『微 熱』

「困ったな……」
なんとか河からあがったキースは、周囲を見回してそう呟いた。
森の奥である。
街場からだいぶ流されてしまったので、正確な地理がわからない。
肝心の超能力だが、なぜか今日は調子が悪くてほとんど使えない状態だ。最近セーヴしていたせいで錆びついているのだろうか。大勢にみせないためにはその方がいいが、河の流れがきつかったため、体力をかなり奪われてしまっている。こういう時に使えなくてなんのための能力か。
夜もだいぶ更けた。全身ずぶ濡れで手持ちの武器もない。季節は春だが雨でかなり冷え込む日だ、とりあえずあまり嬉しい状況ではない。
すると、同じく濡れねずみであがったバーンがおもむろに口を開いた。
「大丈夫だ。ここらへんなら俺の庭さ。ついてこいよ。隠れ家があるんだ」
先にたって歩きだした。
ジュニア・ハイの学生生活は普段は穏やかすぎるほどに過ぎ、こんな事件は滅多におこらない。
物足りないくらいだがそれでいい。特にキース・エヴァンズにとって、トラブルや争い事はできるだけ避けなければならないものだった。何かの加減で超能力者であることを知られるのは危険だし、隙に乗じて仕掛けてくる政府機関があったりしたら他まで巻き込む惨事になる可能性もあるからだ。
彼だとて、まだかよわい十五の子供である。また、よほどの馬鹿でもないかぎり、具合いの悪い時に専門的な刺客達と単独で渡り合いたくないと考えるのは当り前のことだろう。
だから、彼は平穏な生活を望み、実際そうして暮らしていた。
しかし、仲間同士のこぜりあいは常におこりうる。
先日、キースとバーンは、とある不良連中に目をつけられた。だが、それは些細な因縁で、二人が特に警戒すべきことではないように思われた。
だが、相手にとっては違ったらしい。
イースター休暇も終わりかけたある夕方、外を歩いていた二人は、不意に覆面の集団に押し包まれ、うむをいわさず河の急流に投げ込まれてしまった。折りからの雨で流れの強くなっていた河は、彼らを思いきり押し流した。
そんな訳で、二人はこんな郊外の森へたどりついたのだった。
日常生活に銃が存在する乱暴なお国柄だ、子供の喧嘩といっても暴力的なものになることが多い。こんなのはまだいい方だといえるだろう。お互いに、大きな怪我もしていない。今後は連中に対して充分に警戒すればいいのだし。
キースが考えにふけりながら歩いていると、バーンがふと足をとめた。
「ここを登るんだ」
雨の中、泥の小道をしばらく進んだ後、彼は古い大木のひとつを指さした。足をかけて器用にすいすい登ってゆく。
キースも後から登っていくと、上に小さな小屋がつくられていた。
「ああ……すごいな、これは」
キースは驚きのため息をついた。
そこは五メートルほどを一辺とした小綺麗な部屋になっていた。外から見るよりずっと広い。しかも隅まで掃除がなされていて、寝台には白いシーツが張られている。簡単なコンロもあり、二人は濡れた服をぬぎ、小さな火の上で乾かすことができた。
全身を乾いたタオルでぬぐいながら、キースは尋ねた。
「どうしてこんなに準備がいいんだい?」
バーンは、炎をうつした赤い頬に照れ笑いを浮かべ、
「実は、明日か明後日にでもここへ泊まりにこようと思ってたのさ。子供の頃から使ってる場所で、ひとりになりたい時は準備をしておいてここに来るんだ」
「なるほど」
うなずいてみたものの、キースは意外の念にうたれていた。
バーンにも、ひとりになりたい時があるのか――と。
何故なのだろう。家族が揃っていて、友人も多く、人一倍思いやりもあって、生活に特に不自由もなさそうなのに、それでもこんな森の奥の静寂が必要なのか。それとも、普段にぎやかに暮らしているからこそ、孤独な時間が欲しいのだろうか。
友人の新たな一面を知らされて、キースは思わずバーンを見つめた。
すると彼は苦笑して、
「ごめんな。おまえに内緒にしてて。でも、ここは一人用の秘密基地で、二人じゃ泊まれないからさ」
どうやら彼は、キースの視線の意味をとりちがえたらしい。どうして誘ってくれなかったんだ、と責めた訳ではないのだが。
しかし、そう思われたなら話も早い。キースは笑みをつくって、
「いいよ。僕は床で休むから」
「そりゃあさせられない」
バーンは即座に首を振った。
「濡れた服が乾いてないだろ? ここの火は小さいから、着られるようになるまであと数時間はかかる。今晩は木の床に寝るには寒すぎる。着替えも用意してないし、毛布も余計にないし、タオルじゃ寒さは防ぎきれないし、ベッドはかなり広いし」
「え」
つまり一緒に裸で寝よう、というのだ。
キースは瞬間、言葉を失った。
男同士なのだし、すでにあらかた脱いでしまっているのだし、恥ずかしがることはなにひとつない。
しかし、キースはそういうことに慣れていない。
急に自分と相手の裸身を意識してしまい、思考が乱れはじめた。
「……僕もベッドで、いいのかい?」
「いいのかい、じゃなくて、そうしてくれって言ってるんだ。わからないか?」
「あ……うん」
適当な拒絶の言葉をすぐに見つけることができず、キースはバーンと同じベッドに眠ることになってしまった。
「眠れなくても、横になって身体やすめるだけでもだいぶ違うから、目、とじてろな」
「うん」
キースは毛布の端を持ち、バーンに背を向けて目を閉じた。
しかし、身体の緊張が抜けない。
後ろにバーンがいて、自分の背中を見ていると思うと、どうしてもリラックスできない。二人用といってもいいような幅広の寝台だが、距離が充分とれる訳ではないからだ。
「ふ……」
食いしばった口唇から、かえって息が洩れてしまう。
バーンは、そんなキースの神経の尖りを感じとったらしい。
「……キース」
小さく囁くとそっと後ろから戯れかかり、キースをそのまま胸の下に敷いてしまう。驚いたキースは、
「なんだ、どうしたんだ」
と間抜けな声で口走る。するとバーンはしみじみとした声で、
「キース。おまえの肌って、意外と熱いんだな」
「バーン!」
キースは思わず顔をそむけた。
なんという台詞。まるで下手な口説き文句だ。
肌が触れあっている部分だけでなく、全身に手指や口唇を押されたようなとりとめない心地を懸命にこらえながら、キースは低く呟いた。
「……君こそ。意外に冷たいんだな」
「ああ。だから、暖かくて気持ちがいい」
バーンは目を閉じ、キースを更に抱きよせる。
