『真夜中は別の顔』

口唇を甘く奪われて、一瞬気が遠くなった。
二人きりで夜も更けて寝室も間近、ウォンのその行動は唐突でもなんでもない。
だがキースはそれをあえて押しのけ、呟くように、
「その……そんなじゃなくて、もっとそっけなくして」
「そっけなく?」
言われた言葉の意味がわからず、ウォンはいぶかしげにキースを見つめる。追ってくる視線を交わすように顔をそむけながら、
「だから、仕事相手と仕方なくする時みたいに」
「仕事相手とする時には、丁寧にやりますよ。虜にしなければいけないんですから、むしろ執拗に責める時もあります」
道理を言われて、キースはさらに視線をそらす。
「じゃあ、そこらでひっかけた、ゆきずりの相手とする時みたいに」
ウォンの声に苦笑いのトーンがまじった。
「我が身の安全を考えると、そこらでひっかけるのは非常に好ましくないんですが。もし騙すつもりで犯すなら、そうそっけなくもしませんよ」
そう言いながら広い胸が迫ってくる。もう避けきれないので、あえてそこへキースは飛び込む。上目遣いで見つめながら、
「じゃあ、うっとおしい相手だけど、せがんでくるのでしかたなく、だったら……?」
ウォンの細い瞳がさらに細められた。しかし、何か探るような表情はみせず、
「ゴッコ遊びということですか?」
「そうだ」
「あと、名前を呼ばないで欲しい……別人になるんだから」
「そうですか」
ウォンは小さくため息をついた。
「難しそうですね。それで、おしまいの合図は?」
「合図?」
軽くウォンは肩をすくめて、
「ずっとゴッコを続ける訳ではないのでしょう? 私は嫌ですよ、貴方の名前も呼べずに過ごさなければならないのは。本当は、一晩だって嫌です」
「じゃあ、僕が【おわりにしよう】と言って、君の肩を叩いたら」
「そこで終わりにして、普段どおりにしていいんですね?」
「うん」
「もし、貴方が肩を叩かなくとも、二十四時間が限度……それで、いいですか?」
「わかった」
「服は脱がなくても構いませんか」
「構わない。君だけ着ていても、僕を脱がせなくてもいい」
「わかりました。では、始める前に、もう一つだけ」
「ん?」
「私が何をしても……嫌いにならないでくださいね、キース様」

こんな妙なゴッコ遊びをあえて持ちかけてみたのは、胸の奥にある一つのわだかまりのせいだった。
かつてキースは、ウォンの心の隅々まで探索したことがある。その時、ウォンの愛情の一番純粋な部分はすべて、自分に集中していることを知った。それはキースをすこぶる満足させたが、それと同時に、自分以外の人間を犯す時のウォンは別人であることも知ってしまったのである。彼の商売相手が、冷たく犯されたためにかえって燃え上がるさま、すすんで愛人となった者が、報われない想いを知りながら彼にすがりつき泣き叫ぶさま――それは予想していたことだ、ウォンがモノにした男女の数の限りなさも承知していたはずだった。
それでも、キースの心はざわついた。
ウォンの激しさも優しさも、すべて知っているつもりだった。豊富な愛戯のヴァリエーションも、自分が身に受けているものがほとんど、と無意識に思っていた。ウォンの秘密の場所を犯したことがあるのは自分だけ、という優越感もあった。
しかし、相手が違えば、ウォンは別の激情を見せるのだ。
その事実は、澱のようにキースの中に沈んだ。
これは焼き餅ではない、とキースは思う。だって、ウォンが誰と寝てこようと気にはならないのだから。今日は誰を抱いてきたんだ、となじったこともない。
それなのに、ウォンの耳たぶを軽く噛み、彼のうめきをきくたびに、淀みはパッとかきたてられる。僕の知らないウォンに抱かれたい、とあられもない思いに焼かれる。それでも、「抱いて、もっと強く」と囁くことしかできず、そのままたやすく絶頂に導かれ、その願望は秘められたまま終わってしまう。
快楽の余韻の中、ウォンに抱きしめられ眠りにおちる時、なぜこれでいけない、一番優しいウォンで飽き足らないんだ、とも思う。この胸に甘えて朝まで一緒に眠ることが一番の望みなのに。それはずっと変わらないのに。
例えばウォンを冷たく犯すことができれば伝えられるかもしれない、と考える時もあった。しかし、恥ずかしそうに身体を開くウォンに、そう無体もできない。優しい愛撫を仕込まれた身体は、相手にも無茶がやれないようになってしまっているのだ。ましてキースの内気さでは、それは最初から無理な話で。
それでも、ようやく意を決してキースは訴えた。
別人になってしてみようと。
どんな結果が出るのか予想もつかない。
それでも、欲しかった。
自分の知らない、ウォンを。

