『かくらん』

「……ああ」
ベッドへ身を投げ出すと、口で大きな息を吐いた。鼻の奥がグズグズと緩くて、もう言うことをきかない。
鬼のかくらん、と自分で思う。
頭がぼんやりし、じいんと耳鳴りがする。喉が微かにヒリ、と痛む。とはいえこれは、治る一歩手前の症状だ。インフルエンザをあなどるつもりはないが、調子が悪いのを漢方薬でごまかしごまかししてきて、結局大過なくおさまろうとしているのだからもう心配はいるまい。長い黒髪を身体の下敷きにならぬよう脇へ払い、着衣のまま目を閉じる。
一晩百二十五ドルの部屋は清潔に保たれており、空気が乾き気味であること以外、特に不足はなかった。そんなものは湯船に少し湯をはってバスルームのドアを開いておけばなんとでもなること、人も呼ばず部屋も取り替えさせず、ウォンは孤独な寝台を心地よく味わっていた。派手好き贅沢好みと思われている彼だが、窓の外にろくな景色もないごく普通のホテルも嫌いでなかった。ただ眠るだけなら、このクラスの部屋あたりが、細かなことにいちいち煩わされなくていいのだ。
「キース様」
我知らず呟いて、ウォンはふと頬を染めた。会いたい、抱きしめたい、とため息をつくとは。二晩ほど留守をしますので、と言い置いて出てきたのは自分だ、寂しがるにもほどがある。
会議と人に会うのがいくつか重なってスケジュールがたてこみ、もちろん終わったあとテレポートで戻ればキースと眠れるのだが、体調不良と知れるのが嫌で、わざと戻らないと予告していた。キースは具合の悪いのはすぐ治す。体調管理は指導者の仕事の一つ、と薬を飲んで眠り、一晩でケロリとしていることがほとんどだ。もちろん若さゆえもあるが、どうやらウォンに心配されるのが嫌なようで、元々そうではなかったらしい。
そうなるとウォンは、もっと病気を楽しめばいいのに、と思う。もちろん病むのがいいと思っている訳ではない、それは常に命を狙われ、意識をとぎすましていなければならないサイキッカーにとっては致命的なことだ。だが、常とは違う身体の感覚、甘く鋭くなる五感を、ほんの少しのあいだ味わうのは悪いことではない。身の内にたまった歪みが、熱とともに消えていくのも楽しい。母に看病された記憶なども優しくよみがえってきて――。
「熱は、ないんだな?」
暖かな、小さい掌が額に触れる。
え、と目を開いて、ウォンは息をのんだ。
いつの間に。
まさか貴方に、こっそり居場所をつきとめられていたとは。
「名前を呼ばれて即座に現れるのを、君の専売特許にしてもなんだからな」
キースが目の前で笑っていた。
本物だった。
身をかがめた彼に、額をコツン、と押しつけられている間、ウォンは動かないでいた。それは驚きから拒まなかった訳でなく、キースに触れられることが、ごく自然で気持ちよく、逃げたいと思わなかったからだ。
「熱はないな、むしろ僕より冷たいぐらいだ」
「キース様の肌が熱いんですよ。いつもそうですが」
「そうらしいな」
キースは真顔になって、
「まあともかく、僕が部屋に隠れていたのにも気づかなかったんだから、本調子とはいえないだろう。ゆっくり休むといい。とりあえず、服のままうたた寝するのはやめるんだな。悪化するぞ」
「そうですね。着替えてちゃんと眠ることにします」
ウォンはキースに背を向け、着ていたものをとった。ストンとしたシルクのパジャマをかぶり、それからキースに向き直った。
「それでは、おやすみなさい」
素直に毛布にもぐりこんで眠ろうとするウォン。思わずキースはその端を引っ張る。
「ウォン」
「はい?」
「寒くないのか」
「寒気はしませんから。大丈夫です」
「夢じゃないんだぞ、僕がいるのは」
「わかってます」
