『ライオンのたてがみ』


満潮音純は日課の散歩中、崖の上で知人が倒れているのを見つけた。明らかな呼吸困難状態で、せめて服を緩めようと前を開けると、青年の白い肌は真っ赤に腫れあがっており、左胸に見覚えのあるマークが反転した形で浮かび上がっていた。
満潮音はうめいた。
「ライオンのたてがみ……」
「満潮音さん」
振り返ると、拳を握りしめた青年が立っていた。
「梶くん! ああ、そういうことか」


満潮音はここ数ヶ月、愛知県美ヶ浜の別荘に滞在していた。日置昌三という管理人と、朋子という美しい孫娘の世話を受けつつ、資産の見直しをしたりしている。
この近所に、エルズメインという福祉系専門学校がある。満潮音の母が、初代校長を気に入って融資などしていたが、満潮音の代で打ち切った。数年前に校長に就任した市川宏という男がどうも気に入らない。元ヨット選手で、IT関係の学校経営で成功したやり手だそうで、国家試験の合格率は上がったが、入学生は減ってゆく。いつの間にか男子校になり、生徒も講師も、全員寮暮らしだという。今時ずいぶん窮屈なことだ。
「あなたは探偵って噂ですが、何を調べに来たんです」
ある日曜の朝、散歩中の満潮音に見知らぬ青年が話しかけてきた。端正な顔立ちで、ぴっちりと着込んだ水着が、美しい身体の線を際立たせている。近くの浜へ泳ぎに来たのだろうが、いきなりこんな風に浴びせかけられるいわれはない。
「調べられて困ることでもあるの」
「綺麗な男がウロウロしているときいたので、興味を持っただけです」
「あそこに見えるのが僕の別荘でね。庭先を散歩してるだけなんだが」
「それは失礼しました。僕のことはかまわず、ごゆっくり」
「失礼だと思うなら、せめて名乗ったらどうだい」
「野淵雅之といいます。向こうに見える学校で講師をしています。泳ぎが趣味なので、これからもお会いするかもしれません」
「僕は満潮音というんだが、探偵は趣味みたいなもので、今は休業中でね。詮索をするつもりはないし、いつでも好きに泳いでいいよ」
「来月にはカツオノエボシが出ますから、長くはお邪魔しません。では」
野淵は崖下の小さな浜へ降りていった。泳ぎ出す姿を見届けてから、満潮音は別荘へ引き返した。もうじきデンキクラゲが出る時期に泳ぐ趣味もない。だが。
「いったい誰が噂してるんだ。校長か?」


とある夕方、満潮音は別荘の裏手で、肌の浅黒い小柄な青年が、管理人の孫娘に何か手渡しているのを見た。満潮音に気づくと、黙礼して去っていく。
「今の人は? 配達業者には見えなかったけど」
「梶さんですか? まあ、ある意味、配達をしています」
「襟元にエルズメインの校章がついてた。あそこの生徒か講師だろう?」
「よくお気づきで」
「趣味の悪い校章だと思ってね」
市川が校長になった時、学校の名前をかえた。エルズメインのエルは、ライオンの頭文字で、メインは英語でたてがみのことだ。校章もたてがみをなびかせるライオンのデザインで、ここで学んだ生徒たちが、雄々しく誇りをもって仕事に従事するよう願いをこめた、と公式サイトにある。何を言ってるんだ、と満潮音は思う。たてがみとは、オスにしかないもの、偉そうに、強そうに見せるためだけのもの、悪い男性性の象徴の最たるものだ。
「で、梶くんというのは、結局なんなの」
「お友達の手紙を届けにこられます」
満潮音は首をかしげた。
「紙の恋文とは古風だね。しかも自分で届けに来ないとは」
「恋文というほどのものじゃありませんが、時々、浜辺で待ちあわせて、お話をしています」
「ずいぶんと清らかなおつきあいだ」
朋子は薄く笑った。
「エルズメインは規律の厳しい学校で、講師も生徒も携帯電話の持ち込み禁止、学校内のパソコンも、外部へのアクセスはすべて監視されているそうです。その代わりに全員、学校専用の携帯端末を持たされて、今どこにいるかわかるようになっているとか。休みの日の外出も、電源を入れたまま持って出ないと、退校だそうです」
「息が詰まるね。そんなに鬱屈するなら、やめてもいいんじゃないかな」
「校長に恩があるとか。あの人は係累が少なくて、大伯父様しか頼る人がいなかったのですが、その人が寝たきりになってしまい、その時に施設の手配や資産の整理を手伝ってくれたそうです。校長の知り合いのホームで、学校をやめると退所させられる可能性もあるそうで、新たな入居先を探すのも大変らしく」
満潮音は急に顔を曇らせた。
「なるほど、野暮なことをきいて悪かったね。今日はもう休むよ」