「……!」
奥底に深い蒼をたたえたウォンの瞳は、さらにその暗さを増していた。
「無駄ですよ、そんな潤んだ瞳で見つめても」
ウォンは上着しか脱がなかった。キースの服はあらかた脱がせたが、抱きしめることもせず、口唇も押してくれない。ただ長い手指で、キースが感じるポイントだけを押さえ、その息が乱れるのを冷静に見つめている。
「それとも、もう口もきけませんか」
冷たい愛撫。冷たい声。
すでにキースは激しく後悔していた。
自分がウォンに何を求めているかよく知っていたはずなのに。すっぽりと大きな身体に包まれ暖められ、愛の言葉を、愛のまなざしを注がれ、優しい愛撫でゆっくり高められること――それをすべて奪われたら、ウォンと抱き合う意味などない。互いの信頼が深いからこそ、喜びは毎晩でも訪れるのであって、なぶられてただ性感だけが高まっていくのはあまりに味気なく辛い。
脳裏にウォンの過去の愛人の記憶がよみがえる、その悲鳴が鳴り響く。僕が側にいない時、身代わりに抱いていた男なのらしい。キースでなく自分を見て欲しい、必要として欲しいと懇願している。薄笑いのまま、ウォンは男を弄び続ける。必要としていますよ、と囁きながら。怖い。ウォンにとっては何もかも道具だとわかっていても。そんなあしらいを平気で出来る男だと知っていても。
いつしかキースの頬は涙で汚れていた。しかしウォンはやめなかった。あいかわらず手指の手管だけで、キースを最初の絶頂へ押し上げた。
「ああっ」
緩急をつけて握り込まれ、二度目三度目の頂上を迎える。自分の体液で自分の肌が濡れ、冷えてゆくのを感じながら、キースは思わず叫んだ。
「や、もう、ひとつになりたい……!」
「ひとつに?」
冷笑されて、キースの胸は凍った。
「誰がそんなことを約束しましたか。このまま何度でも達かせてあげます。それで我慢なさい」
「いやあっ」
すっかり高まったところで貫かれると思っていた、だから性感に身をまかせていたのに。ウォンの豊かな腰回りが欲しい。足を絡めて引き寄せたい。熱い欲望をむさぼりたい。
しかしウォンの動きはかわらない。胸板を、秘所を両手できつくなぶり、キースの精を一方的に吐き出させる。キースはイヤイヤをし、しきりに身悶えた。
それでもウォンの肩に手を伸ばさない。おわりにしよう、とも言わない。興奮していた。だってこれがもう一つのウォンの顔。僕の知らない非情なウォン。そう、これでぜんぶ僕のもの……僕の、リチャード・ウォン。
「駄目、もう、駄目……!」
両手の指で足りないほど達かされて、ついにキースは失神した。
薄れゆく意識の中で、やりすぎに気づいたウォンがそっと抱きしめ慰めてくれないか、と強く願った。だが、そのまま身体が遠ざかっていくのを感じるだけだった……。

翌朝。
キースははっと飛び起きた。
昨夜の後始末もされていない、布団は冷たい。
ウォンは少し離れた椅子で足を組み、着衣のまま、キースをじろりとにらみつける。
「やっと、目が覚めましたか」
声に軽蔑の響きがあった。
「どうしました。まだ欲しいとでも?」
思わず瞳が潤んだ。
ウォン。僕が悪かった。くだらないゴッコ遊びなんか持ち出したりして。
でも、君のその演技、あまりに真に迫ってる。
もしかして君は、本当は僕をずっと軽蔑していたのか? 犯すのもおっくうだったのか?
その言葉を飲み込んで、キースは全裸のままウォンに近づいた。
「なんです、だらしのない。朝から欲しいんですか」
眉をひそめるウォンの側まで足をひきずっていき、ようやくキースはその肩を叩いた。
「終わりに、しよう」
「何をです」
ウォンのまなざしは冷たいままだった。キースは震えた。
「二人の関係をですか?」
そう問われて、キースの瞳からついに涙があふれ出した。
「違う。ごっこ遊びだ。終わりにしよう、もう沢山だ。やっぱり普段の君がいい。頼むから元どおり……」
「はい」
突然ウォンは椅子から立ち上がり、キースをきゅうっと抱きしめた。
「良かった、キース様」
「あ」
そう呼ばれた瞬間、キースの中で凍り付いていたものがすうっと溶けだした。
「意地悪をしてすみません。でも、すぐに【終わりにしよう】と言ってもらえると思ったのに、キース様はずっと意地をはったままで、ですから……」
甘く口唇を吸い上げられて、キースはほうっとため息をついた。
暖かい安堵の涙が溢れた。
良かった。
ウォンが意地悪な演技を続けたのは、僕が虚勢をはり続けたから。
それならわかる。
怒ってたんだ、無茶なことを要求されたから。
それなら。
ウォンの胸にしがみついて、キースは囁く。
「ごめん、ウォン。変なことさせて」
「いいんですよ、ただ」
ウォンは慎ましく睫毛を伏せて、
「理由をきいても、構いませんか」
「理由……」
キースは一瞬つまった。
説明できない。自分の知らない君を知りたいというのはすでに矛盾だ。他の者への嫉妬ではないのだ、と言っても、嫉妬でしょう、と笑われかねない。
「言えない?」
「……」
「きっかけも?」
「……」
「そうですか」
あっさりとそう呟いてウォンの身体が離れた。キースは慌ててその胸にすがった。
「……独占欲」
「え」
思わぬ言葉が口唇から飛び出して、キースは自分でとまどった。
だが、それが一番正しい表現に違いない。キースはウォンの胸に頬をうずめ、その火照りを隠しながら、
「僕以外の人間とする時は、君は別人だから……でも、別人の君も欲しかったから……」
「それはつまり、私の、すべてが……」
「欲しかった、だから」
ウォンの声がずっと柔らかくなった。
「それでは、今からしてもいいですか」
「えっ」
ウォンはキースの腰をぐっと抱き寄せた。
「めったに嫉妬すら匂わせない貴方が、独占欲なんて言葉を使うのは、誘っているのと同じことですよ……ほら」
服ごしでもウォンがその身を熱くしているのがわかって、キースの声はかすれた。
「わかった。それで、昨日の埋め合わせになるなら」
「ええ」
ウォンはにっこり微笑んだ。
ベッドへ静かにキースを横たえながら、低く囁く。
「では、私のすべてを味わってくださいね、キース様」

