『Cradle』

その夜、部屋に入って後ろ手にドアをしめたとたん、キースはウォンをキッとにらみつけた。
「……」
「なんです?」
うかつに近寄ることもできず、ウォンは曖昧な笑顔でキースを見つめ返す。
なんだろう。
今日は何を怒っているというのか。
約束の時間、約束のホテルで落ちあって、まだ言葉も交わしていない。久しぶりの逢瀬で、ウォンの方はさっきまで嬉しくてたまらなかった。
だから、不機嫌の理由がどうしてもわからない。
するとキースは、ドアに寄りかかったままうんと声を低めて、
「約束できるか? もし僕がここで倒れたら、君が僕を、ノアまで連れて帰ってくれると」
無茶な、いくらなんでもそれは無理です。今の私は軍の司令官、ノアのメンバーにとっては宿敵なのです、こっそり貴方を運ぶことが絶対不可能だとはいいませんが……と普段のウォンならうっかりそう答えていたところだろう。
しかし、キースの声音にはただならないものがあった。ウォンは首を縦に振っていた。
「ええ。約束します。貴方が望むなら、必ずノアまで送り届けます。今すぐにでも」
「よかった」
とたん、キースはズルズルとその場にくずおれてしまった。
「キース様!」
駆け寄ったウォンは、この青年が我が儘で妙なことを言い出したのでないことに気付いた。深緑のズボンの腿のあたりが黒く濡れだしている。血だ。
「どうなさったんです、まさか来る途中で?」
ウォンはぐったりとしたキースを慌ててベッドへ運び、ズボンを脱がせた。左大腿部に大きな傷が縦に走っていて、その傷口が少し開いてしまっていた。ウォンは清潔なシーツを探すと素早く引き裂き、手早く巻いて止血した。致命傷ではないが、大きな動脈がいくつも走っている部分だ、出血しているなら今晩は無理をさせるべきではないだろう。ズボンの一部を洗ってバスルームに干すと、ウォンはすぐにベッドに戻ってきた。
「いったい誰がこんな……」
自分に治癒の能力がないことを歯がゆく思いながら、ウォンはキースの白い頬を見つめた。どうして私はこの人の顔色が悪いことにすぐに気付かなかったのだ。なんという思いやりのなさ。なんという不注意。
キースは瞳を閉じたまま、だがはっきりした声で答えた。
「誰のせいでもない。ノア内で小さな事故があってな。自分でなんとかしようとしたらこの始末だ。情けない話だ。あれから二週間たっているからもう大丈夫だと思ったのに、少し長く飛びすぎたらしい。普通の交通手段を使えばよかったんだが、どうしても間に合いそうになかったから……」
語尾が甘く消えてしまう。
ああ。
私との約束を守るために、そんな無茶を。
そんなに恋しく思っていてくれたなんて。
ウォンが湧きあがる思いに言葉を失っていると、キースの腕が伸びて、ウォンの首にからみついた。
「起こして」
「……ええ」
ウォンは静かにキースの上半身を抱え起こし、傷に負担がかからない形で抱きしめた。そうっとあやすように背中を撫で、身をもたせかけてきたキースを優しく受け止めた。
キース様。
いつも側にいてあげられなくてごめんなさい。
私は心弱く、貴方の支えでいることさえ続けられなかった。
してあげられるのは、たまにこうして愛撫することだけになってしまった。
それなのに、いまだに貴方は怖いほど私を信頼してくれて。
どうしてなのですか。
何故?
