『あなたの犬』

「今晩、あなたを抱きたい」
本気で言った訳ではなかった。むしろ、はっきり断わってほしい、という自虐的な気持ちから出た台詞だった。だからカルロは、相手の顔も見ずにその言葉を吐き出していた。
だって今日のキース様は穏やかで、常に暖かな微笑みを浮かべている。仕事ぶりも落ち着いている。それ自体はいいことでカルロも嬉しいが、その理由があまりにはっきりしすぎていて――昨日一日、ウォンとゆっくり逢ってきたからだ。ここまで上機嫌ということは、何もかもうまく運んだに違いない。仕事の折り合いも、愛情の確認も。身も心も満たされているから、だからこんなに綺麗なんだ。
思わず抱きたい、と口走ってしまうほど、綺麗で。
「うん?」
キースは電子文書から顔を上げ、カルロをじっと見つめた。
「したいなら、別に構わないが」
「えっ」
ゆらぐことのない、その微笑み。
「私のいない間に、君がここまで作業を進めてくれていると思わなかったから、今晩は少し余裕がある。だから、君がしたいのなら、構わないと言っている」
「留守番ができた飼い犬にごほうび、という事ですか」
「カルロ」
その声はあくまで優しく、たしなめるように、
「喧嘩をしたいのなら、そう言ってくれないか」
「違います! 本当に抱きたくて」
思わず声がはねあがって、カルロは赤面した。
だらしのない。
この人のことはもう諦めよう、僕は僕の道を行こう、と何度も何度も心の中で誓ったのに、少しでもキース様の気にかけてもらえたり、少しでも触れるチャンスがあると、そんな誓いはどこかへふきとんでしまう。
まだ僕は、この人が好きで好きでたまらないのだ。
報われないとわかっているのに、どうしても弱まってくれない、この想い。
「そうか」
キースはすらりと立ち上がった。
「それなら夜、部屋に来るといい。待っている」
ノア総帥はそのまま、長い上着の裾を巧みにさばいて去った。
その後ろ姿を、カルロは黙って見送った。
僕は馬鹿だ。
今すぐ欲しい、と抱きすくめればよかった。
そうしたら、僕の想いの強さを知らせることができたかもしれない。
そうしたら、あの微笑みが崩れて、あの余裕が壊れて、それこそ裸のキース様を抱くことができたかもしれない。
それなのになぜ僕は、ただただ従ってしまうのか。
所詮は留守番の犬、飼い主の命令に逆らうことはできない、ということか。
割り切れない想いを胸に押し込めて、しばらく動けない、カルロ。

「キース様」
夜も更けた。インターフォンの前で低く囁くと、少し間をおいてから返事があった。
「君か。今ロックを外した」
「わかりました」
細く開けたドアから滑り込み、カルロは奥の寝室に向かう。
「すまない。待っていたら眠くなって、少し横になっていた」
返事の言葉を裏付けるように、キースはベッドの上に身を起こして、目のあたりを軽くこすっていた。浅いまどろみから目覚めたばかりのしどけなさ。近よると、淡い石鹸の匂い。待っていた、というその言葉は嘘ではないようだ。気が変わった、近寄るな、という訳でもなさそうで。
だが、まだ油断はならない。
「お疲れですか」
キースは小さく首を振った。
「それほどでもない。大丈夫だ」
「そうですか。それなら」
傍らに腰をおろし、細い肩をそっと抱き寄せる。
「待て。あまり明るいのは好きじゃない」
キースはカルロの腕を逃れ、灯火をかなりしぼった。
「これでいい。……おいで、カルロ」

昨晩ウォンに抱かれたとは信じられないほど、キースの肌は綺麗だった。
薄くらがりなのではっきり見えないのかもしれないが、もしかして昨夜は何もなかったのだろうか……そんなことを考えながら吸いつくような肌をまさぐっていると、カルロの胸に沈んでいた炎はメラメラと火力を増した。胸を吸い、同時に指先で急所を責めながら、全身をぴったり絡ませるようにしていくと、キースの声が甘く掠れる。
たまらなくなって、その掌をそっと、足の間へ導いた。
「キース様、どうか、ここを……」
「カルロ」
微かに恥じらいのにじんだ声。
「もうこんなに熱くしてるのに、僕が触れてもいいのか?」
上からキースの掌を包み込んで、カルロは低く囁き返す。
「ええ。触って下さい」
「ふ。後悔するぞ」
笑い声と共に局所を握り込まれて、カルロはあっと息をのんだ。上手い。巧みな手指の動きに漏らさず堪えるのが精一杯で、キースを抱くことに集中できなくなった。
「辛いんだろう。もう、入ってきても、いいんだぞ」
「でも」
「このままだと、暴発するぞ」
「っ……!」
キースが掌を放した瞬間、カルロは本当に達ってしまいそうになった。やっとのことで我慢して、華奢な腰を大きく押し開く。
「たぶん、優しく……できません」
懸命に絞りだした声に、キースは笑顔で応えた。
「構わない」
「では、行きます」
思いきり深く打ち込み、乱暴にかきまわす。
それでも湿った狭い洞窟は、カルロを迎えて妖しくうごめいた。
「いい、カルロ、そのまま……!」
喜びに乱れる柔らかな腰を抱え込みながら、狂ったように内部をえぐり続けた。とろけるように中が熱い。キースが終わる前に一度達してしまったが、カルロはきつく締めつけられてすぐに復活し、何度も何度もむさぼっていく。こんなに激しくして平気なのか、という想いが一瞬よぎっても、快楽が強すぎて何もかも飛んでしまった。
さんざん犯してから抜きだすと、白濁したものがトロ……と溢れ落ちる。
キースが、薄目を開いて呟いた。
「女泣かせだな、君のは」
「えっ」
投げ出していた腕をカルロの首筋にからませて、
「疲れた。シャワーまで連れていってくれないか」
また、そんなことを。
明るいことを嫌うくせに、あからさまに洗ってくれというのか。
しかし、命令に逆うことなどできる訳もなく。
「……わかりました」