ウォンはスン、と軽く鼻を鳴らして、
「キース様の素肌で暖めて下さい、と甘えたいところなんですが……今さら貴方に風邪をうつすのもなんですし、だから一人で眠ります」
そのまま目を閉じてしまう。
キースはホウ、とため息をつき、部屋の照明をおとした。
ベッドサイドのランプだけつけて、眠るウォンの顔を淡く照らす。
せっかく、来たのに。
いや、元々来るつもりはなかった。ただ、ウォンをびっくりさせてみたいと思ったのだ。ひそかに会いにくるようなことが、たまにはあってもいいと。ウォンが寝乱れている姿を見てみたかった。商売相手と寝ている可能性もあったが、それならそれで、見なかったふりをして帰ればいいと。
ウォンは、一人だった。
しかもキースの名を呼んだ。熱っぽい、かすれた声で。
あの瞬間、物翳から飛び出して、大好き、と抱きつきたかった。自分はそんな柄じゃないし、ウォンだって引いてしまうから、とその衝動をこらえたのだが、どうせ驚かすつもりだったなら、それぐらいのことをしても良かったと思う。
嬉しかった。ふとした瞬間に名前が漏れるほど僕のことを、と思えば。
でも。
この素っ気なさは、本当に具合が悪くて、起きられないんだな。
だったら、このままそっとしておいてやるか。
キースはウォンの寝顔に見入った。むしろ無表情といっていいその顔――普段の不思議な微笑さえ消えて、しかしその端正な面差しは平穏に安らいで、ウォンが苦しんでいないことを告げている。
ふと、その薄い口唇が開いた。
「意地悪でしたか?」
浅い眠りに沈んでいるのかと思っていた。が、その声はむしろはっきりしていて、ウォンがただ目を閉じていたのだということは明らかだった。
「せっかく看病にきてくださったのを、邪慳にしてすみません」
ウォンはやっと瞳を開いた。その声も常の張りがなく、へんに静かだった。
「お互いさまだからな、それは」
キースも低く囁き返す。
「僕だって、具合の悪い時には君をはねかえすんだから、おあいこだろう」
「そう思っていただけますか」
ウォンの、潤んだ昏い瞳がキースを見上げる。
「なんだか、キース様が枕元で見守ってくださっているかと思うと、甘えたいような気持ちになってしまって……」
そっと手を伸ばし、キースの頬に触れる。
「私が眠るまで、手を握っていてもらえますか」
「構わないが」
「笑われるかと思いました」
「笑いはしない」
ウォンの、汗で湿った掌を頬からはずし、キースは両手でそれを柔らかく包み込んだ。
「安心して、眠っていいぞ」
「ありがとうございます」
ウォンは再び目を閉じた。
まるで、死に際の人のような弱々しい台詞――キースはそれが気になった。
大きなパワーを使えば、当然身体にその反動がくる。通常の人間であってもそれはそうだが、超能力者の疲労とその蓄積はその比でない。リチャード・ウォンの不思議な能力、つまり時を操り、瞬時に別の場所へ現れる力はいっそう特殊であるぶん、彼に大きな負荷をかけているはずだ。見た目より体内の老化は激しいに違いなく、死を予感する時もあるのだろう。
たとえ敵に狙われなくとも、病魔に冒されなくとも、先に逝ってしまうひと。
その覚悟はとっくに出来ているけれど、もしこの自分のために命を大きく削っているなら、少しでもやめさせたかった。そばにいたい。そばにいて欲しい。新たな運命が僕たちを引き裂く日がくるかもしれない、それでも、一分一秒でも長く一緒にいたい。
ウォンの掌から力が抜け、規則正しい寝息が聞こえてくるようになっても、キースは静かにその手を握り続けていた。
君がそれで安らげるなら、一晩眠らなくたっていい。
ウォン。
たまにはこうやって、僕が寄り添っても、構わないよな?