「子供の頃……」
キースが急に何事か呟き始めた。心見抜かれたか、とウォンが身をかたくすると、キースはゆっくり顔を上げて、薄く微笑んだ。
「そのままあやしていて……軽く揺すって」
「はい」
言われた通りに続けると、キースは安心したようにウォンの肩に頬を押し付けた。そして、ひとりごとのような調子で再び呟き始めた。
「学校にあがる年になった日、屋根裏で道具の整理をしていたら、フードつきの立派な揺り籠を見つけたんだ。そんなに古いものでなくて、いったい誰が使ったものなんだろうと思って、身の回りの世話をしてくれていた女性に尋ねたんだ。そしたら、キース様のものですよって彼女が言うんだ。初めての子供に喜んだお父様が、親類が昔のものを譲ってくれるというのも構わずに、自分で気に入ったものを買ってきて赤ん坊の僕を寝かせて、一日中あやしていたんですよって。僕はびっくりした。父は僕が物心ついた頃にはとても厳しい人だったから、そんなことをしていたとはとても信じられなかったんだ。僕には揺り籠の記憶なんかなかった。だから僕は、なんとか思いだそうとして、その揺り籠に入ろうとした。でも、足をいれると底からミシミシ音がして、僕の体重を支えきれそうになかった。中で眠ることなんかどうしたって無理だった。僕はがっかりした。その夜、父に僕のために揺り籠を用意してくれて有難うございましたって礼を言った。父は、乳母の記憶違いだろう、あれは存命だったおまえの祖父が送ってきたものだ、礼を言うには及ばない、と答えた。照れていたのかもしれないけれど、僕は少し悲しかった。思い出話のひとつもききたかったんだ。小さい頃のおまえは可愛かったぞ、って打ちとけて笑う顔が見たかったんだ。母の病気は転地をしてもなかなかよくならなかったし、その頃は父と二人暮しみたいなものだったから……それから、あやしてもらえるのは赤ん坊の特権だと思っていたんだ。君に会うまで」
キースは再び顔を上げ、
「たいした甘えん坊だ、って笑う? 子供っぽいと思う?」
アイスブルーの瞳はしっとりとした情感に潤んでいた。
無条件の信頼の理由はこれなのか。
肉親から手にいれることができなかったものを、私が別の形で埋めているのか。
私はあなたの揺り籠になれるのか。
ウォンは青年の腰をゆるく引き寄せた。
「必要な時、誰かに甘えることができてこそ大人なんですよ。それが健康な精神というものです」
「健康な精神、か」
キースの口唇が皮肉に歪んだ。
「あの頃は毎晩、嫌な夢ばかり見ていたよ。夢の中で、僕の足は地面から少しだけ離れて浮いているんだ。スキップみたいな仕草をすると、無重力の世界にいるみたいにぽーんと恐ろしい勢いで前に進むんだ。僕はあまり足の早い方じゃなかったから、スキップで走っているのを誰かに見て欲しかった。でも誰も見てくれない。たまに目を向けてくれる友達がいると、必ずおまえは変だって罵るんだ。僕も、少しだけ宙に浮いてるのはバランスをとるのが難しくて、いっそ苦しかった。だから僕は、子供の頃から鳥になりたいとか空を飛びたいとか、そういう願いをもったことがないんだ。サイキックが発動して、自分で自在に飛べるようになっても、この力を素晴らしいと思ったことがない。もし背中に羽根があるなら、すっかりもいでしまいたかった。だから僕は素直でない、不健康な子供だったんだ」
「キース様」
ウォンは思わず声で青年をたしなめていた。
嫌な夢は一種の予知夢だったのだろう。
凡人には不必要な力を持った者の悲劇だ。
それに。
「苦しいことをわざわざやりたいと思う方が不自然でしょう。キース様は少しも変ではありませんよ。空を飛びたくない、飛べても嬉しくないからといって、あなたを子供らしくなかったとは思いません」
「そう、なのかな……」
二人はそのまま、しばらくじっと抱き合っていた。
ふと、キースの身体に力が戻った。ウォンにかけられていた体重が軽くなった。
「ウォン。我が儘を言ってもいいか?」
「なんですか?」
「僕を抱いて、このあたりの空を少し飛んでくれないか?」
ウォンは一瞬つまった。さっき空を飛ぶのは嫌いだと言ってはいなかったか。しかも今すぐ動いたら、また傷が開く恐れもある。
しかしキースはすがる瞳で、
「ちょっとの時間でいいんだ。あまり人目にたちたくないから」
