の直通回路が開いた。
モニターに映ったのは、あまりに懐かしい顔。
背景の景色はもう軍基地内だ。どうやら無事に侵入出来たらしい。
相手が口を開く前に、ウォンはさっそく憎まれ口を叩く。
「フッ、久しぶりですねぇ、キース。まさか、あの爆発の中で生きていたとは」
キースも冷笑で返す。
「二年前、バーンとの戦いの中で突然爆発が起こった。あいつとの戦いに、よくも水を差してくれたものだな」
「おやおや、何もかもお見通しですか。私にしてみれば、戦いを盛り上げる為の演出だったのですが」
「私が生きていたというのは、おまえにしてみればとんだ計算違いだったのだろう?」
ウォンは薄く笑った。
「歪みが生じれば、修正するまでのこと……早急にね」
「もうおまえの手など見切っている。観念するのだな、ウォン」
「いえいえ、手詰まりなのは貴方の方ですよ。新生ノアには何の力もありません。ですが、私のサイキッカー部隊は完璧です。もはや勝敗は決したも同然。チェックメイトですよ、キース」
すると、キースの瞳のいろが、ふと変わった。
「私は新生ノアの話をしにきたのではない。今日は君と、個人的な決着をつけにきたのだ。それを忘れるな」
真剣な眼差し。さっきまでの冷笑でなく、あまりに真剣な。
ウォンはきゅっと身が引き締まるのを感じた。
「二人きり、ということですか? 望むところです。では、貴方のために専用の通路を開きましょう。……さあ、おいでなさい。完全に二人きりになれるように、しましょう」
「わかった。すぐ行く」
会話が切れると、ウォンは基地内に緊急の連絡を流した。
今から二十四時間、キース・エヴァンズにいっさい干渉してはならない。
彼の相手は私がする、誰もその邪魔してはならない。助けも無用だ。
今後、タイムリミットまでどんな連絡もいれるな、また、どんな情報もモニタリングも遮断する。
これに逆らうものは、サイキッカー部隊であろうとなかろうと、即座に命を失うことを覚悟せよ。
基地内はシン、とした。
キースのサイキックの物凄さは、軍内ではよく知られている。下手に手を出しにいくような者はいない。自信のあるような連中は、とっくに外へ出してある。
これでいい。
特別なモニターに切り替えて、ウォンは専用通路のヴィジョンを写しだした。
キースはいつもの無表情で、その中を飛んでくる。
茶番だ。最後の茶番だ。
さあ来い、キース・エヴァンズ。
私はこの時を待っていたのだ。
彼はなんというだろう。
どんな憎しみの瞳で、この胸を射抜いてくれるのだろう。
私はどんな言葉をぶつけてやろう。どんな侮辱の言葉がいいのか。「貴方の顔は見飽きました」「無駄ですよ、キース」、それとも?
せいぜいしぶとい悪役らしく、じっくりと戦おう。
だが、最後は、貴方の氷の槍がこの胸を貫くのだ。
さあ、私を殺して下さい、キース。
貴方に一目会えたなら、私はそこでこときれてもいいのです。
さあ。

最後のドア。
ウォンは、冷笑をたたえてその前に立った。
来る。もうすぐ来る。
キース様。
憎んでください。先のように罵りの言葉を投げつけてください。
キース様。
ドアが開いた。
キース・エヴァンズが、そこに現れた。
ウォンはとむねを突かれた。
笑顔だ。
キースはウォンの姿を見た瞬間、ぱっと瞳を輝かせ、笑ったのである。
何故だ。
どうして貴方は、そんなに嬉しそうな顔をしている。
ウォンは、今まで言おうと思っていたことも、しようと考えていたこともすっかり忘れてしまい、その場に茫然と立ちつくした。
「ウォン」
ふいに、キースの瞳に涙が盛り上がった。
まっすぐウォンの胸に飛び込んできて、
「……逢いたかった!」
ウォンの身体の中で、カシャーンという音がした。
それは何かが割れた音。愚かしい考えが、つまらない意地が、ガラスのように脆くはかなく砕け散った音。
キースはウォンの胸にしがみつき、声を殺して泣いていた。そして、きれぎれに小さく呟くように、
「逢いたかった……ずっと、逢いたかったんだ……生きていてくれて、良かった……本当に、本物の、君だ……」
それは、そっくりそのままウォンの気持ちでもあった。
ウォンの胸の中に、熱いものが燃え上がった。
私は、憎まれていない。
別れた日のまま、貴方に愛されている。
そう、私も、貴方を。
「キース様!」
強く抱きしめ、仰向かせて口唇を重ねた。
「ウォン……欲しい」
「ええ」
二人はそのままよろめくようにベッドへ倒れこんだ。
キースは何度もウォンを求めた。短い声が続けて出る。熱い。ウォン。君が好きなんだ。欲しいんだ。愛してる。逢いたかった。君のことを、ずっと考えてた。欲しくて。とても欲しくて。
ウォンは夢中でキースをむさぼった。自分が何処にいるのかを忘れた。時間がたつのも忘れた。
ああ、憎しみでもいいから欲しいと思っていたのに、こんなに熱く甘い愛情をぶつけられるなんて。愛しています、愛しています、貴方がいなくて、どうして私が生きられるでしょう。二度と貴方から離れません。もう、私は貴方のことしか考えられない……!

