『弱 点』

「……卑怯なり!」
リチャード・ウォンはデスクの前でひとり呟き、顔を覆った。
今の自分に、弱点などないと思っていた。
ゆいいつ勝てないのは恋人のキース・エヴァンズだが、弱点ではない。むろん、彼が人質にでもとられようものなら、全力で助ける。だが、自分たちのやっていることを考えれば、二人ともいつ死んでもおかしくないと、覚悟もしている。
そういう意味では、お互い割り切っている。
だが。

「フェイ」
そう呼ばれて思わず振り返った時、ウォンは己の目を疑った。
「おかあ、さま……?」
艶やかな黒髪を流した、美しく凜としたひと。
雪の街角に立っているというのに、亜熱帯の国の小さな部屋で、二人むきあって暮らした日々がいきなり蘇った。
小さな窓から見えるのは、屋上屋を重ねた、ごたごたした町並みだけ。
その向こうには、ギラギラと輝く高層ビル、そして、緑ゆたかな丘陵の高級住宅街。
《ええ、フェイのお父様は生きています。だけど決して会ってはいけないのよ》――声まで思い出すほどに、その女性は母に似ていた。
彼の親にしては、いささか若すぎたが。それに厚着しすぎだ。
「誰ですか、あなたは」
動揺を抑えきれずに、ウォンは尋ねていた。
「誰、と名乗るほどのものではないけれど、少しお話したいの」
「怪しげな見知らぬ相手と、取り引きする人間がいると思うのですか」
「取り引きではないわ。お願いよ」
「このような寒い場所で、立ち話はご遠慮こうむりたい」
顔を背けようとするウォンの前に、女性はまわりこんだ。
「この国は、昔はもっと寒かったのよ。それこそ、木の水分が凍って、巨木がミシミシと倒れてしまう日が続くぐらい」
「寒さに耐えられないようなら、ここに住む資格はないといいたいのですか」
「いいえ」
女性はウォンの掌をとった。
「あくまで、お願い、といったでしょう?」
暖かなカフェへ、ウォンは導かれた。
なぜ、自分は怪しげな人間をここまで近づけているのか。
母が私をフェイ、と呼んでいたことを知っている人間は、果たして何人残っていただろうか――?

ミルクティの上で、ウォンは顔を伏せた。眼鏡が曇る。
「……端的にいうと、私たちが捨ててきた街と、連絡をとれ、ということですか」
「そうね。新しい理想郷をつくるのは素晴らしいことだけど」
女性の声は、自信に満ちていた。
「私たち華人の美しい伝統は、いかすべきよ」
ウォンはため息をついた。
「チャイナタウンのように、あらゆる国に派手で固陋な一角を築いて、互いに連携しろということですか」
「あなたたちがやろうとしていうのは、そういうことではないの?」
「当たらずといえとも、遠からず、ですかね」
曇ったままの眼鏡の奥で、ウォンは目を閉じる。
「私たちは、それぞれの理想郷に、有機的なつながりをつくらない方針でいます」
「どうして?」
「私たちは、お互いの心を読みすぎてしまう。なおかつ、秘密でなければならないことを抱えすぎている。そして、チャイナタウンのように《私たちはここにいます》と宣言するようなことが、好ましくありません」
「それでは、いざという時、連携できないわ」
「そうまでして助け合う必要が、ありますか?」
ウォンはため息をついた。
「いざという時、遠くの国にいるサイキッカーは、間に合いませんが」
「そんなことはないわ」
「そうでしょうか」
ウォンは、口元にカップをもっていく。
「国境を、国家を越えて、というのは美しい理想ですが、あまり現実的でないこともしばしばです。無理に連携をとるより、その土地にあわせた街をつくっていくことが、理想として好ましいとは思いませんか」
そう呟いて、紅茶を飲み干すウォンを、女性は苦々しく見つめた。
「まあ、一度で口説けるとは思っていなかったわ。でも、私はあきらめません。何度でも会いにきます」
「やめてください。あなたの口車にのりたくありません」
「フェイ」
ウォンは眼鏡をはずした。
「いいですか」
鋭い青い光が、女性の瞳を刺した。
「……次にその名で私を呼んだら、殺します」