「わかりました」
ウォンは自分の荷物の中から、暗い色の上着とズボンを二着分取り出した。自分も着替え、残りをキースに渡す。
「これは……だぶだぶなんだが……」
「怪我の足をむきだしたまま外の空気にあたるのはいけません。濡れたズボンをはいていただく訳にもいかないでしょう。袖と裾を折って調節して下さい」
服を買って出てもいいのだが、極秘の密会で医者を呼ぶことすらためらわれる場面なので、ウォンはあえて自分の服をキースに押しつけた。
キースは困った顔でしばしそれを見つめていたが、しぶしぶ袖を通し始めた。そうまでしても飛びたかったらしい。着替え終えてなんとか体裁を整えた青年を、ウォンは軽がると抱き上げた。
キースが首にしがみつくようにすると、ウォンは片手と膝で部屋の窓を大きく開いた。
「行きますよ」
「うん……」
ウォンは窓から抜け出して、すうっと夜空の下へ出た。
地上の人間からよく見えない高さまでゆっくり上昇すると、キースの身体を軽く揺すりながら、漂うように宙を泳ぎ始めた。
キースは、ウォンの腕にすっかり身を委ねて無言だ。
もしかして眠ってしまったのかと不安になった瞬間、キースがやっと口唇を開いた。
「自分の力で飛ぶのは嫌だけど、人の力に頼って飛ぶのは気持ちがいいな……」
「キース様」
青年は首をねじまげて、眼下の景色に視線を投げた。
「本当は、自分で飛ぶのが全部嫌いな訳じゃないんだ。街灯や、家のあかりがついているのを高いところから見るのは好きだから。あそこにそれぞれ人の営みがあって、毎日を一生懸命生きているんだって思うと、とても綺麗だと思う。まさしく地上の星だ。人類に対する憎しみが、その時だけうすらいでいく……うすらいではいけないと思うんだが、ふっと楽になるのは、正直いって嬉しい」
かつてのノア総帥なら決してそんなことは言わなかっただろう。憎しみと悲しみだけが彼の活動を支えていた。憤りこそが彼の行動力の源だった。
それなのに。
ノアは大丈夫なのだろうか。
この人はそろそろノアを支えきれなくなっているのではあるまいか。
復讐など辛すぎる、楽になりたいというのは人間らしい気持ちの動きで、本来は歓迎すべきことな訳だが、もしキースがまだ憎しみを自分を支える大きな柱の一本にしているとすれば、これは最大の危険信号ではあるまいか。
キース様がこんなに弱気になっているのは私のせいなのだろうか。
揺り籠の真似などして、センチメンタルな気分にさせてよかったのだろうか。
キースはウォンに視線を戻さず、ぽつりと呟いた。
「僕らは何処へ行くんだろう」
「え?」
何処へ。
それが場所を示す言葉でないのははっきりしていた。
するとキースはウォンを見上げるようにして、
「ごめん。僕は何処へ行くんだろう、だった」
「いいえ。私も一緒に行きます。キース様の思う処に」
「そうか」
キースは淡く微笑んだ。
「そう言ってくれると思った。……戻ろう。一晩中、君と抱きあって眠りたい」
「そうしましょう」
戻りながらウォンは、不吉なフレーズが頭の隅をよぎるのを感じた。
身体の大きくなった子供は、赤ん坊の頃の揺り籠に戻ることができない――
心の中で必死に打ち消しながら、ウォンは部屋に戻った。
着替えたキースが自分の腕の中で眠り出した時、ウォンもまた無理に瞳を閉じた。
私は覚悟していなければならない。
別れの瞬間を。
できればいつでも貴方が安心して戻れる場所でいたいけれど、貴方にどうしてもあわない存在になってしまったら、その時は。
瞬間、キースがウォンの胸の中でみじろいだ。
「ウォン……」
小さなため息。
その、安らかさ。
ウォンはふと微笑を誘われた。
私はいまさら何を不安がっているのだ。
心はとっくに決っていたはずだ。
他の誰が許さなくとも、貴方さえ許してくれるのなら。
ウォンも小さな吐息で答えた。
「……私はいつまでも貴方の揺り籠でいます」

(1999.8脱稿)

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Written by Narihara Akira
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