数時間が過ぎ、やっと最初の激情がおさまると、キースはウォンの裸の胸に顔を埋め、ほう、と小さなため息をついた。
「つみびとだな、僕は。君に逢えて、こんなに嬉しいなんて……同志が、君のせいで何人も死んだというのに」
ウォンは驚き、キースの背を撫でていた掌を止めた。
ならばこれは血濡れた手だ。罪人は私の方だ。
しかしキースは低く笑って、
「わかっている。君の考えていることは。確かに君もつみびとだ。だが、僕は君を責めない。ノアはあれが潮時だったんだ。新生ノアという組織が出来て、よくわかった。ただ誰かにすがろうとする者達ばかりでは、理想郷などつくれはしない」
「ですが、私は……」
「あれだけの爆発で、死者はたったの八名だったんだ。君が同志を惨殺しようとしたのでないのは明らかだ。わかっている、軍サイキッカー部隊は、君なりの新しいノアなんだろう? 目的のない場所でぬくぬくと暮らしているより、軍という機構に組み込まれた方が、サイキッカーも真剣に自分の力についてよく考えるようになる。ある意味国家に保護されているのだ、無駄に狙われずにすむ。反対に、いざという時に国家と戦えるだけの準備も出来る。それに、他の国の軍隊ならともかく、ここはアメリカだ。正義の名の元に軍を動かす国だ。そして、世界にまだまだ影響力の大きい国だ。サイキッカーが巣くうには、この国の軍隊が最適だ。君なら、ペンタゴンを操ることだってできるだろう。君の財力と政治力があればな。君らしい、やり方だ」
すらすらと言われて、ウォンは言葉に詰まった。
自分が心の中に持っていた考えの半分以上をあてられてしまった。
だが。
「買いかぶりです。私はただ、自分の力が軍という組織でどれだけ奮えるか、少し試していただけです。いつものゲームをしていたに過ぎません」
ウォンが首を振ると、キースは顔をあげ、相手の口唇に指をあてた。
「ゲームか。まあ、君がそう言うなら、そうなんだろうな。だが君は、普通の人間にサイキックを持たせる研究までしているんだろう? それもゲームか? どれだけ人間とサイキッカーにへだたりのないものか、それを人間達に思い知らせようとしているんじゃないのか? 利用する者とされる者の関係ではないのだと、連中にわからせようとしているんだろう? サイキックを手にした人間が、超能力にプラスの評価をしてくれることを願っているのではないのか?」
「私は、そんな……」
言いかけるウォンの口唇を、キースは自分の口唇で塞いだ。
顔が離れると、キースは薄く笑って、
「そういうことにしておけ。そうでなくとも、僕はいいんだ。どのみち僕は、君を憎むことが出来ない。……だって、今も、身体の芯が痛んでたまらないんだ」
「キース様」
二人は再び抱き合った。
だが、熱く熱く愛しあいながら、ウォンは頭の片隅で考え続けていた。
もう、二度とキース様と離れたくない。
しかし、この人をサイキッカー部隊に入れる訳にはいかない。
なら、私が軍を捨てるまでだ。
だが、どうすればいい?
下手に逃げると、追っ手がかかるだろう。
ならいっそ、死んだことにでもするか?
そうすると、刹那がキースを追ってくるかもしれない。
それは嫌だ。
ああ、私はどうして何も考えていなかったのだろう。
一目会えたら死ぬことしか考えていなくて。
ああ、どうしたらいいのか。
「キース様、私は……」
「黙って。……感じて……」
キースの愛撫に新たな情感を誘われて、ウォンの思考はそこで停止した。キース様が触れてくれている。私を愛してくれている。貴方らしい清潔な、だが、密度の濃いやり方で。
私は許されているのだ。
知らなかった。
貴方の愛情が、こんなに深いものだったなんて。
私は何も知らなかった。
何度間違っても、こうして許されるのだということさえ。
でも、少なくとも、ひとつだけ間違っていなかった。
貴方を好きになったこと。
キース様。
そのまま意識はとろりと溶けて。
あとは、ただ、絡み合い慰めあい言葉もなく愛しあった。
どちらともなく、眠りに落ちるまで。

翌朝。
目覚めてウォンは、我が目を疑った。
キースがいない。
影も形もない。痕跡もない。
昨夜のことが、すべて夢であったかのように。
今まで繰り返しみた夢のひとつではなかったのか、と彼は慌てた。
慌てて部屋中を探し回ったウォンは、直通回路の端末の前に、走り書きがあるのを見つけた。

《君は君の道を行け。僕は僕のやり方で行く。僕達は敵ではない。生き方こそ違え、今でも同志だ。いずれ、また何処かで必ず会える。その日までしばしの別れだ》

そして、署名――愛している。キース・エヴァンズ、と。
軍サイキッカー部隊の解散や、二人で駈け落ちなど望まない、というのだ。
ウォンは薄く笑った。
「ええ。そうします、キース様」
そう。
それが一番いい。
わかっている。
昨夜、すべて確かめあった。
二人の気持ちは変わっていない。
何処にいても、何をしていても、互いのことはわかっている。
だからこそ、同じ目的のために、別の道を選ぼう。
私は貴方のために。貴方は、私のために。
そしてまた、何処かで巡り会い、愛しあうのだ。
キース様。
愛しています……。

そしてこの後、刹那が自分の任務を終えて、栞を連れて基地に帰還することになるのだが、その話はまた、別の機会に。

(1998.8脱稿/初出・恋人と時限爆弾『lose control』1998.8)

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All stories written by Narihara Akira
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