《もう何も考えたくない》
門馬知恵蔵の母親が、室内で転倒して腰を骨折、入院した。退院後も歩けるようにはならず、家の中でも車椅子がないと移動できない。父親は十年前に死去しており、とうてい一人で暮らせないので、彼の姉が実家に帰って面倒を見ていた。何ヶ月か一人で頑張っていたが、介護疲れで倒れてしまい、そこで初めて知恵蔵に連絡がきた。
「そういう事情で家に帰る。最終的には母を施設に預けるつもりだが、すぐには無理だから、ここの仕事は当分休ませてくれ」
「かまわないけど、有料のホームなら割とすぐに入れると思うよ」
知恵蔵は難しい顔をした。
「満潮音。この件については、口も金も手も出すな」
「え?」
「動けないだけで認知症になってるわけじゃない。年金もそこそこもらってる。入院の頃から世話になってるケアマネと相談して、親の収入で入れる施設を探してるから、何もするな。落ち着いたら私の方から連絡する。それまでは連絡も一切しないでくれ」
言い捨てて出て行った。
パートナーの親族から拒絶されている。それが、こんな形で明らかになるとは。
「……いや、僕だって、母さんの葬式に君を呼ばなかった」
満潮音は洗面所で顔を洗った。
鏡の中の顔はあいかわらずの美貌で、実年齢の半分と偽っても通用するほどの若々しさだ。ただ、中味は衰えてきている。暴飲暴食はもう無理だし、疲労回復も遅くなった。この身も時間に浸食されるのだ。親が死んでもおかしくない年齢になったことに気づいて、満潮音は震えた。
この国に未来はないだろうし、探偵などやめて、海外のどこか落ち着いた場所で、知恵蔵と二人で安楽に暮らそうかと考えはじめていた。しかし親の介護が発生したなら、彼はうんと言わないだろう。特養老人ホームに入れてしまえば、定期的に差し入れを送る程度ですむはずだが、死ぬまではこの国を離れない、といいだすのではないか。
というか、ていよく捨てられたのか? 待っていてくれ、とも言われなかった。
「自分を棚に上げて、よく言う」
一言もなく事務所を留守にして、彼を怒らせていたのは誰だ。こうして一人になってみると、自分の傲慢さが身にしみる。
「よし、事務所はいったん休業だ」
このままやめてもいいのだが、知恵蔵が帰ってくる場所がないと困る。親の秘書に留守をまかせ、門馬くんから連絡があったら知らせてくれ、と頼むと、最低限のものだけもって、満潮音は別荘に入った。
しかし、のんびり日々を重ねようとしても、憂鬱は深まるばかりだった。


涼しい夜風に吹かれながら、満潮音が崖上を散歩していると、チカチカと光る物が見えた。転落防止のために、柵と街灯があちこちについているが、光量が十分でないので、遠目では何だかわからない。目の前まで来て、夜間用のライトをつけたポメラニアンを散歩させている青年とわかった。
「こんばんは。梶くんだっけ。野淵くんの友達だね」
梶はそっぽを向いた。
「友達なんかじゃありませんよ」
「そういえば朋子が、君と野淵くんが喧嘩をしたと言ってたな。その犬をいじめたとかって」
「何の話ですか。それにもともと、メインは僕の犬じゃない」
「その子はメインって名前なんだ」
なるほど、長毛種のポメラニアンは、たてがみをはやしているように見えなくもない。しかし一般的な名付けではない。となると、元の飼い主が誰かは想像がつく。恋文のやりとりなどして、傍目には野淵と梶が朋子を取り合っているようにみせかけて、実は野淵が頂点の三角関係だろうと思っていた。なるほど、そちらの線もあるのか。
「まあ、どれだけ丁寧に世話をしていても、衛生面には限度があるから、いくら可愛い犬でも、ベッドに連れ込んだりはしない方がいいよ」
薄闇の中、梶が一瞬、息をのむ声が聞こえた。
「どうしたの」
「いえ、なんでも。散歩のお邪魔をして申し訳ありません」
「こちらこそ。僕は散歩しなくても死なないが、犬は散歩させないとどうしようもないからね。どうぞごゆっくり」
青年は頭を下げ、犬を先にして歩き出した。
エルズメインには悪い噂がある。それはつまり、校長が――。
「やれやれ、よくないプレイをしているなあ」
学内を必要以上に厳しく管理しているのはそのためか。動物虐待はよろしくないが、まあ人の趣味はどうでもいい、と思っていた。
アナフィラキシーショックで倒れている、野淵の姿を見るまでは。


