『ホ・シ・イ』

薄闇の中で後ろから抱きしめられて、キースはドキリとした。伸びてきた腕にまさぐられて、思わず声が洩れそうになる。
朝からそんなに積極的だなんて、どうしたんだウォン。
だが。
安心したようなため息がひとつ聞こえたと思うと、その手の動きはとまった。
「……ん」
どうやら本人はまだ眠っているようだ。無意識にキースのぬくもりを求めたものらしい。
身体の芯が熱くなる。
あの警戒心に満ち満ちた男が。
どんな激情にかられても、こちらを怖がらすまいと必死でこらえて、優しく触れてくる男が。
すっかり心の鎧を脱いで、安らぎを求めて僕の肌を。
嬉しい。
しばらくウォンと、呼吸のリズムを揃えてじっとしていたが。
ふとあることに気付いて、キースは自分の掌をそっと後ろへ回した。
「そうか」
複雑な表情で掌を元の位置に戻すと、ウォンの腕に頬を埋めた。
「……まあ、そうだな」

「入るぞ」
「どうぞ?」
その日の午後、私室で仕事をしていたウォンをキースは訪ねた。デスクに置かれたスケジュール表に視線を止めると、それを拾い上げて、
「なんだ、ダブルブッキングしてるじゃないか。明日のイギリスの会談は私が行こうか?」
「いけませんよ」
ウォンは顔をしかめた。
「そちらこそ要警戒です。相手はチンピラですよ。最初は断るつもりでしたが、その規模で組織化しているとなれば目障りですから、敵に回す前に会っておくかと明日の予定に入れてみただけで、まだ変更可能です」
キースは片眉を上げて、
「そうだな。もう一方は先日君がフった相手だしな。資金繰りの問題に私が出ていくのもなんだし、二度続けて会談を断るのは問題だ。……しかも、原因は私だろう」
ウォンは苦笑した。
先日キースに愛撫をせがまれて一日ベッドで過ごした。その時キャンセルしたのは確かにその相手との会食だった。
よくご存じで、という言葉を呑み込んで、ウォンは続ける。
「実際あの日は調子が良くありませんでしたから、先方も納得していますよ」
「トップが病弱な組織というのは、信頼されないぞ」
「それはわかっていますけれどね」
「たまには一人で行かせてもらいたいものだな。私の力がそんなに信用できないか?」
「もちろん信用しています」
ウォンは小さくため息をついて、
「では、そちらをおまかせします。セッティングは出来ていますし」
「子供のつかいという訳だ」
あくまで皮肉っぽい物言いに、ウォンも眉を寄せた。
「ですからそれは本来、貴方の仕事ではありませんから」
「本来の私の仕事だ。使えるサイキッカーが烏合の衆になっては困る、引き込める勢力ならば私が顔見せをして構わないはずだ」
ウォンは相手から視線をそらした。諦めの口調で、
「わかりました。では、滞在先も前後のスケジュールもお好きにどうぞ」
「そうする」
懐からモバイルを取り出して、ウォンのスケジュールをコピーすると、足音も高くキースは部屋を出ていった。
「キース様」
組んだ手の上に顎をのせて、ウォンはひとりごちた。
「……本当は、何を怒ってらっしゃるんです?」

