『氷の薔薇』


白い船は、山の緑に湛んでいた。戦前に建ったホテルはすっかり朽ち、それがかえってアールデコ様式の退廃美をかがやかせている。リノベーションの話が持ち上がり、現地調査にやってきた長身の男は、暗い建物を抜け、鳥籠のようなシルエットの真ん中に立った。屋根の墜ちた廃温室だ。
「おや。こんなところに薔薇が」
手入れもされていないはずなのに、白い花弁の中央に淡いいろをしのばせて、蔓薔薇がいくつも咲いていた。男が身を屈め、甘い香りに顔を寄せていると、その向こうで青い人影が動いた。
「おやおや、音もなく現れるのは私の専売特許のはずですよ、キース」
「わざわざ身をやつして、君自身がこんな人里離れた場所へくるからだ、ウォン」
キースは、アイスブルーの瞳を細めて呟いた。
「ご心配をおかけして申し訳ありませんねえ。別荘地として興味をもっただけのことですよ。しかし、たとえ廃屋でも、持ち主のはっきりしているものならば、調査の名目で入った方が、不審がられずにすみますからね」
「二メートル近い長髪の香港人というだけで、不審がられやしないか?」
「身長を縮める能力は持ち合わせていないのでね。貴方こそ、どうやってここまで来たのですか。空を飛んでこなくとも、銀髪のイギリス人は東洋では目立ちますよ? 実は貴方が、ここの本来の持ち主とでも? この薔薇は、イギリスに古くからある強い品種のようですが」
「僕はすでに幽霊のようなものだ。所有物なんて何もない。ノアにいたサイキッカーも、僕の存在を忘れ始めているだろう」
「それを言い出したら、私も幽霊ですよ。米軍サイキッカー部隊司令としては、ハンター君に復讐されて、死んだことになっているんですから」
「フッ。そうだな」
冷戦後、パワーバランスを崩した各国軍部は、超能力者に目をつけて彼らを狩りだし、人体実験を行い、また洗脳し、軍事利用しようとした。だがそれは反対に、それまでバラバラに身を潜めていた超能力者を、強く結束させることになった。
イギリスからアメリカへ亡命したキース・エヴァンズは、十代にしてそのカリスマ性で、超能力者の秘密結社《ノア》の総帥となった。それを経済的、精神的に支えたのは、香港出身の貿易商、リチャード・ウォンだった。キースの倍近く年かさでありながら、ウォンは青年によく尽くした。しかし、人類の脅威から超能力者を救済する彼らの活動は、当然、軍と衝突、争いは過酷を極めた。
だが、キースにもっともダメージを与えたのは、彼のかつての親友だった。《ノア》の活動をテロリスト扱いするその親友と戦って、致命的な傷を負った。ウォンは一計を案じ、キースを死んだことにして《ノア》から脱出させ、己の隠れ家で療養させた。ウォン自身も《ノア》を離脱、それまで敵であったはずの米軍へ手土産をもって身を投じた。しばらく超能力者部隊の総司令官として君臨したが、親の行方をさがす若いサイキッカーに殺されたふりをして、軍を脱出。ウォンが何のうまみもない軍の狗になったのは、キースを回復させる時間と軍の研究成果が欲しかったからで、それが入手できれば、死んだことにした方が早かったからだ。今もそれを元に、自分の能力を増幅することに余念がない。
キースは空を見上げ、低い声で呟いた。
「僕らが幽霊のままでいた方が、平和なのは皮肉なことだ」
人類とサイキッカーの争いは、一時的な終結を見ている。キースなき後のノアは地下へ潜り、米軍サイキッカー部隊は解体された。兵器として強力だとしても、行使するコストが見合わなければ、サイキッカーを使う理由はあまりない。拉致するのも生かしておくのも大変で、自分たちに従わう気がないものを部下にしたがる軍人は少ないということだ。日本には影高野という独自組織が超能力者を目の敵にしているが、教祖を失って現在は弱体化している。
ウォンはキースの白い横顔を見つめながら、
「貴方は本当は、幽霊のままでいたくないのでしょう?」
「助けを求める者がいれば、彼らの力になりたいとは思う。だが、今の僕に、そんな力は残っていない」
「そうですかねえ。私のお忍び旅行を突き止めて、先回りすることができるのは、たぶん貴方だけですよ」
「何年いっしょに暮らしてきたと思っている。君の悪趣味はお見通しだ」
「悪趣味、とは」
「船の形を残す巨大な廃墟。鳥かごにも似た温室。ノアの方舟は選ばれた者を生かしたが、僕にはこんな残骸が似合いだと、ここへ閉じ込めるつもりで下見に来たんじゃないのか」
ウォンはいつもの微笑を浮かべた。
「サイキッカーばかりを募って、シェアハウス的に使うなら面白いかもしれませんね。世間から隔絶されていて不便ですが、こういう朽ちかけた景色も悪くない。物好きな観光客が海外から押し寄せてもおかしくない場所です。そのうちに少しずつ住み着いて、身を寄せ合って暮らしても、あまり不自然に思われないかもしれませんね。サイキッカーの拠点の一つを、日本におくのも悪くない。問題は他国の拠点と離れすぎていることですが、かつての基地程度の強度をもたせることは可能ですから、アジアのサイキッカーの避難場所として利用することを、考えてもいいかもしれません」
「本気か」
「貴方にその気があるのなら、私はいつだって支援しますよ」
