『退 屈』

「チェックメイトです」
止まった時の中、相手の胸にとどめの大剣を突き通し、その口唇に浮かぶは冷笑。
リチャード・ウォンはいつものように、その場から一瞬で姿を消した。
自在なテレポート――超能力増幅装置の開発と余念なく続く研究から、この地上に存在するサイキッカーとして常に最強の部類に属する彼。裏社会でその名を知らぬものはなく、二十代から十数年の長きに渡って、《闇の支配者》とあだ名され恐れられている男だ。邪魔な親族をすべて抹殺し、末裔さえも残そうとしない、その唯我独尊ぶり。
今日も一仕事を終え、その私室に戻ったウォンに、低く背後から声をかける者がいた。
「血の匂いがするぞ」
「そうですか。おかしいですね、返り血は浴びなかったはずなんですが」
スラリと上着を、手袋をとり、姿見でひととおり自分の姿を確認する。そんなウォンに、さらに声がかかる。
「そういうことを言った訳ではない」
後ろですうっと立ち上がったのはキース・エヴァンズ。かつてサイキッカーの秘密結社《ノア》の総帥をつとめた、これも若くして、極めて優れた能力者の一人。
「でも、貴方は血の匂いを嗅ぎとったのでしょう」
ウォンはもの柔らかい微笑みで青年を振り返り、
「悪者はズバリズバリと人殺しをするものと相場が決まっておりましてね、口封じといえば言葉が悪いですが、他に累が及ぶまえに、根本を絶つのが基本なんですよ」
「ウォン」
「今さら悔い改めたところで何が戻ってくる訳でもない、どんなに悪事を重ねたところで、自らが殺されることより悪いことは起こらない。そして、私たちはどのような生き方を選ぼうと迫害される身、私が自ら手を汚すことは、許していただけているものと思っていましたが?」
「だから、そんなことを言ってるんじゃない」
アイスブルーの瞳は、ゆらぐことなく悪の帝王を見つめ返す。
「その男一人の息の根をとめることで、百万人のサイキッカーが助かるのなら、私は誰もとがめない。第一とがめる資格もない。それは君が知っているとおりだ」
ウォンの顔から微笑みが消える。
「それでは、なんです?」
キースは歩を進め、長身の男を見上げた。
「……汚らしい男の血の匂いをさせたまま、僕を抱くのか」
「あ」
ウォンの頬がぱっと染まった。
「すみません、すぐに身体を清めてきますから……」
思い出したのだ、今晩もし時間があったら、少し甘えさせて欲しいと、出がけにキースに囁かれていたのを。いや、忘れていた訳ではない、ただ、仕事の最中は仕事に集中していただけのことで。
「いいんだ、そんなに慌てなくても。明日だってある。別に、いつだって」
キースの声の尖りに気づき、ウォンはさらに慌てた。
ままよ、と抱き寄せ、逃げられる前に口唇を奪った。
本当に血の匂いがする訳ではない、身体を清めるのもいつでもできること。キスでなだめるのは上策でないが、これ以上、機嫌を悪くさせるのがいやだった。もちろんふくれっ面の彼も愛しい。だが。
キースは抵抗しなかった。
だが、口唇が離れると、ふたたび真顔でウォンを見上げて、
「無理に抱かなくていいんだぞ」
「無理だなんて」
「今朝、君の背中を見ていたら、無性に甘えたくなった、ただそれだけのことだ。今はもう落ち着いている。だから、別に、いい」
「キース様」
そうか、今朝の濡れた視線はそういう意味……本当はすぐにでも不安を抱き取って欲しかったのを、わざと言葉にして先に延ばしたのだ。誰かにすがりたいと思う時、必ずためらうこの人の癖を忘れていた。素直に甘えてくれていいのに、というのはこっちの気持ちであって、本人はそれができないから更に屈託するのだ。
愛しい、貴方。
ウォンは耳元に口唇を寄せ、低く、小さく囁いた。
「ではなぜ、石鹸の香りをさせて、わざわざ部屋で待っていてくださったんです」
「あ」
キースの頬が、さっと恥じらいにこわばった。
ああ、これなら大丈夫、怒ってはいないのだ。ちょっと拗ねているだけ、ただそれだけのこと。
ウォンはその頬を、大きな掌で優しく包み込んだ。
「甘えるの、もう少しだけ待っていただけますか。……今は、貴方が欲しい」
返事を待たず、ウォンはキースを抱えてベッドへ飛んだ。
仰向けに寝かされ、逃げられぬよう両腕をぬいとめられて、キースは小さく喘いだ。
「……本当に」
「え」
「本当に、欲しい?」
ほんのり潤んだ瞳。物言いたげに、口唇は薄く開いたままで。
同じように瞳を潤ませ頬をかすかに染めて、ウォンは応える。
「これ以上、言わせないで下さい。ね……」

