『ホテル』

「ふう」
小さくため息をついて、キースは上着をベッドに脱ぎ捨てた。
身体は綿のように疲れ、頭の芯まで痺れている。
交渉事にはいつまでたっても慣れない。本当のキースは謀り事が好きではない。誰かと勝ちを競うより、ひとり部屋にとじこもって本を読んでいる方が楽しい種類の人間だ。そうでなくとも、気心の知れない相手と長期的な提携を約束することぐらい、神経をつかうことはない。
ウォンの仕事と見事にかちあってしまったので、今日はキースはひとりで出かけてきた。そういう時、自分の方が終わったらかけつけてくるのがウォンの常だが、今日に限ってお互い地球の反対側にいる。キースが眠ろうというこの時間こそ、彼の仕事が佳境に入る頃だ。時を操る男も、時差ばかりは解消できない。
「今晩のホテルには、セキュリティ万全の場所をとっておきましたから」
出がけにウォンは、キースに小さなメモを握らせながら、
「部屋の中では一糸まとわぬ姿でいても大丈夫ですよ」
「露出の趣味はないんだが?」
「物のたとえですよ。気に入っていただけると嬉しいんですが」
「何をだ」
「見晴らしのいい部屋に案内するよう言ってありますから、ゆっくりお休みください。たまの一人なんですから、自由に羽をのばされても結構ですが」
「そんなことは、君に言われてすることじゃない」
「そうですね」
美しく微笑んで、それからウォンは素早く恋人の頬に口づける。
「では私も行って参ります。キース様もお気をつけて」
「うん」

「羽をのばす……か」
疲れがひどいのもあるが、とても遊びにいく気になどなれない。だいたいキースはそういう種類の気晴らしをあまり知らない。ふっと一人になりたい時もあるが、たいした目的もなく歩き回るということが出来ないのだ。アルコールに逃げる気にもなれない。仕事が終わると大人しく、指定されたシティホテルへ、キースは足を運んだ。
ウォンのメモを渡して通されたのは、一見なんの変哲もない部屋に思われた。全体的に広めで窓も大きいが普通のシングルルームだ。モノトーンを基調にした、こざっぱりと落ち着いた二間だ。
ふと、窓辺のデスクにウェルカムメッセージが置かれているのに気付いた。
カードを何気なく開いてみると、

【お疲れさまでした。バスタブにお湯を半分ぐらい張ったら、部屋の電気をぜんぶ消してから入ってみてください。お気に召していただけるといいのですが】

並んだ簡素なタイプ文字は、プライベートなメッセージなのか、それともホテルの宣伝文句なのか判別がつきかねたが、キースはそれに従ってみることにした。
入ってみるとバスルームは、片面がほぼ窓で占められていた。ウォンがわざわざ、部屋で一糸まとわぬ姿でいても安全ですよ、と言い添えたのはこのためかとキースは気付いた。
いくら安全とでも丸見えでは思ったが、よく見てみると建物の形状と窓ガラスの工夫で、外からは見えないようになっているらしい。大きめのバスタブはシックな黒、室内も暗い紺いろでまとめられて、少し不思議な感じがする。キースは湯栓をひねった。神経を鎮めるにはぬるめの方がいいと知っているので、湯温を調節してから部屋へ戻る。
脱いだ服をざっと片づけると、部屋のあかりを消して浴室へ踏み入った。湯気がこもりはじめていたので、ドアを少し開けたまま、バスルームの灯りも落とす。
その瞬間。
あたりいちめんの星空に、キースは生まれたままの姿で投げ出されていた。
「……あっ」
とっさに裸身を隠そうとしたが、むろんそれは錯覚だった。
実際には窓いっぱいに街の灯りと空が透けて見えているだけのこと、しかし、キラキラとまたたく輝きは、全て本物の星に見える。
キースはゆっくり、バスタブに身を沈めた。
さすがウォン、僕の趣味を、よく知ってる。
田舎よりも都会が好きだ。星の輝きが好きだが、人工的な灯りの群れはもっと好きだ。無防備な状態でえられる解放感よりも、安心して眺めていられる景色が好きだ。
体温に近い温度の中で身体を伸ばすと、星空の中に浮かんでいる心地がする。ゆるやかに強張りがとけてゆく。心の凝った部分さえ。
ああ。ウォンが此処にいたらな。
今日は呼んでも飛んでこないと知っているから、キースはじっくり想像を巡らす。
ウォンに先にバスタブに入ってもらって、それから僕が入るんだ。暖かい身体をマットがわりにしてくつろぐと、後ろからそっと長い腕が巻きついてくる。いつも通りの優しい抱擁。そのうちウォンが、僕の耳元で「欲しい」と囁いてくる。熱くした身体を押しつけてくる。いや、そんなになる前に、二人とも我慢できなくなってひとつになってるかもしれないけど。ここでだったら「重い?」なんて余計なことも訊かなくていいし、つながったままこの浮遊感を一緒に味わえたら、それこそたまらないだろう。
ウォンも、こういうホテルが好きなのかな。
もしそうだとしたら、この間は嫌がらせをして悪かったな。
普段あんなにギラギラしい衣装を身につけているくせに、ゴシック風のホテルを嫌うとは思わなかった。時折洗練された趣味を見せるのでドキリとする。別の誰かの好みの可能性もあるが、「前は誰と来たんだ?」などと余計なことを詮索する気は起こらなかった。なにより金をもっていることを示したいあの男が、誰かと寝るために部屋をとるのに、シングルなんか選ぶ訳がない。