「いくら君が蓄財の天才にしても、資金は無限ではないだろう。無理はするな」
「もちろん、私財をすべて持ち出したりはしませんよ。慈善事業にしたら悪目立ちします。中国人が日本の土地を買うのは反感の元になるようですし、そこはうまくやりますよ。やるなら、の話ですがね」
「なら、やらないのか」
「貴方がここが気に入りそうなら、療養所的に使ってもいいかとも思いますが」
「療養所?」
「貴方の傷はすっかり癒えていない。もうしばらく、静かに過ごす時間が必要です。ここは比較的涼しい土地のようですから、避暑に使う手もありますよ。インフラの整備ができていませんし、今の段階で勝手に家を建てるのは許されないでしょうが、トレーラーハウスでも持ってくれば、暮らせないこともありません。あなたのお好きな、シンプルな暮らしも可能ですよ」
「それでもずいぶん、贅沢なようだ」
「もちろん無理にはすすめません。たまには空気を変えるのもいいでしょう。そういう提案のひとつです」
「フン」
キースは白い薔薇に手を近づけたが、指先から冷気が漏れて、茎の一部が凍った。一歩後じさって、
「……僕は今まで、一度も自分のために生きていいと思ったことがない。それは、この力のせいか、そうでないのかが、もう、わからない」
次の瞬間、キースは自分が薔薇の一枝を持っていることに気づいた。ウォンが時をくぐり抜け、凍らせた茎を斬り、棘を落として自分に持たせたのだとわかった。
「その薔薇は、自分が咲きたくて咲いたのか、誰かのために咲いたのでしょうか――それを問うことに意味があるかわかりませんが、どちらにせよ、その美しさは変わりません。そのかぐわしさが減ずることも、ありませんよ」
「君の小さな薔薇になれ、と?」
「貴方は鉢植えに収まるどころか、温室にだって閉じ込めておけません。こんなに身も心も弱っているのに、今でも誰かのために生きたい、よりよく導きたいと思っている。私だけのものに、なってくれるわけがありません」
「ならない、と思っているのか」
「それは」
「なって欲しいのじゃないのか」
「キース」
「幽霊がいつ姿を消しても、誰も気にするまい。ただ静かに重なって暮らしたとしても、誰も指をさせまい。僕がかろうじて命をつなげてきたのは、君が居たからだ。そうでなければ、とっくに滅びていた」
「貴方は、私の独占欲の強さが、まだわかっていない」
ウォンの声は掠れていた。
「今になっても、貴方を傷つけた男をズタズタに切り刻みたいと思っている。貴方を安楽な暮らしに閉じ込めて、駄目にしてしまいたい、快楽の虜にして、私から一時も離れられない身体にしてしまいたい、と」
「君が望むなら、そうしていいのに」
「だからわかってないというんです。私は貴方の前では、信頼に値する同志でありたい。貴方の隣に立ってなんら恥じる必要のない、清潔な保護者でありたい。夜は貴方を優しく眠らせることのできる、立派な恋人でありたい――なのに、私は」
「僕を、滅ぼしてしまいたい?」
「そうじゃない!」
「なら、なにがいけない」
キースの手から薔薇が落ちた。ウォンの腕をつかんで、
「君はちゃんと、君自身がそうありたいと願っている存在だ。君は僕の嫌がることをしなかったし、乱暴にされたこともない。君の腕の中で目覚めると、いつも幸せな気分でいられた。だから君が、僕を愛欲のオモチャにしたいなら――僕にそんな色気があるか知らないが、好きなだけすればいい。どうして今さら、そんな、隔てを置くようなことを」
「貴方にこれ以上夢中になってしまうのが、怖いのです」
「そんなに僕を愛しているのに、君は僕に、心を預けてくれないのか」
「キース」
「僕は同志のために生きてきた。君は同志だ。だから、君だけを見ろというなら、僕は」
「そうじゃない。私は――私だけが、貴方からそう、望まれたいんです」
「それならこんな廃墟でなく、場所を変えて話し合おう。どうやら僕は、滅びるにはまだ早いようだ。利用価値も何もないのに、そうまで強く求めてくれるなんて……なのにどうして、僕が君だけのものにならない、と思うんだ?」
眼鏡の奥で潤みだしている瞳を、キースはじっと見つめた。
「僕だって、君を独り占めしたい、君の心を裸にして、何を考えているのか全部知りたいと思ってる。だから、こんなところまで追いかけてきたんだ――ウォン、僕は……」


音もなく二人は姿を消した。
地面に落ちた薔薇は、溶けない氷の中で、しばらくその美しさを保っていた。


(2018.5脱稿 usaurara卯楽々堂&花うさぎ(@usaurara)さんの主催の『シズムアンソロジー』ウェブ版 https://twitter.com/i/moments/998730457633062913 に参加したく、大遅刻ながら書いてみました。イントロに基本設定を、ほぼそのまま置かせていただきました)

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Written by Narihara Akira
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