身体が冷えきっているだけで他意はないのだろうが、キースは頬を染め、相手との胸の間に手を入れてすきまをつくった。
「君は、男同士で肌をくっつけあって、気持ちがいいっていうのか?」
「別に気味悪いもんじゃないさ。それに、相手がキースだし」
「よせ、そういうことを言うのは」
バーンの表情が無邪気なだけに、キースの惑いは深くなる。
「いやなのか? 気味が悪いなら離れるぜ」
「あ」
違う。
そうじゃない。
いやなのではない。だからいやとは言わないし、言えもしない。だが本心も――このままずっと離れないで、とは口が裂けても言えやしない。
え?
待て。
僕は今、いったい何を考えた?
心臓の脈うちは、信じられないほど強く速くなっていた。
何故だ。
肩を寄せあったことも腕を組んだこともいくらでもあるのに、素肌の胸を触れ合わせただけで、どうしてこんな気持ちになる?
だが、全身の血が激しく巡る今、少しでも腰の辺りを抱かれたりしたら、何を口走ってしまうかわからなかった。うっかり動いたら、身体がみっともなく反応してしまうかもしれない。
馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な!
キースは身体を強張らせ、じっと息を殺した。
頼む。この気持ちが爆発するきっかけをつくらないでくれ。
お願いだから僕のこの心臓の音をきかないでくれ。
理性の鎖がちぎれてしまう。何もかもわからなくなってきっととんでもないことに――。
すると、バーンが低い声で囁いた。
「キース」
バーンの息が耳にかかる。
ほとんど耳たぶに触れそうに近づけている、彼の口唇。
「そんなに緊張しなくていいんだ。他には誰もここにいない……誰も何も聞いてない、俺しかいないんだ……だから、何も心配しなくていい、キース」
安心しろ。
ここには他に誰もいない。
ここで起こることはすべて秘め事だ、何も心配せず、何もかもまかせろ、と。
ああ。
僕はもしかして、求められて、いる――?
その瞬間、キースの全身は甘く痺れた。
「バーン……僕は……」
僕は、君に愛されようとしているのかい?
「何も言うな。ああ、こんなところにアザなんかつけて……」
低く呟いて、バーンはキースの首筋に静かに顔を埋めた。
「ああ……」
キースの身体から、すうっと力が抜けた。
自分を浸すじわりとした情感に身をゆだねる。
二人の間で、体熱が少しずつとけあってゆく。堅く抱き合うことなしに、侵入しあうことなしに、互いの気持ちが直に通ってゆく気がする。
その時彼は、肌身の快楽の本質を知った。抱き合うことに誰もが夢中になる訳を。それは刹那の興奮でなく、永遠の喜びなのだ。頭脳の快楽とは別種の幸福の記憶なのだ。慈しむ、という言葉は文字通りの意味を持っている。愛されるということは、余計な言葉のいらない瞬間なのだ。ただ相手の鼓動だけを味わい、《好き》の想いに満たされ、安らいで。そして、押し寄せてくる熱い奔流――。
違うんだバーン、僕はそんなつもりじゃなかったんだ。
でも、君は……そう、君にそんな風に誘われたら、優しくされたら、僕は絶対に抵抗できな……。
しかし、甘美なこの物思いは、バーン当人によって打ち破られた。
彼は顔を上げ、キースの顔を正面から見つめて、
「なあ、俺といる時くらい、安心して眠れよ。裸だからってどうってことないんだぜ。襲われても、簡単な武器ぐらいは用意してある。だからさ」
「えっ」
バーンの声は変わらず明るい。眼差しにも情欲の翳りがない。
「ああ、そういうことか……」
キースは目を閉じ、落胆の声を出した。
己の自惚れに気付いたからだ。
バーンのさっきの言葉には裏などない、文字通りの意味しかない、ということを。
彼は妙な意識がないからこそ、平気でキースに触れているのだ。体熱の差が気持ちいいというのは本音だろうし、心配するなという思いやりも本物だが、それに性的な意味あいはないのだ。
そろそろ情感も知っている年齢だが、今日の床の相手は親友だ、彼の性格からして、そういう方面に考えが及ぶ訳がなかった。
そう、バーンはいい友人――いつも通りの――それだけのことなのだ。
馬鹿だな、当り前じゃないか。
僕はどうしてあんな空回りの妄想をしたんだろう。妙な期待を持ったんだろう。
キースはそっと相手の胸を押し戻した。
「寝苦しいから、少し離れよう」
「眠れそうか?」
「ああ。だから少し」
「わかった」
二人の身体は自然に離れた。
キースは、残念がるよりほっとした。
下手な事を口走らなくて本当に良かった、と思う。さっきのは気の迷いだ。僕はバーンをそういう意味で好きな訳じゃない。バーンと同じで、友人として大切にしあっているだけなのだ。だから……。
「キース」
「うん?」
「寝る前に……」
バーンの顔がす、と近づいてきて、キースの目の縁に口唇を押した。
しかも両目に、そっとゆっくり一度ずつ。
「なっ」
キースの声は慌て掠れた。
「……いったいなんだ、どういうつもりで!」
目蓋からこめかみにかけて電流が走り、身体の中心を通ってつま先に抜けた。ようやく迷いから醒めたと思った瞬間に煽られては、動揺の度合いも激しくなる。全身が焼ける想いがする。
しかしバーンは、丸い大きな瞳に優しい光を浮かべ、
「悪い夢を見ないまじないだよ。昔、寝る前に母さんがよくしてくれた。今でも時々してくれる。でも、キースは今近くに家族がいないだろ。だからたまには、俺が親の真似事してもいい、と思ってさ」
そう言って、生乾きのキースの頭をクシャっと撫でた。
TVや映画でよく見る、アメリカ人が親愛の情を示す行為。保護者がするような、くすぐったい仕草だ。
キースの口唇からため息が洩れた。
「バーン……」
君は僕の事情を知っていて、そうするのかい?
側にいた時も、母様はそんなことしてくれなかったんだよ。階級の崩壊した現代に、古いイギリス貴族のしきたりを守っていて、子供によそよそしいところがあった。だから常に愛撫をするひとではなかった。優しくはあったけれど、病いがちだったし……父様はただ厳しいだけの、外向きの体面しか考えないひとだった……。
違うね、バーン。君は知らないね。
でも、知ってても知らなくても変わらないんだ。
ただ僕という人間を見て、今必要だと思われるものを与えようとしている、それだけのことなんだ。
でも、それだけでも、僕は嬉しいよ。
キースはうつむき、バーンの胸の前でちいさく呟いた。
「うん。……たまには、いいものだよな」