充分に夜景を堪能してから、キースは身体を拭いた。バスローブを羽織って部屋に戻る。
灯りをつける気になれず、そのままベッドへ倒れ込んだ。
広い窓いっぱいに、青い世界が目の前に広がっている。浴室とは別アングルのそれは、また別の風情があり、キースはいつまでも飽きずに見つめていた。
ラスベガスの高層ホテルで百万ドルの夜景をみおろしながら、兄弟でスクエアダンスを踊る映画はなんだったっけ。ウォンがここにいたら、あんな風に二人で踊りたい。ウォンはワルツは踊れたっけ。チークの方がふさわしいか。ダンスホールやディスコで二人で踊る訳にもいかないんだから(あんまり目立ちすぎる!)、なんだって構わない。基本的なステップぐらいは貴族のたしなみとして身につけている、なんなら僕がリードしたっていい。何も知らない朴念仁じゃないんだってことを、ウォンに教えてやりたい。
この心休まる夜景の前で、二人で窓辺に並んでじっと佇むだけでもいい。
ベッドの中でよりそいながら、青い闇に染まるのもいい。らちもなく甘えたい。あの広い胸に頭をこすりつけながら、ウォン、と名前を何度も呼びたい。ウォンも「なんですか」なんて尋ね返したりしないで、無言できゅっと抱きしめてくれるだろう。
キースは自分の腕で自分の身体を抱いた。
疼くものがある訳ではない、ウォンへの気持ちが溢れそうになっただけだ。
改めて思う、ウォンから得られる喜びのうち、性の鋭い快楽などはわずかな部分でしかないのだ。
君と共にあること、それだけで僕は――。
帰ったらすぐ、今度は一緒に泊まろうと誘ってみよう。君と二人で行きたいとねだってみよう。お気に召して良かった、とウォンも喜んでくれるだろう。そうしよう。
そしてそのまま、キースはとろとろと眠りに落ち。

ホテルの遅い朝食の席で、キースは食後のコーヒーに口をつけていた。
さして好きでもないのだが、郷に入れば郷に従えという格言を彼は実行する。己の信念を曲げる気はさらさらないが、譲れる趣味なら譲ってあわせる。そうすることで容易になる仕事もあるからだ。
ウォンはもう会談を終えたろうか、終わっていれば今夜のホテルに戻っている頃か。なんらかの方法で連絡をとってみようかとも思ったが、万が一長引いている時の事を考えて、キースはその考えを振り捨てた。
とその時、ボーイの一人が近づいて来た。皿を下げるのだと思ってキースが顔を上げると、何か捧げもっている。
「お客様にメッセージがございます」
銀盆にのせられていたのはシンプルな二つ折りのカードで、キースはそれを拾い上げた。
開いてみると、昨夜と同じく簡素なタイプ文字で、こう打たれていた。

【おはようございます。お疲れかもしれませんが、私も急いで帰りますので、できるだけ早くお戻りください。R.W】

キースは思わず微笑んだ。
少しでも早く会いたいって書いてないぞ、ウォン。
わざわざ人目に触れるよう、カードなんか寄こしてきて。
それをいかにも事務的な文面にみせかけて。
馬鹿だな、君は。
本当に馬鹿だ。僕よりずっと。
畳んだカードを口唇の端にあて、キースは立ち上がった。
「チェックアウトする。僕の荷物を下まで運んでくれ」
そう言い捨ててキースはエントランスに急いだ。
駄目だ。
こみあげてくるものを堪えきれそうにない。できることならこのホテルにもう一泊したい。誰にも今の自分を見られたくない。ウォンにさえも。いや、急いでここを出なければ、ウォンを呼んでしまいそうだ。呼んで……。
「!」
緋色の中華服に身を包んだ長身の男が、ホールの外で佇んでいた。
こちらの姿を認めると、すうっと中へ入ってくる。
普段のキースなら、ここですかさず嫌味のひとつも言うところだった。
【先に帰ってるんじゃなかったのか】
【子供じゃないんだ、わざわざ迎えにくるな】
【最初からこのホテルに二人で泊まるつもりだったんだろう】
しかしキースが口を開く前に、ウォンは素早く若い恋人の身体を抱きしめた。古い知人が再会した時のような、健康的な抱擁だが、それでもキースは全身の血液が沸きたつのを覚えた。
「帰りましょうか」
「ウォン」
出かけた時と服が違うということに気付いて、キースはハッとした。
「襲われたのか」
ウォンは含み笑いで答えた。
「私の方は怪我などしておりませんよ。むしろ予定より早く仕事がすみまして、結構なことでした。少々疲れましたが」
丸眼鏡の縁を押し上げながら、
「まあそれで、帰りの飛行機ではゆっくり眠りたいと思っていたんですが、ぼんやりしていたんでしょうね、うっかりこちらへ足が向いてしまいまして」
「そんなに“おねむ”なら、それこそこっちにつきあう必要はないじゃないか」
「疲れているからこそ、一緒に帰る方が安全でしょう?」
「詭弁だな」
「それともここにもう一泊して、昨夜貴方が考えたこと、一通りしてみましょうか」
「え」
そうか。
一瞬ドキリとしたがすぐ気付いた。見透かしているのでさえない、最初からすべて計算ずくだったのだ。この男らしいことだ。
しかし、キースは思わず微笑んでしまった。
可愛い話じゃないか。だって君は、僕を喜ばすにはどうしたらいいのか、それしか考えていないんだから。そうだろう?
こぼれる笑みを掌で隠しながら、キースはせいぜいいかめしい声を出した。
「一緒に帰る。……君がどんなに深く眠りこけようと、この私が守ってやろう」

(2004.7脱稿)

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Written by Narihara Akira
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