安らかな、規則正しい呼吸。
ウォンの胸にぴったり寄り添って、キースは目を閉じている。
一通りを終えた満足げな顔で。
甘えたいと言っていたな、さて、せがまれたら後はどんな風にあやすか……まだ汗も乾かぬ肌をあわせたままでウォンは物思う。何か悩みがあるのだろうか、それとも何か辛いことが? それとも単純にこうしていたいだけなのか。
「ウォン」
「はい?」
キースはふいに身を起こした。
「君、世界を相手のチェスごっこは、楽しいか?」
え?
思わずウォンが答えそこなっていると、キースは先を続けた。
「君、最近、退屈してるだろう。違うか?」
「そうですねえ」
いわれてみれば、とウォンは呟く。
「私が今やっているのは、チェスというよりむしろモグラ叩きですからねえ。単純すぎて飽きてしまう時もありますよ。工夫をこらせばいいのでしょうが、年をとってくると、自身の経験に頼ってしまって、新しいことを試すのがおっくうで」
「じゃあ、やっぱり退屈なんだな」
「キース様」
ウォンは黒々とした瞳を大きく見開いて、
「そんなにつまらなそうな顔をしていますか、私は?」
「いや。ただ、なんとなくそう感じるだけで……」
くちごもり視線をそらしつつも、キースは続ける。
「君は僕のために、何もかもすべてお膳立てしてくれる。僕だって、君のために、そう、せめて君の退屈に、アクセントぐらいつけてやってもいいだろう」
ウォンは思わず微笑んだ。
「退屈は、いいものですよ、キース様」
キースは顔を背けたまま、
「そういう男じゃないだろう、君は」
「そうですねえ」
ふいにウォンは起きあがり、キースを抱きすくめ寝台へ押し倒した。
「あ」
胸を吸われ、キースはひくん、と身をそらす。丁寧に舌で口唇で愛撫されて、トロンと甘い眼差しになる。切なく喘ぐ。
「ウォン……」
「確かに私は退屈しています。その理由を教えてあげましょうか」
手指で愛撫を続けながら、ウォンは囁く。
「一番欲しいものが、手に入ってしまったからですよ。他のものはいらないんですから、もう、何をしたって、退屈なんです」
「そうか、手に入れたのか。自信たっぷりだな」
キースの微苦笑に、ウォンは真顔になる。
「そっくりそのままお返ししますよ。貴方だとは言っていないでしょう」
「じゃあなんだ」
「なんでしょうねえ」
ウォンはその先を続けず愛撫に没頭し、キースもその先をきかずにそれに溺れた。

「キース様」
「ん」
互いを清めあって、ふたたび緩やかな抱擁。
ウトウトとしかかるキースに、ウォンは低く囁く。
「感情というのは、学習できないものなんだそうですよ」
「ふうん」
「怒りや悲しみについて学んだから、もう泣いたりしないという訳では、ないでしょう。退屈だってそうです。したから悪い訳ではない。それに例えば、好きという感情も、日々新しく覚えるものなんですよ」
「そうか」
キースはふと、ウォンの腕を逃れて背を向けてしまった。
「随分と人間くさいことを言うんだな。それが君の、一番大切なものか」
「キース様」
そうです。
私のような男が誰かを愛しいと思えること、濃密な愛の時間を過ごせたこと。
それは誰にも奪えない、私だけのもの。
これ以上貴重なものはないと思えば、いっそ退屈に思えるほどの。
抱きすくめた時の、貴方の最初の吐息、それを聞くだけで、私がどんなに幸せか。
だが、そんな男のだらしなさを、貴方は嫌うでしょうか。
退屈はいいものだ、などという私を、軽蔑しますか?
「いいんだよ、ウォン」
背を向けたまま、キースが呟く。
「え」
「だから」
低く、だが、重く思いをこめた声が、ウォンの耳に届いた。
「……僕に退屈しているのでなければ、いいんだよ」

(2001.9脱稿)

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Written by Narihara Akira
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