次に二人が目覚めたのは高くのぼった日が傾き出した頃だった。
裸の身体を寄せたまま、キースは呟く。
「ウォン」
「はい?」
「一つ訊いていいか」
「何をですか」
「君、興味のない相手だと、むさぼろうともしないのか」
単に冷酷な演技の一つとしてのことなのか、それとも別の理由があるのか、キースは知りたかった。
ウォンの瞳が動いた。だが、口はつぐんだままだ。
「それとも、別に理由が?」
「……」
「言えない?」
「そうですね、本当のことを言わないでいても、貴方にはいつか見抜かれてしまいますから……」
ウォンはちょっと口ごもりながら、
「研究所時代、無理強いに犯されたのでしょう、それこそ準備もなくただ貫かれて……だから、そういう抱き方だけはしたくなかったんです」
「あ」
つまりあれは、最中に強姦の記憶を少しでもよみがえらせまいという、ウォンなりの配慮――。
「キース様、最初に抱かれた晩、私をまったく拒みませんでしたよね。あんな嫌な記憶をもちながら、私には素直に身体を開いて……だから、優しくしたい、貴方にもっと優しくして、新しい喜びで全身ぬりかえてあげたい……そう思いながら、抱きしめてきたんです。でも、それだけではきっと、物足りない時もありますよね」
「そんなこと」
「本当に?」
ウォンは更に声を低めた。
「終わりにしよう、と言われた時、心臓がとまりそうでした。本当に終わりたいのかと。私に飽きたから難題をもちだされたのだったらと、ずっとハラハラしていました。泣いたのに途中でやめてくれないなんて意地悪だ、君なんて嫌いだって言われたら、どうしたらいいかと」
「信用がないんだな。独占欲だと言ったろう?」
「ええ。でも」
キースの髪に触れながら、ほとんど囁くように、
「貴方はいつもこう言う……君を縛る気はない、君の仕事には立ち入らない、誰と寝てきても気にしない……それは別に強がりでなく、貴方の本心なのでしょう?」
「それでは、寂しいか」
ウォンはキースを静かに抱きしめながら、
「貴方よりずっと強いのです、私の独占欲は。ですから……」
「わかった」
抱き返しながらキースは囁く。
「じゃあ、時々またゴッコ遊びをしようか」
「キース様!」
お互い別の顔を交換しあうのは危うい戯れだ。過去も何もかもさらけだすことがマイナスになることもある。だが小さな嫉妬が、些細なもどかしさが恋情をかきたてることもある。そのギリギリの境目を見極めるのは難しい。
ただもし、ずっと一緒にいたいという願いと、願えば一緒にいられるという信頼が変わらないなら、その戯れは安全な刺激となりうる。
「演技しながら、普段言えないことを言うんだ。それなら構わないだろう? なかなか言えない本当の気持ち……ききたくないか?」
「ききたいです」
反射的に答えるウォンに、キースは思わず微笑んだ。
「じゃあ、続きは今度、ゆっくりな」
「……そうですか」
ウォンがあまりに残念そうにため息をつく。
キースはその耳に口唇を寄せた。
「君から言ってもいいんだからな。嫉妬深い、淫乱な、詮索好きの愛人を演じてくれって」
「無理でしょう、キース様にはそんなこと」
「試してみるか?」
「貴方が、構わないのなら……」

そして、ウォンも知ったのだった。
キースの別の本心を。

(2001.11脱稿/初出・恋人と時限爆弾『真夜中は別の顔』2001.12)

《サイキックフォース》パロディのページへ戻る

Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/