ウォンの言うことは間違っていなかった。
下町のホテルでその男と落ちあってみて、キースは納得した。
炎の能力者で潜在能力は高そうだが、人をまとめる器量を持っていない。ゆえに仲間が離反しかかっている。集まって来たサイキッカーをつなぎとめるために元ノア勢力の力を借りにきたのだということが判った。一度仲間にしたものを失うのは痛みと危険をともなう。組織の強化をはかりたい気持ちはよくわかる。とりあえずバックにノアがあると思わせておけば、いざという時に押さえになるだろうという判断はそうおかしくもない。
そう、純粋に力を借りに来たのならば、それはそれで良いのだが。
「あんたは死んだって噂だ。本物かどうかもわからんってのに、まともな話ができるか」
キースはうすら笑った。
「私が本物であろうとなかろうと構うまい。利用価値があると思ったから、わざわざ出かけてきたのではないのか?」
「あんたみたいな小綺麗な若造を見せたところで、修羅場をくぐってる連中は納得しないぜ」
光のかげんで、頬に古い傷があるのがうっすら見えた。力自慢と言うよりは喧嘩が好きでたまらないという手合いだろう。だが、相手の方が年齢が上にしろ、真実の王はそんなことでひるみはしない。いつもの鷹揚な笑みをうかべ、
「じゅうぶん場数は踏んでいる」
「信じられんな」
「それならば、今日の交渉は決裂ということで終わりか」
すらりとキースは立ち上がった。
「いや」
男は首を振った。立ち上がるその背中に激しいオーラが立ちのぼった。ホールいっぱいにキン、と結界が結ばれる。
「その前に、あんたのお手並み、拝見させてもらおうじゃないか」
「私に対する敵対行動と判断するが?」
「キース・エヴァンズを倒したとなりゃハクがつく。それだけで今日の成果は充分だ」
「恐怖政治で従えたものは、真の仲間にはならんぞ」
「真の仲間? 笑わせるな。そんなもん信じられるほど甘ちゃんじゃあない」
「そうだろう」
アイスブルーの瞳は冷たくきらめいて、
「無駄な殺生は好まんが、キサマのような手合いに加減をするほど甘くはない。目をさませ、などと言っても無駄だろうからな」
「そりゃコッチの台詞だ」
「ならば、こちらから行く」
キースの冷笑と共に、古い建物全体がきしみをたてる。
「キサマの亡き後、とりまきの面倒は、私がみてやるからな」
「ふざけやがって」
「後顧の憂いは、ないに越したことはないだろう?」
しなやかな身体が大きな弧を描く。
鮮やかな氷の舞が、その空間を満たしてしばし。

「キース様!」
「ああ、君の方も終わったか。よくここを探しあてたな」
息を切らしているウォンを見上げて、淡く微笑むキース。
そこは黄昏時の小さな墓所だった。
「やはり……?」
真新しい墓の前で、キースは軽く手をはたいて、
「君だともっと後処理がうまいんだろうが、まだ土が柔らかいところがあったから使わせてもらった。この家の人間にとっては迷惑だろうが、一応遠い親戚ぐらいにはあたる。私のぶんだと思って我慢してもらおう」
亡骸の始末のために、知っている墓所を利用したらしい。ウォンは眉間に皺を刻んだ。
「ですからあんなに、貴方の仕事ではないと」
「君が相手をしたって同じ展開になったはずだ。最初からそのつもりだったぞ、あの男は」
「そういう意味ではありません。それに」
キースの燕尾の片方が、無惨に短く裁ち落とされていた。
「万が一のことがあったらどうするつもりだったんです、こんな……」
「それを切ったのはあの男じゃない。掴まれたから自分で切った。そんなところはどうせトカゲのしっぽだ、むしろ切って身を守るためにある」
ウォンの咎める視線から目をそらさず、キースはきっぱり言いきった。
ああ。
サイキッカー同士が争うのが悲しくてたまらなくて、密かに涙を流す人が。
誰の手であっても、朱く染まることを厭う貴方が。
「キース様」
ウォンはふっと身を屈めた。
膝をつくと、腰に長い腕を回す。
「なんだ、別に怪我などしていないぞ」
「違います。貴方に触りたいんです」
「え」
布越しに口づけられて、キースは息を引いた。
瞬間、何かにとりつかれたかのようにウォンの掌は動いた。露出させた部分を素早く口に含む。
「や……あ」
だが、呻く声に拒絶の響きはない。
こんなところでとか、人が来たらとか、そんな台詞も出てこない。
充分な昂ぶりを確認してから、ウォンは顔を上げた。
「いいんですか、ここで最後までしても」
キースは上気した頬を隠そうともせず、
「ウォンが、欲しいなら……立ったままでだって、いいよ」
数分前とは別人のように潤んだ瞳。
しかしそれは、自分の愛撫の巧みさのせいではあるまい。
ウォンは低く囁く。
「もっとゆっくり出来るところでしましょう。今晩のホテルはどこです?」
「ザ・ドーチェスター」
ウォンは一瞬身を縮めた。
「どうしてそんなところを」
「仕事が終わったら君が絶対追いかけてくると思ったから、スイートをとっておいた」
ドーチェスターホテルは、そのオリエンタルムードで有名だ。エキゾチックなロビーや内装だけでなく、アジア料理のシェフとレストランを揃えている。もちろんイギリス料理も絶品なのだが、つまりそういう雰囲気を味わいたくて行く場所だ。むしろスイートから埋まっていくという高級ホテルで。
「なぜ私の趣味に合わせようとするんです」
「東洋趣味は嫌いじゃない、馴染みがない訳でもない」
「キース様」
確かにロンドン市内を歩けば、インド料理や中華料理屋にいくらでも出くわす。いくらキースが貴族の子弟とはいえ、一度も食べたことがない方が不自然だろう。元は貴族の城館だったザ・ドーチェスターでさえ、中華のシェフが腕をふるっているのだ。恋人の趣味にあわせているのではない、と言いきられれば、それはその通りなのだろう。
「嫌いだったら、君とつきあわない」
重ねて囁かれて、ウォンは乱したキースの服を簡単に整えた。
「でも、スイートだなんて……三人も執事のつく部屋では、落ち着いて愛しあえません」
「人払いすればいいだけじゃないか」
「本当に、貴方という人は!」
ウォンはキースを抱きかかえた。
そして、思い出の公園を越えて、今宵の愛の巣へ――。