「……あ?」
「おはようございます、キース様」
いつのまにか眠り込んでいたらしい、キースは着衣のままベッドで寝ていた。
「おかげさまで、すっかり良くなったようです」
穏やかな笑顔。すでに身支度を整えて、すらりと窓際に立っていたウォンが、ベッドへ近づいてくる。
「もう、行くのか」
「ええ」
ふっと身を屈めて、キースの耳元に低く囁く。
「もう、私が元気になったのなら……欲しい?」
「え?」
時間はいいのか、といいかけて、かわりに切ない吐息が洩れる。ウォンが耳を甘噛みし、服の上からキースの敏感な箇所をまさぐっていた。
「汚さないようにしますから、ね?」
下半身は手早く下着まで脱がされ、互いを汚さぬよう準備される。別に抱かれたくて来た訳じゃないんだ、と言おうとして言えぬまま、キースは押し開かれてしまった。
「あっ」
深く犯されたその瞬間に達しそうになって、懸命に悲鳴をこらえる。ウォンの巧みさに一直線に感じさせられていた。満たされ、乱されて、キースは喘いだ。どうしよう。身体が動いて、こんなにウォンに応えてる。こんなにすぐに。欲しかった訳じゃないのに、まるで飢え乾いてでもいたようにウォンをむさぼってる。あ、だめだ、もう、ウォン、そんなに激しく……!
「キース様」
後始末までが手早かった。ウォンは、まだ震えている恋人の服の乱れを直しながら、
「病んでいる時の方が敏感になっていますから、お互い楽しかったかもしれませんが、ここのベッドは、二人で寝るにはちょっと狭かったので」
「ウォ……」
「貴方はなによりのお見舞いでした。こんなに元気になってしまうなんて、私も驚きです。できうることなら、今日は一日一緒に行動したいところです」
とはいえ彼らは、二人とも表向きは死んだことになっている存在、片方だけならともかく、同時に基地外の衆目にさらされる事態だけは、避けていた。
「また、策を練ります。いつか、かたときも離れずいられるようにしましょう。ええ、近い未来に」
服の上から、ぎゅうっと強く抱きしめた後、
「先に帰って待っていてくださいね。必ず、必ず貴方の元へ戻りますから」
次の瞬間、ウォンはパッと消えた。
ベッドに一人残されて、キースは大きく息を吐いた。
ウォンの、馬鹿。
身体は一度の逐情である程度おさまったが、体内でかき立てられた激情はまだ荒れ狂っていた。何もかもすっぽかしてずっと抱きしめていて欲しいなどとは思わないが、こうして置いていくのならいっそ抱かないで欲しかった。もちろんウォンの気持ちは嬉しいのだけれど、こんなもやもやした状態でなんて帰れない。
せめて、愛の言葉の一つも伝えていたら。大好き、と抱き返せていたら。
ウォン。
まだぬくもっているシーツに顔を埋め、残り香を吸い込んだ瞬間。
「すみません」
シュッとかすかな音がした。
「えっ」
慌てて顔をあげると、ウォンがもう一度姿を現していた。
「今、チェックアウトを一日のばしてきました。キース様はここで休んで下さっていて構いませんから」
「君、いったい何を」
「急いで戻らなくともいいことに気づいたんです。この部屋で、貴方と沈む夕陽を見てもいいんだと」
「ウォン」
「どちらでも構いません。ここで待っていてくださっても、基地へ戻られても。どちらにしても、呼んでください。そこへ私は、戻りますから」
次の瞬間、ウォンは再びかき消えた。
「また、自分の言いたいことだけ言って……」
キースはもう一度、ベッドへ身を沈めた。
ウォンは、必ず戻ってきてくるという。
僕のいるところへ、僕が呼ぶところへ。
僕よりずっとがむしゃらな愛情を携えて。
「ああ」
微笑もうとして、キースのそれは苦笑いに変わった。
「……僕が、熱が出そうだ」


※役にたつ用語辞典(笑);新潮国語辞典より
・霍乱(かくらん):漢方で、日射病。または夏に激しい吐き気、下痢を起こす急性の病気。
・鬼の霍乱(かくらん):平常きわめて健康な人が稀に病気になること。
・攪乱(かくらん):かき乱すこと。または乱れること。

(2002.1脱稿)

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Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/