キースはその晩、時々目を開けては、薄闇の中で眠るバーンのシルエットを見つめた。
誰よりも優しいこの友人の裸身はひどく美しかった。
そして、少し考えた。
バーンも、さっき触れた友の身体をちょっとでも綺麗だと思ってくれたろうか。とりあえず清潔な身だが、成長途中で不格好な部分もある。それをどう思うだろう。もし僕が尋ねたら、肌のぬくもりを心地よいと言ったように、賛辞の言葉をくれるだろうか。抱きしめて、息で、指で、触れてくれるだろうか――もう一度、本当に熱いんだな、と囁いてくれるだろうか。
「……馬鹿だ、僕は。本当に馬鹿だ」
キースは赤面した頬を押さえ、寝返りをうって再びバーンに背を向け、目を閉じた。
夜明けはすぐそこまできていた。
そして、少年の日の終わりもまた、確実に近づいていたのだった――。

(1997.5脱稿/初出・恋人と時限爆弾『JUST SAY YOU'LL BE EVER MINE.(僕のものだって、いえ。)』1997.6)

『HAPPY END』

1.

ノア地下秘密基地最深部。
一度はノアを脱走したバーン・グリフィスだが、親友キースの暴走行為を止めるために、再びここにやってきていた。
二人は無言で向かい合っている。
地下回廊中央部は、いつもは多くのサイキッカーが集まる広間であり、主要な通行路だが、今は中途半端な時間帯のせいで周囲には誰もいない。
青くひかる照明だけが、二人を黙って照らしている。
深海の底のように静かだ。
キースが先に口を開いた。
「バーン。これが最後だ。話をきいてくれ。君に頼みがある」
「また、俺に同志になれっていうのか」
バーンはキースをギリ、とにらんだ。
ノアは超能力者の秘密結社で、自分達の人権を守るためにあるという看板をあげているが、実際は一般人に対する破壊活動の拠点になってしまっている。そんなことに力は貸せない。
それに、キースにこれ以上殺人を犯させたくない。彼のゆきすぎた行動を説得してもとめられないなら、力づくでもやめさせよう、というつもりで来たのだ。絶対に同志になるつもりはなかった。
だが、キースは首を振った。
「違う。……君に、ノアの総帥になってもらいたいんだ」
「えっ」
予想だにしなかった台詞だ。バーンは仰天した。
「おまえ正気か? 自分が何を言ってるかわかってるのか」
キースは目を伏せ、昔のように繊細な微笑を浮かべた。
「バーン。君が僕のする事をやめさせたがっているのはわかっていた。だからもし、ノアのやり方が間違っているというのなら、君の手で変えて欲しいと思っていた。君には他人の上にたつ資質がある。僕は、総帥なんか向いてない。今まで他に適切な人間がいなかったから、仕方なくやっていただけだ。でも、君が来てくれた。それも、一度だけでなく、二度までも。これは運命だと思うんだ。もし君が、正しくサイキッカー達を導いてくれるなら、それ以上いいことなんてない。サイキッカー達の未来なんて、僕には……そう、僕一人の肩には重い荷物だったんだ」
「そんな。俺にだって無理だ」
だが、唐突な申し出とはいえ、一理ある。
バーンはキースを害したくてきたのではない。キースの暴走をとめられるなら、何をしてもいいと思っていた。自分がトップになって平和的に運営できるのなら、超能力者の秘密結社にも意味はある。
バーンの気持ちはぐらついた。キースの懇願は続く。
「無理なんかじゃない。同じ歳の僕に何年もつとまってきたものが、君にできない訳がないだろう。それに、ノアは僕がつくった組織だ。もしわからないことがあれば、僕が補佐する。もし君が総帥をやってくれるなら、僕は副官として、君の命令にすべて従う。世界征服なんて、しなくてすむものならしないほうがいいんだ。君のやりたいようにやってくれ。僕にできる手伝いは、なんでもする。しばらくやってみて駄目だと思ったら、その時はノアを解散すればいい。永遠に続かなければいけない組織ではないんだ、続くのは、むしろ不幸のしるしなんだから」
バーンはしばし考えこんだが、やはり首をふった。
「それは無理だ」
「何故だ」
キースの声は悲しみで潰れた。
「君は、僕と新しい理想を夢みてはくれないのか? どうしても僕を殺さなければ納得できないのか」
「違う」
バーンはため息をついた。
「そうじゃない。……だが、あのウォンとかいう男のいる限り、そうそう思いどおりにはさせてもらえないんじゃないのか」
「ああ、それか」
それは確かにそうだ。
ここで二人が結託した時、一番面白く思わないのは、ノアの最大のスポンサーであるリチャード・ウォンだろう。世界征服なんてとんでもない、などと言い出す二人の行動を、絶対に邪魔しにかかるだろう。仲たがいをするような策略を何重にもしかけ、あげくのはてにキースをバーンと一緒に殺そうとするだろう。
すると、キースが瞳をきらりと光らせた。
「君が争いを好まない人間だというのは、よく知っている。だが、自分の身を守ることは許してくれるだろうね」
低い声で囁く。
バーンは目を伏せ、しばらく返事をしなかった。そして、ぽつりと呟いた。
「……やれるのか」
「ああ」
キースはバーンの腕をとった。
「もし、君が力を貸してくれるというのなら、それは可能だ。もし、二人がかりを卑怯だと言わないのなら」
バーンは瞳を開き、キースを見つめ返した。
「別に卑怯でもないだろう。これから何もかも二人でやるんなら」
「ああ」
うなずきあった二人は、回廊の奥に目を向けた。
長髪の東洋人の眠る部屋のある方を。

