『とける』

コポコポと静かな、泡の音。
全身を包む、ここちよく冷たい水の感触。
キースが重い目蓋を開けると、ゆらめく光の向こうに、長い黒髪の男が立っているのが見えた。
「おはようございます、キース・エヴァンズ」
その瞬間、キースは叫んでいた。
「だめだ、ウォン、殺すな!」
その声は、酸素マスクの中でくぐもって消えた。
「そうおっしゃると思いましたよ」
ウォンは目を伏せ、低く呟くように、
「彼女を傷つけてはおりません。貴方の安全が最優先事項ですから、すみやかにあの場を離れました。ここは私の、隠れ家のひとつです」
「そして、可能な限りすみやかに、応急手当をしてくれたということか」
キースは、一糸まとわぬ姿で、治療カプセルの中に浮かんでいた。
回復液の温度がずいぶんとさげられている。低体温治療のつもりか、キースの属性にあわせてのことか、それとも単に、彼が全身に大やけどを負ったからか。
「応急ではありませんよ、すべての治療を試みました。もう、身体は動かせますね? 痛みはどうです?」
キースは腕を動かしてみた。足もゆらりと動かす。
「問題なさそうだ。痛みもない」
「それはよかった」
だが、ウォンの昏い瞳は、なにか言いたげだ。
「どうした?」
「どうした……ではありませんよ。もう一瞬、私がかけつけるのが遅かったら、貴方は溶けおち、蒸発してしまっていたかもしれないのですよ!」
ウォンの声は震えていた。
「攻撃したくない気持ちはわかります。ですが、なぜフリジットシェルを使わなかったのです? とっさに出せなかったとでも? せめてバリアだけでもはるべきでした。至近距離の彼女の大火力がどれだけ危険か、貴方もよく知っていたはずです。あの場で全身とけおちても、少しもおかしくない状況だったのですよ。普段の貴方なら、相手の能力をまったく知らなくても、とっさに身を守れないことはなかったはずなのに!」
「すまない。油断していたんだ」
キースは素直に頭を垂れた。ウォンの声ははねあがった。
「ただの油断ではありません。貴方は昔の同胞にでくわし、懐かしさに思わず、歩み寄って声をかけようとしたのです。なんという……なんという愚かさ!」


それは、本当にアクシデントだった。

ある街にサイキッカーのコミュニティがうまれたという噂をきき、例によってキースはひそかに偵察にでかけていた。
超能力者を利用して戦争を行うリスクは、世間にも少しずつ理解されてきたが、能力があると知られてから、彼らが穏やかに暮らせる場所は少ない。しかもそれが集団となれば、警戒されて当たり前なので、どのような形で周囲と折り合っているのか、そういったことを、キースは常に調べていた。
その街角で、ばったり、レジーナ・ベルフロンドと出くわした。
「ああ、元気だったか、君……」
次の瞬間、火の玉がキースを囲んだ。
目の前が燃え上がる。それだけでは足りないとばかり、追加の火焔が、勢いよくたたき込まれた。
キースはそのまま、意識を失った。
いや、誰かの腕がとっさに救い出してくれた感触は、覚えている……。


ウォンは深いため息をついた。
「今までもそういう場面を想定したことがあったでしょう? 私たちが今でも生きて暗躍しているという噂を、新生ノアに残った者たちもきいているのです。だからといって私たちは、建前上、彼らの前に堂々と姿をあらわしてはいけないのです。ノアを見捨てた、その自覚は、おありでしょう?」
カプセルに掌を触れて、
「むろん、貴方は彼らを裏切ったわけではありません。危害を加えるつもりもない。ただ、ゆく道が違ってしまったから別れてきたのです。死んだふりをさせたのは私で、何もかも私の責任ですが、貴方もあの小芝居に参加したのですから、彼らにとっては同罪です」
昏いままの瞳が、キースをじっと見つめる。
「しかも彼女は、今でも兄の右腕なのですよ? 新総帥の座をめぐって兄と戦った貴方は、彼女の敵です。貴方を偽者と判断してとっさに攻撃した可能性もありえますが、あまりにも反応が早すぎた。あれは憎悪の炎としか」
「わかっている。いつまでも恩人面をするな、ということだろう」
「いえ」
ウォンはカプセルの開閉スイッチを押した。声もやっと落ち着いてきて、
「あれから時間がたちました。貴方の姿をまのあたりにするのが面白くない連中もいるでしょうが、彼らのすべてが貴方を恨んでいるわけでもないでしょう。それに、その甘さは、貴方に必要なものです。絶望の底にいても、誰かのためになら前向きに考えられる。だから理想郷を語れる。過ちも過去も、いつか理解してもらえると信じているからこそ、何度でも立ち上がれる。それは貴方の良さです」
「だが」
「今後の方策については、ゆっくり考えてゆきましょう。ただ、私に内緒で偵察に行くのは、もうやめていただけませんか。からくも間に合ったから、よかったようなものの」
キースは水面に顔を出した。酸素マスクをはずす。
「すまない、ほんとうに。次からは蒸発させられないよう、用心する。それで、僕はもう、ここから出ていいのか?」
「ええ、もちろん」
ウォンはタオルをとりだすと、キースを抱きとった。
思ったより重くなっている身体を扱いかねて、キースはぐったりもたれかかる。
「ありがとう。……今夜、君に可愛がってもらえるだけの体力が、あるといいな」
「試してみますか」
「ん」


柔らかなしとねに横たえられ、全身に口唇を押される。
されるまま、キースは瞳を潤ませ、甘く呻いた。
ウォンの掌が、ゆっくりと白い肌をすべっていく。すこしでも傷がのこっていないか、痛む場所はないか、確認しているのだ。
「ウォン……あの、平気だから……」
情感は募るだけ募り、キースの声はかすれた。
欲しい、とウォンの背に腕を回したが、ウォンはキスの雨を降らすのをやめない。
焦れて腰をこすりつけると、ウォンに制止された。
「貴方の火傷は治っています。ですがまだ、心が癒えていないようですから」
「ウォン?」
ウォンは目を伏せた。
「彼女の火焔が焼いたのは、この肌ではありません。貴方はなかなか目をさまさなかった。身体機能は、比較的すぐに回復をみせたのに。なぜだか、おわかりですね」
つまり彼女が焼いたのは、彼の心……思い出……善意……。
「その証拠に、貴方はさっそく快楽に溺れ、その事実を忘れようとしています」
「ああ」
ウォンの瞳は、昏いままだ。
キースは身を起こした。
「ごめん。ほんとうに、心配させてしまったんだな」
ウォンはうなずいた。
彼の身になって考えれば当たり前だ。
怒って当然。
いったい誰が、命がけで助けてくれた?
死ぬほど心配しただろうに、本人が何事もなかったかのようにすましていたら、傷つくに決まっている。
キースは恋人の胸に掌をあてた。
「それなら、僕の心が癒えるまで。君が落ち着くまで。しばらくのあいだ、抱きあうだけでも、だめか」
「どうでしょうね」
そういいながらもウォンは、キースの身体をそっと包み込んだ。
優しい抱擁と体温。
キースはほんとうに、ウォンとひとつになりたい、と思った。
身も心も、とけてひとつに。
「キース」
「うん?」
「忘れないで。貴方がとけおちていいのは、私の腕の中だけ、ですよ……」

(2009.8脱稿)

《サイキックフォース》パロディのページへ戻る

Written by Narihara Akira
http://www5f.biglobe.ne.jp/~Narisama/