新しく借りている家に戻ると、ウォンはすぐに恋人の部屋をノックした。
「キース」
「ああ、どうした?」
「明日、早いので、自分の書斎で眠ってもいいでしょうか」
キースは首を傾げた。それから、肩が凝っているかのように、軽く回す。
「そうだな。僕も今日は疲れてるから、ひとりで寝ようか」
「すみません」
「構わない。ただ、あまり根をつめるなよ。カナダの気候は、君にはあうまい。今も顔色がすぐれないようだが」
ウォンはあわく微笑んだ。
「大丈夫です。そのために早く眠ろうというのですから」
「わかった。夕食はすませてきたのか」
「ええ」
「本当に、くれぐれも無理はするなよ。君が倒れたら、理想郷どころの話じゃない」
「ええ。こういう計画は、最初の頃が一番肝心ですからね。じっくり取り組みませんと」
「ああ。じゃあ、ちょっと早いけど、おやすみ、ウォン」
「おやすみなさい」
ウォンは自分の部屋にひきとって、パソコンの前に座った。
眼鏡を置くと、顔を覆って呟く。
「……卑怯なり!」
その言葉が、適切でないことは知っている。
あんな女性が現れたぐらいで、動揺する自分の方がどうかしているのだ。
母はもう、自分の思い出の中にしかいない。ウォンにとって、それ以外は真実でない。
だのに、あの面影が、振り切れない。
こうして一人になっても、奇妙な感情が渦まいている。
「それよりも、仕事を」
明日会う人間の資料を、まだ揃えきっていなかった。つまり対策も不十分な状態ということだ。
ここでしっかりしていないと、またつけこまれる。
私に弱点など、あってはならないというのに。
ウォンが、知らず部屋に持ち込んだ雪がしずくとなり、乾ききってしまうまで、しばしタイピングの音が続いた。
それは静かだが、妙な興奮に満ちた音で。

「眠れない……」
髪をほどき、ベッドに横になったウォンは、何度も寝返りをうっていた。
首から背中から力を抜こうとしても、こわばったままで。
こんなことは、本当にまれだ。
これでは、何のために早くから休んでいるのかわからない。
まあ、暗くして目さえ閉じていれば、多少は身体は休まるはずなのだが。
「ウォン?」
ノックの音に、ゆっくりウォンは、身体を起こした。
こんなにイライラした自分を、あの人に見られたくない。
いちど深呼吸してから、ドアを開けた。
「ごめん、ウォン」
キースはガウン姿だった。
「明日、早いのはわかってるんだが」
「どうなさいました?」
キースはふっと、ウォンの胸に飛び込んできた。
「ウォンので、鎮めて欲しい」
そのしなやかな身体は、信じられないほど熱かった。
こんな風にねだらずにいられないほどか、とウォンの胸はときめいた。
「してほしいの?」
キースは首を振った。
「違う。自分だけ気持ちよくなりたいなら、こんな時間にこない」
「一緒が、いいんですね?」
「うん」
そのまま二人は、ウォンのベッドへもつれ込み――。

翌朝。
予定の時間に目が覚めたウォンの前に、キースの笑顔があった。
「おはよう」
「おはようございます」
「よく、眠れたろう」
「ええ」
爽やかな目覚めだった。ぐっすり眠れた。昨夜、つまらぬことであんなに悶々としていたのが、信じられないほど。
ウォンが身体を起こすと、キースはその肩に寄り添った。
「知ってるか」
「なにをです」
「セックスは最高の睡眠薬だって。フロイトもいってる」
「本当ですか?」
「嘘じゃない。精神分析の本に、ちゃんと書いてある」
そうか。
ウォンは気づいた。
私が眠れないでいるのに気づいて、わざわざ部屋を訪ねてきてくれたのか。
変な顔色をしていたから、様子を見にきてくれたのだ。
「違うよ、ウォン」
キースは含み笑いをもらした。
「……僕が、ぐっすり眠りたかったんだ」

(2007.2脱稿)

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Written by Narihara Akira
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