十数分後、ノア地下秘密基地の最深部に、一人の男の屍ができあがっていた。
死体の前で、若い二人は荒い息をついていた。
「なんとか、なったな」
「ああ……問題はこれからだが」
キースは不安そうな眼差しでバーンを見つめ、血に濡れた彼の掌を握った。
バーンはキースの指先をギュッと強く握りかえした。
「なんとかなるさ。それに、二人なら大丈夫だと言ったのはおまえだろう」
「そうだね。……なんとか、してみせるよ」
青ざめた顔に笑みを浮かべてキースは答えた。
そう、なにもかもが今日から始まるのだ。そうでなければならない。すべてのサイキッカーの未来が、これから本当の意味で開かれなければ。
ぬるつく指は洗えばよい。これが最後の殺戮なら、きっと自分は許される。
「なんとかするよ、僕が」
「おまえがじゃない。俺達が、だろう」
「そうだね」
二人は死体の始末を始めた。どちらかがでなく、どちらも一緒にだ。
同じ血で汚れながら、彼らは最初の一歩を踏み出したのである。

2.

翌朝早く、地下中央広場でリチャード・ウォンの遺書が発表された。
「万が一の際は、私の動産・不動産の七割をノアに寄贈し、キース・エヴァンズの指示で適切な活動の運営資金として使用すること。残りの三割は会社運営と遺族に回し、騒動が起こらぬようにすること。――以上が、昨夜未明に急死された、ウォン氏の遺言である」
弱冠十八歳の総帥は、いつものように落ち着き払った声で、集まった基地内のメンバ−にそう告げた。
「ウォン氏の好意は誠に有難い申し出であり、悲しいことではあるが謹んで受けたいと思う。以後、私はノアの財産管理人として活動し、総帥の権限をバーン・グリフィス君に委譲することにする」
サイキッカー達は驚きの声をあげた。
ウォンの遺産のことはともかく、皆に馴染みの薄いバーンがいきなり総帥になるというのは、すぐには受け入れがたい話である。
しかしキースは氷の右手を高くかざし、
「諸君らは不安に思う必要はない。グリフィス君は新しい指導者にふさわしい人材である。また、私もノアの運営を引き続き行う。よりよい一歩のために活動する。その点は今までとまったく変わらず、むしろさらに精力的な仕事ができるものと思う」
皆のざわめきを制した。
そうして静かになったサイキッカーの前で、バーンがゆっくり一歩を踏み出した。
「俺が、バーン・グリフィスだ」
自信に満ちた声があたりに響く。
「俺が総帥になっても、ノアがサイキッカーのための組織であることは変わらない。ここは、互いが助け合い、わかりあうための場所だ。そのために俺ができることがあると思う。みんな、協力してくれ。いがみあいからは何もうまれないから」
ごく素朴な演説だったが、それは決して不快なものではなかった。
同志達の惑いは、いつしか暖かい拍手に変わっていった。
こうして、強い推進力を持つ新総帥バーンが誕生した。
怜悧な副総帥キース・エヴァンズも。
強い正義感を共通項としながら、相手の足りない部分を補う最強の組み合せとして。

