『取り残されて』

「大丈夫ですか」
「うん。ありがとう、綾人くん」
白いハンカチを目のあたりにあてたまま、総一は答えた。
泣きはらした顔のままでは家に帰れないだろうと、気を利かせて綾人が濡らしてきたものだ。
綾人は、黙ってしまった司令から一歩距離を置いたまま、静かにたたずんでいた。
八雲さん、さっきまでより落ち着いたみたいだな。
よかった。
ここのところ、ずっと張りつめた感じだったから……TERRA再建が始まったばかりの頃より険しい顔してる時が多かったから、心配だったんだけど。
僕の前で泣けるぐらいだったら、たぶん平気だろう。
八雲さんにとって、功刀さんがどれだけ特別な存在だったか、それは説明される必要もないことだった。功刀さんは八雲さんに優しく、八雲さんは功刀さんをとても慕っていた。それは会話の端々に現れ、二人が並んでいるその姿だけで、心が通いあっているのが伝わってきた。
僕も、母さんもおじさんも、そして父親も亡くした。
あえて時を調律しなかったのは僕自身だから、つらいことだけれど諦めはつく。
でも、八雲さんは、僕の選んだ結果を恨んだりしないのかな、と思う時がある。
功刀さんが、あんまり特別だったから。
「綾人くん」
「はい」
「ボクはね、功刀さんに愛されたかったんじゃないんだ」
その声は喉のあたりで潰れていて、総一がふたたび涙を流し始めるのでないかと綾人は思った。
何を言い出すのかと続きを待っていたが、総一は黙り込んだ。
色のない口唇が震えている。
綾人も言葉を発するのを避けた。
口にしたら消えてしまうものがある、と総一は言った。
安易な相づちも、うたないほうがいいだろう。
案の定、総一の次の言葉の語尾は消えた。
「ボクは、あの人を……」

総一は己の意識を薄闇の底に沈めていた。
綾人の目の前であることも忘れて、自分の内的世界に入り込んでいた。
功刀仁の腕に抱かれて、自分がおぼえる情感の正体はなんだったか。
優しい抱擁に身も心もとろかされながら、何か違和感を感じていたのはなぜか。
あの無骨な功刀さんが、最大の愛情を表現してくれたというのに、何が不満なのか。
そう。
僕は。
愛されたかったのではなくて。
愛したかったんだ。

あの人の孤独を、僕が抱きとってあげたかった。
哀しみを少しでも癒やせたらと願っていた。
身も心もすべて愛し尽くしたかった。
だって、誰よりも近くにいるはずなのに、功刀さんの心はあまりに遠い場所にあって。
だから僕は、亡くなった美智瑠ちゃんにまで嫉妬して。

自分がどんなに生意気か、よくわかってる。
僕は功刀さんに拾われた身だ。守られていたのは僕の方だ。
おそらく功刀さんは、自分のもっている愛情のすべてを、惜しみなく僕に注いでくれた。
こうして司令になってみて、ハッキリわかる。
一人になっても僕が困らないように、できるだけの指導をしてくれた。政治的なことは苦手なんだと言いながら、若い僕が後で苦労しないよう、沢山の人脈をつないでくれた。
いっときでも功刀さんを疑った自分が、本当に恥ずかしい。
あの人は僕を、一度も裏切らなかったのに。

それでも僕は。

総一は顔からハンカチを外した。
「コレありがとう、綾人くん。洗って返すよ」
綾人は慌てて手を振った。
「いいですよ、僕が勝手に濡らしてきたんですから」
「でも、そのまま持って帰る訳にもいかないだろ」
「八雲さんも同じでしょう」
「男物のハンカチなんて、キムは気にしないよ」
「そういう意味じゃなくて、何で借りたかは気にするかもしれないじゃないですか」
「ずいぶんと気が回るね」
総一は苦笑しながら綾人にハンカチを手渡した。
「まだスッキリしないから、そのへんをぶらぶらしてから帰るよ。綾人くんも待ってる人がいるんだから、そろそろ戻らないとね。それとも送っていこうか?」
「八雲さん」
いつも通りのポーカーフェイスだ。
綾人は、さっきまで抑えていた言葉をそろそろ吐き出すことにした。
「功刀さん、最後に、“総一、みんなを宜しく頼む”って言ってましたよね」
「そうだね」
「僕、功刀さんの最期の笑顔、今でも忘れられなくて……きれいな笑顔でした」
「あの人、死に場所をさがしてたからね」
「そうじゃなくて」
綾人は首を振った。
「功刀さん、幸せだったんだと思います。八雲さんがいたから」
「そうかな」
「今でもこんなに想われてて」
「もう、想うことしかできないからね」
「忘れたいと思うほど、苦しいのに?」
苦しいとも。
愛したいのに、その愛を向ける実体がない。
もう笑ってくれない。叱ってくれさえしない。
それでも僕がのうのうと生きているのは、功刀さんの遺志を後に伝えるためだけで。
「あ」
おんなじ、なのか。
功刀さんが美智瑠ちゃんを思いながら、苦しんで生きてきた十余年の歳月。
その間あの人が死を選ばなかったのは、敵討ちのためじゃない。後を託せるものを育てるためだ。連合の力で、世界平和を築くためだ。
そうか。
そう、それならばこの僕も――。
総一の身の内に淀んでいたものはその刹那、いっぺんに甘美な情感に生まれ変わった。
ため息にも似た声で、彼は呟く。
「……ボク、功刀さんのこと、ずっと好きでいていいのかな」
「当たり前じゃないですか!」
「そうか。当たり前のことだよね」
この思いはどうしても、溢れて尽きることがない。
ならばこの命ある限り、貴方を一番に愛し続ければいい。
それ以外の生き方は、今は選べない。誰を傷つけようと、誰に慕われようとも。
「立てます、八雲さん?」
「うん。途中まで一緒に帰ろうよ。潮風に吹かれるのもいいもんだよね」
「ええ」

そうして後ろに手を組んでゆっくりと歩き出した総一の後ろ姿は、まるで誰かを映したようで――。

(2004.8脱稿)

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Written by Narihara Akira
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