「梶くん、救急車は」
「呼びました。五分で来るそうです。エピペンを打つのでどいてください」
梶は手際よく、補助治療剤を太ももに打ち込む。
「メインがいなくなったので変だなと思っていたら、野淵くんがよろよろと崖の方へ向かう姿が見えたので、急いで持ってきたんです。これで間に合いますように」
「ねえ、校長は、野淵くんが犬アレルギーだって知ってるの」
梶は一瞬びくりとしたが、
「知っててもそういうことをする人です。まともな人なら校章を熱して、肌に焼き印みたいに押しつけるわけがない。おかげで野淵くんは、人前で肌が見せられなかった。今日もよく逃げ出せたものです」
つまり野淵は市川に脅され、いかがわしい関係を強要されていた。更に犬をベッドに連れ込み、不衛生な行為に及んでいた。なめらかな犬の毛並みは、美しい青年の肌を、別な意味で敏感にしてしまったのだ。
「救急車までくるとなると、エルズメインも終わりかな」
「明るみにでるかどうか。卒業生が訴えを起こそうとして潰されたという話は、何件もきいています」
「最悪だね」
救急車が到着し、野淵は搬送されていった。予断は許さないが、応急処置ができたので、一命はとりとめそうだという。梶は病院につきそっていった。
「……やれやれ」
ため息をついていると、崖の向こうから男が走ってきた。
「満潮音、無事か! 今の救急車はなんだ」
知恵蔵はすっかり息を切らしている。
「そんなに慌ててどうしたの」
「そうやすやすと市川の毒牙にかかることもないだろうが、おまえがいる別荘の真ん前の学校だというし、ヤケになったおまえが、万が一にも関係をもっていたらと……生徒や講師が随分とひどい目に遭ってるんだろう。パワハラ・セクハラどころの話じゃない」
「あれ、もうニュースになってる?」
「ゴシップ誌に明日、記事が出るらしい。ネットではすでにちょっとした騒ぎだ」
知恵蔵は満潮音を抱きしめた。
「ともかくおまえが無事でよかった。事務所が閉まってるのを見た時は、心臓がとまるかと思った」
留守番を置いておいてよかったと思いながら、静かに抱き返す。
「大げさだなあ。君の方は片がついたの」
「本入所までこぎつけた。実家の片付けはそう急がなくてもいいし、姉とも相談しないといけないから、これからもいろいろあるとは思うが、とりあえずは」
「そう」
そこで満潮音の声が、すうっと低くなった。
「ねえ、どうして僕が自暴自棄になると思ったの」
「後になって気がついた、そういうつもりじゃなかったが、おまえを置いて出ていって、音信不通になってたんだ。それがどんな気持ちがするものか、よく知っていたはずなのに、私は……」
「でも君はヤケにならなかったし、浮気もしなかったろう」
満潮音は知恵蔵の頬を包み込んだ。
「戻ってきてくれてありがとう。大切な、僕の、パートナー」


エルズメインには新しい校長が来て、校名からなにからすべて変えてしまった。やめた生徒も多かったが、残った講師たちはそれぞれ自分の仕事につとめ、おかげでこの学校は潰れもせずに、今も崖の上で、優秀な人材を輩出している。


(2023.9脱稿、美少年興信所スピンオフ。ペーパーウェル11:テーマ「時計・時間」参加作品)

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