なにはともあれ、しばらくは早急に片付けねばならない仕事が多かった。
キースとバーンが私室へ戻って二人きりになれたのは、一週間ほどたった日の夜更け過ぎだった。
「とりあえず、これで一段落だな」
キースは机の端によりかかり、ふう、とため息をついた。
ウォンがこなしていた仕事は多いが、引き継ぎができないというほどのことはない。それぞれに割りふってしまえばなんとかなる。それを彼は大急ぎですませようとしていた。疲れた頬を押さえて、
「僕はあまり金銭管理が得意じゃないから、しばらくしたらしかるべき人間を用意して、ウォンの財産の運営をしてもらおう。やるべき事は他にいくらでもあるんだし」
「そうだな。もっと大事な仕事があるしな」
バーンは苦笑いでうなずいた。
「しかし、殺された上に有り金を根こそぎ奪われるとは、あいつもいい面の皮だ」
「バーン」
キースの表情がさっと翳った。
「もう後悔してるのかい、ウォンのこと――余計な殺しをしたと思ってるのか? あんなことはしなくてもすんだんじゃないかって」
「いや」
バーンは腕を伸ばし、相手の二の腕を強く掴んだ。
「キース。どうして俺が、あいつを殺したと思ってる」
「えっ」
バーンの声にただならぬものを感じて、キースは目をみはった。
「どういう意味だ」
「俺は、あの男に嫉妬してたんだ。あいつがおまえの一番そばにいることが、我慢できなかった……それが最大の理由だ」
バーンはそう言ったなり、キースを腕の中にさらいこんでしまった。
「あ……」
相手の真意をはかりかねて、キースは困り果てた。どういうつもりかわからないので、きっぱりと拒絶することができない。からんだ腕から逃れられない。
「嫉妬って……何を……」
「わからないのか? 俺はおまえが好きだ。おまえに触れたい。なにもかも俺のものにしたい……欲しいんだ」
まさか。
キースの瞳がさらに大きく見開かれる。
それはつまり、僕を抱きたい、ということか。
「本当に?」
「厭か?」
「あ……」
問われてキースは、相手の腕の中で顔を伏せた。
「どうしろっていうんだ……本当に僕に言わせたいのかい……厭じゃない、だなんて……」
最後はほとんど消え入りそうな声だった。
恥ずかしさでどうしようもないというように頬をこわばらせる。なんとしおらしい、と自分で思う。これでは芝居と思われてしまうだろう。誰かに抱かれることなど初めてでないのに、今更何を恥ずかしがる――。
バーンはゆっくり片腕をほどき、緊張した相手の頬をそっと包み込むように触れた。
「言わせたい……」
熱く囁くバーンの掌の中で、キースの肌は赤く染まった。
だが、口ごもりながらも、彼はこう答えた。
「……厭、じゃ……ないよ」
「キース」
いざとなるとバーンも緊張してしまったらしく、少し声がかすれてきた。
「おまえは何をして欲しい? どんな風に、すれば……いい?」
「それは……君の……したいように……」
答えながら、バーンに震える身体を押しつける。
誘いをかけているつもりではない、身体の芯が溶けてしまって、もう他にどうしようもなくなってしまっているのだ。
そんなキースに、バーンの吐息がさらなる追い打ちをかける。
「そんなこと言うなよ。いい気になって、優しくしてやれなくなるじゃないか」
「いいよ……優しくしなくて……僕は、あの、どうでも……」
「馬鹿野郎」
バーンは低くキースを叱って、その腰を再び抱き寄せた。
「優しくしたいんだ。俺が、そうしたいんだよ」
「バーン……」
これ以上の言葉が必要だろうか。
口唇が触れ合ったその瞬間から、互いが互いをきりもなく求め始めた。どんな指示もいらなかった。相手の呼吸と視線のいろで、何が欲しいかすべて汲みあった。魂の奥底までさらけ出したキースの前で、バーンも感情のありったけをぶつけ、そして与えた。理性はすべて消しとんだ。
ようやく明け方近くになって、やっと二人は、かたく抱き合ったまま浅いまどろみの中に落ちていった。