辛子いろを基調にした最上階のスイート。
きんいろに輝くゴシック風のテーブルや水回り。
たっぷり愛しあったその翌朝、一点の曇りもなく幸せな気持ちであるはずなのに、ウォンはなんとなく違和感を感じている。
見慣れない景色のせいではない。
例の組織を今後どう取り込んでいくかなどという、仕事上のことでもない。
目の前にいる人が、未だ隠している屈託のせいだ。
「朝食は部屋まで運ばせます?」
「そうだな。でも、もう少しだけ……」
キースは相手の腰を引き寄せる。思わず反応してしまうと、安心したようにウォンの胸に頬を埋めて、
「まだ余力がありそうだな」
「欲しいんですか」
「ウォンは?」
それはなにげない問いかえしに聞こえた。
しかしそこでウォンははっきり悟った。
この人は、求められたいのだ。
魅力ある恋人として。
寝室をひとつにしてから、ウォンの気持ちに少し緩みがでてきた。元々ガツガツとむさぼりあっていた訳ではないのだが、時に家族のように安心しきって眠りこんでしまう日もある。
それがキースの不満だったのだ。
もちろん、保護者としての自分も求められているのだろうが、情熱と両立させて欲しいのだろう。
だから昨日、墓所で反射的に彼が求めた時にも全くためらいがなく、むしろ積極的だったのだ。
「キース……」
ウォンは恋人の口唇をそっと吸い上げた。
そして、二人ともが望むことをした。

「私はイギリス料理が好きです。このホテルなら、ローストビーフにしましょう」
結局朝食を抜いてしまって、何か食べようという話になった時、中華を食べようと袖を引くキースをウォンは押しとどめた。
「ここのシェフにケチをつける気はありませんが、中華ならもっと美味しいところがありますから」
「なら、今度君がつくってくれるか?」
「え」
「香港では、料理は男のたしなみなんだろう? だのに君の点心を食べたことがない」
「そんなものが食べたいんですか」
「食べたい」
ウォンは身を屈め、キースの耳元で低く囁く。
「私の全身を食べ尽くしているのに、まだ足りない?」
キースは小さくうなずいた。上目遣いで、
「うん。……欲しい」

(2004.6脱稿)

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Written by Narihara Akira
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