キースは、薄く湯をはったバスタブに、火を灯したフローティングキャンドルを幾つも浮かべた。子どものように楽しげに、そして物憂く。ライトを消したシャワールームの中で水面を揺れるキャンドルは、幻想的な空間を造りだした。キースの抜けるような白い肌が、その中で淫らに浮かび上がる。
シャワーのノズルが手渡された。
「ゆっくり、丁寧に、洗ってくれ」
「はい」
首筋から胸、下半身にかけて、石鹸の泡をきめ細かくたてて洗い、そして流す。
中もだ、と低く囁かれて、先ほど犯した場所に、人差し指を滑り込ませる。
「あ、ん……っ」
小さな喘ぎ。
その瞬間、カルロは強烈な熱情の発作にかられた。
ムードたっぷりの灯火といい、誘うような物言いといい、ここで挑んでも拒まれない筈。
タイルの壁に押し付けて、もう一度この場で辱めたい……!
カルロはそれでも、相手を清めることに必死で専念する。
「……終わり、ました」
「ありがとう」
軽く音をたて、カルロに顔を重ねる、キース。
「キース様!」
次の瞬間、カルロは濡れた滑らかな肌を抱きすくめていた。
言わずに我慢していたことが、ついに喉からほとばしった。
「どうして今晩は僕と! 昨日ウォンとしなかったんですか? こんな風に情けをかけられたら、僕は、僕は、思い上がってしまいます!」
「……なんで、昨日、してこなかったと思うんだ?」
冷静な声。
慌ててその顔を見ると、薄い口唇には変わらぬ笑みが浮かんでいた。
「だって身体に愛咬の痕が……」
「ないからか。まあ、昨日はこっちが向こうへ痕をつける番だったからな」
キースはカルロの腕を外すと、タオルで身体を拭った。そのままシャワールームを出ていく。カルロは慌てて追う。
キースは寝着をかぶり、ベッドに新しいシーツを敷いて腰掛ける。
「君は思い上がる必要はない。情けをかけた訳じゃない。君が欲しいといって、私も今晩は嫌ではなかったから、しただけだ。私にそういう期待をしないように、もう何度も言ってあるはずだが?」
ぐうの音もでずにいるカルロに、キースはさらなる追い打ちをかける。
「昨夜のウォンは可愛らしかったぞ。こっちが最初から最後までリードしたんだ。面白いぞ、昼間はあんなに不敵な男が、僕の下で無垢な乙女のように恥じらう。なかなかの見物だ」
カルロの頬はカッと火照った。
一瞬想像してしまったのだ。
この若くしなやかな肢体が、あの大男にのしかかって犯す姿を。
たまらない想像――しかし、カルロの背中をかけあがるゾクッとしたものは、ただおぞましいだけのものではなかった。
たまらなく嫌だというのでなく、むしろ、たまらなく……いい?
「なんだ、君も抱かれたいのか」
「え、いえ、そんな……」
慌てて否定すると、キースはフッと笑った。
「そうだな。私もそんな気はない。君ではたいして面白くもなさそうだしな。忠犬が主人に従うのは当たり前のことだからな。だろう?」
カルロは言葉をなくしていた。
だがそれは、キースの言葉の冷たさのためではなかった。
僕は、あなたの犬――そう思うだけで、燃え立つこの情感はなんなのだ。
そしられているというのに、言葉で犯されているというのに、湧いてくるこの喜びはなんだ。
「キース様」
「うん?」
「今晩はこれで失礼します」
「そうだな。自分のベッドでゆっくり休むといい。ご苦労だった」
昏い眼差しに送られて、カルロは急いで部屋を出た。
今まで思いもよらなかった世界が、彼の目の前に開けていた。
それは不思議に甘美ないざない――大胆不敵な大男が、無垢な乙女のように犯されることは、普通はひどい屈辱のように思える。しかし、自ら許す時、男は確かに一つの喜びを感じているに違いないのだ。もし、自らすすんで忠犬であるのなら、どんなにからかわれようと、どうということもない。それは寂しい飼い主が、犬の愛情を試しているだけのことなのだ。それは決してはかない絆なんかじゃない。僕が犬の勤めを果している限り、屈辱は屈辱になりはしない。それはむしろ、一つの喜びであって。
所詮ウォンだとて、未だあなたに縛られて、しかもあなたに犯される身。
それならばいっそ、忠犬の誇りを持つこの僕の方が上。
どうしよう。
どうして僕はこんなに幸せな気持ちに。
僕はもしかして、この瞬間を待っていたのか。
キース様。