昼近くになってキースが目を覚ますと、バーンは彼をあやすようにその背を撫でた。
「おはよう、キース」
「あ……」
とっさにキースは返事ができなかった。
バーンが目の前にいて、自分の名を呼んでくれている。暖かい笑顔で見つめてくれている。バーンの熱い眼差しを受けると、胸の中の屈託がすべて淡く消えてゆく。そっと抱きよせられると、明るい陽光に照らされる心地になる。
そして、繰り返される甘い囁き。
「しばらくこうしてていいか? いや、もう少しだけでいい、側にいていいだろ?」
「うん……」
キースは幼子のように素直にうなずく。大きな喜びに浸されていた。きぬぎぬというのは――愛しい者と抱き合った翌朝というのは、こんなに満ち足りた気持ちがするものだったのか。生まれ変わったような気分、というのはこういうものを言うのか。
「夢じゃ、ないんだな……」
「ああ。夢じゃないさ」
そしてバーンも、全身で甘え、自分を頼りきっているキースを見つめる彼も、不思議な感動に包まれていた。
信用、されている。
強く求められている。
すべてゆだねて後悔しないと訴える、いじらしいアイスブルーの瞳。自分の気持ちに応えて、可憐としかいいようのない仕草で身を寄り添わせてくる最愛の友。
この青年を、どうやったら裏切ることができるだろう。
何でもしてやりたい。彼の望むことすべてを。自分の力の及ぶ限り。
「バーン?」
「愛してる……キース」
「あ」
力強く抱き寄せられて、キースの身体は再び熱くなった。
「僕も、離れたくない……」
思わずそう呟いて、頬を染める。
馬鹿だ。昼ひなかから何を口走っているのだ、僕は。
そろそろ皆の前に出なければ怪しまれる。いや、二人の仲が知られるのは構わない。いくら隠したところで、いずれはバレることだろう。それよりも、恋に夢中になって仕事をおろそかにしていると思われる方が困る。自分はともかく、バーンはここにきて日が浅い。仲間の信頼を得る前に、いいかげんな部分は見せられない。自分が心を鬼にして、欲しいものを我慢すべきなのだ。
「でも、そろそろ仕事に戻らなきゃ……」
ようやくキースの喉から出た声は弱く、拒絶の響きはほとんどしないものだった。
だが、それがかえってバーンの気持ちを引き締めたらしい。
「わかった」
軽くキースの背を叩くと、やっと身体を離した。ベッドを降りて身支度を整え始める。乱れた髪をたちあげる。
その離れ方があまりにあっさりとしているので、キースは突然自分が抜け殻になってしまった感じがした。ベッドから起きることもできず、しどけない裸身のまま、茫然と相手の背中を見つめていた。
ふと、バーンが振り向いた。
「ウォンは……あの男はどんな風におまえを抱いたんだ?」
「バーン」
キースは、自分の視界がいきなり曇るのを感じた。
確かにウォンと寝ていた。バーンのいない間、いや、こんな展開になるとは思わなかった頃、身体を好きにさせていた。その頃はウォンを嫌っていなかったし、特に不快なことではなかった。いや、むしろ楽しみさえした。
そのことが今、裏切りと呼ばれるのなら。
悲鳴が喉に張りついた。
僕は君の望むものではないのか。裏切り者なのか。僕を守っていた鎧をすっかり壊してしまったくせに、このまま捨てていくというのか。
氷の雫が白い頬を滑り落ち、みるみるシーツを濡らしていく。
「……ふっ……あっ……」
息ができなくて思わず首元を押さえる。
厭だ、もう君をなくしたくない。
でも、君は……。
「そうじゃない」
バーンはベッドに戻ってきた。
脇に腰をおろすと、涙にむせるキースの肩を抱き、目元にそっと口づける。
「思い出させるようなことを言ってすまなかった。責めてるんじゃないんだ。俺が悪いんだ、つい嫉妬して――こんなにきれいなおまえを俺以外の人間が見たのかと思ったら――昔のことを言ってもしかたないのにな。こうして応えてくれてるのに……俺の腕の中に、いるのにな」
涙を吸うバーンの口唇の下で、キースの声はかすれた。
「僕のこんなひどい有様を見たことがあるのは、君だけだよ」
ウォンの手管は巧みだったが、それによって狂乱することはなかった。あの過酷な人体実験の最中でさえ、キースが我を失ったことはなかったのだ。どんなに意識をいじられ、身体を汚されても、魂の奥底まで奪われはしなかった。米空軍に安定した超能力をひきだされたことには、今ではむしろ感謝しているほどだ。憎しみはもちろん消えていないが。
「ひどいって?」
バーンはキースの目の縁を指先で軽くぬぐいながら、
「今より綺麗なおまえを、見たことがないのにか」
「バーン」
嬉しがらせだ。わかっている。
だが、溺れてしまう。バーンの気持ちが自分に向かっていると思うだけで――嫉妬されるのも優しい言葉をかけられるのも同じように嬉しいとは、なんという愚かしさだろう。
キースはバーンの首筋に顔を埋めた。
「ごめん。もうしばらく、このまま……」
「謝るなよ。離れたくないのは俺も同じなんだから」
「うん」
おずおずと腕を伸ばして、バーンのウェストに手を回す。バーンもキースを優しく引き寄せ、耳元に軽く口づけた。
「俺のキース……」
「あ」
キースは思わず回した手に力を込めた。
「僕のバーンだって、言ってもいいのかい」
バーンはひとつため息をついた。
「そう思わないのに抱かれたのか? 俺はそんなにいいかげんな男に見えるのか」
「でも……あ」
キースが言い淀むと、バーンの目の色は沈んだ。
「俺は、どうしても自分のものにしたいと思わない相手に触れたりしない。まして相手がおまえなんだぞ、どんなに勇気がいったと思ってる。俺のことが嫌いじゃなくても、絶対に応えてくれるとは限らないじゃないか。いやらしいって軽蔑されたら、乱暴にして嫌われたら――この一週間どれだけ悩んでたと思う。僕らは友達じゃないか、そんな汚れた目で見てたのか、見損なった、なんて言われたら、俺はどうしようもなくなっちまう。だって俺には……」
昨夜の強気は精一杯の背伸びだったらしい。バーンはすっかり弱気な顔で、そっと目を伏せ、
「俺には、おまえより大事な人間なんて、いないんだぜ」
「バーン」
全身の細胞に通った水が、一瞬で沸騰した。
おまえが一番大事だ、というその台詞は、ただ《愛している》と言われるよりもずっと嬉しかった。実感の籠ったその言葉は、バーンがキースの身も心も愛していることをあますところなく伝えていた。
「ありがとう。あ……僕も……君が……」
「ああ、わかってる。わかってるよ、キース」
充分に名残りを惜しんでから、二人はようやくベッドから降りた。
傍目からみればままごとのように幼い恋愛だろうが、まだ若い彼らにとってかけがえのない一夜だった。それは長い一生の中でも、多く出会える日ではない。ずっと暖めていた想いが実るその時というのは、そう度々手に入るものではないからだ。十代だからこそそれは輝かしいということもあるが、それは永遠に値する幸福でもあった。心の中に結晶した宝石の想いとして。
「一緒に出ような、みんなの前に」
「うん。一緒に行くよ」
晴れやかな笑顔を交わしながら、二人は部屋から歩き出した。
すべてのサイキッカーのために――そう、自分達を含めたすべての超能力者達の幸せのために。

3.

「ああ。抱かれたがってる……」
自分はこんなに淫乱だったかと思う。
デスクワークの最中だというのに、ふとバーンのことを考えたら、身体が熱を帯びてきたのだ。
いますぐ欲しい。
触れられたくて、たまらない。
「落ち着け。夜までうんと間があるじゃないか。なんにせよ、今日の仕事をちゃんと片付けてからのことだろう」
そう、昼であっても、求めれば彼は応じてくれるかもしれない。
だが、それだけはしたくなかった。
夜、バーンに抱きよせられるキースは、もぎ取られ、表皮を剥かれた甘く柔らかい果物のようなものだ。夢中になってむさぼられ、最後の最後までしゃぶりつくされる。あれを昼間から欲しがるようになったらおしまいだ。何もできなくなってしまう。
「馬鹿な。自分から求めなければいいんだ」
バーンは拒むと、それ以上しつこくはしてこない。だから、いつも強くは拒めない。欲しいのだ。彼以上の慰めなどこの世にない。いつでもいくらでも欲しかった。飽きるまで。飽きられるまで。
「いつまで愛してもらえるだろう」
バーンの愛情を疑っているのではない。強い絆と信頼している。
だが、こと身体のことに関しては、キースの心は必要以上に揺れ動く。そうたびたび触れ合っていたら飽きられたりしないだろうか、逆に毎日しないと遠ざかってしまうものなのか――どう口にしていいのかわからない種類の悩みに、彼は思いまどう。愛の生活が始まって半年、隔てもとけて親しみが深まる頃の筈なのに、キースは新しい緊張の中にいた。
「そんなに悩む必要はないんだ。僕は、バーンの身体や愛撫が目当てで好きになったわけじゃない、あさましいことを考えるのはやめればすむことだ」
もちろん彼を愛している。愛されるのも嬉しい。相愛の者同士が寝るのは異常なことではない。
しかし、僕は溺れている。溺れすぎている。自分から彼に身を投げかけずにはいられないほど。
「嫌われさえしなければいいんだ、何も別に抱かれなくたって……」
そう呟いて嘘だと知る。それは建前、きれいごとだ。妄想だけで熱くなる身体が何もかも物語っている。
「幸せなのに――今より幸せな時はない筈なのに」
キースの惑いは、とりとめのない不安からきていた。どんなにかき消そうとしても、悲劇の予感が彼を蝕む。バーンが優しくなればなるほど、総帥らしくなればなるほど、暗い思いが全身を包む。
これは、どういう種類の怖れなのだろう。
彼を失うことがこわいのか。
いや、それについては心配していない。友人としての彼を信じている。どんな行き違いがおころうと、最後は理解してくれると思う。この絆が失われることはないだろう。その色が憎しみに変わる時があっても。
信じられないのは自分の心だ。何かのはずみでもろく崩れそうな精神だ。普段は隠している根深い破滅衝動だ。
それに足をすくわれることはないのだろうか――。
そう考えたまさにその瞬間、バーンがキースの私室へ押し入ってきた。
「キース!」
あっと言う間もなく、キースは椅子から引きずり出され、いきなり床の上に押し伏された。喉元にかかった手が、恐ろしい勢いでキースの首を締めつける。
バーンの瞳は激しい怒りに燃えていた。
キースを殺すつもりのようだ。
「……っく」
その瞬間、キースを襲ったのは安堵の気持ちだった。
ああ、もうこれで悪いことは起こらない。
バーンが僕を殺してくれる。得体の知れない不安をなくしてくれる。悪い夢を忘れさせてくれる。すべての重荷から、自分の一番大切なひとが解放してくれるのだ。
「いい、んだ……君に滅ぼされるなら、僕は……」
朦朧とする意識の中で、キースはうっすらと笑みを浮かべた。
苦しみよりも心地よさの方が大きくなり、抱擁を求める時のようにバーンの方へ腕を伸ばすのだった。

★ ★ ★

バーン・グリフィスは、資料室のコンピューター端末の前で一つの疑惑にとりつかれていた。
この半年間抱いていた疑問が、どんどん膨らんでいく。
「おかしい」
秘密結社、非合法組織ではあるが、ノアも一つの会社のようなものであり、お役所仕事めく退屈な文書の類がたくさん資料室に眠っている。コンピューターで管理された財政関連の統計やら、見てもあまり面白くないものが多くある。それを眺めているうちに、ひとつの染みが彼の心に広がりだしたのだ。
新総帥であるバーンの最初の興味は、世界各国のサイキッカーの分布とそれに対する政府機関の対応だった。総帥としてどうしても押さえておかねばならない知識だと思った。キースはそのことを熟知しており、バーンが尋ねれば何でも答えてくれた。
しかし、いざバーン個人が文書やディスク系の資料を探す段になると、情報量がいきなり少なくなる。キースの明晰な頭脳によって整理整頓されている筈の記録が、ばらばらになっていて調べるのに大変な苦労がいる。
「忙しかったせいなのか?」
バーンは初めは疑わなかった。多忙すぎれば、資料の整理ができかねる時もあるだろう。新総帥として自分でいろいろ掌握したいからこそ、資料をわざわざ調べているのだ。キースをわずらわせず、一人ですべてを調べたかった。
しかし、端末の前に座る彼の顔はどんどんけわしくなっていった。
特に対政府関係の事件の資料には、不明な点が多すぎた。
起こった日時、効果は簡単に書かれている。だが、責任者や実行者の名前が残っていない。どういう交渉があり、どういう駆け引きがあって起こったのかわからない。いろんなものを重ねあわせていくうちに、それらの事件がサイキッカーを助けるというよりも、テロ行為としか言いようのない悲惨なものであることが透けて見えてくる。事故とされているものも、誰かの冷徹な計算の上にたった計画的殺人に思われてくる。
一時はリチャード・ウォンの元、世界征服などという誤ったスローガンを掲げていた組織だ、それは予想されなくもなかったことだ。
バーンの憂いは別のところにあった。
「この資料は、わざと分断されていた――」
ノアの活動は幅広い。その記録も多岐に渡る。外部に洩れてはまずいような文書がわかりにくい場所にあるのは不自然ではない。他の人間なら、わざとだと断定するのに、もう少し時間がかかった筈だ。また、ごく普通の十八の青年が見抜けるからくりではない。
しかしバーンは、この隠し方に覚えがあった。
「これはキースの仕業だ」
ジュニア・ハイ時代、勉強でゆきづまったバーンにその都度、物事の整理の仕方、調査の仕方、議論の駆け引きの仕方を教えこんだのはキースだった。そのすべてがバーンの使えるものではなかったが、キースの発想の基本はしっかりたたき込まれていたのである。
間違いない。これはウォンの仕業ではない。
関係ない人間までもすすんで巻き込んできたのは、キース本人なのだ。
普段のキースに問題はない。正義感が強い、温厚で有能な青年だ。
しかし、ひとたび大義を得て残酷になった時の彼は冷酷非情だ。敵を害することにはためらいがない。
友のそういう翳の部分を、バーンは知っていた。
「もしかして……」
その日、彼は決定的なファイルを見つけてしまった。
綿密に設計された、ノア改造計画の図面である。総帥にならないかという誘いかけも、ウォン殺害も、すべてその上に成り立つものだった。
俺はこの半年、キースの掌の上で踊らされていたに過ぎないのか。
茫然としながらキーを叩き、暗号で記された最後のコメントを読みとく。
そこで彼の手がとまった。
「バーン・グリフィスの能力はリチャード・ウォンに劣るが、それでも少しも構わない。どうせ、こんな組織に価値はないのだ。彼も別に必要ではない。いざとなれば変えても構わない。彼もコマのひとつに過ぎないのだから」
その文章はバーンの頭の中で、キース自身の声でガンガンと鳴り響いた。
おまえは必要な存在でない、ただのコマに過ぎない――!
次の瞬間、彼はキースの部屋に駆けだしていた。