「カルロの奴、最後まで怒らなかったな」
枕に頬を埋めながら、キースは小さく呟いた。
カルロの誘いにのるのは、下手に拒むとかえってその火を燃え上がらせてしまうか、あまりに露骨にしょげかえるので、それが嫌だからなのだが、そのため最中でも、つい底意地の悪い態度にでてしまう。それで少しでも自分のことを嫌いになってくれれば、という気持ちもあるのだが、あの程度の意地悪では駄目らしい。面倒だが、やたらに脅かすよりも、時々抱かせてやるしかないのかもしれない。そうすれば、いずれこの身体にも飽きて、大人しくなってくれる日もくるだろう――たぶん。
「疲れた……」
昨晩、ウォンへの愛撫に徹したのは本当だった。
知っているテクニックのすべてをほどこして、恥ずかしがってこわばる身体を開いた。たまにはこちらから責めるだけの夜があっていいと思ったからだ。ウォンもキースに犯されるのが初めてでなく、いろいろと言い含めながら進めたこともあって、強くは拒まず、むしろ途中からは楽しんでいた。ちゃんと喜びをわかちあって、二人して深い眠りに落ちたのだった。
明け方早く、ウォンがそっと身を起こす気配に、目が醒めた。
「ん」
「すみません、そろそろ行かなければならないのです」
柔らかな声が降ってくる。キースは身体を横たえたまま、
「急ぎの仕事があったのか。それなら、あんなに激しくするんじゃなかったな。すまない」
「いいえ、大丈夫です。それより、キース様はまだ眠っていて下さい」
ウォンは素早く身じたくを整えた。
そして、うつぶせていたキースの髪を撫で、背中にそっと口唇を押した。
ちょうど心臓のあるあたりに、本当に名残り惜しげに。
「昨晩はとても素敵でした。次は私も、あんな風にやってみましょう」
そう呟くと、シュン、と姿を消した。
待て、という間もなく。
それでも、一人残されても、幸福感は全身を甘く浸していた。
やっぱりウォンがいい。あくまで対等な関係がいい。年齢の差も互いの不自由な立場も、ウォンが相手なら気にならない。この力関係がずっと続くといい。ウォンは僕を、ひととき甘えさせてくれる。ウォンもまた、僕に甘えてくる。こういうのが、いい。あまり逢えないのが寂しいけれど、逢えない時間の間に、ただ愛欲だけでないものが育っていくだろう。たとえ遠く離れていても、信頼できる相手が一人でもいることは、キースにとって大きな支えで、それをなくすことはもう考えられなかった。彼は決して、誰かと取り替えのきく相手ではないのだ。
「ウォン」
夢心地にそう呟いた瞬間。
「キース様」
頬にそっと口唇を押され、甘い回想から醒めてキースは飛び起きた。
「誰だ!」
ベッドの脇にかがみこんでいる、昏い人影。
「ああ……カルロか」
「おやすみのキスを忘れたので、戻ってきました。ただそれだけです。おどかしてしまってすみません」
カルロは静かに微笑んでいた。
それは、キースが初めてみる微笑だった。
「すっかり眠りこんでしまう前に、部屋のロックをかけるのを忘れないで下さい。僕以外の人間が、この極秘の部屋を訪れることはないと思いますが、セキュリティの問題がありますから」
「あ、ああ」
異様な雰囲気にけおされていると、カルロはすうっと背筋を伸ばして立った。
「真夜中だろうと、どんなに遠くに離れていても、キース様に呼ばれれば、いつでもお側にはべりますから。僕はあなたの、忠実な犬ですから」
「カルロ」
「今晩はもうお疲れでしょう。眠って下さい」
くるりと背を向けて、カルロは去った。
一仕事を終えた犬の雄々しさで。
キースは茫然としていた。
自分の飼い犬に何が起こったかわからないでいた。
それは、主人の立場では絶対に理解できない、未知の喜びだからだ。
「カルロ……?」

忠犬が落ち着いてその勤めを果たすのは、悪いことではないように思われる。
だが、彼らの場合はおそらく、大いなる破滅への第一歩――。

(2000.6脱稿)

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Written by Narihara Akira
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