★ ★ ★

「キース、おまえという奴は!」
バーンはキースの胸の上に馬乗りになり、少しずつ力を増しながら首を締めあげていた。
キースは薄目の中で瞳を寄せ、バーンにしっかりと抱きつきながら、口唇をひらいてア、ア、と喘ぎ出した。頬に湯あがりのような血のいろが差し、銀の髪の生え際がしっとりと艶めかしく汗ばんでいる。
「苦しいなら抵抗しろ」
「いいんだ……悔いは、ない……君に、滅ぼされるのなら、僕は……」
息もたえだえにそう言うと、バーンの方に顔を差し伸べ、ニッコリと微笑む。薄い口唇を相手の口吻を求めるように震わせて、
「本望だ……」
「おまえ!」
バーンの手から急に力が抜けた。
「わざとだな。わざと見せたな。俺なんか必要じゃないなんて文章を残しておきやがって。自分だけ悪者になろうとしたんだな」
キースの身体から離れ、床にへたりこんでしまった。
「バーン……」
横たわったまま、霞んだ瞳でキースは呟く。悪い陶酔の表情に見えて、バーンは深いため息をついた。
「弁解くらいしてくれ。どうしてそんなに、自分を追いつめなきゃいられないんだ。本当に俺に殺されたい訳じゃ、ないだろう」
キースは口唇を醜く歪めた。
「僕は悪者だよ。殺さなくてすむ者を殺してきた。操れる者はなんでも操ってきた。バーンにこんなに早く、僕の悪業の証拠を見つけ出されるとは思わなかったけれど……やっぱり君は有能な総帥だ。僕が見込んだ以上にね」
「いや。本当に有能な総帥なら、おまえの言葉の裏にあるものを見抜ける筈だ」
バーンは静かに手を伸ばし、キースの髪に触れた。
「俺にはわからないんだ。何がそんなに辛いんだ。生きていけないほど苦しいのは、過去の殺しのせいか? 殺された仲間の恨みごとか? 償いきれない過ちがまだあるっていうのか? おまえの悪夢は一人では抱えきれないのか? 俺は、友達の苦悩もわけてもらえないほど、器の小さいクズ野郎なのか」
「そうじゃない」
キースは自分の目頭が熱くなるのを感じた。思いもよらなかった台詞が口唇を洩れる。
「だって僕は、君の手を同じ血で汚してしまった……僕だけで出来た筈の仕事なのに、君を巻き込んだんだ。汚いよ、君をノアに引きずり込むためだけにあんなことをさせて。そして今も、もう一度君の手を汚させようとしていた」
自分でも気付かなかった。ウォンを殺させたことをこんなに長く後悔していたとは。
計算ずくのつもりだった。
しかし、バーンの気持ちははじき出せても、自分の心がどう動くかまでは計算しきれていなかったのだ。そう、こんな告白をするつもりはなかったのだ。
「だって、僕にはもう生きてる意味はないんだ。君が現れる前の僕には使命があった。サイキッカー達の未来のためという大義名分があった。だから、生きてられたんだ。でも、もう、君がいる。何もかもちゃんとやってくれる。僕の意図も理解してくれた。思い残すところはない。僕はもう、この世にいらない……ただのクズなんだ……」
疲れはてたひとのような重い口調で呟きおえると、キースは目を閉じた。
ああ。
全部しゃべってしまった。
自分がどれだけ救いがたい暗黒の淵の底にいるか、知られたくなかったのに。バーンのように明るい未来を夢見ることのできない、湿りきった自分の心を。
「じゃあ、俺はなんのためにここにいるんだ」
バーンは、キースの身体の下に手を入れて静かに抱き起こした。
「俺は、おまえの疲れを少しも癒せてなかったんじゃないか。おまえの心を軽くするために総帥になったのに、本当は何の役にもたってなかったんじゃないか」
「そうじゃないよ、君がいてくれてどれだけ助かったか――」
「じゃあ何故そんなに苦しむ」
バーンはキースをかき抱き、
「頼む。俺は幸せになりたいんだ。おまえと二人で生きていきたいんだ。一緒にいられてどれだけ嬉しいか――投げ出したいほど辛いことがあるなら、俺にわけてくれ。わけられない荷なら、せめて俺の胸で休んでくれ。俺を騙したいなら騙し続けてもいい。おまえの役にたつ人間でないというならそれでもいいんだ。せめておまえの負担にならないように努力する。だから、俺を一人で置いてくのだけはやめてくれ。それだけは……しないでくれ」
こめかみに額に口づけの雨を降らす。
「……うん。置いて、いかない……よ」
キースは泣いていた。
泣きながらうなずいていた。
この涙は演技ではなかった。騙しているのではなかった。
しかし、この時キースは内心で薄笑っていた。
《これでバーンは、一生僕のものだ。最後の最後まで汚い部分を見せても殺されなかった。彼は二度と僕を疑わない。絶対に永遠に裏切らない》と。
愛しているのは本当だ。信じているのも本当だ。
しかし彼の幸福は、こんな形でしか試せないのだ。その屈託を癒しきれないのだ。
明るく翳りのない友人を、罠にかけずにいられないほど。
そう、これで彼は完全に獲物を自分の腕の中にからめとったのだ。
「キース」
「うん」
抱き返しながら、キースはゆっくりと最後のとどめをさした。
「愛してる……僕の、バーン」

(1997.5脱稿/初出・恋人と時限爆弾『JUST SAY YOU'LL BE EVER MINE.(僕のものだって、いえ。)』1997.6)

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All stories written by Narihara Akira
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